それからは、大変だった。看護師を呼び、息を荒げる美琴の手を握って励ましながら、二人は彼
女が分娩室に運ばれていくのに付き添う。
「へへ……悪いね、二人とも……せっかく来てもらったのに」
「何、言ってんのっ!!そんなことより、元気に赤ちゃん産むことだけ考えてなさいっ!!」
「そうだよ、美琴さん。私達も待ってるから」
サンキュ。そう言って笑った美琴の顔は、脂汗をかいて青ざめていたけれど、とても力強く、二
人には見えた。
これが、母になるということなのか。愛理は心の中で、そっと呟く。
少女達の胸の内に、自然と浮かんでくるのは、畏敬と恐怖、そして憧憬。
自分達もいつかは、同じような道を歩むのだろうか。
二人は無意識に互いを見つめ、やがて、苦笑を交し合った。
「まさか、こんなことになるとはね」
「そうだね――――美琴さんも赤ちゃんも、無事だといいけれど」
言ってから二人は、扉の向こうに消えた親友の無事を、心から祝ったのだった。
間もなく、病院からの連絡に、美琴と花井の両親が駆け付けた。
「このたびはお世話になりました」
深々と美琴の父に頭を下げられ、愛理は恐縮しきってしまう。晶は淡々と、いいえ、こちらこそ、
とお辞儀を返してから尋ねた。
「花井君は?まだなんですか?」
「連絡は行ってますから、もうすぐ来る筈ですよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、看護師の制止の声を振り切って、走ってくる男の影
が一つ。
「花井君」
「美琴は、美琴は無事なんですか!?それに赤ちゃんは!?」
「落ち着け、春樹。今、分娩室に入ったところだ」
父親に諭されてやっと落ち着いた彼は、近くにいた看護師に連れられていく。どうやら出産のそ
の瞬間に立ち合うことにしていたらしい。
「花井君、私達がいたことにも気付いてなかったみたいね」
声をかけたものの、一顧だにされなかった愛理は、苦笑しながら一つ、ヒョイと肩をすくめる。
「それでこそ、花井君らしいよ」
応える晶の言葉はぶっきらぼうだったが、その表情は優しさに溢れたものだった。
「――――遅いね」
ポツリ、と愛理が呟いたのは、壁の時計の長針が二周もした頃だった。長椅子で、彼女の隣に座
っていた晶は答えず、うつむき膝の上で手を組む彼女の横顔を、ちらとその視線で撫でる。
廊下の少し向こう、美琴の運び込まれた分娩室の前には、妊婦達の家族が、揃って落ち着かない
様子を見せている。中から一度、医者が出て来た時に、少女達二人は気をきかせてその場から離れ
たのだが、それでもその女医が口にした言葉の切れ端が聞こえてしまった。
『……少し難しい状況で……』
ただそれだけだったが、彼女達には十分だった。
今も愛理と晶は、家族から離れた所で待ち続けている。
遠慮をしたからなのだが、あの重苦しい雰囲気に耐えられなかったからでもあった。
二人とも、出産について人並み以上に詳しく知っているわけではなかったから、今がどういう状
況なのか把握しきっているわけではない。だから何も言えず、秒針が時を刻むのを数えていた。
多分それは、その張り詰めた沈黙に、心が先にきしんだからなのだろう。
あるいは、のしかかる不安に精神が悲鳴をあげ、知らず知らずのうちに逃げ道を求めていたのか。
「花井君ってさ――――勝手な男よね」
愛理は、自分が吐き捨てた言葉に驚いていた。口にするつもりもない――――いや、考えたこと
すらない思いだったからだ。
晶は、ただちらりと彼女を見つめただけだった。
その目には、何も浮かばない。侮蔑も、同意も、驚きも、何も。
だから、なのだろう。愛理の口は言葉を紡ぐ――――次から、次へと。
「あれだけ八雲、八雲って言ってたのに、振られたらすぐ幼馴染に乗りかえたってことでしょう?
