「播磨……さん?」
「――――妹さんっ!?」
病院のパジャマに身を包み、ベッドの上に座ってサラと放す塚本八雲の姿に、彼は目を何度も瞬
かせる。
そしてサングラスを取って、目をこすった後、もう一度まじまじと、播磨は八雲の姿を見つめた。
ベッド脇の椅子に座っていたサラが、交互に二人を見つめた後、静かに立ち上がり外へ出る。
「あ、あの……何ですか?」
パタン、とサラが扉を閉めた音がすると同時に、彼の視線に頬を染めた八雲が問いかけるが、そ
れには答えず、播磨は近づいて彼女の頭を撫でる。
「は……播磨さん?」
触れられた驚きと、その手の大きさに、八雲の胸の奥が跳ねる。
播磨は、しかしそんなことには気付かず、呆然と彼女を見て、言った。
「ええと……妹さん?」
「……はい……何ですか……?」
頭の上に置かれたままの手に鼓動を高鳴らせつつ、八雲は上目遣いに彼を見つめる。
「事故に遭ったって聞いたんだが……?」
「事故……?」
キョトン、と頭に手を乗せられたまま首をかしげた少女は、おずおずと、
「え……ええ……でも……自転車とぶつかっただけです……」
「自転……車?」
目を丸くする播磨に、頬を桜色に染めたまま、八雲は続けた。
「は、はい……でもあの……一緒にいたサラが……その、大げさに騒いで……で……救急車を呼ん
で……病院に来たん……です……」
彼に触れられているせいか、八雲はいつも以上にしどろもどろになって説明する。播磨はといえ
ば、自分が何をしているのかにも気付いていないように放心しきっていた。
「――――じゃあ……何ともないのかい?」
「え、ええ……はい……何とも……」
それから三分ほども、頭を撫で続けられただろうか。彼が何故か、呆然としているらしいことは
八雲にもわかったが、彼女自身、頭が真っ白になってしまっていて冷静になれるはずもなく、ただ
体を硬くして、されるがままになっていた。
「そっか――――良かったぁ……」
ハァ、と大きく息を吐いて播磨は、その場に座り込む。
撫でられていた手が離れたことを残念に思いながら、八雲はずっと感じていた疑問を口にする。
「あの……播磨さんは……どうしてここへ……?」
「ん?……ああ、塚本に聞いて、よ……お姉さん、心配してたみたいだぜ。早く安心させてやんな」
「姉さんが……ですか?」
不思議そうに、八雲はパチクリと目を瞬かせる。
「姉さんなら、私の事故が大したことないことぐらい、知ってるはずなんですけど……」
「――――何!?けど、俺、塚本の電話に呼び出されて……」
そこまで言った時、八雲の視線が彼から外れ、その向こうの扉の方を見た。
感じる気配に、振り返る播磨。そこにいたのは、
「ふっふーん、驚いた?播磨君」
塚本天満だった。
「……塚本?」
戸惑いの視線を向ける彼に、天満は軽く胸を張り、不敵な笑みを浮かべながら、腕を組んで近づ
いていく。八雲もまた、彼と同じように戸惑いながら、二人の様子を見ていた。
「ええと……どういうことなんだ……?」
「播磨君が悪いんだからね?」
首をかしげながら尋ねる播磨に向けて、天満が放った答えは、しかしより一層に彼を困惑させた。
「――――俺が?」
「そう、播磨君が悪いの――――八雲をどう思ってるか、はっきりさせないから」
「む……」
面と向かって放たれた批判に、さすがに播磨の顔が、サングラス越しにもわかるほどに歪んだ。
八雲はと言えば、唐突な姉の発言に驚きながらも、頬を染めてうつむいている。
「そ……それとこれと、どう関係があるってんだよ?」
確かに。同じ事を考えていた八雲も、その視線をわずかに上げて姉の顔を盗み見る。
播磨がはっきりしないことと、嘘をついたこと。この二つが、彼女の頭の中では、どうしても結
びつかない。おそらく、播磨もまた、そうだろう。
もっとも――――
八雲は一人、胸の中で呟く。
姉さんには、結びつけることが出来るのだろうけれど、と。姉の頭が時折、突拍子もないことを
思いつくのをよく知っているだけに、八雲はじっと、姉の説明を待つ。
「関係あるわよ。だって私は、八雲のお姉ちゃんだもの」
姉さん、また脈絡が……口にしかけて、八雲は言葉を飲み込んだ。天満が何を言いたいのかわか
らないが、とにかく全部、話を聞こう。そう思ったからだ。
そして播磨は、彼女の言葉の展開についていけず、サングラスの下で目を白黒させている。
「簡単に言えば、試させてもらったの」
播磨の脇をすり抜けた天満は、八雲と彼の間に立ち、そして振り返った。
「……試した?」
「そう。播磨君が、一体、どれだけ八雲のこと、大事に思ってくれてるのかを、ね」
「姉さん……!?」
播磨の呟きに返された天満の答えに、八雲が非難交じりの声を上げる。
