『Point of a look -2』
播磨邸――絃子のマンション――での朝。
今日こそはとベッドで良く眠っている播磨の部屋に、ひとつの人影があった。播磨の従姉妹、刑部絃子である。
「おい、起きろ。拳児君」
「ぐえっ」
絃子がげしりと播磨のみぞおちを蹴飛ばした。さすがの播磨もこれはこたえたようで、悶え転がり、やがてベッドから転落した。
一緒に落下した布団を払いのけ、がばりと起き上がると、播磨は自分を見下ろす絃子に怒鳴った。
「いきなり何しやがる!」
「頼むから学校に行ってくれ。じゃないと私が遅刻してしまう」
半ば呆れ気味に片手で頭を抱え、絃子が言う。彼女にしては珍しく、本気で困っているようだった。
「はあ? なんで絃子が遅刻すんだよ。勝手に行きゃあいいだろ」
「そうしたいところは山々なんだけどね。いいから学校に行きなさい」
意味のわからない言い分に播磨は反論しようとしたが、刑部絃子の巧みな説得――エアガンを向ける――により、
彼は仕方なく学校に行くことになった。
彼女は何故か不機嫌なようで、播磨が着替えている最中にも部屋の外から催促の言葉を飛ばしていた。
着替えを終えてリビングに入る。やはり絃子は不機嫌そうだった。
「ほら、早く学校に行きなさい」
「飯ぐらい食わせろっての」
それでも絃子は口うるさく播磨を急かしたてている。播磨はそれを無視してテーブルの上においてあったパンの袋から一つロールパンを取り出した。
同時に、愛用のサングラスが彼の目に入った。いつものようにサングラスに手を伸ばす。
しかしサングラスに触れるか触れないか、そこで彼の手はぴたりと動きを止めた。
「ああ、もういらねえのか……」
行き場を失った手を力なく下ろし、彼は自嘲気味に笑う。昨日の朝も彼は同じことをした。
サングラスはもう必要ない。一昨日、彼は自らの手でそれを外し胸にしまった。諦めきれない一つの思い出として……。
そして脳裏に浮かぶのは彼女の言葉。
夢にまで出てきたあの言葉。
『逃げるの?』
「……うるせえ」
パンッ!
「痛ぇっ! 何しやがんだ、絃子!」
「うるさいとはなんだ、うるさいとは。早くしなさい」
「別におめえに言ったんじゃ――もういい。んじゃ、行くけど授業とかふけても文句言うなよ」
「ああ、言わないさ」
エアガンを指でくるくる回している絃子に播磨は「本当だな?」と念を押し、パンを口に詰め込むと、鞄を肩に提げ玄関に向かった。
「撃つかもしれないけどね」
絃子は今朝ドアの覗き穴から見た彼女の姿を思い出しながら、彼に聞かれないよう小声で言った。
その頃、沢近愛理はあるマンションの一室のドアの前に立っていた。かれこれ数十分もインターホンとにらみ合っている。
「こ、今度こそ……!」
すでに十数回は言ったであろうセリフを飽きずにまた言うと、彼女は震える手をインターホンに向けて伸ばしだした。
かすかに振動しながら着実に、インターホンのボタンに彼女の指は近づいていく。
ボタンまであと数センチ。しかし、彼女はそこで手を引いてしまった。
手を伸ばしていく間ずっと息を止めていたために、酸素が足りなくなった体があわてて呼吸をする。
全て幾度となく繰り返された動作。
気づけば彼女の顔は真っ赤になっており、湯気が立っていても不思議ではないほどだった。
そうして再びふりだしに戻る。以下繰り返し。
彼女にとってこれは、終わりの見えない挑戦だった。
「なんなのよ、もー……」
うなだれる愛理にお前がなんなんだと問いたいが、本人は至って真剣なのである。
彼女もまさかインターホンが押せないだなんて思ってもみなかった。これは予想しなかった不測の事態なのである。
「だいたいなんで私が緊張しなきゃいけないのよ。悪いのはアイツじゃないの!」
ここまで来ておきながら往生際の悪い自分に言い訳するように、この場にいない人間に文句を言う。
「迎えにくるなんて別に変なことじゃない――わよね? う、うん。そうよね。別に普通……よね」
今さらふと思った疑問にも無理やり自分だけ納得し、息を整える。