しかも、子供まで――――」
そこで愛理は絶句する。何を言っているのよ、私。
考えたことがない?そんなのは嘘だ。ずっと前から心の底で、燻り続けていた。
どうしてそんなに簡単に、諦めることが出来るのか。
どうしてそんなに簡単に、次の人へと移ることが出来るのか。
自分には……出来そうになかった。
そう、簡単に過去のことには出来ない。
だから今も――――心の奥深くに、彼を住まわせている。
だから今も――――ふとした瞬間に、脳裏にその面影がよぎる。
しかしその彼もまた、天満からその妹へと、心を変えた。
一緒にドライブに行ったり、デートをするのと、恋人同士になるのとは違う。
愛理はそう思っている。
だから未だに、男友達はたくさんいても、彼氏は作ったことがない。
全ての告白を断ってきたのは、最初は恋をしたことがなかったから。
そして恋を知ってからは――――
自分を裏切ることを、したくなかった。
例えそれが実らない想いであっても――――いや、だからこそ、想いはより純粋なものへと変わ
っていってしまった。
忘れられない以上、代わりに誰かと付き合うなどと、プライドが許さなかった。
そして愛理は、今にいたる。
だからこそ、花井や播磨の翻意が、その身軽さが厭わしかった。
そして――――
――――羨ましくもあった。
「愛理。この前来たの、播磨君だったんでしょ?」
淡々とした声が紡ぎ上げた名前に、愛理はわずかに身じろぎをする。だがその顔は伏せたままだ。
椅子から立ち上がり、晶は一歩、前に出た。そのまま壁を見つめる少女の顔には、何の感情も浮
かばない。だがそれとは対照に、瞳はわずかに揺らぎ、内の影を浮かび上がらせている。
「それで――――何かあったの?貴方達の間に」
「何にもないわよ」
間髪を入れず答える愛理の声が震えていることに、晶は気付いていた。
だがそれは、放った言の葉が事実に反しているからではなく、むしろ事実であるからこそ揺れた
のだろう。そう思って振り向いた少女は、細い目をさらに細くして、金髪の親友の顔を眺め、そし
て言った。
「それとおんなじだよ。花井君も――――播磨君も、ね」
顔を上げた愛理の視線が、晶のそれとぶつかる。少女の黒い瞳、仮面のような顔、その向こうに
あるものを捉えられず、彼女は尋ね返す。
「どういう……意味よ」
「そういう意味」
答えて晶は、その長い睫毛を微かに震わせた。
「好きな人に好きな人がいるから身を引く……そんな愛の形もあるわよ」
「だからって……!!」
反論しようとした愛理は、しかし、気付いた、否。
気付いてしまった。
「ちょっと待ちなさいよ、晶」
呆然とした声、だがその裏にひそむ火薬の匂い。張り詰めた空気の、質が変わりつつあることに、
晶は気付かずにいられなかった。
それでも、凛。彼女は背筋を伸ばし、座ったまま下から覗き込む愛理の視線を、流すことなく受
け止める。
「今……あんた、播磨君、って言ったわよね?」
「ええ。言ったわ」
「――――知ってたの?アイツが好きな子のこと……」
みるみるうちに青ざめていく愛理の顔、晶はしかし、それを見ながら眉一つ動かさず、動揺も見
せず。
淡々と、答えた。
「知ってたわ――――天満でしょ?ずっと、変わらず」
「どうして――――!!」
立ち上がった愛理に胸倉をつかまれ引き寄せられても、晶は表情を変えることがなかった。
それが少女の逆鱗に触れた。苛立ちのまま、胸の中に沸き立つ感情のままに、愛理は叫んだ。
「どうして、言ってくれなかったのよっ!?何で、そのままにしといたのよっ!?」
響く声に、廊下を歩いていた人達が振り返る。看護師や患者、そして花井と美琴の家族達も。
様子がおかしいことを悟ってか、近づいてこようとする彼らを、晶は目と手で制す。自分達に向
