例えば青と一言に言っても、そこには無数の色が含まれる。
藍色、紺色、鉄紺色、茄子紺色、納戸色、瑠璃色、縹色、浅葱色、水色、白藍色。
無論、形容する言葉を持たず、言い表すことの出来ない青色もある。
空を見上げてみるといい。
毎日同じようでいて、しかし、いつも違う青を見せてくれるだろう。
その秋の日の、空の色を言葉で表すならば、露草色が一番、近かっただろうか。
八雲は、天を見上げて、こう思った。
心浮き立つような、青の空だ、と。
If...azure
「八雲、一緒に部室に行こう」
「ごめん、サラ。今日は用事があるから……」
親友の誘いを断り、八雲は教室を出た。
心なしか急ぎ足で去る彼女の様子に、サラはきょとんと首をかしげるが、ふと黒板に書かれた日
付を見て納得する。
「そっか、今日は……」
直接、八雲に尋ねたわけではない。ただ彼女が、ポロリと漏らした言葉を覚えていただけ。今日
が何の日であるか、そして彼女の用事が何であるか。
サラはその細い眉を寄せ、青みがかった瞳を憂いに曇らせる。
少女の心の中で、二つの影が重なった。親友の塚本八雲と、その元彼である播磨拳児。
彼女が未だに、播磨のことを忘れられずにいることを、サラは薄々勘付いていた。
どうして?あんなにひどい裏切りにあったのでしょう?
問いかけようとするたびに、サラはいつも、彼女の深い悲しみに包まれた瞳に言葉を失った。そ
れでも一時期に比べれば、明るい素振りを見せるようにはなってきたのだけれど。
しかし、その心の奥にはまだ、澱のように影がたゆたっている。
だから、今日も八雲は……締め付けられるように痛む胸に手をやり、彼女は窓の外を見た。
深まる秋の風が、裸になった木の枝を揺らし、遠くへ駆け抜けていく。
頭を一つ振って、サラは気持ちを切り替えようとする。
何はともあれ、部室に行かないと。自分は副部長なのだから、部長の穴は埋めなければ。
だがその日、彼女の頭の中から、友を気遣う気持ちが消えることはなかったのだった。
「ただいま」
「あ、お帰り〜、八雲。早かったね〜」
帰宅した彼女を迎えたのは、天満の明るい声。数日前にアメリカから帰ってきたばかりの彼女は、
まだその幸せの余韻にひたっているのか、とろけそうな笑顔のままだ。
「姉さん、今日、大学は?」
さすがに少し呆れたように尋ねる八雲。
「ん?もう終わったよ〜」
パリパリと煎餅を食べながらテレビを見る姉に、しかし今日の八雲は構うことなく自室に向かう。
普段の彼女ならば、わずかなりとも天満の隣に座って会話を交わすのだが。
その八雲は胸に、近くの書店の名前の入った袋を大事そうに抱えていた。
鞄を置き制服を着替えた彼女は、台所に向かう。はやる心を抑えながら、サラからもらった茶葉
を使い、紅茶を入れる。
匂いにつられてやって来た姉に、紅茶一杯とケーキを出してから、彼女はお盆に自分の分を乗せ
て、応接間へと向かった。障子を閉め、樫のテーブルの前に正座をし、袋の中から雑誌を取り出す。
出てきたのは、ジンガマ増刊号。
一つ息を吐き、ティーカップに軽く口をつけてわずかに喉に流し込んでから、ゆっくりと彼女は
細いその指でページをめくる。
微かに聞こえていた、天満が見るテレビの音が、だんだんと遠くなっていく。それにも気付かぬ
ほど、彼女は集中してその漫画を読み続ける。
最初は戸惑いに揺れていた少女の顔に、次に驚愕が浮かぶ。
次へ次へと急ごうとする思いを何とか抑えながら、いつものように八雲は、彼の作品を熟読する。
だが今日――――この作品に限っては、何も頭に入ってこなかった。ただそこに描かれ、浮かび
上がるストーリーに心を飲み込まれる。
熱かった紅茶が冷めていく。ケーキにも口をつけることなく、八雲はまるでむさぼるように、読
み続けるのだった。
最後の頁まで読み進めた彼女は、呆然と宙を見つめていた。形の良い美しい唇が、わずかに開か
れたままになっているのが、衝撃の深さを物語っている。
手が付けられていない紅茶は、とっくに冷め切っている。
縁側で伊織が、ニャァと鳴いた。
ストーリーは単純で、あまりにありふれたものだった。
不良と、一人の少女の物語。
