スクールランブルIF12【脳内補完】

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392If...moonlight silver
 淡い紅茶色の長い髪、そして深い黒の瞳。微笑みたたずむ彼女に、月の光が絡んで踊る。
 同性の目から見ても、彼女のその姿は美しいと、絃子は思った。
 そう。時に、焦がれるほどに。
 胸が焼かれるほどに。

 If...moonlight silver

 彼の携帯にメールが入ったのは、愛理の家を後にした日の昼のことだった。
『来たまえ』
 ただその一言。差出人は、彼の従姉妹。
 少し前までいた少女の家での出来事に気を塞いでいた播磨は、最初それを無視しようとした。
 が、思いとどまる。
 播磨が、高校卒業と同時にあのマンションの一室を出てからこれまで、彼女――――刑部絃子が、
彼を家に招いたことは一度もない。
 そんな彼女が、唐突に彼を呼び寄せた……その裏に何かあるのではないか。ふと、彼はそう思っ
たのだ。
 久しぶりに、絃子の顔を見るのも悪くない、か。
 心の中で呟いて、彼は承諾のメールを返す。
 その脳裏には、沈着冷静、滅多なことで落ち着きを失わぬあの女性の顔が浮かんでいた。

 雑用を済ませた彼が、玄関の前に立ったのは結局、夕暮れ間近。
 まだ半年しか経っていないせいか、懐かしさはない。
 ただ、鍵を返していたことを忘れていて、ポケットを探した自分に彼は苦笑する。首を振って、
播磨はインターホンを押した。
「遅いぞ、拳児君」
「いや、俺にも都合があるからな……って、おめぇ」
 久々に会う彼女の、体からは隠しきれないほどの酒気が溢れ出ていた。その匂いに鼻をしかめる
間もなく、播磨は絃子に腕をつかまれ、部屋の中へと連れ込まれる。
 バタン。扉が背の向こうでしまる音を聞きながら、彼は戸惑いを覚えた。
「おい、大丈夫かよ」
「ああ……大丈夫さ」
 アルコールに足をもつれさせる従姉妹の姿を、彼は初めて見た。
393If...moonlight silver:04/08/24 07:59 ID:nFOxrung
「まぁ座りたまえ」
「…………」
 絶句したまま播磨は、リビングの床を見つめる。
 ビールの空き缶、リキュールの空き瓶、お菓子のカス、枝豆の残り、等々。
 テーブルを中心に床一面に散らばるそれらの姿は、少なくとも彼がこの家に下宿している時には、
全く見られなかった。部屋を汚すのは播磨の方で、絃子はそれを一々叱る方だったから。
 救いと言えば、それらが年季の入ったものではなく、ここ一日二日の間の出来事なのだろう、と
いうこと。
 逆に言えば、そんなわずかの間にここまで部屋を散らかした、ということなのだが。
「どうした?座らないのか?」
「あのな、おめぇ、どこに座れってんだよ?」
 床の惨状を気にせず、彼がいる時から愛用しているクッションに座る絃子に、彼は苛立ちの声を
返しながら、それでも何とかゴミを寄せて自分の座る場所を確保する。
 ドン。
 腰を下ろした途端、目の前に置かれたのは、ビールの1リットル缶。
「まあ飲みたまえ」
 思わず彼は絃子を見つめ返す。その深い紺の瞳は鋭く、彼を縛ろうとする。
「いや、だからな」
「飲みたまえ」
 反論を許さぬ、強い口調と視線。渋々、播磨は頷いた。
「……わかったよ」
 プシュッ。
 プルタブを開けた途端に溢れ出した泡を、彼は口を寄せて吸い取る。
 その姿を絃子はじっと、見つめていた。そして一気に、手に持っていた缶をあおったのだった。