けられている視線に気付いた愛理も、晶の服を掴んでいた手を離し、何でもないといった風に笑っ
て見せた。
もちろん彼女も知っていた。自分が今、とてもぎこちない笑顔をしていることを。
それでも首をかしげながら、離れていく彼ら。咎めるような視線を向けてきていた看護師達も、
仕事に戻っていく。
服を直す晶を、愛理はじっと見つめる。重い空気が彼女の肩に落ちてきていて、心を押しつぶそ
うとしていた。
「アンタ、さ。本当はアイツが、天満の妹と付き合ってないことも――――知ってたの?」
コクリ、と頷く晶に、愛理は涙の浮かぶ眦を吊り上げて、問い質した。
「じゃあ……何で……ほっといたのよ……」
支援
彼女の言葉に、晶は顔をそむける。
おさまらない気持ちのままに、愛理は言葉を続ける。
「アイツが本当は天満のことを好きなんだって知ってたら……きっと……皆、違ってたのに。アン
タが一言、言ってくれれば……」
それは先ほどのような大声ではなく、感情を押し殺したもの悲しい響き。晶はわずかに顔を伏せ、
視線を合わせようとしない。
「アンタのことだから……本当は全部、知ってたんじゃないの?誰が誰を好きか……全部」
横顔で頷く彼女を見て、愛理の顔は歪む。悲しみに。
「じゃあ……何で……!」
そして愛理は、晶の肩をつかんだ。先ほどのように激しい素振りではないが、腕に込められた力
は相当に強かった。
「天満の妹も……アイツも……私も……ううん、花井君だって……皆、みんな……」
怒っているのか、悲しいのか。愛理は自分でもわからなくなってしまっていた。
ただ無性に、心が揺さぶられ、激しい痛みが胸を襲う。荒れ狂う波が押し出す感情を、彼女は親
友にぶつけることしか出来なかった。
「ねぇ……何でよ?どうにか出来たんじゃないの?アンタなら……知ってたんだから……」
「じゃあ」
責め続ける愛理は、しかし、晶が顔をこちらに向けた瞬間、言葉を失う。
苦しそうな――――痛みを胸に抱えた顔。
いつも冷静で、心を揺らすことの滅多にない彼女が、初めて見せた表情が、愛理の中の熱を、一
気に冷やした。
「晶……?」
愛理は、名前を、呼ぶ。それが本当に、自分の知っている彼女なのか、不安になって。
鋭い瞳が、闇に覆われている。眉をわずかに下げた彼女が、ゆっくりと、口を開いた。
「じゃあ――――私は、どうすれば良かったの?」
絶望だ。愛理は、その声に隠された思いに気付く。
それは絶望だ。自分のように、押し殺したのではなく――――感情が、無い。きっと磨り減って
しまったのだ。苦痛に耐え、悩んでいるうちに、心が擦り切れてしまったのだ。
「私は知ってたわ。天満の気持ちも、八雲の気持ちも、播磨君の気持ちも……愛理の気持ちも」
輝きを失った瞳のまま、晶は続けた。
「誰に肩入れすることも出来なかった――――したくなかった。皆、私の大事な友人だから」
初めて親友の心に触れた――――
愛理は呆然とした頭の片隅で、そんなことを考えていた。
ずっと、一緒にいた。かけがえのない友達だと思っていた。
だけど彼女はどこか、誰に対しても距離を置いているように感じることがあった。
近づこうとすると、さっと身をかわされる。そんな風に感じたことが、しばしば。
それでも愛理は、彼女を大事に思っていたし、晶が晶なりに、自分や天満達のことを大切に思っ
てくれていることは感じていた。
全てをさらけ出してぶつかりあうだけが、親友としての付き合い方じゃない――――そんな風に
愛理は感じていたし、晶にとってこういう風にするのが心地よいなら、それでいいとも考えていた。
「――――ごめんね、晶」
言ってから、愛理は二歩後ずさって、沈むように長椅子に腰を下ろした。
