「――――それでね、八雲ったら最近、ほとんど毎日のように播磨君の家に行ってるんだよ」
「へ、へぇ……」
「別にそれはいいんだよ?八雲だってもう大人だし。でも、でもね、美琴ちゃん!!八雲に付き合
ってるの、って聞いても、そんなんじゃない、って答えるんだよ?おかしくない!?」
「あ、ああ。そうだな……」
「播磨君も、播磨君だよ。縒りを戻すために反省して来たから、それで八雲が許してあげたから、
私だって許してあげてるのに!!八雲のこと、本当に大事に思ってるなら、ちゃんとして欲しいよ」
「わかった。お前の気持ちはよーくわかった。だからな、塚本。もう林檎は剥かなくていいから、
包丁をこっちに渡せ。見てて心臓に悪い……」
If...sepia
「うーん、何度見ても可愛いね〜、美琴ちゃんにそっくり」
「そ、そうか?へへ、何か、照れるな」
美琴に大事そうに抱えられ、スヤスヤと健やかな寝息を立てている赤ん坊を、天満は優しい目で
見つめる。
「ねぇねぇ、抱かせてもらってもいい?」
「ああ、いいぜ。だけど……大丈夫か?」
「平気、平気」
いつも彼女のおっちょこちょいな姿ばかりを見ているせいで、心配そうにする美琴だったが、
「よしよしよーし。フフフ、やわらか〜い」
意外にも赤ん坊を抱きかかえる天満の姿は、様になっていた。穏やかな笑顔で、体を揺らす彼女
からは、普段のそそっかしさは微塵も感じられない。
「へぇ。けっこう、似合ってるな、そんな姿も」
「え?」
「いや、塚本って、いいお母さんになりそうだな、って思っただけさ」
「――――や、やだ、美琴ちゃん、何言ってんのよ」
一瞬で真っ赤になる天満。もっともすぐに、彼女が何を想像したのかがわかったから、
「そういや、烏丸とは上手くいってんのか?」
「――――へへへー。聞きたい?」
からかおうとした美琴だったが、天満のとろけるような笑顔を見て、すぐに後悔を覚える。
「……お手柔らかに」
「――――でねでね、烏丸君ったらね」
かれこれ、一時間。延々と烏丸の話を聞かされ、いい加減、美琴の堪忍袋の緒が切れかけた時。
ウゥエエーン ウゥエエーン エエーン
「あらら、泣き出しちゃった」
天満の腕の中で気持ちよさそうに眠っていた赤ん坊が、ぐずり出す。
「ど、どうしよう」
「塚本、こっちに渡して」
おろおろと慌てる彼女から彼を受け取った美琴は、
「よしよーし、お腹が空いたのか〜?ちょっと待ってな」
言ってパジャマをはだけさせ、乳房を赤ん坊に含ませる。
「たくさん飲んで、大きくなるんだぞ?」
泣き止んで力いっぱい乳を飲む赤ん坊を見ながら、美琴が浮かべる微笑は慈しみに溢れていて、
思わず天満はそこに生まれた輝きに目と、心を奪われた。
「な、なんだよ、塚本」
「美琴ちゃん、お母さんの顔になってたから。何ていうか――――愛してるんだなぁ、って」
「バ、バカ。変なこというなよ」
♪〜♪〜♪
美琴が頬を桜色に染めるや否や、天満の鞄の中から流れてくる携帯の着信音。
「おい、塚本。病院では携帯の電源は……」
「う、うん。ごめん、美琴ちゃん」
眉を顰めて注意する美琴の言葉に、頭を下げながら携帯の電源を切ろうとした天満は、画面に表
れていた名前を見て、首をかしげる。
「どうかしたか?塚本」
「うん……ごめん。ちょっと出て、かけ直してくる」
何でサラちゃんが――――そう呟きながら病室を出て行った彼女を、美琴もまた怪訝そうに見送
った。
それから十分ほどで帰ってきた天満の顔は、先ほどまでとはうって変わって青白い。
「――――?どうかしたか、塚本」
「うん――――」
答えた彼女の口調にもいつもの元気がない。それだけで、何かがあったことがわかる。
「どうしたんだよ、塚本。いったい、何があったっていうんだ?」
「あのね――――八雲が――――」
播磨拳児が、バイクを疾走させる。ただ速く、速くとそれだけを願い、いつものように風を感じ
