スクールランブルIF12【脳内補完】

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75If...scarlet
 塚本八雲が住む家の、庭先に一輪の彼岸花が咲いている。
 真赤な、とても鮮やかに真赤な花だ。


 If…scarlet


 膝の上で丸くなる伊織の、背を撫でながら八雲は、本の頁をめくる手を止めて空を眺める。
 夕焼けの片隅を横切る、飛行機雲が一筋。
 それが、姉の乗ったものでないと知りつつも、彼女は目でしばし追う。

 一月前にはうるさいまでに鳴いていた蝉の、最後の一匹の声が、止んだ。

 唐突に訪れた静寂。高校一年生の秋のことを、八雲は思い出していた。
 あの時、もしも違う言葉を伝えていれば、どうなっていたのか。
 埒もないこと、と知りつつ彼女は、動き出した回想を止めることが出来ずに、空を見続ける。
 夕の紅に染まった瞳に、しかし光はなかった。


「妹さん」
 ゆらり、立ち上がった彼に、八雲は胸がさざめくのを感じた。
 それは、恐怖にも似た、不思議な感覚。
「俺達は」
 八雲は播磨の瞳を見上げるが、サングラスに隠れてその表情は読めなかった。
 左手で、彼女は軽く自分の右手を握り、そして待った。彼の次の言葉を。
「俺達はつきあっている……らしい……」
「え……」
 彼女の心臓は大きく跳ね、漏らした吐息は戸惑いのみではない色をしていた。
76If...scarlet:04/08/12 07:48 ID:WL4iFSCg
「困り……ます」
 それでも、彼女に言えたのは、ただその一言だけだった。

 他意は、なかった。
 否。
 例えば彼女が、姉の半分でも雄弁に己の心を表すことが出来ていれば、問題はなかったのかもし
れない。
 彼とつきあうことが、嫌だったわけではない。むしろ、これまでに受けたどんな告白よりも、心
は揺り動かされた。甘美な誘惑に思えた。
 だが彼女は、恋愛に疎かった。
 それは他人の想いに、だけではなく、自らの心の動きにもあてはまったのだった。
 己の内に芽生えた小さな熱に、八雲は気付かなかった。いや、気付いていて、それが何かを知ら
なかったのだ。
 だから、彼女はそうとしか言えなかった。
 その言葉の裏に含まれていたのは、彼女なりの理想でもあった。
 つきあうというのは、好き合うということだ、と。
 ならば、自分にはその資格はない。そう考えたのだ。

「そ、そうか。そうだよな。うん」
 彼の言葉に失望はなかった。
 漏れた溜息は、安堵によるものであった。
「いや、妹さんがそう言ってくれて助かったぜ」
「え……」
 何かが、違う。
 そう感じたことだけを、彼女は今でも覚えている。
 だが何が違うのか、ゆっくりと考える暇もなく、彼の言葉は続く。
「実は、俺はよ……」
 それは、告白。
「妹さんの、お姉さん……天満ちゃんのことが好きなんだ」
 
「……そうだったんですか」
 また、そんな言葉しか彼女は、口にすることが出来なかった。
77If...scarlet:04/08/12 07:49 ID:WL4iFSCg
 振り返ってみれば、と八雲は空に思う。
 いつも自分は、思うことの半分も言い表すが出来ない。
 そして発する言葉の大半は、状況に流されて口にしたもの。
 また、思う。
 私の言葉は、誰かに届いたことがあるのだろうか、と。

 播磨と八雲が顔を合わせる機会は、徐々に多くなっていった。
 周囲の人間はそれを、二人が付き合っているからだと思い続けていたようだが、実際はまるで違
った。
 八雲は彼から、漫画だけでなく、恋愛の相談をも受けるようになっていたのだ。
 彼の役に立つのなら、と快く引き受けた彼女は、しかし何時しか、苦痛を覚えるようになってき
ていた。
 それがどうしてなのかわからないままに、八雲は播磨と会い続けた。一度、引き受けたことを途
中で投げ出すことは、彼女には出来なかったから。
 自室で、彼からの電話を受け、話しながら窓の外を眺めた夕暮れ時。ビルの群れに隠れそうな太
陽の光に照らされながら、彼岸花が風に揺れていた情景は、鮮明に記憶に焼きついている。
 やがて秋は過ぎ去り、冬が来て、そして巡り、春が訪れた。
 二人の関係は、しかし変わらないままだった。
 変わったのは、天満。

