『Escapes from himself』
周囲にチャイムが鳴り響く。結局、二人は屋上で一時限目を完全にサボってしまった。
しかし、一向に愛理は教室に戻る素振りを見せない。
「おい、戻らねえのか? 次の授業始まるぞ」
「播磨君が戻るのなら戻るわよ」
「なんだそりゃ」
「言葉どおりの意味だけど?」
二人は視線を合わせないままそんな会話をする。
愛理は悩んでいた。「諦めるの?」と聞いていいのだろうか、と。
しかし、これで天満を諦めてくれたら自分にとっては好都合じゃないのという気持ちと
彼の一途な想いがこんな形で終わっていいのかという気持ちが天秤にのり、揺れている。
愛理が頭を抱えていると、突然播磨が体を起こし、立ち上がった。
「あ、ちょっと……」
「戻んだよ、教室に。ま、どーせ授業はほとんどわかんねーけどな。お嬢はあとから来い。変な噂立てられたくねーだろ」
教室にいる人から見れば来ていたはずの二人がいないのだから、もう手遅れのような気もする。
出口に向かいながら播磨は軽く手を振る。あの様子だと本当に戻るようだ。
消えて行く彼の背中を見送ったあと、愛理は座ったまま空を眺めてつぶやいた。
「変な噂……か」
私にとっては変でもなんでもないのだけど……。ホント、鈍感よね播磨君って。
とは言っても彼女自身これ以上どうしろというんだと思う次第であった。
たいていの男なら少しぐらい気になるようになるはずなのだが、そうならないが故に播磨は播磨なのであろう。
青空の下。もう慣れたとはいえ、愛理はため息をつかずにはいられなかった。
放課後。八雲とサラは帰路を同じくしていた。
「そうだ、八雲」
「何……?」
「えーと、その、ね?」
珍しく妙に歯切れの悪いサラに首を傾げる八雲。少しサラの顔が赤いような気もする。
「うー、こほん。こんなこと聞いていいのか分からないけど、播磨先輩の家に泊まったって本当?」
「え……えと……う、うん……」
どこで聞いたのだろうと不思議に思いながらも八雲は首を縦に振った。
「わ、ほんとなんだ!? じゃあ、播磨先輩とはうまくいってるんだね」
「わ……わたしと播磨さんは別に……」
満面の笑みのサラに、顔を真っ赤に染めて八雲が言う。
「あれ、付き合ってるんじゃないの?」
「それは、ち――」
――違う。
そう言うはずだった口はそこで止まってしまった。八雲は何故かしっかり否定することができなかった。
「え、違うの?」
きょとんとした顔でサラが聞いてくる。きっと他意はない。純粋な疑問なのだろう。
だが、八雲はすぐにその疑問に答えることができなかった。
「ぁ……」
――違う。
私と播磨さんは付き合っていない。だって播磨さんの好きな人は姉さんなのだから。
もちろん播磨さんのことは嫌いじゃない。不器用だけど優しいし、動物にも好かれるし、真剣だし、優しいし……。
だから私は播磨さんのことが嫌いじゃない。
――違う。
なのに、どうしてこんなにも否定するのが辛いのだろう。
たった三回わずかに唇を動かして、たった三回はっきり声を出せばいいだけなのに。一息で言えてしまう否定の言葉が何故言えないのだろう。
遠慮する必要はない。播磨さんも誤解を解きたがっていた。だったら私が解かないと、播磨さんに迷惑がかかる。
私は播磨さんが嫌いではないのだから、ここでしっかり言わないでイジワルする必要はない。
――違う。
でもそれなら私は……なんで今まで解こうとしなかったのだろうか。
たしかに言おうとはしていた。だけど決して本気で誤解を解こうとはしていなかった。
なんでだろう?