打ち込めるものを見つけることが出来ず荒れる不良の少年と、彼を見守る後輩の少女。
実は彼が、絵を描くのが得意なことを知り、少女はその才能を伸ばすよう助言する。
最初は自分が絵を描くなんて、と渋っていた彼も、普段は大人しい少女の必死の願いに折れ、そ
して段々とその世界に没頭していく。
やがて彼の絵が認められ、コンクールに入賞。
だがその成功を境に、少年は変わっていく。少女の優しさをすっかりと忘れ、初めて見る世界の
魅力に飲み込まれていく。
少女はそれでも、その彼の成功を影から祈るだけで、何も言わず去ってしまう。
時が流れ。
行き詰った彼から、少しずつ人は去っていく。キャンバスを前にしても、心の中に浮かび上がる
ものがなく、苦しみ悶える彼の前に現れたのは、高校時代の友人だった。
その会話の中で、友人は彼に、少女のことを示唆する。
自分にとっての、少女の存在とは。それを考える彼。
そして彼は、美しく成長した少女の前に、再び姿を現す。
「……うっす」
「お久しぶりです」
最後のコマは、青空をバックに、その二つの台詞があるだけ。
二人の顔は描かれていない。
その後の展開のヒントになるようなものの何一つないエンディング。
少年は、少女に何と言うのか?
少女は、少年のことを受け入れるのか?
二人は、一体、これからどうなるのか?
ありふれた作品、だが話が完全に閉じきっていない。
どこか中途半端なその終わり方に、八雲は播磨の迷いと、そして恐れを感じ取る。
そう。
これは、ハリマ☆ハリオが描いた、増刊号用の読み切り作品。
そして、何よりも彼女が驚いたのは。
少女が八雲という名前で、不良の名前が拳児ということだった。
ピンポーン
インターホンが鳴った。混乱していた八雲は、その音に反応することも出来ず、一瞬、立ち上が
るのが遅れた。
ピンポーン
「はいはーい」
そうこうしているうちに二回目が鳴り、先に天満が玄関に向かった。タイミングをずらされ、中
腰のまま、彼女はその場に留まる。
扉の開く音、その次に聞こえてきた姉の声に、八雲は硬直してしまう。
「わー、播磨君、すごい久しぶりだね――――って、何の用?」
旧交を懐かしむかのような明るい口調、だがそれは次の瞬間に一転、温度は氷点下へと下がった。
八雲は身じろぎ一つ出来ず、その場に凍りつく。全身を耳にして、息を潜め、気配をうかがう。
「お、おう、塚本――――」
そのまま絶句する彼。気まずい沈黙に、八雲は迷う。この場所から、出ていいものか、どうか。
「――――何の用?」
普段は天真爛漫そのもので、人を拒絶することなど知らないかのような姉が、ここまで冷たく強
情な態度をとるのは珍しい。
それは彼――――播磨拳児が、自分の実の妹である八雲を傷つけた、そう思い込んでるからに他
ならない。
誤解させるよう仕向けたのは播磨、だが解かなかったのは自分。八雲の胸に訪れるかすかな痛み。
沈黙を破ったのは、播磨の一言だった。
「あの、よ――――妹さん、いるか?」
八雲は目を大きく見開いた。
カタン。わずかに動いた膝が、樫のテーブルに軽くぶつかる。
その音に驚いた伊織が、縁側を走り抜けていった。
「八雲に……?」
「あ、ああ。どうしても、話したいことがあってよ」
「ふうん……播磨君、ずっと前、私が言ったこと、覚えてる?」
「――――何だ?」
「八雲、泣かせたら、許さないって。私、許してないからね?播磨君のこと」
「…………」
サングラスをかけた彼の顔から、すっと血の色が抜けて、紙のように白くなった。
「その件に関しては、申し訳ねぇと思ってる……だが、今日はどうしても、妹さんに会いたいんだ」
だがしかし、播磨は逃げなかった。それだけの覚悟を、固めてきたのだ。
例え天満に何と言われようとも、今日は八雲に会わなければいけない、と。
「でも……」
「姉さん」
渋る天満は、廊下からかけられた声に振り返る。播磨も彼女につられて、玄関の扉の前に突っ立
ったまま、視線を奥へと向けた。
「八雲」
姉の心配そうな声に構わず、歩いてきた八雲は、播磨の前に立つ。
「……うっす」
「お久しぶりです」
言ってから八雲は気付く。
