『True smile -2』
愛理は座っているため、自然と八雲が彼女を見下ろす形となっていた。
確実に八雲は見た。愛理が何をしようとしていて、自分が入ってきたことで何が起こったのかを。
「なに?」
愛理が心底つまらなそうな顔をして、言った。
心が冷めている。自分が一番見られたくない姿を見られたからだろうか。
とにかく愛理は八雲を見た瞬間から、なにもかもが不愉快になった。
「え……あ、いえ……なんでも――」
「ないわけないでしょ?」
愛理は八雲を睨みつけ、八雲はたじろいだ。
しかし次の瞬間には愛理は自嘲するような笑みを浮かべていた。
「あなた心配になったのよね。そうでしょ?」
不自然な、ニセモノの笑顔で愛理が言う。ほとんど考えることなく、浮かんだ言葉をそのまま。
「私が原稿を……ダメにするかもって……」
口にすると自分がさっきしようとしていたことが、どれだけ酷いことなのか、よく分かる。
ひどく、みじめだ。
「先輩……」
愛理の指摘は図星だった。妙に胸騒ぎがしてしまった。八雲は人を疑うのは良くないことだと分かっていても、心配になってしまった。
だから様子を見に来たのだ。しかし、すごく悪いことをしてしまった気がする。
しかしそれは同情ではなく……。
「見たでしょ? あなたの心配は正解よ。良かったわね、止められて。あなたが来なかったら私は――」
「そんなことありません」
愛理の声をさえぎって、八雲がきっぱりと言い切った。彼女がここまではっきり自分に意見を言うのは愛理にとって初めてだ。
いつもは遠慮がちに物を言うのに……。
八雲もそれに気づいたのか、少し恥ずかしそうにして顔をそらした。
「あ、その……私が来なくても……先輩はそんなこと、しなかったと思います……」
それを聞いて愛理はむっとする。
下手に慰められても、自分がどんどんみじめになってくるだけ。不愉快だ。
そんなことされるぐらいなら、自分が醜いことを認めたほうがマシだ。心に巣食っている闇に飲まれてしまったほうが楽なんだ。
「あら、ほんとにそんなこと思ってるの? じゃあなんで私は原稿の上でコップを持っていたのかしらね?
あなたが来てくれなかったらきっと、そのままコップをさかさまにしていたわよ」
「そんなことしません……。それに……さっきのは私が原因です……。私がノックもしないで急に開けたから……」
――やめなさいよ。
愛理は泣きそうになるのを必死にこらえていた。
みじめだ、本当に……。
「だけど私がコップを持っていなかったら、あんなことにはならなかったでしょ!」
「でも先輩は、濡れないようにしたじゃないですか……原稿が濡れてないのを見て、安心してたじゃないですか……」
「ええ、たしかにそうよ。濡れてないのを見たとき、ホントに嬉しかった! だけど……
だけど、彼の想いをダメにしようなんて考えただけでも最悪なのよ、私は!」
必死の抵抗もむなしく、せきをきったように彼女の目から涙があふれる。止まらない。
「先輩は、最悪なんて……そんな人じゃありません」
「私だって驚いてるっ!」
愛理は完全に取り乱していた。他の何より自分自身が許せなくて、涙をぬぐうこともせず彼女は叫ぶ。
「私だって……私だって自分がこんな……こんな嫌な女だなんて思ってなかったわよっ!!」
「いいかげんにしてくださいっ!!」
八雲がうつむいたまま叫んだ。彼女の声は部屋全体の空気を震した。これには愛理も驚きを隠せない。
この子が、叫んだ?
