『True smile』
「いーち、にー、さーん……」
播磨がすごい勢いで現在書き終えた原稿の数を数える。
八雲と愛理の二人は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
原稿がめくれる音と播磨の声だけが部屋に響く。
「……」
数え終わると播磨はため息をつき、頭を抱えてテーブルに突っ伏し、考え始めた。
「どうですか……播磨さん……?」
八雲が心配そうにたずねる。
漫画はまだ完成していない。間に合うかどうかの目途を立てるために一度数えてみることにしたのだ。
なおも播磨はうなり続ける。愛理に不安が募る。
そもそも遅れてしまったのは、自分が原稿を踏んでしまったからだと、彼女は悩んでいた。
「は、播磨君。何か言いなさいよ……」
愛理は思わず身を乗り出し、まゆをひそめて言った。
それでも播磨は黙り続けたが、しばらくして顔を上げ、ようやく口を開いた。
「……ま、何とか間に合いそうだな。二人のおかげだな」
播磨はいまだ厳しい表情だったが、それを聞いて二人はほっとした。
八雲が心底嬉しく思っている中――顔にはあまり出ない――、安心した愛理はふと考えていた。
今後どうやって彼を振り向かせるかを。
考えるといっても思い悩んでいるわけではない。なんとなく考えるのが楽しいのだ。
たとえば私が、お弁当をつくっていったら、彼はどんな表情をするだろう。
たとえば朝、彼のマンションの前で私が待っていたら、彼はどんな表情をするだろう。
……ほら、考えてみるだけでも楽しい。
もちろん恥ずかしくてできないけれど、楽しいのだから仕方ない。
彼女は微笑む。
最大のライバルは天満だが、まず播磨は告白できないだろう。彼女はそう結論を出している。
できるのなら今までにとっくにしているはずだ、と。
札付きの不良であるはずの彼がいまだ告白できていないのなら、それはきっと運命なのだと。
告白できないからこそ、漫画という架空世界に天満を描くのだと。
描かれる少女が自分でないのは悔しいけれど、いつの日か変わってみせるから――。
そう、彼女は決意を固めた。
「よかったわね、播磨君」
満面の笑みで安堵していた播磨に声をかける。他の男に見せるような偽りの笑顔ではない。正真正銘、沢近愛理の笑顔だった。
「ああ、ほんとサンキューな。これで彼女に想いを告げられそうだぜ……」
「え?」
愛理と八雲、二人が同時に声を上げた。彼の言葉は一瞬で愛理から笑みを奪い去っていた。
いま何を言ったのか理解できないという顔付きで、二人は播磨を見る。
「ん、どうした?」
当の本人は自分が口を滑らせたことに気づいていなかった。
愛理が愕然とした表情はそのままに、つぶやくように言った。
「想いを告げるって、なに……?」
次の瞬間、彼の固まる音がたしかに愛理に聞こえた。八雲にも。
唐突に播磨の動きが止まり、その表情はひきつっていた。
そして束の間の沈黙ののち――
「さって、続きだ。諸君」
「待ちなさい」
――逃れようとした播磨に、愛理がぴしゃりと言い放った。
「ねえ、ちょ、ちょっと。どういうこと……?」
「ぐ……。あー、その、なんだっけ。あ、たしか黙秘権ってのが……」
「播磨君にしては難しい言葉を出してきたことは褒めるけど、今のあなたにそんなもの存在しないわ」
愛理――なぜかものすごく機嫌が悪そうだ――に睨まれた播磨は助けを求めて八雲を見た。
しかし、彼女にしては珍しく、その話に興味があるのがその顔からうかがえた。
「わ、わーったよ言えばいいんだろ! あー、こほん。あ、あのよ……お、俺……実は、だな……」
播磨は数回深呼吸して、意を決したかのように言った。
「 天 満 ち ゃ ん の こ と が 好 き な ん だ っ !! 」
「そうみたいね……」
「……はい」
「…………あれぇ?」
驚愕の事実を告げたはずの播磨は、何が起こったのかわからないという風にきょとんと首をかしげた。
――馬鹿な、ありえん、なぜだ、天満ちゃんかわいいな。
あまりの不可解な二人の反応――播磨にとっては――に脳の処理が追いつかず、考えが全くまとまらない。
頭の中がぐちゃぐちゃになるのにあまり時間はいらなかった。
やがて混乱に混乱を重ねた挙句に出てきた言葉は、あまりにも単純なものだった。
「何で知ってるんだ?」
播磨の馬鹿さ加減に思わず脱力する愛理。
「あ、あなたねぇ……。播磨君の漫画見ればそんなこと簡単にわかるわよ!」
「はい……」
八雲もこくりと頷く。
「え、あ、そ、ソウデスカ……」
しかし、口ではそう言っても彼はそんな答えじゃ納得しない。なぜなら鈍感だから。
――おいおいおい! この前は勢いで妹さんに言っちまったが、やっぱり二人ともエスパーなんじゃねえか!?