これは、ついさっきまで読んでいた漫画の最後の一コマのやり取りと全く同じだ、ということを。
同じ事を、彼も考えていたのだろうか。サングラス越しの瞳と唇が微かに、苦笑に揺れている。
もっとも場を考えてか、それを隠そうとしていたけれど。
体の前で手を組んで、八雲は小さく、彼を安心させるように微笑む。
「今日は、どうされたんですか?播磨さん」
「ああ、いや……その」
チラチラと天満を見る播磨の視線に、八雲の姉は気付いていないようだった。ただ不安げな視線
を彼女に八雲に寄せるばかり。
何か、ここでは話せない――――聞かれたくないことなのだろうか。そう察した八雲は、
「ここで話も何ですから、上がって――――あ、いえ」
家に上げたところで、今の『お姉ちゃんパワー』が発動している天満の目や耳から逃れることは
出来ないだろう。
「少し……待っててもらえますか?準備しますから」
だから、外でゆっくりと話をしよう。八雲の意図はしっかりと伝わったのか、
「お、おう。じゃあ俺、外で待ってるわ」
播磨は形容しがたい複雑な顔を見せてから、扉を出て行った。
そして八雲は、自室に向かう。その後を、天満が追った。
「八雲」
いそいそと着替える八雲に、天満が声をかける。
顔を上げて、彼女は姉を見た。
「無理して会う必要、ないんだよ?辛いでしょう?」
今ならお姉ちゃんが断ってきてあげるから。鼻息荒く主張する天満に、八雲はやんわりと言う。
「大丈夫、姉さん。私を信じて」
「でも……!!」
お気に入りのシャツに袖を通す八雲に、なおも彼女は言い募ろうとする。が、
「お願い。今日だけは、二人きりにさせて」
妹のその言葉に、天満は飲み込まれて、何も言えなくなる。
普段と変わらぬ口調、力むこともなく、切羽詰った様でもなく、ただ淡々と八雲は言った。その
横顔も、いつもと同じだ。
だからこそ、天満は八雲を止めることが出来なかった。
彼女の、妹の想いを測ることは出来ない。だがその、気負いの全くない態度に、天満は感じるも
のがあった。
これで八雲を信じなければ、お姉ちゃん失格だ、と。
「――――わかった」
不承不承、と言った感を隠すことなく天満は言う。だがすぐに、
「けど、八雲。もしも播磨君にひどいことされたら、隠さないでお姉ちゃんに言うんだよ?」
「……うん。ありがとう、姉さん」
その時に見せた八雲の微笑みを見て、天満は悟る。
いつの間にか妹が、自分の支えを必要としないほど、女として成長していたということを。
ほんのわずかに感じる寂しさを、天満は押し隠す。
それでも自分は八雲の姉であり、心配する権利があるのだから、と。
「じゃ……行ってくるね、姉さん」
「え……あ、うん。行ってらっしゃい」
物思いにふけっていた彼女の横をすり抜け、八雲は部屋を出て行く。
どこか嬉しそうに見えるその背中を、天満はじっと見送った。
そして、届かない声を、妹に送る。
「がんばれ、八雲」
お姉ちゃんはいつでも、八雲の味方だぞ。口にすることで彼女は、決意を新たにした。
「お待たせしました」
「あ、や、別に……」
振り向いた彼は、思わず口ごもってしまう。
季節は徐々に冬の様相を増す中、播磨は革ジャンにジーンズといった、いつものラフな格好。
対して、普段着から着替えて出てきた八雲は。
黒のVネックシャツの上から、ウェストを絞った白のジャケットを羽織り、カーキ色のカーゴパ
ンツを穿いている。
唇にはつややかなグロスを薄く塗り、首元には銀のネックレス。
播磨は初めて見る、少女の大人びた格好に、知らず胸を高鳴らせ、その目を奪われた。
「あの……変ですか?」
恥ずかしそうに問いかけてくる八雲に、播磨は慌てて首を横に振った。
「いや、そんなことないと、思うぜ。妹さん」
「――――ありがとうございます」
真っ赤になってうつむく彼女に、かける言葉を探すが見つからず、結局、播磨は、
「あー……っと、じゃあ、行くか」
「……はい」
会話のないままに、ぶらぶらとあてどなく歩く播磨と八雲。
少女は時折、話しかけようとしてしかし、彼の強張った顔に言葉を飲み込む。播磨はまだ、今日、
ここに来た用事が一体、何なのかをまだ話してはくれていない。