嘘でも冗談でも夢でもなく、これは現実だった。あまりの驚きに愛理は、錯乱し続けることなんてできなかった。
ただ呆然と、八雲を見つめていた。
そして八雲は顔を上げて、小さく微笑む。
「もう、いいですから……」
優しい声だった。
何故だろうか。その声だけで自分を許してもいい気がしてくる。
決して許してはいけないのだけど、それに苦しむことはないのだと思わせてくれる。
すると八雲は少し困ったような顔になり、言った。
「それに先輩が最悪なら……私も最悪です」
愛理には彼女の言っていることの意味が分からなかった。
恥ずかしそうに、悔いるように八雲が言う。
「私も……考えたんです……」
「え?」
「私も考えてしまいました……原稿がダメになったらって……」
驚いた。これには本当に驚いた。
きっと彼女の言葉は真実だ。決して自分を慰めるために言ったのではないのだと、彼女自身から伝わってくる。
愛理は涙をふくと、少し不機嫌そうに言った。
「あのとき『続きをやりましょう』って言ったの、あなたじゃないの」
「播磨さんがどんなに漫画に真剣か……知ってましたから……嫌でも、完成させなくちゃって……そう思ったんです……」
「……あなた、うそつきね」
唐突に愛理がぽつりと言った。
「え……?」
「播磨君のこと好きじゃないって言ってたのに、やっぱり好きなんじゃないの。ライバルが増えちゃったわ」
彼女はさも呆れたかのように肩をすくめた。
それを聞いた当の本人は焦って言った。
「で、でも私はただ、姉さんに告白するってことを聞いたとき、嫌だなって思っただけで……。
……あの、やっぱり私は播磨さんのこと……好きなんでしょうか?」
それを聞いた愛理は一瞬「信じられない」といった顔で、大きなため息をついた。
「そーね。好きなのよ、たぶん。あーあ、強力なライバルが出てきちゃった。純粋なだけに怖いわね」
八雲は少し頬を染め、それを見て愛理はクスクスと笑った。
「八雲」
愛理が言った。
「ありがとね」
八雲はそれに、彼女なりの笑顔で答えた。
――――さて、なんでこんなことになったのだろう。
播磨拳児は考える。
本当に何故なのだろうか。
「播磨君。手動かしなさいよ、手」
「ん……お、おう」
時刻は夜の11時。部屋には播磨と愛理だけがいる。
あの後すぐに八雲は帰った。昨日サラの家で勉強していなかったことがばれていたので、今日も泊まるわけにはいかないというのが理由だ。
もちろんそれには播磨も大賛成だった。
というのも今日、八雲が播磨の家に泊まったのだと確信していた天満――中途半端に鋭い――に
『別にやましいことはしてない』
ということを説明するのに1時間もかかったからだ。
しかも完全に納得していないときている。しっかり話しを聞いてくれただけでも良かったが……。
そのため今日も泊まってやっていくのは、とてもじゃないが無理だった。
バイクで送っていこうかと提案した播磨に対して、八雲はその時間を漫画に使ってくださいと言った。
別にいいのにと播磨は言ったが、八雲がその意見を変えることはなさそうだったので仕方なく玄関まで見送るだけになった。
「それでは、がんばってください……」
ぺこりと頭を下げて八雲は、玄関のドアを開けて出て行った。それを見送る播磨と愛理。
横に立っている愛理に播磨は言った。
「それで、お嬢は何時までいるんだ? そろそろ帰らないとやべーだろ?」
「私が帰ったあと、アナタはどうするの?」
「とりあえず今日は一人で徹夜だな。あんま余裕ねーし」
「あら、そ」
そのとき異変が起きた。
突如、沢近愛理が携帯電話を取り出し、数回キーを押した。携帯を耳にあてる愛理。
少し経ってから、電話の相手が出たようで、愛理は驚愕の言葉を発した。
「あ、ナカムラ? 今日私、帰らないから」
「はぁ!?」
無論叫んだのは播磨である。
「……ええ、泊まるの。……ええ。それじゃ、よろしくね」
それだけ言って、愛理は電話を切った。
電話が切れる寸前に「かしこまりました、お嬢様」という声が聞こえた。
播磨は開いた口がふさがらない。
――なんだ今のやり取りは。
おそらく執事なんだろうが、なんて物分りのいい――つーか、良すぎだ馬鹿野郎――執事なんだろうか。
「ま、そういうわけでよろしくね、播磨君」
こともなげに言う愛理。
「え……って、おい! 泊まるってどういうことだ!?」
「そのままの意味よ。文句あるっていうの? せっかく手伝ってあげようって言ってるのに」
「い、いや。そういうわけじゃねえけどよ……。お前、本当に泊まってく気か?」
「あら、嘘だとでも思った? ホントのホントよ。ありがたく思いなさいよね」
最後に「夜更かしはお肌にも悪いのに手伝ってあげるんだから」と付け足して彼女は播磨を見た。
小悪魔。
播磨の脳裏にその言葉が浮かんだ。しかしすぐに訂正する。