…………ああ、そうか。
――違う。
そう、違う……。ただ私が気づかなかっただけなんだ。ずっと前から知っていたのに、知らないふりをしていただけなんだ。
私は、播磨さんのことが『嫌いではない』のではなく。
――――好き、なんだ。
この想いに気づいたことにあまり驚きはない。本当はずっと前からわかっていたから。
私は播磨さんが好きだ。
もう一度その気持ちを噛みしめ、八雲はゆっくりと唇を動かす。
「私と播磨さんは――」
だけど――。
「つ……」
そこでまた言葉がのどにひっかかる。だけど言わなくては。
「付き合って……ない」
八雲は言った。
それは彼の気持ちも、自分の気持ちも、全て理解した上での否定の言葉だった。
「……ほんとに?」
「うん……播磨さんの家に泊まったのも手伝いのためなの……だから、全部誤解。私と播磨さんは……付き合ってない」
それを聞いたサラは『何の手伝い?』と聞くことはしなかった。八雲が今言わなかった時点で何か言えない事情があるのだろうと思ったからだ。
「そっか……。あ……ご、ごめん八雲!」
「サラ……?」
「私も八雲の話し聞かないで勝手に盛り上げちゃって……ごめん!」
立ち止まり、人目も気にせず思い切り頭を下げるサラ。周囲の目を引くのは当然だ。おろおろと八雲があわてた。
「い、いいから……サラ」
それを聞き、サラは頭を上げた。かなり落ち込んでいる。こういう状態をしょぼんとしているというのだろうと八雲は思った。
「ほんとにごめんね、八雲……」
「もういいから……」
二人は再び歩き出した。
その後はサラもいつもの調子に戻ったが、どこか雰囲気が違った。親友の話しをちゃんと聞かなかった自分が許せなかったのだ。
歩きながら、八雲が言った。
「あの……サラは好きな人、いる……?」
「え、私? うーん、いない……のかな」
一瞬同じバイトをしている先輩が頭に浮かんでしまったのは内緒だ。
そのときサラは思った。今、好きな人がいることを否定することに少し抵抗があった。なら、さっきの八雲はどうだったのか。
「ねえ、八雲……。付き合ってないのはわかったけど、八雲って……播磨さんのこと――」
「うん、好きだよ……」
意外な反応。『好きだと思う』ではなく『好き』。
うつむき答えた八雲の横顔に、サラの瞳は釘付けになった。
…………。
2−Cの教室は夕焼けで赤く染まっていた。
もう学校にはあまり人間がいないだろう。その中で彼は自分の席に座り続けていた。
窓の外を見る。空が赤い。
そのまま視線を少し落とし、彼女の席を播磨は見た。胸が、しめつけられる。
「けっ。情けねえな、おい」
自分を嘲り、机から視線を反らす。
適当に消された黒板。適当に並んでいる席。なにもかもがどうでもいい。
「学校……やめっかな」
播磨はつぶやく。もともと天満のためだけに入ってきたようなものだ。
誤解を解くことのできなかった今でも天満に会えなくなるわけではないが、見るたびに辛い気持ちに襲われるのは勘弁だった。
今日一日でこの様だ。何日も続けられるわけがない。
だったら辞めれば楽だろう。馬鹿な俺にでもわかるぜと播磨は再び自分を嘲った。
そのときガラリと音を立て、教室のドアが開いた。彼は顔だけそちらに向ける。
「まだ、いたんだ……」
屋上のときと似たような雰囲気。沢近愛理が立っていた。
「お嬢か。お前もまだ学校いたのかよ」
「……少し用事があったのよ」
嘘だった。
用事があったのは嘘ではないが、そんなものとっくに終わっている。
一度は家に帰ったものの、どうしても彼のことが気になった。そして気づけば学校に向けて歩き出していた。
もしこれを偶然と言うならば、彼がまだ残っていたことを偶然と言うのだろう。
愛理は静かにドアを閉めるとそのまま夕焼けに染まる教室を歩き、播磨の横の机、つまり天満の机に腰掛けた。
「んだよ……」
「……別に。なんとなくよ」
「屋上のときもそれだったじゃねえか……」
再び沈黙が訪れる。
播磨はサングラス越しにちらりと愛理を見た。
夕焼けをバックに、物憂げな表情でうつむいているブロンドの少女。
不覚にも、綺麗だなと思ってしまった。
「俺……学校やめるかもしんねーわ」
気づけば彼は言っていた。
「……なんで?」
「この学校入ったのだって天満ちゃんのためだったんだぜ?」
――俺、なんでこんなことしゃべってんだ?