このままじゃ私まで遅刻しちゃう。中村――確認すると愛理の執事――も帰らせちゃったから後戻りもできないし。
とにかくこんなボタンひとつ押すことに私が緊張する必要なんてどこにもないじゃないの。
こんなのぱっと押しちゃえばいいのよ、ぱっと。
愛理は小さく頷き、大きく深呼吸する。しかし頬の赤みが消えることはなかった。
それどころか押したあとのことを考えれば考えるほど、恥ずかしくて目の前のドアすらまともに見ることができなくなる。
しかし、このままではダメだと首をぶんぶんと横にふった。そうしてもう一度深呼吸をすると、彼女は意を決し――。
ガチャリ。
「わあっ!」
――自分の悲鳴をマンション内に響かせた。
開かれたドアからは、驚きで声すら出なかった播磨拳児が顔を出していた。
想像しえなかった目の前の状況に、播磨の思考回路は一瞬停止してしまっていた。
「お……お嬢?」
「あ……えと。おはよう……」
播磨は首をすごい勢いでぐるりと曲げ、後ろを見る。しかし、廊下には誰もいない。どうやら絃子は隠れているようだ。
もう一度彼女の方を見る。
クラスメイトの沢近愛理の幻影が目の前に立っているとはどういうことか。
播磨は目頭を押さえ、そのあと目をこするともう一度、彼にとっては目の前にいるはずのない彼女の姿を見た。
やはり、いる。
そして彼は無表情のままバタンとドアを閉めた。
沈黙。
玄関で播磨は顔を何度か叩き、夢ならば覚めろと念じた。そして大きく深呼吸し、ドアを開ける。
しかしやはり、沢近愛理はそこに立っていた。
二人が同時に叫んだ。
「なんで閉めるのよ!!」
「なんでお嬢がここにいんだよ!」
それだけで二人とも何故か息が上がっており、荒い息を整えながら睨みあう。
次に口を開いたのは播磨のほうだった。
「いや、つーか……まじでなんでだ?」
「そ、それは……ほら? 播磨君が学校、サボらないようにって……」
「へ?」
「あー、もう! アンタがサボらないように迎えに来たの! 悪い!?」
播磨は首をひねる。彼には彼女の言ったことの意味が良く分からなかった。
答えになっているようで、なんだか答えになってない。
『何故』という感情が膨らみすぎて彼の頭はパンクしかけていた。
一方で、拒絶されるのではないかという不安が愛理を襲っていた。次の彼の言葉が少し怖い。
もし迷惑だって言われたらどうしよう。
まず間違いなく学校は休むことになる。腫れた目で学校に行けるわけがないのだから。
それでも勇気を出して彼女は言った。
「悪かった……かな?」
「あ、いや! そういうわけじゃねえけどよ……」
播磨の目には愛理が少し泣きそうに見えた。しかし、すぐに目の錯覚だと自分に納得させる。
沈黙が二人を包み込む。しかしその空気は気まずいという類のものではなく……。
二人とも気恥ずかしさからか目を合わせることができず、顔をそらしていた。
この空気はなんだか良くないと、播磨が感じた。
これはまずい。なんだか良くわかんねえけど良くない。なんで俺がコイツなんかに――。
それに、部屋の方から殺気――絃子の――を感じる。今にもエアガンで打ち抜かれるような気がする。
とにかく何か言って空気を変えなくちゃまずい。よくわかんねえけど、とにかくまずい。
「え、えーとよ……」
しかし急に口を開いた播磨の言葉が怖くなり、ごまかすように愛理が言った。
「い、いいから早く学校行くわよ。もう! アンタのせいで遅刻しちゃうじゃないの!」
「うぇ? って、俺のせいかよ! それならせめてチャイムぐらい鳴らしゃ良かっただろうが」
「い、今押そうとしていたところなのよ、今! ほら、そんなことより早く」
顔を真っ赤にしながら愛理は播磨の腕をつかみ、彼の意見を無視して無理やり引っ張っていった。
支える人間がいなくなったドアがバタンと閉まる。
リビングで絃子がその音を聞きながらエアガンを回していた。
愛理がインターホンを今押そうとしていたのは事実だが、その『今』が20分以上あったことを彼女は知っている。
