『Be glad』
『今日も泊まるのでしょうか? とりあえず喫茶店で待ってます』
播磨拳児がそのメールを受け取ったのは、ほんの数分前のことだった。現在彼は、原稿片手に喫茶店に向かっている。
原稿は家に置いてきても良かったのだが、喫茶店で軽く打ち合わせをしようと思って持ってきていた。
播磨の描くラブストーリーの完成は近い。
そう、完成が近いのだ。
播磨は原稿を持っていない方の拳を握り締めた。
「待っててくれ天満ちゃん! もう少しで俺は君に――」
――想いを告げられる。
それもこれも全て妹様、つまりは八雲のおかげだと、播磨は天を仰ぎ見た。
播磨の目にはお釈迦様のような格好の八雲が、空から地上を見下ろしているのが映っていた。
いや、まったく天満ちゃんは妹教育も完璧だ。ほんとにいい妹さんだぜ。そしてほんとにいいお姉さんだぜ、天満ちゃん!
気づけば彼は走り出していた。サングラスの男が――サングラスをかけていても顔が緩みきっているのはわかる――
半ばスキップをしていて、鼻歌すら歌っていたが、それを笑える勇気を持つ人間はいない。
まあ、どんなにうかれていても播磨拳児は播磨拳児であるということだ。
道行く人はただ目を合わさないように、それでもちらりと盗み見ているだけだった。
今日のテストもきっと散々な結果なのだろうが、そんなことは彼にとってはどうでもいいことだった。
とにかくもう少しで、完成する。
彼は完全にうかれていた。
そのときだ。聞き覚えのある――何故かいつも彼にあたってくる――声が播磨の耳に入った。
「放してよ!」
突き放すかのような冷たい声。
ふと播磨は足を止め、声の発生源を探した。
そして、それはすぐに見つかった。
少し遠く、ちょっとした広場でクラスメイトの一人が男に腕をつかまれていた。
「何やってんだ、あいつ……」
思ったとおり、声を発していたのは彼がいつも一種の皮肉をこめて『お嬢』と呼んでるクラスメイト、沢近愛里だった。
声は怒声に近かったので、他の通行人が気づいていないはずはない。
しかし、わざわざ面倒事に首を突っ込みたい奴はいないらしい。
まるで他人事のように――実際他人事なのだが――気づかないふりをして通り過ぎていく。
愛里の腕をつかんでいる男はいい感じに激昂しており、目元がひくひくと動いていた。
「おいおい、愛里ちゃん。あんま俺をなめないほうがいいぜ?」
「あら、そう。でも、なめてるんじゃなくて相手にしてないだけよ。
それに何? 少しお茶を一緒しただけでその気になってたの? ばっかじゃないの?」
愛里はわかっていた。今自分の言っている言葉は確実に目の前の――名前は忘れた――男を完全に怒らせることを。
わかっているのに口は止まらなかった。
いつもなら、しっかりそのへんを見極めて上手く付き合っていたのに、最近はそれができない。
いや、できないわけではない。しようとしていないのだ。
何か、どうでもよかった。
「て、てめえ!」
男はあいている方の腕を振り上げた。一秒もしないうちにその腕は彼女に襲い掛かるだろう。
――ほら、怒った。わかってたじゃないの。ほんとバカね、愛里。
彼女は自分自身を嘲り、来たる衝撃に備えた。目をつぶり、奥歯をかみ締める。
……しかし、拳はこなかった。
「おいおい。何してんだよ、てめえは」
突然の声に愛里は目を開ける。
声には聞き覚えがあった。そして思った通り、何故かものすごく気に食わないクラスメイト、播磨拳児のものだった。
播磨は男の背後に立っており、振り上げられた腕を制止していた。
「ヒゲ……?」
「――はもう生やしてねえな」
明らかに修羅場なのに関わらず、何でもないように答える播磨。
そのなんでもない声に愛里は安堵を覚えた。
そして気づいた。
自分がこうなることを望んでいたことを。
心の奥底で播磨拳児が助けてくれることを望んでいたことに、気づいた。
もちろん彼女は播磨が近くにいたことを知らなかった。客観的に考えて、この現状は有り得ない。