自分が口に出した言葉が、いかに間の抜けたものだったか。少女は自分を責める。
結局、親友の自分への思いを、信じきれなかった――――そういうことではないか。
それに。愛理の心は、記憶を遡る。
考えてみれば、当然のことだった。
無愛想に見えて、友を人一倍、大事に思ってくれている彼女が、誰かを傷つけるようなことはし
ない――――いや、出来ない。
彼女が自分の知っている全てを白日の下に晒せば、必ず誰かが傷つく。
例えば播磨の気持ちであれば、愛理や八雲が泣いたことだろう。八雲の気持ちであれば、花井が
塞いだに違いない。事実、八雲が播磨と付き合っていると聞いた後の彼がそうだったのだから。
だから結局、晶は何も、誰の想いも明かすことはしなかった。
当人達に任せたのだ。それがきっと、最善なのだと信じて。
結果として表れた現実を、彼女がどう思っているかまでは、少女にはわからなかったのだけれど。
そしてまた、愛理は思う。
晶は、それでも何度か、彼女の背中を押してくれていた。
立ち止まっていていいのか、ぶつからなくていいのか、と。
このままで後悔しないのか、と。
彼女がほのめかしていた思いに気付きながら、全部、無視していたのは――――
今更にそれを知って、愛理は唇を強く噛みしめる。
なのに私は――――晶を責めるような真似をしてしまった。
座ったままに、晶の体を引き寄せて、そのお腹に額をあてる。自分の頭に置かれた彼女の手のぬ
くもりを感じながら、愛理はもう一度、言った。
「ごめんね、晶――――私が、バカだったわ」
「いいえ、違うわ」
愛理の輝く金の髪を撫でていた彼女の手が止まった。
そして飛び込んできた、晶の悲しげな声に、閉じていた目を愛理は開く。
「バカだったのは、私――――もっと勇気を出していれば、もっと上手くやっていれば、皆が傷つ
かずに済んだかもしれないのに」
「そんなこと――――!!」
言って顔を上げようとする愛理の頭を、晶の手が力強く押さえつけた。彼女のお腹に顔を押し付
けられながら。
「顔、上げちゃダメ」
愛理は聞いた。親友の悲痛な声を。
愛理は感じた。首筋に冷たい雫が落ちてきて、跳ねたのを。
「――――泣いてるの?晶」
その問いかけには答えず、彼女は言葉をゆっくりと紡ぐ。
「怖かったの。私が何かを言うことで、私達の関係が崩れることが。誰かが傷つくことが」
ギュッ。頭を抱きかかえる手に篭る力が、また強くなった。
息苦しさをわずかに覚えながらも、愛理はさからうことなく、なすがままにされる。
「だから私は決断することを避けた。なるがままになればいい。そう思ってた。全員の好きが、う
まくいくはずがないんだから――――誰もが幸せになることなんて、ありえないと思ってたから。
決断は自分の手で、して欲しかった――――」
すぅ、と一呼吸。
置いて、晶は続けた。
「だけど――――結局それは、逃げただけだったのかもしれない」
「そんなこと、ないわよ」
雫はもう、落ちてこない。きっと彼女はもう、泣いていない。
愛理はそれでも、顔を上げようとしなかった。逆に、彼女の腰に手を回して、ゆっくりと自分の
方へと引き寄せる。
「晶の言う通り、どうしたって、誰かは傷ついたわよ――――現に今、晶が傷ついてるし」
「――――だけど」
「でも、ね」
反論しようとする親友の言葉を遮ってから、愛理はゆっくりと体を離し、晶の顔を見上げ、そし
て笑った。
「でも――――それで幸せになった人だっているんだから。例えば、美琴と花井君とか」
「愛理」
名前を呼ばれて、愛理は何故か、くすぐったい気持ちになる。例えるならそれは、今まで姓で呼
び合っていた友人が、親しみを込めて名前で呼んでくれた時のような。