だからこそ出かけようとした時にドアの外に気配を感じて、覗き穴から愛理を見た絃子は外に出れなかったのである。
いくら播磨と一緒に住んでいることをすでに知られているとはいえ、恥じらいながらインターホンに
指を伸ばしたり引っ込めたりを何度も繰り返されては出るに出られない。
見ているほうまで恥ずかしくなるような光景だった。
「ふぅ。まったく、昔から拳児君は鈍感だ」
エアガンを構えて絃子が言う。銃口の先には彼女の従兄弟、播磨拳児の写真があった。
播磨は学校に向けてバイクを走らせる。彼の後ろ、ダンデムシートにブロンドの彼女がヘルメットをかぶり、乗っていた。
しかし――。
「きゃああああああああ!」
「だー、うっせえ!」
少しスピードを出すとこれである。それで播磨は仕方なくスピードを落とした。
さっきから速度を上げては下げ、上げては下げの繰り返しである。
これではバイクに乗っている意味がない。自転車で行ったほうが早かったんじゃないだろうか。
「こ、これじゃ遅刻しちゃうじゃないの!」
「そんでスピード出したらおめーが発狂すんじゃねえか! どうしろっつーんだ!」
「ぅ……こ、こわいんだから仕方ないでしょ!」
その返事に思わず播磨は脱力する。
本当にコイツはあの沢近愛理なんだろうか。
「こんなん自転車の二人乗りと大して変わんねーだろうが」
「二人乗りなんてしたことないわよぉ」
彼女は少し泣きそうだった。
「だー、くそ。遅刻したくねーんだったらスピード出すぞ。もっとしっかりつかまってろ」
「え……あ、うん」
恐怖からか、彼女はいつもより素直だった。先ほどまでよりしっかりと播磨にしがみつく。
暖かく広い彼の背中に、愛理は安心感を覚えた。
「うし、行くぞー」
「うん」
だがしかし――。
「きゃあああああああああああああああああああ!」
「だからうっせえっつーの!!」
やっぱり怖いものは怖かった。
学校に着き、バイクを止める。
ダンデムシートから降りた愛理はふらふらしていて、今にも倒れるんじゃないかと播磨は心配した。
「おい、大丈夫かよ。ったく、だいたいなんで俺がお嬢を乗せて走らなきゃいけねえんだ」
「仕方、ないでしょ。そうじゃないと私、遅刻、しちゃうじゃないの」
息を整えながら愛理が言った。
その様子に播磨が呆れてため息をつく。
「そういやマンションに来るときゃどうしたんだよ」
「執事に車で、送ってもらったわ」
だったら最初からそれに送ってもらえばいいじゃねえかという考えが播磨の頭によぎったが、
その考えは自分の住む世界とは次元が違う話しによってかき消された。
「いいから行くわよ。ほんとに遅刻しちゃう」
「俺は別にいいんだよ、遅刻したって」
「ダメよ。私が許さないもの」
「おめーなぁ……」
播磨は愚痴をこぼしながらもしっかり愛理と並んで歩いていく。すると、偶然今学校に入ってきた二人の姉妹とはちあわせた。
言うまでもなく塚本姉妹である。今朝は天満だけでなく八雲も寝坊してしまい、彼女達も遅刻寸前だった。
「あ……」
天満と播磨。二人が同時に声を上げた。
「よ、よう。塚本」
「お、おはよう播磨君! じゃあ私、先行くね!」
播磨はなるべく明るくを心がけて挨拶したのだが、天満は手を振りながらあわてた風に校舎へと走り去っていった。
八雲ですら目の前で起きた姉の奇怪な行動に目をぱちくりさせている。
誰も、天満の頬が紅く染まっていたことに気づかなかった。
「なんか変じゃない?」
昨日もそうだったんだけどと付け足して、愛理が八雲に聞いた。
「はい……姉さん一昨日家に帰ってきてから様子がおかしくて……」
「どうしたのかしら……って播磨君?」
愛理の横には天満の走り去って言った方向を見たまま固まった播磨がいた。
ぎこちない笑顔。今にも風化しそうなほど真っ白に見え、その目からはとめどない涙を流している。
「俺が何をしたっていうんだ……」
「あー、もう」
頭を抱える愛理に、八雲は今の奇怪な姉の行動よりももっと大きな疑問があった。
「あ、あの……沢近先輩。どうして――」
――播磨さんと一緒に……?