そして、悟った。彼女が一体、何を企んでいたのかを。
「そうすると……俺に電話をかけてきた時は……?」
「もちろん、八雲が無事だってこと、わかってたよ」
何故か胸を張って答える天満に、彼は呆然としていた。
「播磨君が本当に八雲のこと大事に思ってくれてるなら、すぐにでも飛んできてくれるだろうって
思ったの。これで、電話でお大事に、なんてすませるようだったら、私、絶対、播磨君と八雲のお
付き合いを認めなかったから」
「姉さん……」
困惑する八雲に、彼女の姉は笑顔で親指を立てた。
「でも播磨君、すごく急いで駆け付けてくれたし。こんなに八雲のこと大事に思ってくれてる人な
ら、お姉ちゃんも安心して任せられるな」
背の高い彼の肩を叩こうとしてはたせず、天満はその腕をポンポンと叩きながら、続けて言った。
「播磨君、これからも八雲を、よろしく頼むね」
「姉さん――――!」
「つまり何か?」
何を――――と、天満を咎めようと発した八雲の声が、播磨によって遮られる。
感情を殺した彼の口調に、八雲の背筋は逆立つ。天満は、しかし、それに気付いていない。
「それだけのために、妹さんが事故に遭って危ない――――そんな風に、俺に教えたのか?」
「……そうだよ……でもほんとは無事だってわかってたけど」
「播磨さん!!」
姉の声を遮って、八雲の叫びが飛んだ時には、もう、遅かった。
パンッ
乾いた音が、狭い病室の中に響いた。
「あ……」
己の為したことに自ら驚きながら、彼は目の前の少女――――天満を見つめる。
彼女は播磨の平手によって張られた頬に手をやって、呆然と彼を見上げていた。
「す……すまねぇ……」
視線をそむけた先には、驚愕に目を丸くした八雲の顔があり、もう一度彼は、そっぽを向く。
凍りついたような沈黙が部屋に落ち、三人は言葉を失ったまま、身じろぎ一つしなかった。
八雲には特に大きな外傷などもなかったのだが、念のためということで検査を受けることになっ
ていた。そのための診察に訪れた医師が現れたことで、彼らの間で止まっていた時が動き出す。
先に、逃げるように部屋を出て行った天満を呼び止めようとして、果たせず、播磨は肩を落とし
て部屋を出ようとする。
だが視線を感じて、振り返った瞬間。
八雲が複雑そうな表情を見せていた。すぐに彼女は顔を背けたので、はっきりと見ることは出来
なかったが、何かを訴えかけようとしていたその目が、何故か彼の心を揺さぶって。
「妹さん……外で、待ってるな」
気が付くと、播磨はそんな言葉を口にしていた。
八雲が、頬を染めたまま、頷いて視線を上げた時には、彼の背中は閉まりゆく扉の向こうに隠れ
ていこうとしていた。
言ってしまった以上、勝手に帰るわけにもいかなくなり、播磨は一人、病室を出てすぐの長椅子
に腰を下ろす。
ぼう、と天井を見ながら、鼻を襲う薬の匂いに、中学生の頃、喧嘩で警察に捕まった後、無理矢
理に病院に送られて治療を受けさせられたことを思い出す。
考えてみりゃ、俺も変わったよな。
ふと浮かんできた想いに、まるでオッサンみたいだな、と播磨は一人、苦笑いをする。
そして、広げた右の手を見つめた。
彼女の頬を張った手は、まだ熱をもったままだ。見つめたまま、ぎゅっと拳を握る。
荒れていた中学生の頃に出会い、彼の人生を変えた少女、塚本天満。
その彼女を、俺は平手で打った。
胸に流れ込んでくるのは、痛み。
心の、痛み。
「よう、播磨」
唐突にかけられた声に顔を上げると、そこには二人の少女がいた。
その瞬間の彼は、よほど凶悪な表情をしていたのだろうか、うちの一人――――天満はビクッ、
と体を強張らせた。もう一人も眉を軽く跳ね上げたが、すぐに笑顔に戻り、
「おいおい、何そんな怖い顔、してんだよ」
まさか私を忘れたってんじゃねぇだろうな。言いながら、美琴は声を抑えながらも、明るく笑う。
「あ……す、すまねぇ」
美琴に、というよりは天満に向かって謝るが、彼女は目をそらしたまま、病室に駆け込んでいく。
その、彼が張った左の頬はまだ赤く、また播磨の胸は締め付けられた。
「播磨。隣、いいか?」
病院のパジャマを着た彼女に言われて、彼はわずかに横に動き、美琴が座れるスペースを作り出
した。
よっこいしょ、と声を出して腰を下ろす美琴。
「――――赤ちゃん?周防の子か?」
隣に座られて始めて、播磨は彼女が抱いている赤ん坊の存在に気が付いた。真白の産着にくるま
った彼の手はとても小さく、寝顔はどこまでも無邪気だ。
顔を覗きこむが、よほど気持ち良く眠っているのか、全く目を覚まさない。
「ああ、そうだよ。それとな、今の私は周防じゃなくて、花井美琴なんだぜ?」
お前にも結婚式の招待状、送ったろうが。呆れたようにそう言われるが、全く覚えがない。その