などと考えている始末だ。片方、微妙に当たっていたりするのはまぐれである。彼だからこそ成しえる業と言っていい。
頭を抱え、悶える。
どうにも腑に落ちない播磨は、さらに混乱の渦へと飲み込まれていくのだった。
「……それで?」
「あん?」
愛理の一声で一気に渦から引き上げられた。普通の声ならそうはならなかったかもしれないが、妙に怒気を含んだ声だったのだ。
だが、彼女の言葉の奥。そこに怒りと同時に不安が潜んでいたことを、播磨は知らない……。
「それで、想いを告げるってどういうことなのよ。まさか――」
「あ、ああ。もう隠してても仕方ねーから言うけどな。この漫画を描き終えたら天満ちゃんに告白するって、前から決めててよ」
彼の返答は、愛理にとって予想していた答えだ。
それでも返ってくるのを否定していた答えだ。
頭をハンマーで殴りつけられたかのように、くらくらする。
「うそ、でしょ……?」
「う、嘘ついてもしゃーねーべ」
そう言う播磨の顔は真っ赤だった。顔をそらしてばれないようにしているつもりだが、耳まで真っ赤なので意味はない。
彼の様子が今話した『誓い』が嘘でないことを、何よりも明確に示していた。
しかし彼はひとつ、勘違いをしている。
愛理の「うそでしょ?」という言葉を。
彼はそれを『自分がそういう誓いをしていたことが意外』もしくは『馬鹿らしい』という意味合いだと思っている。
だが、実際は――。
「そ、そうなのー。へ、へえ……そうなんだぁ……」
必死で冷静を取り繕おうとする愛理。無理やり笑顔を顔に貼り付ける。
しかし、どうあってもひきつってしまう。
その心は確実に揺れていた。大きく大きく揺れて揺れて、必死でしがみつく彼女を振り落とそうと……。
「……先輩?」
彼女の表向きの感情が、八雲には本物でないことがわかった。心の声が聞こえたわけではない。むしろ、普通はわかる。
それを心配して気づいたときには声をかけていた。
「な、なに?」
「あ……いえ……なんでも、ありません……」
彼女の不自然な笑顔を見て、八雲は何も言えなくなった。
いつも華やかなその笑顔は今、影を帯びていた。いや、八雲の知っている笑顔を光とすれば、今のそれは影そのものだとも思えた。
表面的には笑顔のように見えるかもしれないが、何か違う。
今、自分が何かを言えば先輩をもっと追い詰めることになると、八雲は感じ取った。
愛理は笑顔のまま「そう」と八雲につぶやくと、播磨に向かって言った。
「それで……ヒゲはほんとに、これができたら告白するの?」
「あ、ああ。まあ、そういうことなんだよな。ははは……」
照れ隠しに頭をかきながら、播磨は言う。ヒゲと呼ばれたことにすら気づいていないのか、反論しない。
彼という男はとことん鈍い。その鈍感さは、もはや神の域に達しようとしている。
播磨拳児は気づかない。沢近愛理の真実に。
ゆえに緩んだ顔で照れ続ける。愛理にとってそれが、拷問に近いことを知らないから。
彼の表情は不安を孕んでいたが、嬉しそうであることは誰にでも読み取れてしまう。
それは愛理も例外ではない。だから彼女は思う。
こういうときだけ彼みたく鈍ければ良いのに、と……。
「そっか……」
愛理はつぶやく。無理にでも納得するしかないのだと、言い聞かせて。
しかし播磨はその短い反応を、逆に馬鹿にされているものだと捉えた。
「ん、んだよ! けっ、笑いたければ笑え!」
「あははは」
「笑うなぁあああああああああああああ!」
愛理は唇に手を当て、上品に笑う。
播磨もその瞬間こそ憤慨したものの、いつのまにか一緒になって楽しそうに笑っていた。
八雲もだけは何かを思いながら、ただ黙ってその様子を見守っていた。
しかし、二人は気づかない。愛理のそれが播磨の誓いに対してではないことを。
それは自分が滑稽だったから。
滑稽すぎて、笑うしか――笑ってごまかすしかなかっただけ。
そうでもしなければ、彼女の目からは涙が零れ落ちていただろう。
一度零れ落ちてしまったら、いつ止まるってくれるのかわからない。
だから笑う。
泣き顔なんて、見せたくないから。
「あ、あの……播磨さん……」
八雲の声に二人は振り向いた。
「ん? なんだい、妹さん」
「つ、続き……やりませんか……?」
彼女の言葉に愛理の思考は凍りついた。ただでさえ無理のある笑みはもう保てなくなっていた。
今、この子はなんて言ったのだろう。
信じられない。
続ける?