大魔王だ、と。
「だ、だが、明日もテストが……」
「八雲だってそうだったじゃない。それとも何? 八雲は良くて私はダメなわけ?」
「ぐぅ……」
すでに播磨はぐうの音も出ない――いや、出ているが――状態まで追い込まれていた。
言葉で播磨拳児が沢近愛理に適う道理はない。
「……ちっ。わ、わーったよ。よろしく頼む」
実際問題、戦力がほしいのは確かだった。
どうせ目の前の彼女は意見を変えるつもりはないだろうと、播磨は白旗を振った。
「そうそう。わかればいいのよ、わかればね」
満足そうに頷く愛理の顔は、楽しそうにほころんでいた。
支援。
同じく支援。
連載継続中の作品相手に長編SS書ける人って凄いな〜って思うよ。
マジですか! と叫びたくなるような目まぐるしい展開を見ていると特にね…
現在時刻、午前2時。二人はせっせと作業を続けていた。
最初は自分部屋に愛理と自分だけ――それもこんな時間に――という状況に違和感ありありの播磨だったが、
集中して漫画を描き始めれば気にならなくなっていた。
まあ今まで何時間も作業をしていたのは事実なのだから、すぐに慣れてもおかしくはないだろう。
これが他の男だったら色々と意識してしまうことがあるのだろうが、そこは播磨だ。驚異的なまでに意識していない。
それを少し寂しく思う愛理がいる。
「また間違えた……」
「おい、平気か?」
「大丈夫よ。ごめんなさい……」
どうしても何度かミスが出てしまう。集中はしているつもりなのだが、体力の問題だった。
最初家に来たときから10時間以上も作業を続けていれば、当然と言えば当然だ。
「ア……」
どうやらまた失敗したらしい。
小さなため息をついて修正をする。
「……」
その様子を播磨は何も言わずに眺めていたが、急に言った。
「ぐあー、つかれたな……お前は?」
「……私は平気よ」
「そうかよ。じゃあ、わりいけど俺の休憩に付き合ってくれ。一人で休憩してもつまんねえし、
その間お前はやってるっていうのもあんま気分良くねーしな」
それを聞いた愛理は顔を上げ、播磨を見た。彼は悪ガキみたいな、それでいてすごく優しい笑みを浮かべていた。
「ちょっと来いよ、お嬢。夜風にでも当たろうぜ」
そう言って播磨は立ち上がり、部屋を出て行く。
途中で振り返ることはしなかった。彼は愛理がついてくると確信しているらしい。
その様子を見た愛理も立ち上がり、黙って彼の背中についていった。
二人はベランダに出ていた。
風は少し冷たい。
夜景は綺麗だとは言えないが、気分転換するのには十分だ。
大きく伸びをする播磨。それを黙って見つめる愛理。
「わりいな、お嬢。俺なんかに付き合わせちまってよ」
「それは漫画? それとも休憩?」
「両方だ」
「別にいいわよ。私が決めたんだし」
「そうか……。サンキューな」
漫画を完成させよう。彼女は八雲と話してそれを決意した。
播磨の想いを手伝うのには抵抗があるが、それ以上に彼の役に立ちたいのだと。
少なくとも、彼の想いをふみにじる権利は自分にはないのだと。
しかしそれでも、告白はしてほしくなかった。
やっぱり彼は優しい。沢近愛理は思う。
「まったくもう、変に気を利かせちゃって……」
まったくもってばればれだ。本人はそのことに気づいてないのだろうけど。
「あん? なんか言ったか?」
「いいえ、別になにも」
愛理はやっぱり怖かった。この優しい彼が天満に告白をして、もしも奇跡が起きたら、と。
彼女の中の闇は完全になくなったわけじゃない。
漫画を手伝うことを決意したところで、不安が彼女を圧迫し続けることには変わらない。
嫉妬。
それが闇の正体。
それが愛理の中で渦巻いている。
――――ああ、やっぱりイヤだな。
「こんなこと言うのもどうかと思うけど、天満には……好きな人がいるの」
いつのまにか言っていた。
もしかしたら彼が天満のことを諦めてくれると期待して、言ってしまっていた。
しかし、播磨から返ってきたのは驚愕でも、落胆でも、絶望でもなかった。
「ああ、知ってる」
「……え?」
意外なんてものではない。そんな答え、彼女の中に存在すらしていなかった。ありえない答えだった。
「知ってた、の?」
「ん? ああ、まーな」
何でもないといった感じで播磨は答える。
愛理にはよくわからなかった、どうしてそんな風に言えるのか。
彼は天満の好きな人が自分でないことを知っているのに。なのに……。
そんな理解不能な言動が――愛理にはひどく頭にきた。
「なんでよ……」
「あん?」
「なんで、諦めないのよ……」
口が勝手に動く。理性はどこかに行った。浮かんでくる言葉がそのまま口をついて出てきてしまう。
「な、なんだよいきなり」
たじろぐ播磨。
しかし、気づいたときには愛理は叫んでいた。
「どうして諦めないのかって聞いてるの! だって、天満には好きな人がいて!