そして実感する。また一つ、自分達の距離が縮まったことを。
見つめる彼女の表情には、泣いていた様子はまるでない。涙もなく、常と変わらない無表情。
だが愛理は、心なしか彼女の雰囲気が優しいものに変わっているように感じた。
「まあ個人的には、やっぱり花井君の心変わりと軽さは、釈然としないけれどね」
そしてアイツも。心の中でだけ、愛理は付け加える。
だがそれは、先ほどのように刺々しい思いではない。
彼女は、まるで憑き物が落ちたかのように、自分の心が軽くなっていることに気付いていた。
「そうかな――――想い続けることが、どんな時でも最善の選択肢だとは、私は思わないよ」
言う晶もまた、普段の調子を取り戻しているかのようだった。彼女の言葉が、漠然と自分に向け
られていることを知り、愛理は苦笑しながら返す。
「それが、好きな人のためなら頑張れる、って真顔で言える女の台詞?」
「私は、バカだからね」
澄ましたように言って、晶は肩をすくめる。
「矛盾してるわね〜」
「だから人間って、面白いと思うんだけどな」
そして、晶は愛理の瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女の目が、雄弁に問いかけてきていた。
愛理。貴方は、どうするの、と。
「私は――――」
答えようとした、その矢先。
「――――聞こえた?」
「聞こえた」
二人は同時にその両の目を、扉の前に集まっていた美琴達の家族へと向ける。
彼らも、顔を見合わせていた。そして互いに見つめあい、そわそわと落ち着かない様子だ。
ほんの数分のことだったのだろう。だが息詰まるような沈黙の後、開いた扉から聞こえてきた声
に、愛理は思わず晶に抱きついた。
「聞こえたっ!!」
「うん。聞こえたね」
元気そうな泣き声に、家族達も歓声をあげている。
この時ばかりは看護師達も、苦笑しながら素知らぬふりで、彼らを注意しようとはしなかった。
「ほら、元気出しなさいよ」
「お父さんがそんなで、どうするの」
「あ、ああ――――すまない、沢近君に、高野君」
声をかけられても生返事しか返さない、脱力しきった花井の様子に、二人は顔を見合わせた。
愛理はこらえられず笑い、晶はわずかに肩をすくめる。
生まれたのは、元気な男の子だった。母親、つまり美琴も、難産ではあったが無事だという。
喜びと安堵に包まれる家族を見ながら、愛理と晶も喜びを分かち合う。
そんな中、ただ一人、出産に付き合った花井だけが、呆けていた。
「しょうがないよ。誰だって最初はそうだから」
反応の薄さに不満そうな愛理に、美琴の父親が苦笑しながら声をかけてきた。
「男にとって、子供が出来るっていうのは、なかなか実感がわかないものだからね」
「そういうもんなんですか?」
「まあね。それに、彼はずっと美琴のことを心配して、気を揉んでくれていたからね。無事に生ま
れてほっとしたら、気が抜けちゃったんだろう」
言いながら彼を見つめる父親の目は、とても優しいものだった。いや、それは美琴の母親や、花
井の両親も同じだった。
愛理は、不意に悟った。
この家族に支えられているからこそ、美琴も花井も、真っ直ぐに育ったのだ、と。
そしてそんな彼らだからこそ二人の、高校を卒業してすぐ、しかも新婦が妊娠している中での結
婚を認め、祝福することが出来たのだろう、と。
ふと自分の父のことを思い出して、わずかに感傷的になる愛理だったが、すぐに立ち直る。自分
だって、愛されて生まれてきたはずなのだから。
少なくとも、二人とも限られた時間の中で、娘を愛してくれた。そのことを彼女は、忘れずにい
ようと心に誓う。
「ほら、しっかりしなさい、花井君。貴方がしっかりしてなくて、誰が美琴さんを支えるのよ」
