『Point of a look -1』
――――逃げるの?――――
彼が目を開けて一番最初にその目に映ったのは、ただの天井だった。
まだはっきりしない頭でさきの夢を思い出す。
「なんだってんだよ……」
朝日を浴びる部屋。その部屋のベッドの上で播磨拳児は寝返りをうった。
起きる予定はなかった。学校なぞ行くつもりもなかった。
なのに目が覚めた。不思議ともう一度寝る気にもならない。それどころか目を瞑る気にすらならなかった。
なぜなら眠ると夢に見るだろうから。眠ろうとすると思い出すから。
沢近愛理といた、あの夕焼けの教室を。
そして彼女に言われる。
『逃げるの?』と。
そのたびに彼は吼えた。どうしようもないのだと叫び続けた。しかし彼女は聞くのをやめない。何度も何度も、それを言う。
壊れたレコードのような、うざったい無限ループ。
夢とはいえ、みっともないただの言い訳をするのにも飽きてしまった。
枕元に置いてあった目覚まし時計がやかましく鳴り響いた。どうやら昨日の夜に解除するのを忘れていたようだ。
播磨は手だけ動かして時計を叩いて耳障りなアラームを止めると、そのまま時計を鷲づかみにした。見えるところに持ってきて時刻を見る。
学校に行くつもりはなかったのに、どうしてかいつもより早く目が覚めている。
偶然か気まぐれか。
いや、そんなことはない。確実に彼女のせいだった。
播磨は思い出す、オレンジ色の教室を。
彼が学校を辞めるかもしれないと告げたとき、彼女は言った。
『ダメよ』
たった一言。しかし鋭い否定。
『絶対にダメ』
どうしてアイツにそんなこと言われなくちゃならねえんだ、そう播磨拳児は思う。
しかし同時に、どうしてアイツはそんなことを言ってくれるのか……そう思う彼もいた。
「お嬢……」
知らずにつぶやく。そして言った瞬間はっとする。天満というものがありながら一瞬でも変な想いに駆られた自分を嫌悪した。
播磨は馬鹿馬鹿しいと勢いよく布団をかぶり直すと、無理やり目を瞑った。
しかし一瞬暗闇になったかと思うと、すぐにブロンドの彼女が目の前に現れる。見えた彼女はひどく挑発的で、少し悲しそうだった。
今日学校に行かないと、なんだか彼女に負けたような気になり、それが播磨には不愉快だった。
「だー、くそ! 行きゃあいいんだろ、行きゃあよ!」
播磨は悪態をつきながら、布団を蹴飛ばし跳ね起きた。もうやけくそだった。
播磨が教室に入ると、彼の目に愛理の姿が映った。愛理も美琴と話していたが、播磨が入ってきた瞬間に視線が彼に向く。
二人の目が合った。播磨はサングラスをしていない。
播磨には彼女の頬がこころなしか染まった気がした。
播磨に背中を見せていた美琴が、自分の背後に向いている愛理の視線に気づき、振り返った。
「おわ、播磨か!? サングラスかけてないじゃん」
「ん? ああ。まーな」
「へー。結構かっこいいんだな、播磨って」
美琴の意外な反応に播磨はその目を白黒させた。
しかし実際クラスの大半の人間の視線が播磨に集まっており、それぞれ驚愕するか放心するかのどちらかだった。
播磨は何を言われたのかいまいち理解できていないようで、間抜けな声を上げる。
「お、おう……?」
「アシカかお前は」
そう言って笑う美琴を、愛理は少しつまらなそうに見ていた。
昨日のこともあって播磨は一瞬愛理のことが気にかかったが、無視して自分の席に向かっていった。
愛理はその後姿を無言で見つめる。そのときふと、他の女子生徒の視線もいくつか彼に集まっていることに気づいた。
サングラスをしていないもの珍しさからか、それとも……。
彼女の奥に潜んでいた嫉妬という闇が、心を侵食していく。その愛理の表情に気がついた美琴が言った。
「安心しな、沢近。少なくとも私はとるようなことはしないからさ」
「本当でしょうね? ……って、なんの話よ、なんの!!」
美琴はまさに顔から火を吹いている親友を見て、楽しそうに笑っていた。
播磨が机に鞄を置こうとしたとき、なんと天満と目が合った。
「ぁ……」
天満が小さく声を上げた。
播磨にそれを聞き取ることはできなかったが、なんだかきまずい空気が流れているのはわかった。
そしてきっと昨日の屋上での会話のせいなのだろうと勘違いした。いや、この場合そう思うのが普通なのだろう。
彼はなるべく自然にと心がけて挨拶を試みた。
「よ、よう塚本。いい天気だな」
ちなみに空は灰色の雲に覆われている。
「う、うん! おはよー、播磨君!」
そこにツッコむこともなく元気良く挨拶する天満に、播磨は正直ほっとした。笑顔が戻ってきている。
少しぎこちなさがあるが、多少は仕方がないだろうと播磨は無理やり納得しようとした。
しかし――。
「ぁ……あ、そーだ! 晶ちゃーん」
天満は唐突に何かを思い出したかのように席を立ち、すごい勢いで友人のもとへと走り去っていった。
いくら鈍い彼でも、今の彼女の行動がどうにも不自然であることが容易にわかった。
そして思う。まさかと否定しつつ、完全に否定できない。
――――もしかして俺、避けられてる?
