――いつからだろう。
もうそれは分からないけれど。
確かに自分はそいつのことを見つめてきたんだと。
そう彼女は思う。
「――私じゃ、ダメか?」
だから、そう訊いた。
――過ぎ去った幾つかの季節。
――踏み越えた幾つかの想い。
その先にある、彼女自身の想い。
ひどく遅れてやって来た、それは。
きっと、『恋』と呼べるんだろう――
Will be there
――――ここに、いるよ
Prologue / Winter I
始まりはいつだったか、と訊かれたならきっとその日だと答えるのだろう。
二月十四日。
どんよりと低い空が、午後になって白い雪を舞わせ始める――絵に描いたような光景。ロマンチック、そんな言葉
がぴたりとはまる日。どのみち、今一つ気分の乗りきれない彼女自身にはあんまり関係のないことだったけれど――
◇
「気合入ってんなあ、塚本」
放課後のざわめきの中、いつもの人懐っこいような空気とは正反対に、なんだか近寄りがたい、とまでいえそうな
雰囲気を漂わせているその姿。美琴から見れば、微笑ましいようにも感じられる。
「空回りしなきゃいいけど」
「それは大丈夫じゃない? だって相手はあの彼だもの」
晶が突っ込んで愛理がフォロー、いつもとは逆のそんなやりとりも、これもまたなんとなくおかしい。
「……何がおかしいのよ。別にあの子だっていつまでも子供じゃない、って言ってるだけじゃない」
「だから、お前がそういうこと言うのが珍しいんだって」
「そうだね」
「あなたたちね……」
さすがにむっとした様子になってきたので、冗談だよ、と軽く誤魔化しておく美琴。真顔でジョークジョークと繰り
返している晶は放っておくとして――と、そこでふと気がつく。
「そういえばさ、沢近はこんなとこで油売ってていいのか?」
一番に飛びつきそうなのに、そう話を振ってみると、何故か冴えない表情。
「別に興味ないわ」
「あら、去年は確か、」
「去年は去年、今年は今年、よ」
言いかけた晶を遮るように、強い口調。理由はともかく、こりゃ地雷でも踏んじゃったかな、なんて思っていると、
気分の問題、という素っ気ない言葉がやってくる。
「今はね、あんまり男の子のこととか考えたくないの。それだけよ」
「なら別にいいけど」
どことなく歯切れの悪いその台詞に、とりあえず頷いておく美琴。少しばかり居心地の悪い空気が流れ始めたそのとき、
視界の隅で天満が立ち上がる。
「っと、そろそろ出陣か?」
出陣、なんて言葉はバレンタインには相応しくないけれど、ぐっと片手を胸の前で握りしめて真剣な表情をするその
姿は、まさしくそれだった。……などと言ってみたところで、かくかくした動きで歩いていく彼女の緊張具合はやはり
微笑ましいものだったりする。
「……大丈夫かしら」
「さっきと言ってることが違うよ、愛理」
「あー……なんとかなるだろ、きっと」
その後ろ姿を見送ったあと、思わず顔を見合わせてしまう三人。だからといって、どうしようもないのだが。
「さて、と。んじゃ私らはさっさと掃除でも終わらせて帰ろうぜ」
ぱんぱん、と手を叩いて立ち上がる。雪が降ろうがバレンタインだろうが、やらないといけないことは変わらずにある。
世の中、結局そういうものである。
――さて、わずかに時は流れて。
「運が悪いな、お互い」
「……絶対晶が何か仕組んでたのよ」
愛理と二人、一抱えもあるゴミ袋を運んでいる美琴がいる。じゃんけんで決めた以上、仕組むも何もないはず――なのだが、
相手が相手だけに、そういうこともあるかもしれない、とわずかに苦笑。
「仕方ないって。どっちにしたって負けは負け、だろ?」
「それは分かってるけど……」
まだ何か言いたそうな愛理を急かして歩き出そうとした、そのとき。
「……ん?」
それが美琴の目に入った。
校舎の影、見てる方が恥ずかしくなるくらいに真っ赤な顔をして、でもとんでもなく嬉しそうに烏丸と話している、