 八雲は播磨に、天満が烏丸に想いを寄せていることをすでに伝えていた。
 彼は知りながら、それでも諦めようとはしなかった。天満の心を自分に向けようと必死に頑張る
様は、少女があまりに鈍感なために、時に痛ましく思えるほどだった。
 冬が終わる頃、一度だけ播磨は八雲に、弱音を吐いた。
「天満ちゃん、俺のことなんて何とも思ってないんだろうな」
「……そんなこと」
 ないです。言いながら八雲は、胸に感じた痛みに顔をしかめた。
 漫画の批評をしているうちに、知らず知らずのうちに身についていた、播磨を励ます方法。その
全てを駆使して彼を奮い立たせながら、八雲は心臓に熱く突き刺さる棘の存在に戸惑っていた。
 播磨が頷き、活気を取り戻すほどに、少女の顔に落ちる影は深く、濃くなっていく。彼に気付か
れないようにそっと、闇を彼女は溜息と共に押し出した。
78If...scarlet:04/08/12 07:49 ID:WL4iFSCg
 結論から言えば、播磨の願いは何一つ、叶わなかった。
 最後には彼もそれを悟りつつあったが、しかし、逆転を狙い続け、だが何も報われなかった。
 ひとえにそれは、八雲の存在も関っていたことは言うまでもない。
 天満にとってすでに播磨は、八雲の彼氏という位置づけで定まってしまっていたのだ。
 だから、彼がいかに想いを天満に伝えても――――それはまた彼らしく不器用にではあったのだ
けれど――――冗談だととらえられたり、あるいは好きな女の姉として大切、といった意味に勘違
いされて終わってしまうのだった。
 彼女の思い込みは、たとえ八雲が何度も、自分と播磨が無関係であると天満に伝えたところで、
変わることなどなかった。
 どれほど懇切丁寧に経緯を語って見せたところで、
「八雲、そんなに不安にならなくてもいいよ。播磨君は八雲のこと、とても大切に思ってるから。
見てればわかるもの」
 大丈夫、大丈夫と笑う姉の姿に、八雲は結局、何も言えなかった。
 見ればわかる、と言う彼女に、何がわかるの、と言い返すことすら、少女には出来なかったのだ。
 八雲にとって何よりも辛かったのは、天満が恋愛の相談を持ちかけてくることだった。
 烏丸との恋愛成就のためのアドバイスを、『経験者の立場から』と求められても、答えることなど
出来ない。何故なら、彼女は全くそのような立場になかったから。
 そう言ってもしかし、天満はそれを照れとしか受け取らなかった。その姉の、ある意味で頑固な
振る舞いに、八雲はもはやなす術がなかった。
 播磨と天満、二人の板ばさみになった彼女には、自分がどのように振舞えばいいのかがわからず、
戸惑いと苦痛を覚える毎日が続いた。
 それが終わったのは、春も近いある日のこと。