「え?」
「あ……いえ、その……」
愛理はきょとんとした顔で八雲を見るが、彼女はうまく言葉に出せない。
そんな八雲に愛理は首を傾げながら時計に目をやる。もう本格的に遅刻しそうだった。
「それより八雲。ひとつお願いがあるんだけど、いい?」
「え……はい?」
愛理はいまだ固まっている播磨を指差し、言った。
「この馬鹿を教室まで運ぶの手伝ってくれない?」
呆れた目で播磨を見る愛理の横で、八雲が困った。
その日の昼休み、播磨は屋上にいた。コンクリートの上に腰を下ろしている播磨は、天満のことで頭がいっぱいだった。
屋上のフェンスを眺めながら物思いにふける。
「やっぱ避けられてるよな、俺……なんでなんだ?」
「ホント、あれはちょっとおかしいわよね」
「おう。で、なんでお前が横にいる」
何故か当然のように横にいる愛理に、無表情のまま播磨が言った。
「もう。アンタ何度言わせる気?」
「また『なんとなく』かコラ」
「なんだ。わかってるじゃないの」
嬉しそうに笑う愛理に、播磨は大きなため息をついた。
「まあ、いいけどよ。お前も暇だよな。俺みてえな奴にお節介なんてよ」
播磨の言葉に内心どきどきしながら、彼女は答えた。
「……アンタだからよ」
「あん? 今なんて言った?」
「……ねえ播磨君、わざとやってない?」
なにをだよと首を傾げる播磨に、今度は愛理がため息をつく番だった。
すると後ろで扉が開く音がし、二人が振り向くと八雲が屋上に出てくるところだった。
「おう、妹さん」
「こんにちは、播磨さん。あの……二人で何を?」
「特に何もしてないわ。話してただけ」
愛理は本当のことを言っただけなのに、それでも八雲を不安にさせる。
屋上。そこは少し前まで『秘密』の場所だった。
――私と播磨さんが話していた場所なのに。
だけど今では漫画も描き終え、播磨と八雲が二人でここに待ち合わせることもなくなった。
漫画ももう二人の秘密じゃない。彼女の目の前にいるもう一人の先輩も秘密を知っている。
そして彼女が播磨のことを好きだということも、もちろん八雲は知っている。だからこそ嫌だった。
同じはず。
八雲は楽しそうな二人を見つめる。
なのに違う。
――――どうして先輩はこんなにも近いのに、自分はこんなにも遠いのだろう。
それが八雲には悲しくて寂しくて、悔しかった。
「八雲はなんでここに来たの?」
愛理が言った。
それは単純な疑問。意味なんてない。他愛のない話。
しかし八雲は。
『あなたは邪魔なの』
そう、言われた気がした。
「理由なんているんですか?」
ぞくりとするほど冷たい口調。唇が勝手に動いた。
そのときの彼女の思考は真っ黒で、何も考えられず、その言葉を口にしていた。
しかし突然の彼女の冷たい言葉に愕然とする愛理の表情を見て、すぐに彼女は我に返った。
「あ……ご、ごめんなさい!」
私、どうしたんだろう?
自分が自分でないような感覚に、八雲自身驚いているようだった。数秒前の自分に嫌悪感を抱く。
今、先輩を少しでも憎いと思ってしまった――――。
「え、あ」
自分の失言に気づいた愛理は何を言っていいのかわからず、口を開いては閉じを繰り返している。
しかしこのどうにも気まずい雰囲気の中、何もわかっていない人間が一名いた。
「なんで妹さんが謝ってんだ?」
本人にして元凶。その名も播磨拳児。
彼のせいではないとはいえ、播磨のあまりの鈍感さに愛理は呆れ果て、軽蔑を含む視線を播磨に向けた。
「アンタには一生わかんないわよ」
「んだとコラ」
「なによ」
睨みあう二人におろおろする八雲。
自分のせいで二人が喧嘩してしまうなら止めなくてはいけない。
しかし八雲はそう思ったのも束の間、気づけば何事もなかったかのように播磨と愛理は話していた。
――いつもどおり。
それは本当に自然な雰囲気で、いつ険悪だったはずの空気が変わったのかすらわからない。
お互いがお互いの挑発が冗談だとわかっている。
八雲にはわからない二人だけの空気。
自分も会話に加わっているはずなのに、なんだか違う場所にいる気がしてくる。
「そういやお嬢。最近寝不足か?」
「え?」
「今日の授業も眠そうにしてただろ」
「……まあね。私にもいろいろあるのよ」
昨日は播磨が学校に来るか来ないか。今日は迎えに行くことによる緊張。
そのせいでここ二日、愛理はほとんど眠れなかった。それを知っている者はいない。いや、一人だけ――中村――知っているといえば知っているのか。
とりあえず、目にくまができていなかったことだけが不幸中の幸いだった。
「それにしても驚いた。播磨君って授業中に起きてるんだ。変なとこで不良っぽくないわよね、あなたって」
「せっかく人が心配してやってんのに、かわいくねー奴だな」
表面だけを見れば口喧嘩しているようにも見える。けれど本当は、ただじゃれているだけで……。
そんな二人を不安げに八雲は眺めていた。
....TO BE CONTINUED?