「そう……そんな前からアンタって天満のこと……」
愛理は言う。少し、悲しそうだった。
「まあな。でもこんなことになっちまったら彼女を見るのが辛くてよ。だからいっそ辞めちまおうかって――」
「ダメよ」
「は?」
あまりにもはっきりとした愛理の口調に思わず間抜けな声を上げる播磨。彼女はしっかり彼を見つめていた。
「なんでだよ。俺の勝手だろうが」
「なんでもよ。絶対にダメ」
あまりにも無茶苦茶な理由に播磨は呆れるしかなかった。屋上のときは『私の勝手でしょ』だとか言ってくせに……。
「……おめえ、ほんとに自己中だな」
「うっさいわね。少しは自覚あるんだからやめてよ」
「はは……」
笑った。それは小さな笑いだったが、今の彼にとっては笑うなど有り得ないことだった。
いつのまにか少し楽になってる自分がいることに彼は気づいた。
――本当にお嬢には調子を狂わされるな、ちくしょう。
だが、楽になったといっても少しは少し。一瞬は一瞬。すぐに深い絶望が彼を襲う。
「ま、辞めようが辞めまいがお前には関係ねーだろ」
――それなら俺はなんで話してるんだ? 別にコイツに言う必要はねえだろう?
「……あるわよ、バカ」
愛理のその言葉は息だけで声になっておらず、播磨は聞き取ることができない。ここで『好きだから』と言えない自分の臆病さに彼女は嫌気がさした。
「あん?」
「な、なんでもない!」
「なに怒ってんだよ。ったく……」
播磨は席を立つ。きっと帰るのだろう。去っていこうとする彼の背中に愛理は語りかけた。
「ねえ、学校は……」
「さあな」
素っ気無くそう言って、彼はドアに向かって歩き出した。
行ってしまう……。このままでは彼が行ってしまう。
今何も言わなかったらもう彼に会うこともないんじゃないかという不安。それが彼女を苦しませる。
しかし彼女は臆病で、プライドが高い。素直に自分の気持ちを言うことができない。
そんなくだらないプライドを捨てられない自分がひどくなさけない。
播磨がドアのところまで行き、手をかけたところで愛理は言った。
「逃げるの?」
ぴたりと、播磨の動きが止まった。
結局出てきたのはいつもみたいな挑発的な言葉。かわいげもなにもあったものじゃない。
だが、その言葉は播磨にとって胸に刺さるものがあった。
もう一度、愛理は言った。
「ねえ、逃げるの?」
それは果たして何からか。
愛理といるこの教室からか。
もう来る必要がない学校からか。
それとも一心に想いを向けた天満からか。
どれも違う。
それはそう――自分の想いそのものから。
彼は自らの想いから逃げようとしているのだと、彼女は言った。
愛理自身なんでこんなことを言っているのかわからない。天満を諦めてくれれば自分にもチャンスがあるかもしれないのに。
だが、彼を引き止めるにはそれしか思いつかなかったのだろう。
自分では引き止めることができない。愛理にはそれがわかっている。自分が行かないでと言っても彼はきっと去ってしまうのだと。
だからなのか、気づけばそう言っていた。
それに、何故か愛理は彼に諦めてほしくなかった。
一人の人を想う気持ちは私もわかっているから、私も諦めないから……だから貴方も……。
きっと、そういう播磨拳児を好きになったからなのだろう。
播磨は動かない。手を教室のドアにかけたまま、微動だにしない。
愛理は口を開く。核心に触れようと――。彼が何から逃げようとしているのかはっきりと言おうとした。