 天満がとうとう烏丸に想いを伝え、そして願いは成就したのだ。

 八雲からそのことを聞いた時、播磨は彼女に背を向けた。
 そのサングラスに隠れた瞳に、雫が宿っていたのを、少女は確かに見て取っていた。
79If...scarlet:04/08/12 07:50 ID:WL4iFSCg
 播磨と八雲の関係は、その日を境に徐々に、変わっていった。
 恋愛相談どころか、漫画に関しての相談すらなくなった。
 それは彼の描いた漫画が談講社の賞を取り、二条丈、つまり烏丸大路の抜けた穴を埋める連載を
開始したためでもあった。
 自分の役目は終わり。八雲はそう感じていた。
 プロの編集の言葉の前に、素人の発言など邪魔だろうと思い、彼女は播磨にそう告げたのだった。
一瞬、複雑そうな顔をした彼だったが、やがて何かに納得したかのように頷いて、言った。
「ああ、そうだよな。これ以上、妹さんに迷惑をかけるわけにもいかねぇし。つきあってるなんて
誤解も、いい加減、とかねぇとな」
 その言葉と共に席を立った彼の、言葉は今でも八雲の耳に残っている。
「俺達、もう会わねぇ方がいい。でねぇと、ずっと勘違いされたままだ」
 胸に再び、痛みが走った。
 透き通った水面に墨を垂らしたように一瞬に、心が闇に染まっていく。耐え難い喪失感が、体中
に広がっていく。
 まただ。八雲は思った。
 また、私の言葉は届かなかった。思いの全てを伝えられなかった。
 決してそんなことを望んでいないのに。これからも播磨と会うことは出来ると思っていたのに。

 だが凍りついた舌は、それ以上の言葉を口にすることが出来なかった。

「これまで、ほんとサンキュな、妹さん」
「いえ……」
 最後まで彼は、八雲のことを名前で呼ぶことはなかった。

 その後、彼が何をどうしたのかは八雲にはわからない。
 気が付いた時には、彼女が播磨をふった、という噂が広まっていた。それも、彼が浮気をしたか
らというもっともらしい理由付きで。
 八雲は皆から同情され、播磨は全ての矢神高生徒の怒りと非難をかった。
 中でも天満の憤りは激しく、面と向かって涙ながらに、播磨を罵倒したらしい。
 らしい、というのは八雲はそれを人づてに聞いたからなのだが、播磨はどんなに言われても、た
だ、すまないと口にするばかりで、全てを甘受したのだという。
 その時の播磨の痛みは、いかほどのものだったのだろうか。八雲には想像すら出来なかった。
80If...scarlet:04/08/12 08:22 ID:WL4iFSCg
 全てが播磨の優しさからだと気付いた彼女は、何とか播磨と接触しようと試みたが、頑なまでに
彼は八雲と会うことを拒絶した。携帯すら繋がらなくなった。
 ならば、と八雲は必死に周囲の人間、特に姉に対して、播磨をかばう発言を繰り返したが、真意
は決して伝わらなかった。
「ひどい裏切りにあったのに、それでもあんな男をかばうなんて」
 それが彼らの感想であり、また、
「こんな子を裏切るなんて、播磨はひどい奴だ」
 となり、余計に播磨に対しての憎悪を深める結果にしかならなかった。
 そのことに気付いた八雲は、もう何も口にしなくなった。
 ひとえにそれは、自分に絶望を覚えていたからでもあった。


 ミャオ
 伊織が、八雲の膝の上で背筋を伸ばした。
 声とそんな様に、内の記憶から浮かび上がってきた彼女は、自分が笑顔でいることに気付いた。
 それは、虚ろな笑みだった。
 全てを失った喪失感と、心を打ちのめす悲嘆に、もはや涙すら枯れ果て、ただ笑うことしか出来
ない人間が浮かべる、そんな空っぽの笑顔。
 彼と別れて以来、八雲は何度、こんな風に笑ったかわからない。

 会うことすら叶わぬようになって初めて、八雲は自分の中の播磨の存在の大きさに気が付いた。
 そして、知った。
 自分が、彼を必要としていることを。
 別の言葉で言えば、好きだということ。

 また彼女は虚ろに笑う。
 どうしようもない自分を嘲り、笑う。
 もっと早く、彼と『つきあって』いる時に気付いていれば、どうとでもしようがあったのに。
 例えば、播磨の気持ちを自分に向けるようにするとか。
 あるいは落ち込む彼を慰めて、側に居続けるとか。
 思うが、しかし、そんな考えすら八雲は馬鹿なこと、と一蹴する。
 どんな時も流されることしか出来ない自分に、そんなことが出来るわけない、と。
81If...scarlet:04/08/12 08:23 ID:WL4iFSCg
 結局のところ、こうなるしかなかったのだろう。八雲はそう考えている。
 彼女は何も為しえず、誰をも変えることが出来なかった。
 残されたのはただ、無力感ばかり。