だから目の前の光景は偶然だ。極端に言ってしまえば、奇跡だった。
それでも彼女は求めていた。
妄想――そう言ってしまえばそれまでだが、愛里にとっては憧れに近いものだった。
その時の彼女の心境は非常に複雑だったが、一言でまとめてしまえば――
――嬉しかった。
しかし、彼女は素直ではない。
「は、播磨君。何してんのよ!」
気づけば、彼を非難している。言ってすぐに後悔するが、彼女は頑固だ。一度言ったことを引っ込めることができない。
「んだよ、せっかく助けてやったのに」
播磨がつかんでいた男の手をぱっと放し、呆れた風に言った。
「そ、そんなこと誰が頼んだっていうのよ!」
頼んではいない。
しかし、求めてはいた。
もちろん彼はそんなこと気づいてないだろう。気づいてくれないだろう。
それでもそれが恥ずかしくて、愛里は顔が赤くなっていくのを感じた。
「ったく相変わらずだな……」
播磨が助けなければ良かったかと少し後悔したそのときだ。
男が愛里を掴んでいた手を離し、振り向き様に播磨の横っ面に拳を放った。
播磨が男の腕を放したのは余裕の表れだった。相手がどんな行動を起こそうとも対処できる自身があった。
しかし、いつもなら軽々と避けられたのだろうが、彼は愛里との会話に気を取られていた。
沢近愛里に播磨拳児はいつも調子を狂わされる。
そして、今の播磨は完全に男の存在を忘れ去っていた。
男にとってそれが幸運だったのか悲運なのかは定かではないが、播磨は反応は確実に遅れてしまった。
男の拳は直撃し、播磨は吹き飛ばされた。
サングラスが外れ地面に落ち、封筒から原稿が飛び出した。数枚が地面にばらまかれた。
「播磨君!?」
思わず地面のしりもちをついた播磨に、慌てて愛里が駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫!?」
播磨は無言だった。
しかし、ゆらりと立ち上がる。
ゆっくりと顔を上げ、目の前の男を睨みつけた。
男の息は荒い。
「はぁはぁはぁ……!」
彼はいまだ怒り狂っており、いつ追撃が来てもおかしくなかった。
――そう、ついさっきまでは。
「やるんだな?」
播磨がぼそりと言った。
「あ……ひ……」
男が後ずさった。
無理もない。
気迫だとかいうレベルではない。すでに殺気だった。
しかし、愛里は気づいていた。彼が本気ではないことに。
これは威嚇だ。そして彼は男がこれに屈することを知っている。
もう一度、しかし今度ははっきりと、播磨は言った。
「おい、聞いてんのか? やるんだな?」
「う、あ……」
男は駆け出した、捨て台詞も吐かずに。
つまり、逃げた。
「ったく」
播磨は頭をかきむしると、愛里のほうに振り向こうとした。
そのときの愛理の行動は、彼女自身でも理解し難かった。
何故か逃げようとしたのだ。
だが怖かったわけではない、決して。
強いて言えば恥ずかしかった。
そんなよくわからない衝動に突き動かされ、愛理はあとずさった。
グシャ。
「きゃ……!」
足に感じた予想外の感触に驚き、愛理はさらにもう一歩後ろに下がった。
ぐしゃ。
まただった。
ちょうど、播磨が彼女の方に振り向くところだった。
再びの感触にまた驚き、また下がる。
バキッ!
……さっきの感触よりも硬く、そして何かが砕けるような音。
それでようやく愛理は我に返った。
おそるおそる視線を下げる。
さっき踏んだのは紙だったらしい。何か絵が書かれている。
無論、播磨渾身のラブストーリーなのだが、それを愛理は知る由もない。
彼女が確認できたのは――『彼が持っていた封筒から飛び出していた紙に、しっかりと自分の足跡がついていた』――ということまでだ。
そして砕けるような音の正体はもちろん、あれだ。
阿鼻叫喚の地獄絵図――播磨にはそう見えた――を見た彼は叫んだ。
「うあああああああっ! 俺のサングラス! ん? どうわあああああああ!! 俺の原――」
――稿がぁっ!!!!!