「播磨君言ってたじゃない! 自分の想いも告げずに諦められるのかって私に聞いたじゃないの! なのに言った本人が――――」
「しょーがねえんだよっ!!」
播磨が吼え、愛理の言葉がかき消された。夕焼けに染まる教室で、一瞬だけ時間が止まった。
彼は言葉を吐き出し続ける。
「妹さんとのことは全部誤解だって言うのか!? 俺が……俺が本当に好きなのは天満ちゃんなんだって言うのか!?」
愛理に背を向けたまま、悲しみも吐き出すかのように……。
「そんなこと……! 今さら、言えるかよ……。言ったら天満ちゃん、悲しむだろ?」
「そ、そうかもしれないけどっ……!」
「見たくねえんだ、俺は。天満ちゃんが悲しむところをよ……」
沈黙が教室を覆った。愛理はそれ以上言葉をかけることができず、播磨はかすかに肩を震わせていた。
数秒にも満たない沈黙は果てしなく長く思え、その中で愛理はどうすることもできない自分の無力さを悲しく思う。
結局、彼にとって自分は価値のない人間なのだと思ってしまう。引き止めることすらできない。
――私じゃ、だめなのかな……。
言葉にできない彼女の想い。胸が、苦しい。彼の後姿すら見ることができず、下を向くことしかできなかった。
「ま、みんな俺がわりいんだ。勇気がなかった、臆病だった、馬鹿すぎた……自業自得だぜ」
播磨は両手を自分の顔にもっていき、トレードマークであったサングラスをはずした。
もう必要ない……。
握りつぶして壊そうかとも考えたが、思い直し胸ポケットにそっとしまった。
彼は静かに愛理に顔を向ける。
振り返った播磨の顔は、笑顔だった。しかし愛理はそれを見ようとしない。悲しすぎる笑顔だったから……。
「いきなり怒鳴っちまって悪いな、お嬢。お前は悪くねえのに……どうかしてるぜ、まったく」
そして「じゃあな」と言い残し、播磨はドアを開けて教室を去っていった。
明日も学校で会えるだろうか。愛理は思う。次の日も、その次の日も会えるだろうかと。
……会いたい。
一人残された愛理は自分の座っている、天満の机に目を向ける。
「ほんと……うらやましいわ」
彼女は寂しげに机をなでる。その時ふと、それが目に入った。
「……あら?」
教科書とノートが一冊ずつ、机の中から少しはみだしていた。愛理は体を傾け、それを手に取る。
どうやら入れっぱなしで忘れていったらしい。
「まあ、明日も学校だし。いいわよね、別に」
軽く教科書をぱらぱらめくると、愛理は教科書を机の中に戻した。
愛理は机から降り、立ち上がると帰るために歩いていく。ドアを過ぎたところでもう一度振り返り、天満の机を見つめた。
そして小さく息を吐くと、うつむきながら教室のドアをゆっくり閉めた。
「あ、姉さん。おかえりなさい……」
日が暮れかけた頃、八雲は夕飯の準備をしていた。すると先ほどまで出かけていた姉が台所に顔を出した。
しかし、どうも様子がおかしい。
現れた天満は少しうつろな表情で八雲には目も止めず、冷蔵庫を開け、牛乳を取り出すと手近にあったコップについだ。
それを一気に飲み干す。
「姉さん?」
「……」
牛乳を飲み終えた彼女はふらふらと、おぼつかない足取りで台所を去っていった。
どうしたのだろうか。八雲は首を傾げる。
「忘れ物……見つからなかったのかな?」
まさかそれぐらいで、と思いながら八雲はつぶやいた。
....TO BE CONTINUED?