休み時間。
「つ、塚本。あのよ――」
「ああ! 忘れてたー!」
昼休み。
「塚モ――」
「あ、そうだ!」
放課後。
「つ――」
「じゃ、じゃーねー。播磨君!」
「――かもと……」
播磨の声もむなしく、天満はわき目も振らずに教室から走り去っていった。結局、彼は一度も天満とまともに会話することができなかった。
天満が去っていった教室のドアをぎこちない笑みで見つめる。
彼はその不気味な笑みのまま何故か屋上に向かい、
「やっぱり避けられてるーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
頭を抱えて心の悲鳴を――実際にも声が上がっているが――上げた。
「は、播磨さん?」
突然の背後からの声に播磨は驚き、振り返る。
開かれたドアの向こうに塚本天満の妹、八雲が立っていた。少しおろおろしている。いきなり男が叫んだら誰だって困惑するだろう。
しかし目を合わせないようにしているのはそのせいではない。
それは播磨がサングラスをしていないからだ。
愛理が漫画の手伝いをすることになった日に待ち合わせていた喫茶店で見ているので初めてではないが、
八雲は目を合わせるのが少しだけ恥ずかしかった。
「妹さんじゃねえか。なんでここに?」
「あ……その、偶然播磨さんを見かけたので、少し気になって……」
「あー、悪ぃな妹さん。びっくりさせちまったみてえで」
少し赤面しながら播磨が頬をかいた。
「い、いえ……それより、どうかしたんですか?」
「あー、いや……」
言いにくそうにする播磨を見て、八雲は少しショックを受けていた。
しかしそれは、言ってもらえない、頼ってもらえないことからのショックではない。
「やっぱり視えない……」
「ん?」
「あ、いえ……なんでも、ないです……」
そう言うが、八雲は彼をじっと見つめる。しかしどんなに頑張って見ても、何も視えなかった。
今日は能力が強まる日のようで、クラスの男子の声などは視えていた。それらは言ってみればいつものことなので、少し我慢すればそれですむ。
しかし播磨の心が視えないということは、いつものことだからこそ、悲しかった。それだけはいくら我慢してもしたりなかった。
「そーいや天満ちゃん、俺のことなんか言ってなかった?」
「姉さんが……ですか? いえ、特に何も……」
昨日は学校に忘れ物をとりにいって帰ってきてから天満の様子がおかしかったので、八雲はまともに会話をすることができなかった。
「くそぅ……俺が何をしたっていうんだ天満ちゃん……」
少し心当たりがありすぎて困る。昨日の屋上での話しでいい加減な奴だと疑われているんじゃないかという不安が、そのひとつだ。
「つーか、天満ちゃんも鈍すぎだぜ。少しは俺の気持ちに気づいてくれても良さそうなんだけどな」
いまさらと思いながらも大きなため息をつく播磨を見て、八雲は珍しくむっとした。気づいたときには口が勝手に動いていた。
「播磨さんは……ずるいです……」
「へ?」
「自分のことは棚に上げて……姉さんが鈍いだなんて、ずるいと思います……」
「あ、わりぃ。そうだよな、妹さんのお姉さんだもんな。別に悪気があったわけじゃねえんだ」
「あ、いえ……す、すいません! 気にしないで、ください……」
自分が何を言っているのか気づいた八雲はぺこりと頭を下げ、播磨の間違っている解釈を正そうとはしなかった。
顔を上げて彼を眺めるように見る。しかしやはり目は恥ずかしくて見ることはできない。
そして相変わらず何も視えない。彼女の心が深く暗い海に沈んでいく。
播磨のしゃべる声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった――――。
他の人の心なんか見えなくてもいい。
『それにしても、妹さんはほんとにいい妹さんだな』
この人の心だけを見せてくれればそれでいいのに。
『俺にも弟がいるんだが、こいつが結構生意気でよ。まあ、そこがいいっちゃいいんだが』
なのにどうして。
『しかも料理もうめえし、優しいときてる。妹さんと本当に付き合う奴ってのは幸せ者だぜ!』
――――播磨さんは心を見せてくれないのだろう――――
しかし八雲は理由を知っている。それは彼が彼女を好きでいてくれていないから。恋愛対象としての好意を持ってくれていないから。
そんな単純すぎる理由。しかしだからこそ八雲は悲しくなる。
彼女は夢を抱くことすら許されない。
自らが抱く播磨への気持ちに気づいた彼女にとって、その事実は何より残酷だった。
「ほんとすまねえ。俺はともかく、妹さんを好きな奴がいても告白しにくいだろうしよ」