と叫ぼうとしたが、愛理がいることを思い出し播磨は何とか踏みとどまった。
驚愕と絶望の叫びを、ごくりと無理やり飲み込む。
そして彼女に見られる前に急いで地面に落ちている原稿をかき集め、とりあえず再び封筒に収めた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
地面に手をつき、思わずこの世の終わりのようなため息が出ていた。
今度こそ終わりだ。絶対に間に合わねえ……。
播磨はもう一度、大きなため息をついた。
まさかくっきり足跡がついた原稿を新人賞に送るわけにもいくまい。
「え、えと……播磨、くん……?」
自分が悪いことをしたことにもちろん自覚があった愛理は、気まずそうに声をかけた。
「んだよ」
播磨は少し不機嫌そうに愛理のほうを見る。
その瞬間、彼女は固まってしまった。
「あ……」
とにかく謝ろうと思っていたのだが、そんな簡単な思考すらも吹き飛ばされた。
「……なんだよ、お嬢」
「……あ! えと、その……」
彼はサングラスをしていなかった。
壊れてしまった――正確には壊した――のだから当たり前なのだが、いつもかけているそれが今はなかった。
「だから、なんだっての。どうしたんだよ、固まっちまって。お嬢らしくもねえ」
――ほんの一瞬、本当に一瞬だけ、見とれてしまった。
そんなこと死んでも口にしない。してたまるものか。
彼女はなんとか正常な意識を取り戻し、当初の目的を口にした。
「あ……その……ごめん、なさい」
意識がしっかりしても彼女は播磨の目を直視することができなかった。
もちろん罪の意識があって気まずいということもあるだろう。
だが、それだけでもない。
「……ったく。もういいって。いや、よくないが」
「……どっちよ」
「う、うっせーな! もういいって! 過ぎたことはしゃーねーだろ! だあ、しかしどうすっかな……」
播磨にとってサングラスはどうでもよかった。いや、よくはないが。
しかし実際、天満に見られさえしなければ構わなかったし、家にいくつも予備がある。しかも全く同じのが。
問題は――スタンプ付きの原稿。
運の悪いことに裏ではなく表に泥がついてしまっている。
それに少しくしゃくしゃだ。こんなもの出すのは失礼だろう。
「それ、大事なものなの? ……ほんとに、ごめんなさい!」
珍しく素直なクラスメイトに若干の驚きを播磨は感じたが、今はそれどころではない。
とりあえず喫茶店にいって妹さん――八雲のことだが――に相談してみるのがいいだろう。
「だからもういいって。ちょっと忙しくなりそうだけどよ、あんま気にするな」
「……ごめん」
「こういうときぐらい『ありがとう』とか言えねえのか、おめえは」
愛理は泣き出しそうだった。
だけど悲しくてではないはずだ。
きっと、嬉しくて。
彼女自身よくわからない感情が心を満たし始める。
もう少しだけ、もう少しだけでいいから彼といたい。
しかし、ふと芽生えたその想いは、播磨の言葉によってすぐに崩された。
「んじゃ、俺は行くからな。喫茶店で妹さんが待ってるんだよ」
その言葉に、トクンと愛理の胸が反応した。
彼が『妹さん』と呼ぶ人間は一人しかいない。
つまり、八雲と今から会うのだと彼が言ったのを愛理は今、確かに聞いたのだ。
さっきまで暖かかった、いや熱いぐらいだったかもしれない心が急激に冷めていく。同時に、胸が締め付けられた。
愛理はそれを無視し、言った。
「そう……。さっさと行きなさいよ、ヒゲ」
本人にそのつもりはなかったが、きつい口調になっていたことは否めない。
「だから、ヒゲはもう剃ったっての。だいたいお前が……」
「う、うるさいわね! その話はもう終わったはずでしょ!」
播磨はそこで黙ってしまった。
「な、なによ! 体育祭のときに貸し借りなしって言ったのはあんたでしょ!?」
播磨は喋らない。
だが、彼はじっと彼女を見ている。
今はなんの隔ても存在しない彼の瞳は確実に自分を見ているのだと、それを嬉しく思ってしまう愛理がいた。
「な、なによ……私なにか間違ったこと言った?」
「いいや、別に言ってねえな」
少しだけ意外な反応に、彼女は一瞬固まった。
しかし、固まった理由はそれだけじゃない。
彼女は、そう――――彼が笑ったのが信じられなかったのだ。
笑ったといっても微笑みだとかそういうのとは程遠い。
