幼馴染という言葉に甘えていた。
いつまでも傍にいるものと思い込んでいた。
突きつけられた現実から、もう目を背けられない。
失いたくない、人だから。
My Place
〜そして私は、この場所に至った〜
空が、目に痛いほど赤い。雲が綺麗な茜色に染め上げられ、風の河の流れに乗って去っていく。
わずかに開けた窓から入り込み、カーテンを揺らす空気は冷たく、冬の訪れが間近に迫っているこ
とを感じさせる。
少女、周防美琴は一人、ベッドに横たわって天井を見つめていた。その顔、そしていつからかま
た長く伸ばし始めた髪が、差し入る赤光を照り返して微かに朱い。やがて小さく、その形の良い唇
が動く。
「……やっぱ、このまんまじゃ、いられないよな……」
紡ぎ出されたは言葉であり、苦悩の欠片だった。顔を一瞬、顰めた後、美琴は勢いをつけて上体
を起こす。そのまま横に顔を向け、窓の外を見つめる。広がる、いつもの風景。空、そして彼の部
屋の、窓。こんなにも近い距離で過ごしてきたんだな、と美琴は改めて思う。
灯る光、おそらく彼は今、勉強をしているのだろう。今は高校三年生の秋。大学の入試が間近に
迫っているからだろう、日付が変わるぎりぎりの時間まで彼の部屋の明かりが消えることはない。
ホント真面目な奴だよな、と彼女は小さく笑う。隣人であり、幼馴染である花井春樹が、入試の
勉強に励みながら今でも、朝四時に起きていることも知っている。文武両道を地で行く男だ、彼は。
窓から呼びかけようとしてふと、思いとどまる。何も変わらないじゃないか、それじゃ。鞄の中
から携帯を取り出して、メールを作る。
『花井、暇か?ちょっと付き合えよ』
短い内容。なのに何故か、送信ボタンを押すのに勇気がいった。笑い声が心に響く。
何やってんだよ、美琴さんともあろう人がさ。決めたんだろう?迷うなよ。
大きく息を吸い込んで、覚悟を決める。
そして送信ボタンを、深く、押し込んだ。
「遅いぞ、周防。そっちから声をかけたのに、待たせるとは何事…………?」
「悪ぃ、悪ぃ。ちょっと、用意するのに時間がかかってさ」
扉を開けて出てきた美琴を責めようと振り返った花井は、そこに見た姿に一瞬、息を飲んだ。そ
の反応に、美琴はひそかに満足する。
普段、彼女が花井と二人で会う用事と言えば、大体が組み手であり、今日もおそらくそうだと思
っていたのだろう。そしてそういう場合、彼女はすぐに道着に着替えられるように、ラフな格好だ
った。だが、今日の美琴は違った。
惜しげもなく肩を出した白のワンピースは、小粒のパールの上品な輝きが、胸元をあしらってい
る。グロスを塗った唇は艶々と薄桃色に輝き、首筋に振った香水の甘い香りがほのかに身を包む。
「周防、どうしたんだ、その格好」
目を丸くする花井に、美琴は照れ臭そうに笑いながら、
「これ?この前、買ったんだ。どうかな?」
言いながら、美琴はポーズを取ってみせる。背が高いこともあって、なかなかに様になっている
のだが、花井はと言えば、
「そんなに肩を出して。風邪をひくぞ、周防」
「……そういう奴だったよな、お前って」
思わず、一つ溜息。
だがそれが彼らしい。そう思うと、自然に浮かぶ微笑。顔を上げて美琴は、
「なぁ、花井。ちょっと歩かないか」
いつも通りの、気軽な気持ちで彼を誘う。一瞬、不思議そうな顔をした花井だったが、
「ふむ。まあ、いいだろう」
と鷹揚にうなずく。その様が、あまりに想像通り過ぎて、美琴は小さく噴出した。
そうだよな。これが、花井だよな。
思うと、何故か、心が楽になった。
「それにしても、一体、どういう風の吹き回しだ?」
「ま、いいじゃん。たまにはこういう日があっても、さ」
並びはしない。先を歩く美琴、その後を花井が付いていく。
沈む夕陽を遠くに眺めながら歩いている彼女の脳裏に、ふと浮かぶ既視感。
いつだったか、こんな風にして歩いたことがあったような……
「懐かしいな」
背中からかけられた声に、歩みを止めることなく、美琴は肩越しに振り返る。
「……何が?」
「小学校の頃は、こうしてよく、二人で歩いたものだったな」
ああ。そうだったっけ。美琴はそれで思い出す。
今の彼からは想像も出来ないが、昔の花井は美琴よりも弱く、性格も大人しかった。
そして、いじめられていた。
何かのきっかけがあって彼は変わったのだが、それが何なのかを美琴は知らない。ただ、自分が
ついていてあげなければ、と思っていた存在が、独り立ちしたことを嬉しく思いながら、それでも
拭いきれない寂しさがあった。
あれから随分と年月が経つ。そんな想いがあったことを、忘れてしまうぐらいに。
「懐かしいな」
だから美琴は、彼の言葉を繰り返す。万感の思いを込めて。
「それで――――何があったんだ」