「いえ……それはいいんです……。それに、播磨さんを好きな人も……いると思います……」
「俺を好きな奴? いや、いねえだろそんな奴」
冗談と受け止めた播磨が笑いながら言った。
「そんなことありません……」
「いや、だって俺だぜ? 嫌いになるならわかっけど、好きになる子なんていねえだろ。……言ってて悲しくなってきた」
つまり天満だって自分のことを好きになってくれないと言っているのと同義だった。
うなだれる播磨におろおろしながら八雲が言った。
「い……いえ、播磨さんはいい人です。それに私――――」
慰めるつもりで口を開いたのだが、そこで言葉につまる。無意識のうちに口にしかけた本当の気持ち。
「ん? 私……がどうしたんだ、妹さん?」
八雲の気も知らずに聞いてくる播磨。
こんなことなら気づかず言ってしまっていたほうが楽だったのにと、八雲は後悔した。
しかし、今なら言えるのではないか。彼女は彼を見つめる。今度はしっかり、その目を。
「私は……私は、播磨さんのこと……」
彼女の心臓が高鳴る。鼓動、周囲の音、目に映る風景、時間、その全てが大きくゆるやかに。
唇が――言葉をつむいだ。
「嫌いじゃ、ありません……」
「おお、サンキュな妹さん!」
違う。そうじゃない。
彼女は心の中で小さく首を振る。
しかし言えない。怖いから。結果はわかりきってしまっているから。
『視えない』
それは彼女の告白を妨げるのには、十分すぎる理由だった。
八雲と別れ、屋上から戻ってきた播磨はがらりと教室のドアを開けた。あまり時間は遅くないが、教室に残っているのは一人だけだった。
外の天気は曇りだが雨は降っていない。みんな帰るか部活に行くかしたのであろう。
彼女は播磨が入ったきたことに気づいていない。机の上に乗せた腕に頭をのせ、気持ちよさそうに寝息を立てている。
播磨は自分の椅子の近くに置いてある鞄を回収するために、教室を歩いていく。
そして何故か彼女のすぐ横にたどり着いていた。
なぜなら、不可解なことに彼女が寝ている席は彼女の席ではなく、他でもない播磨拳児の席だったからだ。
「おい、お嬢」
単に邪魔だという考えと、このまま寝かしておくのもまずいだろうという考えで、播磨は彼女に声をかけてみた。が、反応はうすい。
小さくうなったかと思うと、次の瞬間にはまた静かな寝息を立てていた。
「ったく……」
播磨はふと彼女の顔を見る。こっちまで眠くなりそうなほど、気持ちよさそうに眠っている。よほどいい夢でも見ているのだろうか。
教室はいやに静かに思えた。外から聞こえてくる部活動の騒がしさも遥か遠くから聞こえてくる。教室だけが別世界になったかのようだった。
彼はぼうっと彼女の顔を眺め続けている。何も考えず、明確な理由もなく、ただなんとなく……。
気づけば彼は、その安らかな寝顔から目が離せなくなっていた。
「ん……」
何がきっかけかはわからないが、ゆっくりと愛理が目を開けた。その様子に播磨は少しどきりとする。
ゆっくりと、それでいて優雅に彼女の顔が上がる。その瞳はぼんやりと目の前に立つ播磨拳児の姿を捉えていた。
「……播磨君?」
「あ、ああ」
しかしどうやら愛理はまだ寝ぼけているようで、目がうつろだ。寝ぼけ眼をこする。
「そう、播磨君……って播磨君!?」
「喧嘩売ってんのか?」
「そ、そうじゃないけど」
彼女はあせあせと両手を何度も交差させる。慌てふためくその姿は少し彼女らしくなかった。
放課後、播磨の鞄がまだあることに気づいた愛理は、自分でも本当に馬鹿だと思う期待を抱いてしまった。
馬鹿なことだとわかっていながら友人の誘いを断り、自分は馬鹿だと後悔しながら教室で播磨を待っていた。
人がいないことをいいことに、なんとなく播磨の席に座って待っていたのはいいのだが、肝心の本人がなかなか戻ってこない。
退屈になった彼女は寝不足だったので、いつのまにか眠ってしまっていたのだった。
そして起きたら目の前に彼が、である。彼女にとっては不意打ちもいいとこだった。
播磨は椅子下の鞄を掴み、自分の方に引き寄せながら言った。
「ったく、お前も良く眠れるよな。おめえ、古文の授業も寝てただろ」
「あ、あれはうとうとしてただけよ……それにしても、アンタ見てたの?」
「ま、お嬢は目立つしな。見てて面白かったぜ」
愉快そうに播磨は愛理を馬鹿にした。愛理は拳を小さく震わせながら、立っている播磨を見上げる。
「国語系は苦手なのよ。ちゃんとやらなきゃってわかってても眠くなるんだから、仕方がないじゃないの。それに馬鹿のアンタに言われたくないわ」
「次の数学も寝かけてたくせにか」
「う、うるさいわね――」
――昨日はアンタが学校に来るか気になって眠れなかったのよ!