播磨君のことなんか全然、これっぽっちも意識していないのに! なんでよ!」
「いや、さすがにそこまで言われると傷つくぜ……」
播磨の小さな異義も愛理の剣幕の前には無意味なものだ。
愛理の息は荒く、顔は赤く、肩を怒らせ、そしてその表情には鬼気迫るものがあった。
播磨はそれ以上何も言わない。
彼は彼女が睨んでくるのを、ただ黙って受け止めていた。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
長い沈黙。それを破ったのは愛理のほうだった。冷たい風のおかげか、多少冷静になっていた。
少しふてくされて言う。
「なにか言いなさいよ」
「あーと、そーだな……」
彼女が冷静になったことを確認してから、播磨は空を見上げた。星が綺麗な夜空だった。
愛理はその横顔を見つめる。
播磨は少し間を置いてから、星空から目を離さずに愛理に問いかけた。
「じゃあ、聞くけどよ。お嬢は諦めるのか?」
「え?」
「たとえばお嬢にすっげー好きな奴がいて、だけどそいつは自分のことなんか気にしてなくて……」
そう語る播磨はどこか寂しげだった。サングラスをかけていても、その寂しさは隠せない。
彼はわかっている。自分の愛が上手くいかないであろうことを。
「でもやっぱりそいつが好きで……」
彼はゆっくりと、まるで自分の心を踏みしめていくように言葉を紡ぐ。
愛理は涙を必死でこらえている自分がいるのに気づいた。
播磨は星空を見ながら、彼女に問いかける。
「……それで、お嬢は諦めるのか?」
「……」
「自分の想いも伝えずに諦めるのか?」
彼は愛理を見た。彼女は少しうつむいて、何かを考えているようだった。播磨は続ける。
「……俺はさ、諦めたくねーんだよ」
他人にはほとんど口にしない、播磨拳児の本心。
それが愛理の胸に突き刺さり、何よりもしめつける。
「つーか、諦めらんねえんだ、情けねえことによ。だけど、もしかしたら上手くいくかもしんねーだろ?
ま、現実逃避って言われたら否定できねえけどな」
そう言って播磨は笑ってみせ、おどける。だがやはり、その笑顔は寂しげで……。
愛里は彼の顔を見れなくなっていた。
――そうだ。結局は同じだったんだ。
播磨君には好きな人がいて、自分のことは全然、これっぽっちも意識してくれなくて……。
でも、沢近愛理は播磨拳児のことが好きで……。
ホント、なんでかわからないけれど――やっぱり好きで。
同じなのに、私は自分のことばっかり、自分の都合ばっかり彼に押し付けようとしてた。
彼には諦めろみたいなこと言っておいて、自分は……。
だけど、決めた。
だって私は自分勝手だから。この性格はそう簡単には直らない。
だから。
彼が諦めないのなら――。
「ま、そういうこった。お嬢がどう思うかってのは自由だけどな」
「……ないわよ」
「ん?」
うつむいていた愛理がぽそりと言った。声が小さかったのでしっかり聞き取ることができない。
しかし「何か言ったか?」と播磨が聞くまでもなく、今度はさらに近所迷惑になること受けあいの大声で、愛理は言った。
「私だって諦めない! ええ、諦めないわよ! バカっ!」
「は、はあ? な、なんでいきなり馬鹿よばわりされにゃ――」
「シャラップ! だまりなさい! とにかく、いい? 私は諦めないからね!」
「イヤ、俺に言われてもコマルンデスケド……」
彼女の迫力に押されてか、播磨は敬語になっていた。
そんな播磨など彼女は気にも留めない。
「覚悟しておきなさいよ」
言って播磨に指をつきつけ、その後くるりと背を向ける。鮮やかな金色のツインテールが優雅に揺れた。
そして彼女はベランダから家の中へと戻っていった。
彼女の後ろ姿を呆然と眺めながら、ベランダに一人残された播磨は首をかしげた。
「……意味ワカンネー」
やはり播磨は播磨であった。
一方、播磨の部屋に戻った愛理は後ろ手にドアを閉めると、一度深呼吸をした。彼が帰ってくるまでに落ち着かないといけない。
心臓はさっきからバクバクいっている。顔が赤くなるのを抑えるのは大変だった。
『好き』とは言えなかった。彼女は、自分もとことん素直じゃないなと呆れ、播磨の鈍感さには呆れるを通り越しておかしく思う。
気持ちは複雑なままだけど、それでもいい。
『私は彼が好き』
その想いをしっかり抱きしめて愛理は。
「ほんと、バカなんだから……」
とびきりの愛情を込めて、彼を馬鹿にした。
そこには彼女らしく華やかで、そして彼女らしからぬ無邪気な笑顔があった。
....TO BE CONTINUED?