そこは夜の喧騒とは無縁と言える場所だった。暗めの照明に照らされた店内。微かに聞
こえるピアノの音色は、耳障りにならない程度に店を飾る。
グラスを重ね合わせる音。人々の談笑の声も適度なボリュームを保っている。
初老のバーテンダーは、カウンターに座る男の空いたグラスへ琥珀色の液体を注ぐと、
無言でグラス磨きに戻った。
「……遅ぇ」
ポツリ、と男が呟いた。目元を飾るのは、しゃれっ気のないサングラス。スーツを着て
いるが、あまり似合っているとはいえない。アロハでも着ていれば、チンピラかヤクザに
でも見えただろう。
――と、そんな男の傍らに人影が滑り込んできた。ストゥールにすらりと座ったのは、
女性。長い黒髪を腰ほどまで伸ばしている。
「悪かったね、職員会議が長引いてしまった」
一言謝り、バーテンダーに手で合図する。バーテンダーは心得たようにシェイカーを振
り、彼女の前にカクテルグラスを置いた。
「――しかし、一体どういう風の吹き回しだい、拳児くん」
「拳児くんは止めろっての、絃子」
「さんを付けたまえ、拳児くん」
男の名は播磨拳児。ようやく名が売れ出した月刊連載を二本持つ漫画家である。
女の名は刑部絃子。かつて播磨拳児が在学した高校の数学教師を務める女性であった。