そんな天満の姿。話し声さえ聞こえてきそうな距離なのに、こちらにはまったく気がついていない。
「――やるじゃん」
なんだかひどくほっとすると同時、そんな言葉が口をついて出る。なあ、と。そう隣の愛理に訊こうとして、
「……」
その目が、自分とは違うところを見つめているのに気づく。
「……? なに」
見てんだよ、そう続けようとした言葉がそこで止まった。
――そこに、いた。
楽しげに会話を交わす二人のその向こう、ぽつんと一人立ち尽くす男子生徒の姿があった。ヒゲにサングラス、と
くれば、全校探したところで他にあてはまる生徒などいるはずもない。
ないのだが。
「播磨、だよな。あれ」
何故か美琴にはそれが確信出来なかった。
それほどまでに、そこにいる彼の印象は普段とまったく違うものだった。
触れれば壊れてしまいそうな。
今にもどこかへ消えてしまいそうな。
そんな弱々しい姿をした播磨拳児が、そこにいた。
「……そう、天満だったのね」
自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、さ、もういくわよ、と歩き出す愛理。その視線はもはや彼をとらえてはいない。
「あ、おい待てよ!」
まるで魅せられたようにその光景に縛り付けられていた美琴も、慌てて彼女の後を追う。
「なあ、あれって」
「さあ? 関係ないことでしょ、私たちには」
不機嫌そうな表情を隠そうとする様子もなく、それだけを口にする。普段からすればアップテンポを刻むその歩みは、止まる
ことはおろか迷いさえみせない。
「そりゃ関係ないんだけどさ……」
これ以上彼女にこの話題を振っても無駄だと判断した美琴は、一人肩越しに振り返る。既に視界からは消え、もう見えない
はずのその姿。それが何故か、彼女にはまだ見えたような気がした。
――そして、夜。
美琴は一人、自室の窓際に立って外を眺めている。どことなく不機嫌そうなその表情は、言うまでもなく彼女の内面をはっきり
と表わしている。
『関係ないことでしょ』
昼間に聞いた友人の言葉が繰り返される。
「分かってるよ、そんなこと」
その呟きも、もはや何度目になるのか。くるくるとメビウスの輪を回り続ける思考は、どこにも辿り着かない。
別段珍しい話でもなんでもない、ということは美琴にも分かっている。誰だって恋の一つもするだろうし、それが最後まで
叶うことなんて一握りにすぎない。昼間見たあの光景は、その配役こそ予想外だったかもしれないが、それ自体はよくある話
の一場面に過ぎない、と。
――なのに。
雪の中に立ち尽くす、あの姿。それが脳裏に焼き付いて離れない。まるでずっと前からその場所にいて、これからもずっと
その場所に立ち続けているような――
「……まさか、ね」
数え切れない堂々巡りを経て、ようやく一つの可能性に行き当たる彼女の思考。
――まだ、あの場所に。
窓の外を見る。
月が見え隠れする程度には晴れ間が見えているけれど、雪はまだ静かに降り続いている。
しんしんと、世界を覆うように。
「――ああもう」
ただの考えすぎかもしれない。
「ちょっと出てくる! 遅くはならないから!」
けれど、身体は勝手に――否、心に引きずられるようにして動き出していた。
「なにやってんだろ、まったく」
そう呟きながらも、駆けていく足は止まらない。雪の降る音さえ聞こえてきそうな、そんな街を学校に向かってただ走る。
誰もいなかったらどうするか、誰かいたらどうするのか、考えなければいけないことはいくつもあったけれど、あえて考え
ないようにする。
「――っ」
噛み締めるような吐息だけが、夜の中に溶けていく。時折すれ違う人影が不審そうな表情をしているのが目に入るけれど、
構わず走る。びちゃり、びちゃりと、積もることのない都会の淡雪を跳ね飛ばす自分の足音だけが耳に響く。
時間の感覚も距離感もごちゃまぜになったような、そんないつまでも続くような気がした道程も、やがて当然ながら終着点
を迎える。
――学校。