悪戯を成功させたガキ大将のような笑みだったが、やはり愛理には信じられなかった。
だって、見たことがない。
いつもはサングラスで隠れている目も今はしっかりと見える。
やっぱり、嬉しかった。
彼は何も言わなかったが、自分を心配したからこそからかったのが彼女にはわかった。
瞳が「もう大丈夫だろ」と語っていたのだから。
顔が赤くなっていくのを感じる。
ああ、やっぱり嬉しい。
悔しいけれど嬉しかった。
「うし、んじゃ俺急ぐから」
「あ……」
もう一度軽く手を挙げ、颯爽と播磨は去っていこうとした。
しかし、それは二人が予想しなかった事態によって妨げられる。
次の瞬間、ごく自然に伸ばされた愛理の手に、播磨の制服の袖が――――つかまれていた。
「え?」
驚きは二人のものだった。
愛理は何故自分の手が彼を引き止めているのか、わからなかった。
だけど、気づけばそうしていた。
播磨は封筒を持った腕に小さな抵抗を感じて、振り返っただけのはずだった。
なのに今は、すがるような沢近愛理の瞳に視線が釘付けにされてしまっている。
彼女が播磨をつかむ力は決して強い力ではなかったが、強く引きとめる何かがあった。
しかし、一番驚いているのは他でもない愛理自身。
顔が火照っている。笑ってしまうぐらい赤いのではないのだろうか。
自分は、こんなことをして、一体何をしたいのだろう――。
「……な、なんだよ」
しばらく呆然としていた播磨だったが、ようやく一言だけ口から出てきた。
ひどくぶっきらぼうな口調だったが、彼も顔を真っ赤にしていた。
はっと我に返った愛理は手を離した。「何でもないわよ」と口にして手を離した。
いや、離すはずだったのだ。
しかし彼女の手は彼をつかんで放さない。
それどころか先ほどまでと違って強く、握り締めていた。
そして次に自分の唇からこぼれた言葉は、愛理にとってやはり、意外な言葉だった。
「行かないで……」
「あん?」
二人の間に小さな風が吹いた。
――――さて、なんでこんなことになったのだろう。
播磨拳児は考える。
本当に何故なのだろうか。
「あの、先輩……そこ……違います……」
「え……うそ!」
「……」
――いや、ありえねえって。
彼女が間違ったことが有り得ないというわけではない。
彼にとっては――。
この、状況自体が有り得ないのだ。
「……」
しばし呆然。これで何度目になるかわからないが、播磨拳児は呆然とするしかなかった。
目の前の光景は良くできた冗談だった。
「……ねえ、ちょっと。何サボってるのよ」
しかし、呆然とするたびにこれである。
播磨は現実逃避すら許してもらえなかった。
「あの……先輩……そこも、違います……」
ほんの一時間前に開始した作業だったのだが、今では恒例となっている八雲の指摘。
さっきまで播磨を叱っていた彼女は自分の手元に目を移し、しばらく硬直して叫び声を上げる。
「え……あーもう!」
これも恒例。
とにかく騒がしかった。
播磨と八雲だけの時とは違い、今の播磨の部屋は騒々しかった。
たった一人――沢近愛理が増えただけで。
結論から言ってしまえば、バレたのだ、播磨が漫画を描いていることが。
あの時それを知った愛理は、おもむろに播磨の持っていた封筒を手に取り――奪った――あろうことか播磨の目の前で読み始めた。
しかも、そこはまだ広場だ。正直彼は勘弁してほしかった。
読まれている間、播磨は気が気でなかった。
最初は抵抗していたのだが、愛理がひと睨みしただけでたじろぎ、ついには折れた。
それに多くの読者の意見を取り入れたかったというのもある。
まあ、折れた次の瞬間には後悔の嵐が彼を襲ったのであるが……。
愛理は読んでいる間、一言も喋らなかった。
その無言の時間は播磨にとって幸福であり地獄だった。
しばらくして、彼女は全ての原稿を読み通した。
完成はしていないし数枚には足跡がついていたが、少なくとも後者は原因が彼女にあるのだからそれは無視してよいだろう。
愛理が読み終えたのを確認した播磨は覚悟した。
なにをって――死を。
きっと今にもこれ以上ないほどの嘲りと、首をつりたくなるほどの屈辱の言葉を浴びせられるのだろうと覚悟した。
恥ずかしさで死ぬのではないだろうかと彼は本気で心配した。
しかし、軽く原稿を揃えた彼女が発したのは、少なくとも播磨にとっては驚愕の一言だった。
「なんだ、面白いじゃないの」
今度は播磨が固まる番だった。
「へ?」