その事実を飲み込んで、愛理はぷいと播磨から顔をそらした。
彼女の事情を知る由もない播磨は、彼女の様子をしてやったりと満足気だった。
「あ……そういえば播磨君。考え直したんだ、学校辞めるの」
唐突な愛理の問いに、播磨の表情が怖くなった。しかし何でもない風に言う。
「いや、学校にゃもう来ねーよ」
愛理が播磨が何を言ったのかよくわからないといった風に、きょとんと首を傾げた。
そしてゆっくりと彼の言葉を吟味し、噛み砕き、理解した瞬間には声を上げていた。
「ええっ!?」
「天満ちゃんに嫌われちまった……。もう本当に、ここに来る理由がねえ」
そう言うが早く、播磨は鞄を持ち上げると足早に歩き出した。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ、播磨君!」
がたりと椅子を倒して愛理が立ち上がった。
「じゃーな、お嬢」
しかし彼女が何か意見する暇もなく、彼はさっさと教室からいなくなってしまった。
彼はここで何かを言われたらまた夢にでてきそうで嫌だったのだ。
それに天敵と思っているはずの彼女のせいで心が揺らいでしまうのは、彼にとってあまり認めたくないことだった。
教室にぽつんと取り残された愛理。肩が震えている。そう、泣いている――――わけではない。むしろその逆だった。
ぷちんと、どこかで音がした。
「……ふ、ふふふ……」
本当に頭にきた。
こっちの気も知らないで勝手に決めて、もう来ない?
私がどれだけ心配したと思ってるのよ。どれだけ不安になったと思ってるのよ。
そりゃ播磨君は知らないでしょうけどね、ホントに眠れなかったんだから!
なのに、もう来ないですって?
そんなのダメだし、イヤだ。
愛理は彼が出て行ったドアをきっと睨みつけた。
「あー、いーわよ! そっちがその気ならこっちにも考えってものがあるんだからっ!!」
それは播磨の耳には届くことはなかったが、教室の前の廊下を歩いていた少数の生徒を確実にびびらせていた。
夜。塚本天満は自室のベッドの上に座り、クッションを抱いていた。
「どうしよう……」
思わずつぶやく。自分でもあれはいくらなんでもあからさますぎだと反省する。
今までなら軽く話しかけることができたのに。今ではすごく恥ずかしい。
昨日、あの教室に天満は忘れ物をとりに戻っていた。そのとき聞いてしまったのだ。
播磨の本当の気持ちを。八雲とのことが誤解だということを。
そして、彼がどれだけ自分のことを想ってくれているのかということを……。
播磨の顔を思い出す。しかし次の瞬間には烏丸の顔を思い出すことで、顔を紅くなるのを必死で抑えた。
「だめよ私! 私には烏丸君がいるじゃないの!」
そう言って小さな拳をかかげる。
そして想いを胸に刻む。
烏丸君が私のことを好きじゃないかもしれないからって、楽なほうに逃げちゃダメだ。
私は本当に烏丸君のことが好きなんだから。
しかし、とは言っても――。
「うわーん、どうすればいいのかわかんないよー!」
気にするなというほうが無理だった。天満は今日の授業中にも、どうしてもちらりと何度か彼の方を見てしまっていた。
天満は彼のことをかっこいいと思っているし、いい人だとも思っている。だからこそ妹の恋人で良かったという気持ちがあったのだ。
そんな播磨が自分のことを好きでいてくれるなんて、妹には悪いが嬉しくないはずもない。
しかし、天満にはどこかひっかかるところがあった。
天満は授業中に見た彼の横顔を思い出す。それがどうにも気にかかる。
しかし、それで自分の思うとおりだったとしても私にどうしろというのだと、彼女はますます思考の泥沼にはまっていった。
「うーん……」
相談しようにも、こんなこと他の人にいってもいいのか悩んでしまう。
だんだん思考回路が煙をあげはじめた天満は、クッションを抱えたままごろりとベッドに寝転んだ。
そして次に気づいたときにはすでに朝で、なおかつ遅刻寸前の時間だった。
....TO BE CONTINUED?