ただ、八雲はこうしているだけで、心が満たされていくのを感じていた。
付き合っているという噂が流れていたあの頃にも、これほどの充足を覚えたことはない。もちろ
ん、その後の孤独にさいなまれた頃にも。
改めて思う。彼の存在が自分の中で、どれほどに大きいのかを。
そして今、そのことにはっきりと気付いている自分がいる。
共にこうして歩む、それだけなのに、たまらなくこの時間が愛おしい。
もしも、何の前振りもなく、彼が現れていれば、八雲はこうして二人きりになるのを拒んだろう。
そもそも、会うことすらなかったに違いない。
だが彼女は、播磨からの確かな、そしてこれ以上ないほどにわかりやすいメッセージを受け取っ
ていた。
――――ジンマガ増刊号は、今、彼女が手に持つ鞄の中に。
どれほど歩いただろうか。端から見れば奇妙な二人だったことだろう。並んでいながら、会話の
一つもなく、視線を交わすことすらない。
二人の間には、わずかな距離。ほんの少し、手を伸ばせば互いの手に触れ合うことが出来るのに、
そんな気配はまるでない。
可憐で美しい少女が、いかつい男の顔色を窺うようにしているのを見て、勘違いする者もいたこ
とだろう。
例えば、横暴な男に無理矢理に付き合わされている、気の弱い少女、といったように。
だがよく観察すれば、それが間違いであることを知ることが出来ただろう。
男――――播磨の頬は緊張に硬くなり、表情も強張っている。晩秋の涼しさにも関らず、額には
うっすらと汗をかいている。
対して、少女――――八雲は、落ち着き払っている。足取りは軽く、その唇からこぼれる吐息は
色づいている。幸福、という色に。
「あー」
そして二人は、肌寒い丘の上の公園にいた。播磨は辺りを見回して、一角のベンチに彼女を誘う。
言われるがままに、隣に座った八雲に、彼はしばし逡巡した後、鞄の中から袋を取り出し渡す。
「……これは?」
その厚さを見て、すぐに中身の推測は出来たものの、あえて八雲は問い返す。
「あー、まあ、その、何だ。今日、俺の読み切り作品が載った雑誌で……」
彼女は、袋を開けることなく押し返す。
硬直する彼の前に、八雲は自分の鞄から増刊号を取り出して見せた。
「そ、それ……」
「もう、読みましたよ」
笑う八雲は、思う。自分が少し、悪戯っぽく――――つまり普段の自分らしくない笑顔をしてい
るだろう、ということを。
舞い上がっていることを、彼女は自覚する。浮き足立つ心、そして体。自分が羽根のように軽く
なっているような、今なら空を飛べそうな、不思議な感覚に、八雲は少しだけ酔いしれる。
だから、だろう。
「で……どう、だった?俺の……」
「そうですね」
――――膝の上に置いた本に、軽く目をやる八雲。
「漫画家失格、だと思います」
普段ならば言うことはおろか、思うことすらない言葉が、彼女の口を突いて出てきたのは。
播磨の顔から、一気に血の気が引いていく。
「い、妹さん……」
肩を落としかけた彼は、しかし、顔を上げた八雲の目にきらめく光に、吸い込まれる。
「……妹さん?」
美しい少女の、吊り上った瞳の端に留まるのは、涙。
「だって、そうじゃないですか」
溢れた一雫が、頬を伝う。
「世界でたった一人にしか、伝わらないストーリーなんて――――」
それはメッセージ。
この地球に何十億と生きる人間のなかで、ただ八雲にしかわからない暗号。
二人だけが、その意味を知るストーリー。
だからこその、あの終わり方。
物語が閉じきっていないのは、描いた彼にも、この先がわからなかったから。
漫画の中の二人が、これからどうなるのか。
全ては彼女――――八雲に委ねられている。
笑いながら、彼女は泣く。
揺れる瞳から放たれる輝きが、彼の目から内へと入り込んでいく。
ポトリ、雑誌の上に落ちた涙は、彼の心をも濡らし、うるおしていく。
「…………」
口を開けた播磨は、だが何も言えず、そっぽを向いた。
明後日の方向を見る彼の横顔は、ほんのりと赤く染まっている。
照れているのだとわかって、八雲は一段と、その笑みを深いものにする。
涙をぬぐって少女は、雑誌を膝の上で広げた。