「美琴……そうだ、美琴!!」
妻の名前を聞いた瞬間、はっと我に返った彼は、再び病室へと戻っていく。
「美琴ーーーー」
「ば、バカ、よせ。皆が見てるだろうが……」
閉まりゆく扉の向こうに、周囲の医者の目も気にせず抱きつく花井と、顔を真っ赤にしている美
琴の姿が見えた。
重苦しい時が過ぎ、張り詰めていた心を緩めた愛理達はその光景に、心の底から笑ったのだった。
「これが花井君と美琴の赤ちゃんか」
「可愛いね――――美琴さんにそっくりで」
「フフ、確かにね」
難産のせいでやや貧血気味の美琴を家族に任せて、花井は新生児室に来ていた。それについてき
た愛理と晶の、暖かい、だがどこかからかうような口調に、しかし彼は反応しなかった。
ただじっと、ガラス越しに、すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてている赤ん坊の顔を見つめ
ている。暖かく、優しく、ぬくもりのこもった眼差しで。
その彼の眼鏡の奥には、光るものが浮かんでいた。
「あれが――――僕と、美琴の……」
感極まったのか、唇を噛み締めたまま、花井は滂沱と涙を流し始める。
声を殺し、立ったまま、涙をぬぐうこともせず、微かに体を震わせながら花井は、じっと赤ん坊
の顔を見つめ続けていた。
その心に何が去来しているのか――――見ていた二人には、わからなかった。
ただその横顔が、涙で濡れて情けないはずなのに、とても凛々しくて、強くて、そして頼もしい
ものに、彼女達には見えた。
これが、父になるということなのだろうか。ふと愛理はそう感じた。
「行こうか、愛理」
小さく声をかけてくる晶に、愛理は声を出さず頷いて、静かに二人はその場を離れる。
最後に愛理が振り向いた時も花井は、時を忘れたかのようにじっと、変わらぬ姿勢で自らの子供
の姿を眺め続けていたのだった。
そんな花井の姿を彼女は、その後もずっと、忘れないでいた。
「……というわけよ」
『えー。私だって美琴ちゃんの出産に立ち会いたかったのにー』
「無茶言うんじゃないわよ。さっきまでホント、テンパッテたんだから。とにかく、アンタも近い
うちに病院にお祝いに来なさいよ。今日はもう遅いし、美琴も疲れて寝ちゃったみたいだから、明
日以降ね。それじゃ」
天満との電話を切った愛理は、空を眺める。日が沈み、すっかりと暗くなった街に、電灯の光だ
けがチラチラと揺らいでいる。月はぼんやりとしか白を見せず、流れ行く雲が時折、その姿を隠し
ては去っていく。凍えるような寒さに、彼女はそっと我が身を抱いた。
花井と美琴。二人の間に結ばれた絆の深さを見せられた今日。孤独が、そっと彼女の体を包み込
んで、寂寥を刻み込んでいく。
支援
「愛理」
声をかけられて振り向く彼女の前には、親友の姿があった。
「天満、どうだって」
「残念がってたわ。出産の感動的なシーンに立ち会いたかった、って」
「――――天満らしいわね」
晶の言葉に、愛理は笑って頷く。
たったそれだけの会話。
なのに、何故か不意に、ぬくもりを感じる。交し合う視線。晶の深い黒の暖かなきらめきに包まれて
いるような感覚に、愛理の頬はゆるんだ。
「さっきの答えだけど、さ」
ふと。思い出したように。
放たれた愛理の言葉に、晶はわずかに首をかしげたが、すぐに、ああ、と頷いた。
「想い続けるのだって、悪くないと思うのよ」
唇に乗せて放つのは、播磨拳児という、男への想い。
断ち切ろうとして断ち切りがたく、未だ面影を背負い続けたままだ。
「でも、ね」
今日、知った。父と母になったばかりの友人達の姿を通して。
寄り添い、繋いだ手。交わされる眼差しは、二人の間に言葉が必要でないことの証明。