ることもせず、走り続ける。
その耳に残るのは、彼の愛しい人の声。
だがその内容は、辛く。
「播磨君?」
「――――塚本か!?ど、どうしたんだよ、急に」
ガタ、ガタン。慌てて立ち上がったせいで、テーブルに弁慶の泣き所を打って悶絶する播磨。食
べかけだったカップラーメンが倒れ、床に汁が広がっていく。
「もしかして、お邪魔だった?」
「や、と、とんでもねぇ――――で、何の用なんだ?」
台所にとんでいって雑巾を取ってきた彼は、床を綺麗にしながらも携帯は離さない。
何しろ、これが初めてのことだったからだ。
彼が天満と、電話で話すのは。
播磨から何度か彼女に電話をしようとしたことはあるものの、いつも勇気が足らず、かける前に
力尽きてしまっていたのだ。
それなのに、彼女の方から――――足はいまだに痛んでいるし、買ったばかりの雑誌がラーメン
の汁でビショビショになってしまったが、播磨の心は弾んでいた。
「うん……あのね……八雲のことなんだけど……」
すぅ。奮い立っていた気持ちが、その言葉で一瞬に冷めていく。
考えてみれば、当然のことじゃねぇか。心の中で、播磨は苦々しく呟く。
彼女が――――天満がまだ、高校の頃に彼が妹を傷つけたのを許していないことに、播磨は薄々
勘付いていた。
また彼の漫画の手伝いと批評を始めた八雲、仕事が遅くまで伸びた時など、彼女を塚本家まで送
ってくことが何度かあった。
その時、迎えに出た天満の睨むような視線。それがさすがに、恋慕のものでないことぐらい、播
磨にもわかっていた。
だから、何も言えず、ただ苦笑して八雲に別れを告げるしか、播磨には出来なかったのだった。
なのに、俺は何を期待してるんだ。苦々しい自嘲を胸の内で浮かべた後、彼は改めて問いかける。
「妹さんが?どうかしたのか?」
浮かない顔つきだった播磨の顔が、徐々に引き締まったものになっていく。
そして五分後、彼はバイクの鍵をひっつかんで、外に飛び出していた。
『播磨君……落ち着いて、聞いてね……』
彼女の沈痛な声が、バイクを駆る播磨の耳元から離れない。
『実はね……八雲がね……』
赤信号で止まる、ほんの二、三分ももどかしい。ヘルメットの中から信号機を睨み、一瞬でも速
く変われと願う。
『八雲がね……事故に遭ったんだ』
青になった瞬間に、弾丸となって飛び出していく黒いデュカティ。ただ速く。ただ、速くと。
『病院に運ばれてきてるんだけど……』
『それで、容態はっ!?』
『………………』
沈黙が、彼の心を蝕んだ。突き刺さった痛みに、播磨の顔は歪んだ。
『容態はっ!!どうなってんだよっ、塚本っ!!』
『八雲……○×病院にいるわ……すぐに来てあげて』
そして彼は今、ひた走る。
病院へと急ぐ。
妹さん……
今、彼の心の中を占めるのは、天満のことではなく、その妹である彼女のことだった。
八雲がまた播磨の漫画の手伝いを始めたことで、自然、播磨は彼女と会うことが多くなった。
読者の視点からの厳しい批評は、時に担当編集の言葉より鋭く、播磨の胸に突き刺さった。
だが彼女は必ず、播磨の漫画の良い所も見つけ出し、暖かく励ます。その言葉に彼が、どれほど
勇気付けられたか。
その冷静さと、ぬくもり。両方に支えられた播磨の漫画は、急激に人気が高まってきていた。
「やぁ、ハリマ先生。今号のアンケートもすごいですよ。人気ランキングでも、トップ3を狙える
位置に来ましたし」
「はぁ……そうなんですか?」
「ええ。最近の展開からは目が離せない、っていう読者の声も、かなり寄せられてますし」
忸怩たるものがないわけではない。自分一人の力は、こんなものなのか、と。
だがすぐに思い直す。彼女が、播磨の描きたいストーリーを否定したり、注文をつけたりしたこ
とは一度もない。もっぱら注文を付けるのは、物語の構成であったり、見せ方であったりする。