頃の彼は、絃子の家を出る準備などで忙しく、そのどさくさに紛れてしまったのだろう。
仕方なく彼は、
「そっか。いや、悪かった」
と素直に頭を下げる。そして赤ん坊を見つめて、
「男の子なのか?――――似てねぇな、あいつには」
問いかけに頷かれた後、漏らした感想に美琴は苦笑する。
「よく言われるよ。ま、確かに男の子ってのは、母親に似るって言うしな。それにまだ赤ん坊だし」
「どっちに似ても、気の強い子供になりそうだけどな」
「言ってくれるじゃねえか、こいつ」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑う美琴と、彼女に抱かれて平穏を謳歌する赤ん坊の姿に、播磨は心
の緊張がほどけていくのを感じた。
そして彼も、彼女につられて笑った。
「播磨」
「ん?」
「天満から聞いたよ」
それから、しばらく。当たり障りのない雑談をしていた二人だったが、話題が途切れて何となく
黙った後、美琴は急に切り出した。
「…………」
播磨の顔は、一瞬に引き締まる。発する言葉を彼は持ち合わせておらず、ただ口を閉ざした。
「あのよ――――天満のこと、あんまり、責めてやらねえでくれよな」
チラリ。サングラスに隠した瞳を、彼は美琴に向ける。そしてどこかすがるような彼女の視線と
ぶつかった。
「悪気が、あったわけじゃねえんだ。お前を騙したかったわけでもなくて、ただ、妹のこと、大切
に思ってるからなんだよ。そこんとこは」
「ああ……わかってる」
背もたれに、彼は倒れこんで天井を見上げた。淡い白が広がるそこに、播磨は自分の気持ちを描
き出そうとする。
「騙されて怒ってたわけじゃねえさ。ただ……その、いくら嘘とは言え、妹さんが危ない、って言
うのは、よくないだろって思ってよ」
ゆっくりと彼は、言葉を区切りながら、自分の思いを言の葉に紡ぐ。
あの瞬間。
播磨は、我を忘れていた。
自分を試したことに、ではない。たとえ嘘でも、自分の大切な妹が怪我で危ない、と言った彼女
が許せなかったのだ。
あるいは――――虚脱感からか。
八雲の存在が消えてしまうかもしれない。そう聞かされてから、無事を知るまでの間に、どれだ
け心を消耗したか。その反動だったのかもしれない。
とにかく、深くは考えられなかった。
ただ、目の前の少女が、許せなかった。義憤か、私怨か。その両方か。
八雲の声が飛ばなければ、彼は力の限り、天満を張り飛ばしていただろう。
自分が狂おしいほどに愛し、その全てを受け入れられるとまで思った少女を。
その事実によって、気付かせされた幾つかの真実に、播磨はただ当惑していた。
俺は――――どうなっちまったんだ?
我と我が心の動きに追いつけず、翻弄される意識。
再び省みる己の道から、彼は何かを読み取ろうとするが、霧がかかったかのように、ただ茫洋と
した白が広がっているばかりだった。
結局、と彼は言葉に出さず呟く。出たとこ勝負、ってことしかねえな。
自分の制しきれない衝動を抑えるのではなく、流されてみることで、自分の本心を探ろう。
そう決めて、彼は一人、大きく頷いた。
決めたとたんに、軽くなった心。そして気付く事実。
「まあ考えてみりゃ、本当に妹さんが危なかったら、塚本があんなに冷静でいるわきゃないんだ」
苦笑しながら、播磨は言う。
そう。もっと早く、気付いて然るべきだったのだ。
本当に八雲が危うかったなら、彼女は絶対に、播磨に連絡を取ろうだなどと思いつくはずもなく、
ずっと妹の側にいるだろうから。
「確かに、最初にサラちゃんから、妹が怪我したって聞いたときの塚本の顔ったらなかったしな。
本当にあの子を大事にしてるんだって、思い知らされたよ」
いい子だよ、本当に。そう言う美琴に、彼も大きく頷いた。
「ああ、本当にいい子だ」
同じ頃。
「ごめん……八雲」
病室の中では、診察を終えた八雲に、天満が座ったまま深々と頭を下げていた。
「姉さん……」
どう対応して良いのかわからず、八雲はただ困ったように彼女を見ることしかできない。
「こんなんじゃ、お姉ちゃん失格だね」
顔を上げた彼女の眦には、うっすらと涙が光る。それだけで姉が、本当に心の底から悔やんでい
ることがわかり、八雲は安心させるように笑って、言った。
「いいの……姉さんが私の事を思ってくれてたのは、よくわかったから……」
「八雲……」
目をうるませて、ベッドに上半身を起こした八雲の体に、天満は抱きついて泣き始めた。
彼女の、高校生のときよりも長くなった髪を撫でながら八雲は、そのぬくもりを体中で心地よく
受け止める。
泣きじゃくる彼女の声を耳元で聞きながら、八雲は思いを馳せる。
播磨さん――――私のために――――