 天満たちが卒業したのは、去年のこと。
 短大へと進学した八雲の姉は今日、アメリカへと旅立った。予定では一週間ほど、向こうにいる
らしい。
 目的はもちろん、彼、烏丸大路に会いに行くため。
 大学に入ってからバイトを始めた天満は、旅費に必要な額が溜まるや否や、授業の自主休講を決
めてチケットを買った。
 長い休みまで待てばいい、そんな八雲の言葉に天満は曰く、
「だって会いたいんだもん、今すぐにでも」
 呆れながら八雲は、同時に羨む。
 その行動力の半分も、自分にあれば、と。

 播磨も何とか無事に卒業を果たした。が、八雲に関する一件以来、彼は自ら好んで、周囲と距離
を保つようになった。
 卒業式にも顔を出さず、最後に一目なりとも、と意を決していた八雲は肩透かしをくらった。
 今、彼はもう一つの顔である漫画家として忙しいようだ。P.Nハリマ☆ハリオの名は売れっ子漫
画家として有名になり始めている。
 おそらく彼の隣には、誰かがいるのだろう。
 八雲に代わって、彼の作品に助言を与える、誰かが。

 また八雲は笑う。
 会うことも、話すこともなくなってから一年半以上が経つというのに、未だに彼を想う気持ちは
変わらない。
 否、余計に強くなるばかりだった。
 そしてまた訪れた秋。
 彼と過ごした、ほんの数ヶ月の思い出が、日々の暮らしに重なる、それは八雲にとって辛い季節。
 あれはこんな日だった、などと忘れかけていたことを思い出しては、共にいられる幸せに気付い
ていなかった自分を厭う、そんな繰り返しの毎日。
82If...scarlet:04/08/12 08:23 ID:WL4iFSCg
 伊織が地面に降り立った後、のろのろと彼女は立ち上がって、台所へと向かう。
 一人きりの食事は、久しぶりだった。天満のいない家は、すっかりと静まり返り、八雲は息苦し
さすら感じていた。
 包丁をふるいながら彼女は、また自らの思考に絡みとられていく。

 思えば、と彼女は振り返る。
 きっと自分は、元々、彼のことを好きだったのだろう。
 脳裏に浮かぶのは、彼から自分達が『つきあってるらしい』と聞かされたあの日のこと。
 もしも。
 八雲は考えてしまう。
 もしも、あの時、違う言葉を伝えていれば。いや、その後だって。
 様々なIfが、彼女に幻想を見せて、やがて消える。
 胸に苦しいまでの重みが、落ちてくるのを少女は、感じていた。
 どんなに夢を見たところで、それは儚いものに過ぎないとわかっていたから。
 彼は天満だけを見ていた。一度も八雲を振り向くことがなかった。
『自分を好きな異性の心が視える』
 そんな能力を持つ彼女だからこそ、はっきりと断言できるのだった。

「痛っ……」
 小さな悲鳴をあげた彼女は、人差し指の付け根を抑える。
 ぼんやりとしていたせいか、包丁を持つ手が狂ったようだ。指先から零れる血がまな板をよごす。
 それでもまだ、どこか呆けたような表情でしばし、それを見つめていた八雲は、やがてふらふら
と流しの前に行って、蛇口を捻って指をつける。
 透き通った水に微かに混じる血を、八雲はまるで他人事のように感情の浮かばない瞳で見つめて
いた。


 庭先で揺れる彼岸花の赤。
 流れる彼女の鮮血の赤。
 少女には、彼がいない世界は灰色に染まって見える。
 ただ赤だけが鮮やかに、色づいている。
 それは八雲が、幸せを夢見ては流す心の涙と、同じ色だからだ。