なんで?
彼が離れていってしまうかもしれないのに?
奪われてしまうかもしれないのに?
「おう。そーだな! おい、お嬢。やるぞ」
「え……あ、うん」
それでも、播磨の決意に満ちた目に抗う術を彼女は持っていなかった……。
「あの……先輩。そこ、違います……」
「え……?」
これで何度目だろうか。
再開した途端に、ようやく慣れてきてミスも減ったはずだった愛理がまたやらかし始めた。
「うそ、また? ……あ。ご、ごめんなさい……」
申し訳なさそうに愛理はつぶやく。わざとやったわけではない。どうにも集中できないのだ。
「いってことよ、そんぐらい。直すのはお嬢だし」
「わ、わかってるわよ。直す、直します、直せばいいんでしょ!」
逆ギレもいいところだが、播磨と八雲もその辺を照れ隠しとわかってきていたので、それ以上何も言わずに作業を続ける。
その後も愛理は何度も失敗してしまい、その度に「ごめんさない」「気にすんな」の応酬が繰り広げられた。
「少し休憩すっかな」
播磨は軽く伸びをして、ガラスのコップに入れられた麦茶を飲み始めた。
少し前に八雲が用意したものだ。入れておいた氷は溶けかけている。
もちろん原稿が濡れるといけないので、コップはお盆に載せて床においてあり、扱いには細心の注意を払っている。
播磨は喉を鳴らし、コップを少しずつ傾けていく。
やがて全てを飲み干し、ぷはぁという息とともにお盆にコップを置いた。
ふと天井を見上げる。
特に何もない天井。しかし、だからこそ播磨にしか見えない天満の笑顔が、天井に映し出される。
――やっと、か。随分とかかっちまったなあ。
手を伸ばせば届くところまでついに来た。自然と、笑みがこぼれていた。
「あー、もう少しで完成かー。いや、まじサンキューな二人とも!」
視線を二人のアシスタント――片方は現在不調――に戻し播磨は言った。
紛れもない感謝の言葉。しかし、それ以上の意味はない。
「いえ……播磨さんが……頑張ったからです」
播磨の感謝の意に反応したのは八雲だけだった。愛理は何も言わず、表情も変えず、一人作業を続けている。
「お嬢。少しは休憩していんだぜ? さっきから一度も休んでねーだろ」
「うるさいわね。平気よ」
そう言った瞬間、空腹を訴える音が部屋に鳴り響いた。
同時に、二人。播磨と愛理のものだった。
愛理は頬を染めながら、何事もなかったかのように仕事を続ける。
「おっと、もうこんな時間か」
その様子を見て播磨は聞こえないように笑い、部屋の時計を見て言った。
「んじゃ、俺なんか買って来るぜ」
「あ、播磨さん……何か……作りましょうか?」
八雲が余計なお世話だろうかと、少し不安げに聞いた。播磨は少し考えたあと笑顔で頷いた。
「ああ、頼む。わりいな、妹さん。昨日といい今日といい」
「昨日?」
播磨の問題発言――彼女にとって――に敏感に反応し、愛理は勢いよく顔を上げた。
「あ、言ってなかったか? 昨日は妹さんに泊まってもらったんだ。だからここまで進んで――」
「そんなの聞いてないわよ!」
バンッとテーブルを思い切り叩き、愛理は立ち上がった。
「……」
「…………」
「………………」
三人同時に、時間が止まったかのような錯覚に陥ってしまった。
しかし次の瞬間、愛理は自分の行動のおかしさに――それはまあ不運なことに――気づいた。
火事になった。出火もとは愛理の顔。
幸い原稿に被害はない。燃え移るはずもないのだから当然だが。
しばらく沈黙が部屋を支配した。