思わず出た播磨の間抜けな声に、愛理は少し呆れながら言った。
「なによ?」
「……今、ナント、オッシャイマシタカ、サワチカサン?」
「面白いって言ったんだけど……まずかったかしら?」
播磨はぶんぶんと首を横に振った。
「あ、お世辞じゃないわよ。確かに播磨君が漫画だなんて意外だったけど、結構面白かったわ。意外にね」
もう一度「意外にね」と念を押し、彼女は封筒に原稿を納めた。
そして気づけば播磨は、彼女にほとんどの事情を説明していた。
「ふーん、天満の妹とはそういう関係だったのね……」
「あ、ああ……。そうだ! お嬢から付き合ってるってのは誤解だって、天――」
「私もやるわ」
突然、播磨の声をさえぎって彼女が言った。
当の本人は考え事をしていて、さえぎったことを気づいてないようだった。
「……やるって何をだよ?」
「それは、ほら……」
「あん?」
急に口ごもった愛理を見て、播磨は首をかしげた。
愛理はというと、もじもじしながらうつむいている。心なしかまた顔が紅潮していた。
「ほ、ほら、原稿も何枚かダメになっちゃったし……」
「いや、お前のせいだけどな」
「う、うるさいわね……」
いつもみたく食って掛かってくると思っていたのに。今日のこいつは何か変だ。播磨はそう思った。
一応確認しておくと、播磨拳児は鈍い。
「えーと、その、ほら。ア、アシ――」
「アシ? アシカショー?」
――どうやったら今の会話の流れでアシカショーにつながるのよっ!
愛理の中の何かがはじけた。
「アシスタントに決まってるでしょ!! あんた馬鹿じゃないのっ!?」
その大声で固まった。播磨が、愛理が、道行く人が。時すら止まったかのようだった。
「……はい?」
「……あれ?」
あ、言っちゃった……。愛理はそう思った。
その後、わけのわからないまま喫茶店で八雲に会い、事情を説明した。
結局原稿は間に合うかどうかはわからないが、とにかくやれるだけやってみることになった。
そして播磨の家――絃子のマンション――に移動し、今に至る。
昨日に引き続き、今度は二人の女性を連れ込んできた播磨を見た絃子の反応は割愛させていただく。
簡単に要約すると、目を開けたまま気を失った。
そうして今に至っている。
「……ねえ」
愛理が急に手を休めて言った。
すでに開始から二時間経っていたので、少しずつ彼女もミスがなくなりはじめていた。
「なにかね?」
そして播磨もいつもの調子。
「さっきから思ってたんだけど――」
そして当然の疑問。
「この主人公とヒロイン、誰かに似てない?」
「……………………」
――何故だ!
播磨の脳天に稲妻が落ちた。
――何故わかる!!
しかし、そこはすでに通った道。今日の彼は昨日の彼ではない。昨日みたく取り乱したりは、しない。
――冷静にだ。冷静に対処しろ、俺!
「き、気のせいだ! そいつは俺じゃないし、その子も天満ちゃんに似ているはずもない!」
「あ、そっか。播磨君と天満に似てたのね」
――――しまったぁああああああああああああああああああああっ!!!!
どんがらがっしゃんと盛大な音を立てて転がっていく播磨拳児。
もはや救いようがなかった。
「は、播磨さん……大丈夫ですか……?」
「だ、だいじょうぶだ! ちょっと……べ、便所へ旅立つ、俺は!!」
滅茶苦茶なセリフと共に、播磨は勢いよく部屋を飛び出していった。
彼が去ると、静寂が訪れた。
「……ふーん、そっか。そう、なんだ……」
愛理は少し悲しそうに原稿に描かれた天満――作者は違うと言い張っているが――を眺めた。
「ねえ、八雲」
「はい……なんですか?」
「あんたって播磨君のこと、好きなの?」
「え……」
八雲は少しあわてて首を横に振った。頬が少し赤かった。
「違い、ます……」
「……そう。まあ、いいわ。続き、やりましょう」
その言葉で二人は作業に戻る。
ただ黙々と。
作業を続ける。
しかしその沈黙の中で愛理は考えていた。
播磨君がいないうちに。
彼のラブストーリーのヒロインを、金髪の女の子に描きかえてやろうかしら、と。
ほんの少しだけ興味をひかれた。
だけど全て描きかえるなんて無理な話だし、彼の迷惑になるのは確実だ。
それに、それにだ。それではつまらない。
そう、どうせなら。描きかえるんじゃなくて――
――――描きかえさせなくちゃね。
彼によって描かれた少女に、愛理は小さく微笑んだ。
END