ただ、歩き続ける二人。会話のないままに、いつしか美琴の足は矢神神社へと向いていた。階段
をゆっくりと上る途中で、花井の静かな、そして深い言葉が空気を震わせる。
足が止まる。
唐突に吹いた一陣の風が、髪とスカートを撫でていった。
花井に背を向けたまま、美琴は軽く空を仰ぎ、そしてわずかに微笑む。
ほんと、何でそんなに私の事、よくわかるんだよ。
幼馴染。その言葉が不意に、胸の奥に浮かんでくる。
「早いよな、一年って」
「ん?ああ、そうだな」
戸惑うような彼の声を受けながら、振り向かないままに、美琴は喋り続ける。
「もうすぐ、卒業なんだよな、私達」
「……まだ半年もあるぞ」
「一年があっという間なのに、半年なんてすぐだろ?」
その言葉に、花井が軽く肩をすくめる気配が伝わってきて、彼女は小さく苦笑する。
「去年の秋だっけ。お前が塚本の妹に、フラレタのって」
空気が、凍った。
「……ああ、そうだな」
だがそれも、一瞬のことだった。彼の声は感情を押し殺したものだったが、それでもはっきりと、
力強く答えた。
詳しいことを、彼女自身は知らない。ただ、花井が塚本八雲に告白をし、フラレタという事実だ
けが、彼女の耳に入ってきていた。もっとも、それでなくても、彼の腑抜け具合を見ればすぐに、
わかったことではあったが。
「……辛かった?」
その問いかけに、惑う雰囲気。
また吹く、風。
「ああ。辛かった」
「――――そっか」
正直な答えを、美琴は全身で受け止める。まだ彼女は、振り向かない。
花井の顔を、見ようとしない。
流れる雲。随分と歩いたように思えて、それほどの時が経っていないことを、遠くに沈もうとし
ている夕陽が教えてくれている。
「それが、どうしたんだ、周防」
彼もまた、何かを振り切るのに時間を必要としていたのだろう。しばしの沈黙のあと、やっと、
花井は口を開いた。
「ん……」
小さく相槌を打ってから、美琴はまた、天を仰ぐ。
階段の脇に植えられた木々、揺れる枝。
いつも来る場所なのに、こんなにも美しいことを、今まで気付かなかった。
「……周防?」
後ろ手に手を組み、再び黙ってしまった彼女の様子に、彼は案じるかのように問いかけてくる。
そして彼女は口を開く。
「一昨日、さ」
「ああ」
「私、告白されたんだ――――今鳥に」
「…………そうか」
彼の答えは、それだけだった。
美琴も、それ以上の言葉を聞けるとは、思っていなかった。だから、目を細めて、小さく笑うだ
けだった。
「知ってたんだろ?」
一歩、足を踏み出すと同時に、背の向こうの彼に問いかける。
逡巡する気配の後、花井は重々しく答えた。
「ああ」
きっと、今、私を見てないだろうな。振り向かずとも、彼女にはわかった。事実、彼は美琴の背
中から目をそらしていた。
「だと思った」
「……すまん」
「何で、謝るんだよ」
「いや……」
普段の大きな声ではない。迷うような、小さな声。
「やっぱり、花井は花井だよな」
「どういう意味だ、それは」
「隠そうとしたって、無駄だった、ってこと」
一歩、また一歩と踏みしめるように階段を上る美琴。やがて見えてくる、境内と神社の本殿。
「何で、わかったんだ?その……私が、今鳥に告白されたこと」
「見ていれば、わかる」
「……そういうもの?」
「ああ――――多分、な」
「…………でも、ほとんどの奴らは、気付いていないみたいだったけれどね」
いつも通りに振舞っていた筈だ。馴れ馴れしく振舞ってくる今鳥を、普段と変わらずあしらって
見せた。
『相変わらずね、今鳥君って』
そう言ったのは、親友の一人でもある沢近愛理。塚本天満もまた、それに頷いていた。ただ一人、
高野晶だけは意味深な目をしていたが、そのことに触れようとはしてこなかった。
「やっぱり、花井は、花井だね」
再び繰り返す言葉。俯いて見つめる石段に、蟻が一匹、歩いていた。
「私のこと、よくわかってる」
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Classical名無しさん:04/11/04 16:21 ID:rqskEJoU
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「どうしたんだ、周防。一体」
こらえられなくなったのだろうか。一段飛びに階段を上り、距離を縮めてくる彼の手が、彼女の
肩に触れそうになった瞬間。
最後の一段を登り終えた美琴は、振り向いた。
ほんのわずかな距離で、向かい合う少女と少年。
彼は美琴の瞳に浮かぶ、切なさに射すくめられて、その場に立ち竦む。
「周防?」
「あのさ、花井」
戸惑う彼の、眼鏡越しの目をしっかりと見つめながら、美琴は言葉を口にした。
「今日から、幼馴染をやめないか?」
遠くで、烏が鳴いている。カー、カーと。