時計の針が時を刻む音が妙に大きく聞こえる。
愛理はこほんと軽く咳をした。
そして、ゆっくりと再び座り――この間播磨と八雲はまだ呆然としていた――また何事もなかったかのように作業を開始した。
愛理の作業の音が少しずつ部屋を覆っていた沈黙を侵食していった。
「……じゃあ妹さん。頼むな。台所は適当につかっちまっていいから」
「え……あ、はい」
二人も今のはなかったことにして話を進め始めた。
播磨においては、目の前で起きた出来事があまりにも理解不能だったために記憶から抹消することにした次第だ。
「ま、どっちにしても近くのコンビニで何か買ってくっから。わりいけど留守番頼むぜ」
播磨は軽く手を挙げると部屋から出て行った。
ちなみに絃子は今日も家なき子。
「それじゃあ……私はご飯をつくってきます……。先輩は――」
「もう少し続けるわ」
「あ……わ、わかりました」
愛理の即答に多少たじろぎながらも八雲は小さくおじぎし、彼女に背を向けると、部屋を出て行こうとした。
「八雲」
突然背後から聞こえた自分を呼び止める声に、反射的に振り返る。
「料理、期待してるから。よろしくね」
「……はい」
八雲は嬉しそうに頷き――愛理はその小さく珍しい彼女の笑顔を見ていなかったが――今度こそ部屋を出る。
そうして播磨の部屋には、沢近愛理だけが残された。
数分後、愛理は人知れず小さなため息をついた。
「さすがに疲れたわね……」
時計を見ると18時だということがわかった。かれこれ5時間近く、ずっとやっていたというわけだ。
今日もテストだったため、学校は早く終わったのである。
「想いを告げるため、か……」
彼が漫画を描いていた理由にそんな誓いがあろうとは、愛理は予想だにしなかった。
ただの自己満足、現実逃避だけだと思っていた。そうであってくれればいいとも思ってしまっていた。
だが、それは勘違い。彼は真剣に漫画に取り組んでいたのだ。
他の誰のためにでもなく――天満のために。
結局は彼自身のためになるが、彼の想いが天満の方向にだけ向いている事実が、否応なしに愛理をみじめに思わせる。
「なんで、天満なのよ……」
たしかに彼女はいい子だ、彼女は心の中でつぶやく。
陽気、無邪気、天真爛漫。どれもこれも彼女のためにあるのではないかと思う。
それらは決して悪い意味でなく、正真正銘の褒め言葉。
少なくとも愛理はそれを羨ましく思ったことがある。あの明るさをまぶしく感じたこともある。
だが、愛理は自分は自分なのだと知っていた。
彼女は自分の性格を恥じるつもりはないし、色々な出会いを経てできた『自分』を捨てようとは思わない。彼女はそういう人間だ。
自分の全てが好きなわけではないが、愛理は自分に自信があった。
――――だからこそ、他人になりたいと思ったのはこれが初めてだった。
「ストップ。落ち着きなさい」
目を閉じ、自分に言い聞かせる。
とりあえず、落ち着いて考えよう。それにだいたい、彼が想いを告げたからって上手くいくわけないじゃない。
まァ彼が他の人に告白するのは少し、ショックだけど……。
それでも彼はふられるじゃない。絶対に。
だって天満は烏丸君が好きなんだし、烏丸君一筋なんだから。
播磨君が告白をする。ふられる。ほら、簡単。
そのあと私がじっくり彼を振り向かせればいいだけ。
彼を好きになる物好きなんてほとんどいないだろうし、天満への告白が上手くいかなければ十分チャンスがある。
そう、上手くいかなければ……。
でも――。
だけど――。
――もし上手くいったら?