日中はありあまるほどの活気に溢れたその場所も、夜になれば静かな佇まいをみせている――が、そんなことに気を回す
余裕もなく、飛びつくようにして校門に手をかける美琴。ぞっとするような金属の冷たさをその掌に感じつつ、一息によじ
登って乗り越える。
「……」
そして、呼吸を整えてゆっくりと歩き出す。耳に痛いほどの静寂に包まれた夜の学校を。
――いるわけがない。
そんな常識的な考え。
――絶対にいる。
そんな直感的な考え。
今更のように、一歩ごとに二つの思いが彼女の中で交錯する。
引き返すというならともかく、このままいけばすぐに出る答に、何を迷っているのかと苦笑を浮かべながら、最後の一歩を
踏み出して――
「あ――」
――いた。
灯りの消えたその場所で。
翳っては照らす月明かりの下に。
昼間と変わらず立ち尽くしている播磨の姿があった。
「なに、やってんだよ……」
知らずもれた声は自分でも驚くほどに弱々しく、自分はいったいなんのためにここまで来て、何をするつもりだったのかと
自分自身に面食らう美琴。
一方の播磨は、ことここに至ってようやく美琴の存在に気がついたというように、胡乱なその視線を動かして、正面に立つ
彼女にゆっくりと視線を合わせる。
すれ違う二人の視線。その瞬間、唐突に美琴はそのことに気がついた。
どうしてこれほどまでに播磨のことが心に引っ掛かりを残していたのか、その理由に。
何故なら。
――これは私だ。
失恋がどう、ということではない。
誰にも知られることなく、自分の中だけで始まって終わった想い。それをたたえた、サングラスの向こうの見えるはずもない
瞳がかつての自分とまったく同じものだ、と。
そのことに気づいた瞬間、わずかばかり彼女の中に残っていた考えも真っ白になり、どうしていいのか分からない、そんな
戸惑いだけがぽつんと残る。
「……おい」
「え? あ……」
美琴が自身の思考に翻弄されている間に、いつのまにかその目の前には播磨が立っていた。なんの言い訳をするわけでもなく、
何を訊くわけでもなく、帰るぞ、とただそれだけを口にする。
「そう、だな――っ!?」
動転したまま踏み出した、美琴のその一歩目が濡れた地面の上を滑る。視界がくるりと回転し、次の瞬間にはやってくるだろう
痛みに彼女が身構えたとき。
「あ――」
柔らかくその身体が抱き留められる。大丈夫か、と重ねるようにしてかけられる播磨の声に、ぶんぶんと首を振りながら、
大丈夫、と答える美琴。それを聞いて、そうか、とだけ答えた播磨はゆっくりと歩き出し、今度は慎重に美琴もそれを追う。
「……」
「……」
そして、無言のまま歩き続ける二人。元より話すつもりのほとんどなさそうな播磨に加え、思いの外動揺している美琴もまた、
口を開かない。そのまま黙って校門まで辿り着き、校外に降り立ったその後で、ようやく出がけにコートのポケットに突っ込んだ
折り畳み傘の存在を思い出す美琴。
「あー……その、なんだ。貸そうか、これ」
っつーかそのつもりで持ってきたんだけど、と先の動揺のせいか、最後は消え入りそうな声になっている。それを聞いても
黙っていた播磨だったが、やがて、お前はどうするんだ、と尋ねる。
「……あ」
彼女の手にした傘は一本。
つまりは、結局どちらかは濡れて帰らないといけない、ということになる。
「……ダメだね、私」
半ば泣き笑いにも近い表情になる美琴。けれど、播磨はそんな彼女を笑うでもなく、かといって励ますでもなく、
「……わりぃな」
そんな言葉だけを残して背を向ける。そして、差し出された傘は受け取らずに去っていく。取り残された美琴は、ただその姿が
見えなくなるまで見送ることしかできない。
「――播磨」
人影のないその場所で紡がれた、誰にも届かない呟きと、手にした傘の重さ。
それだけが、その場に残された。
◇
――そんなふうにして、彼女の高校二年の冬は終わる。
一つの置き土産を残したままで。
そしてゆっくりと季節は巡り、新しい季節がやってくる――