労わりあい、想いを寄せ合う彼女達。
それぞれの過去を知るだけに、愛理は余計に、喜びを覚えたのだ。
「一人に拘ってたら、幸せになれるチャンス、逃しちゃうのかも、ね」
花井は、八雲をずっと想っていた。
美琴は、先輩をずっと想っていた。
もしも二人が、それでも一人に拘っていたら、今日、この場所で、祝福されて生まれた子供は存
在しなかった。
否。そもそも二人が、想いを通わせあい、幸せになることもなかったに違いない。
「私も――――あんな風に、誰かと笑えるのかな?」
「なれるわよ」
わずかに不安そうな愛理の言葉に、晶は間髪を入れず答えを返す。
「愛理なら、大丈夫。私が保証する」
はっきりと、彼女は言った。まるで未来を覗いたかのように。それは根拠の何もない自信だった
のかもしれないが――――愛理は、素直に、嬉しいと感じたのだった。
「花井君と美琴、幸せそうだったわよね――――結婚とか出産って、やっぱりいいものなのかしら」
「知らない。でも――――幸せになるために、そういうのはあるんだと思うよ」
まじまじと見つめられて、晶はわずかに眉をひそめた。
「――――何?」
「んー。晶でも、そういうこと、言うんだなって思って。今日は、晶の知らなかった面もたくさん
見れたし、いい日だったわ」
「……やめてよ」
そっぽを向いた彼女の顔は、電灯の明かりが生んだ影に飲み込まれて、その表情は見えない。
だが愛理は、その頬が赤くなっているのを見たような気がした。
「あっら〜?もしかして晶、照れてる?」
「照れてないわよ」
「やっぱり照れてるんだ」
「照れてないったら」
顔を覗き込もうとする愛理から、逃げようとする晶。その光景は、二人を知る者にとっては、珍
しいものなのかもしれない。その逆は、容易に想像出来たとしても。
だが、例え珍しく思ったとしても、二人の顔に浮かぶ表情を見れば、思わざるをえないだろう。
彼女達がとても仲が良く、お互いを信頼し、相手を必要としていることを。
二人は、じゃれあいながら、笑う。
愛理は心の底からの無邪気な笑みを、隠すことなく。
晶はその唇の両端を微かに上げ、小さく、だがそれでも幸せそうに。
「ねえ、晶」
「……何、愛理」
「私――――まだ、アイツのこと、好きでいる」
「――――」
「でも、さ。きっと、もっといい男がいるわよね。あんな奴より」
「そうだね。うん。私も、そう思うよ」
「――――ありがと、晶」
二人は、並んで歩きながら、空を見上げる。遠くに輝く月は仄かな銀。
愛理はその月に願った。
生まれたばかりの赤ん坊の幸せを。
涙を隠そうともしなかった花井の幸せを。
そして母となった美琴の幸せを。
いつか私も、あんな風に子供を産むのだろうか。
わずかにだけ見た、美琴の満たされた笑みに、愛理は思う。
その時、自分の隣にいるのは、今、想いを寄せている男ではないのかもしれない。
だけど、それも悪くはない。
一人に拘るよりは、幸せになりたい。
少なくとも、そう考えられるようになった自分は、いつかよりも成長したのだと、彼女は感じて
いた。
「ねぇ、晶。今度、美琴の赤ちゃん、抱かせてもらいに来ようね」
「うん。そうだね」
何よりも、自分には、友がいる。
どんな時でも、私を支えてくれる、大切に思ってくれる友が。
この先、自分が――――自分達がどうなっていくか、愛理にはわからなかった。
忘れられないままに生きるのか。あるいは――――誰か別の男を愛するのか。
それでも、変わらずに、いてくれる人がいる。
なんて素晴らしいことなのだろう。
だから。
「ありがと、晶」
「――――?――――どういたしまして、愛理」
微笑を交し合って、二人は歩く。
夜の道を。だがそれは。
朝の陽光へと繋がる、道なのだ。