上手くいく可能性はゼロじゃない。限りなくゼロに近いだけでゼロじゃない。
もしかしたら上手くいくかもしれない。奇跡が起きて上手くいくかもしれない。
愛理の気持ちが沈んでいく。
万が一だろうと兆が一だろうと、可能性が少しでもあるなら、彼女の心を不安が押しつぶすのにはそれで事足りてしまう。
彼女にもわからない。なんでこんなに不安になってしまうのか。どうして播磨拳児にここまで苦しめられなければならないのか。
「ほんと、なんでなのかしらね……」
自嘲気味に微笑み、彼女は床に置かれているコップを手に取る。氷は全て溶けていた。
麦茶を少しだけ口に含み、彼女は喉を潤した。
「ふう……」
愛理はふと、コップを顔の前まで持ち上げてみた。本当に意味はなかった。なんとなくそうしてみただけだ。
だがそのとき、見えてしまった。
原稿が――麦茶越しに見えてしまった。
麦茶を通して見る播磨の部屋は当然、薄い茶色に染まっている。
原稿も茶色に見える。しかし、それはどうでもいい。
別に茶色に見えることが問題なのではない。
問題は、水と原稿がある考えにつながってしまったこと。
「あ……」
……いけない。
これはいけない。
彼女の思考が少しずつ麻痺していく。しびれていく。自分でもわかっているのに、防げない。
それとも防ごうとすらしていないのか。
思いついてしまった。
絶対に考えてはならないことを、考えてしまった。必死で考えまいとしていたのに、考えてしまった。
そうだ。彼は言った。
『この漫画を描き終えたら天満に告白する』のだと。
それなら。
――原稿が今度こそダメになってしまえば告白できないんじゃないか。
たとえば今、コップを持っているこの手を滑らせてしまえば。
たとえば今、うっかりテーブルにコップを置いてしまい、うっかりそれを倒してしまえば。
そしたら彼は、告白しない。
とても簡単な話だ。そう、とても……。
そこまで考えて、愛理は首を振る、黒い考えを振り払うかのように。鮮やかな金色のツインテールが揺れた。
「ばかね……何、考えてるのよ」
つぶやいて彼女は原稿から目をそらした。
もう考えまい。
だいたい、そんなことしたら播磨君が悲しむ。彼に嫌われてしまう。
それだけはイヤだ。絶対に。
……だけど。
だけど播磨君は気にするなと言って許してくれるだろう。結局いつもそうなんだ。
なんだかんだ言って彼は、すごく優しい人だから。
ごくりと、喉が鳴った。
心音が体の内に響く。音はどんどん大きくなり、どんどん早くなる。
体も意思とは無関係に少し震えていた。手が、震える。コップを持っている手が小さく震える……。
これなら落としてしまっても仕方がないんじゃないか。ふと愛理は思う。
そうだ、わざとじゃない。やろうとしてやったんじゃ……。
コップを持った手が体と共に、少しずつテーブルの上、原稿の上に伸びていく。
あとはこの手が滑ってしまえば、彼はまだ――。
がちゃ。
「きゃっ……!」
突然開いたドアに驚き、体が跳ねた。その振動は腕にも伝わり、コップが――。
そのとき『瞬間』という時間は引き延ばされ、あたかもスローモーションのように世界が流れ始めた。
緩やかに流れるその世界で愛理の脳裏に浮かんだのは、馬鹿みたく必死で、真剣に漫画に取り組む播磨拳児の姿だった。
ゆっくりとコップが動く。
――ダメッ!
彼女は必死で揺れを抑えようと努める。そのおかげで全てをぶちまけることにはならなかった。
しかし、不運にも愛理の麦茶はまだほとんど減っていなかった。
伝わった振動によって麦茶はコップの中で弧を描き、小さく波打ち、そしてコップから飛び出そうとする。
それを愛理は――止めることができなかった。
ほんの少しだけ、麦茶がコップのふちからはみ出してしまった。
あとは簡単だ。液体は重力に身を任せ原稿の上に落下し、吸収されればいい。それだけだ。
それに愛理の必死の抵抗のおかげでこぼれた麦茶は少しだけ。こぼれたとしても被害は少ない。
また播磨は「気にすんな」と言ってくれるだろう。
今日、愛理が原稿を踏んでしまっての被害に比べれば、ないも同然なのかもしれない。
しかし、それすら――。
――愛理は許そうとしなかった。
……肌に残る冷たい感触。
こぼれ落ちた液体は原稿を襲うことはせず、とっさに出された愛理の丸められた手のひらに収まっていた。
彼女は急いで、コップをお盆の上に戻し、服で手を拭いた。ハンカチを取り出してる暇なんてない。
食い入るようにテーブルの上の原稿に目を走らせる。
……どれひとつ濡れていない。
「よかったぁ……」
思わず安堵の息をつく。
「……せ、先輩?」
愛理が振り返ると、ドアノブをつかんだまま硬直してしまった八雲の姿がそこにあった……。