逆に言えば、それだけの問題だったということだ。きっと、自信を持っていいのだろう。播磨は
そんな風に思った。
「これ……どうぞ」
その後、打ち合わせをしていた二人にお茶を出したのは、たまたま仕事場に来ていた八雲だった。
ポカン、と彼女を見上げた後、慌ててお礼を言う編集者は、播磨の方を振り向いて言った。
「ハリマ先生の彼女さんですか?」
「いっ……!?」
「ち、違い……ます……」
驚く播磨と、お盆で口元を隠し頬を染める八雲の組み合わせに、何か感じるところがあったのか、
「そんなに隠さなくてもいいじゃないですか。やだなぁ、ハリマ先生、こんなに美人の彼女さんが
いるのを隠してるなんて」
「い、いや、だから、彼女は漫画の手伝いをしに来てくれてるだけで……」
「ああ、漫画が縁でお付き合いを始められたんですか。羨ましいですねぇ」
まだ続きそうなからかいに、顔を真っ赤にした八雲はお盆を抱えて部屋を飛び出していった。播
磨はというと、だから違うんだと何度も繰り返すが、編集者は納得しなかった。
「じゃあ、どういう関係なんですか?」
「どういう……って」
その問いかけに、播磨は答えられず、口ごもる。
どういう関係なのだろう、自分と彼女は。思わず彼は考え込んでしまう。
友人。後輩。同級生の妹。
共作者、という関係が一番、近いのかもしれない。最近の播磨の漫画は、二人で作っているよう
なものだから。
だが――――それだけだと言ってしまうことには、躊躇いがあった。
何故かはわからない。ただ、何かが違う、何かが足りない、そうとだけしか言えなかった。
あるいは――――そう言ってしまうことで、二人の関係を確定させたくないのか?
ふと浮かんできた考えに、播磨は驚く。
何を考えてる?何を期待しているんだ、俺は。
「答えられないんですか?やっぱり、彼女さんなんでしょう?」
しきりに羨ましい、と連発する編集者に、段々と面倒になった彼は最期には、
「そういうことでいいッス」
どこか投げやりに答えたのだった。
その晩、八雲を家まで送っていく途中、二人は気恥ずかしさからか、互いの顔を一度も見ること
が出来なかった。
跳ぶがごとく、否、飛ぶがごとく、心だけが焦り、前へ前へと進む。後ろへと過ぎ去る光景は矢
のようだけれど、それでもまだ、播磨には遅く感じられた。
ヘルメットの中で、彼の顔が歪む。
『妹さん!!』
脳裏に浮かぶ少女の面影が、遠くに去っていこうとするのを播磨は必死に引き止める。
こんな、こんなことになるなんて……!!
胸を襲うのは、後悔。
自分達が一体、どういう関係なのか。
播磨拳児という男にとって、塚本八雲という女がどういう存在なのか。
どういう意味をもつのか。
はっきりとさせるのを、ずるずると引き延ばしていたのは――――
怖かったからだ。そう気付く。
だが何が――――何故?
どうして俺は、怖がっているんだ?
わずかに浮かんだ疑問も、遠くに見えてきた病院の看板に吹き飛んだ。
今、大事なことは。
一瞬でも早く、彼女の――――塚本八雲の元に、たどり着くことだったから。
「播磨君!!」
バイクを止め、病院へ駆け込んだ彼を待っていたのは、天満だった。
「塚本!!妹さんはっ!!」
押し倒さんばかりに彼女の肩をつかんで揺さぶり、彼は問いかける。
「ちょ、播磨君、落ち着いて」
「これが落ち着いてられるかっ!!妹さんは!?無事なのか!?」
あまりの勢いに驚く天満に構わず、播磨は声を荒げた。
「304号室よ。播磨君、すぐ行ってあげて」
「304だな!!わかった!!」
目を伏せた天満の様子に感じた悪い予感を、彼は振り払うように走る。看護師の制止の声すら、
今の播磨の耳には届かなかった。
たどり着いた304号室の扉を、彼は力いっぱいに押し開けた。
「妹さんっ!!」
そこで見た光景に、彼は――――言葉を、失った。