適当に開いたはずなのに、偶然にもそれは、彼の漫画の最後の頁だった。
「……うっす」
「お久しぶりです」
本の中の、白黒の空に踊る文字が、現実に重なる。
「そこまでは、想像できたんだけどよ」
ぶっきらぼうに言い放つ播磨の顔を、座ったまま、八雲はわずかに見上げる。
「――――なあ、妹さん。ひどい男だと思うだろ、その男のこと」
サングラスに隠れて、彼の目は見ることが出来ない。その表情も押し殺されていて、読まれるこ
とを拒否している。
「正直、俺もどうかと思うんだぜ。自分から離れていった癖に、困ったら元の場所に戻ろうってん
だからな。都合良過ぎだぜ」
本当に、ひどい奴だぜ。繰り返して言う播磨を、八雲はじっと見つめる。
そして優しく、微笑む。
自分のことを漫画のキャラに託して言うことしか出来ない、そんな不器用さが何故かひどく、愛
おしく思えたのだ。
「私……幸、薄そうだって言われるんです」
変わった話題に、怪訝そうに八雲を見つめる播磨。少女は、じっと前を見ている。横顔には、言
葉とは裏腹に微笑が浮かぶ。
「どんなに騙されても、ひどい目に合わされても、それをじっと耐えて文句の一つも言わない。そ
んな風に見えるらしいんです」
播磨はその言葉に、微かに顔をゆがめる。
一つにそれは、暗に自分を責めているかのように感じたからであり、もう一つには、その印象は
彼自身、彼女に抱いていたからでもあった。
「私……播磨さんに……」
言いかけたところで、二人の視線がぶつかった。
時が止まったかのような、永遠の一瞬を、八雲はぬくもりの中で感じる。
八雲の瞳は、播磨の視線を抱きしめる。舞う風が、二人の髪を揺らして去るまで。
はっと我に返って、少女は視線をそらす。そして、
「この子……彼に出会えて幸せだったと思います。だって最後には……必要とされるんですから」
自分の意気地のなさを、八雲は少し歯がゆく思う。本当に、言いたかったのは。
「他の誰に何て言われようと、彼女は幸せだと思います」
託すことなく、自分のこととして、想いを告げること。
「それに……私、思うんです。彼女がであったのが、彼で良かった、って。だって、彼はとても―
―――優しい人、だと思いますから」
八雲はしかし、悔しさと同時に安堵も覚えていた。自分の事としては、言えなかっただろうこと
も言えたのだから。
「そ、そっか。妹さんに、そう言われると、心強いぜ」
彼女の気持ちが伝わったのか、どうか。播磨はわざとらしい大声で言って、そして口を閉ざす。
ぎこちない沈黙。二人の頬は、同じように赤く染まっている。
男と少女の距離は、相変わらず。近づこうとせず、遠ざかろうとせず。
だがそこには確かに、熱が生まれていて。
うつむいていた八雲が、男の顔を見上げる。
明後日の方を見ていた播磨が、少女を盗み見る。
交錯する、視線。吸いつけられたように離れない。
「あの、よ」
見詰め合ったまま、播磨が口を開いた。八雲は、黙ったまま頷く。
「また、これからも、その……漫画、見てもらっていいか?」
「……はい」
想像通りの播磨の台詞に、八雲は静かに笑い、そして首を縦に振る。
言葉にすれば、それは確かに、決定的な何かではなかった。
二人の関係が、これからまた始まるのだという、ただそれだけのこと。
それでも彼女が、幸せそうに笑ったのは。
一瞬。ほんの、一秒にも満たない時間のことだったけれど。
播磨の心が、視えたからだった。
そこに視た想いを、八雲は胸に大切にしまいこんで、誰にも秘密にしようと、心に決めた。
「そっか――――ありがとよ」
「いいんです――――播磨さんの……漫画、好きですから」
二人は、ベンチに座ったまま、並んで空を見上げる。
雲は風に運ばれたのか、澄んだ露草色の青が、頭上いっぱいに広がっている。
八雲はふと、隣を見た。そして手を伸ばし、彼の目からサングラスを取る。黙って、なすがまま
にされる播磨。
その目に映る空に、少女は安らぎを覚える。
自分と同じ青を、彼が感じてくれている、共有しているのだ、と。
二人の、再会、そして再開。
空に見守られた自分達の物語は、これからまた始まるのだと、八雲は感じていた。