 会話もないまま、ただコンポから流れる懐かしい音楽を聴きながら、二人は酒を呑み続けた。
 ちらちらと播磨は、年上の従姉妹の様子を窺う。
 白のタンクトップに、黒のホットパンツ。すらりと伸びた手足の、艶かしい白が今は、微かに桜
色に色づいている。
 飲み続けるビール、次々と生まれる空き缶。それは彼が見慣れた風景でもあった。その細い体の
どこに、それほどのアルコールが入るのかと疑うほどに、彼女は底なしに飲む。飲み続ける。
 だが今日の彼女は、どこか違う。そんな風に彼には感じられた。
394If...moonlight silver:04/08/24 08:00 ID:nFOxrung
 播磨が知る刑部絃子は、酒に飲まれない。どんなに飲んでも乱れるということがない。悪酔いと
いう言葉は、彼女の辞書にない。
 それが、今の絃子は。
 常は顔色一つ変えない彼女が頬を染め、瞳を曇らせている。視線は遠く、焦点を定めていない。
 酔っている。最初、彼はそう思った。限界を越えて飲み続けて、さすがに体がついていかなくな
ったのか、と。
 だが眺めているうちに、間違いだと気付いた。いや、間違いではなく、もちろん彼女は酔ってい
るのだろうが、それだけではない、そう感じたのだ。
 何かを気に病んでいるような……播磨の目には、彼女の振る舞いがそのように映った。
「どうしたんだい?」
 眺め続ける彼に気付いてか、絃子はテーブルに肘をついて、問いかけてくる。
 その顔に浮かぶ、微笑。だがそれは、彼の知る刑部絃子のシニカルな笑みでなく、どこか淫蕩な
もの。タンクトップから胸の谷間を覗かせているのは、気付いていてのことなのだろうか。
「い、いや、別に」
 見てはいけないものを見てしまった。そんな罪悪感にかられて、播磨は目を背ける。
395If...moonlight silver:04/08/24 08:00 ID:nFOxrung
 淫らな気持ちにかられたわけでは、決してなかった。
 それはまるで禁忌に触れてしまったような、そんな感覚だったのだ。
 播磨にとって刑部絃子とは、揺らがない女性の象徴だった。
 その彼女が見せる痴態は、媚びは、何故か汚らわしいように彼には感じられた。
 播磨の反応に、絃子は少しだけ残念そうな顔をする。が、それはほんの一瞬のことだった。口元
に運んだ缶、ビールを飲み込んだ後の彼女の目には、微かにだが理知の光が再び、灯っていた。
「それにしても拳児君、いつもよりピッチが遅いじゃないか」
 凛と張った声は、まだ酔いのせいかかすれている。それでも播磨は、その中に芯が戻ったのを感
じて、彼女の顔を見た。
「ま、な……ちっと嫌なこと……ってわけでもねぇが、まあとにかく、酒は控え目にしようって思
ったんでよ」
 彼の瞼の裏にちらつくのは、沢近愛理の泣き顔。
 二人の間には何もなかった。それは確かだ。だが酔い潰れて、あのような醜態を二度と繰り返す
わけにはいかない。少なくとも、この記憶が生々しいうちは。そう彼は考えていた。
「そうか」
 また彼女は失望に似た感情を表に出したが、播磨は気付かない。
「絃子こそ、どうしたんだ?今日はえらく飲んでるみたいだけどよ」
396If...moonlight silver:04/08/24 08:01 ID:nFOxrung
 転がる空き缶、空き瓶に目をやって言った彼に、絃子はわずかに顔をしかめる。
 常のように超然と笑おうとして果たせず、どこか自嘲めいた表情。
「そうか?」
「ああ、それに、不機嫌っぽいしよ」
 苛立っている、ということは彼にもわかった。そして、それだけではないということも。はっき
りと何なのかまでは、わからなかったのだけれど。
 絃子は答えず、しばしの間、視線をうつむかせ、手に持つ缶をじっと見つめる。
 冷房をきかせた部屋には、アルコールの臭気が満ちている。窓の外には、まだ微かに青い空にぽ
っかりと浮かぶ月。
 彼はビールをわずかに口にし、そして目の前の従姉妹の顔を見つめた。すでに灯の入った蛍光灯
の光が浮かび上がらせる、整った彼女の顔の影、揺れる睫毛。
 コンポから流れていた音楽が、わずかに余韻を残しながら消えていく。
「実はね」
 沈黙を破ったのは、囁くような、かすれた絃子の声だった。
「葉子が、結婚することになったんだ」
「……へぇ」
 軽く驚きの声をあげた後、播磨は続ける。
「そりゃ、めでたいじゃないか」
「…………」
 ちらり、と目を上げた彼女の瞳に不満げな光が浮かぶ。柳眉がわずかに寄せられた。
 だがすぐに、
「そうだな。めでたい、めでたいことだよ」
 乾いた笑い声が部屋に響く。
 そして言葉を失っている播磨に、絃子は手近に転がっていた一升瓶をとり、コップに注いで彼に
差し出す。
「いや、ほんとうにめでたいよ。だから、祝い酒だ。飲みたまえ」
 曇る瞳の中に浮かぶ穏やかならぬ光が、播磨の瞳から入り込んで心を射抜く。
 押しつぶしてくるかのような圧力に逆らわず、彼は杯を受け取った。
「いやいや、めでたいことだね。うん、そうだ、めでたい」
 憑かれたように笑い、めでたいと何度も繰り返す絃子に戸惑いを覚えながら、彼はグラスに口を
つけたのだった。
397If...moonlight silver:04/08/24 08:21 ID:nFOxrung
「私と、葉子はね」
 彼女がそう言ったのは、ひとしきり笑った後、口を閉ざし一人、手酌で何度も杯を空けてからの
ことだった。
 空はすでに暗く、ただぼんやりと鈍く輝く月の銀の欠片だけが宙に舞っている。
 地は街の光で溢れ、変わらぬ人の営みを浮かび上がらせていた。
 絃子は床に寝転がって天井を見上げながら、左手の甲を自らの額にあてる。
「もう、長い付き合いなんだ」
「そりゃ、知ってるけどよ」
 あぐらをかいて何をするわけでもなく播磨は、絃子の声を漫然と聞き、言葉を返す。
 彼女はそれに気を悪くすることもなく、横になったまま、視線を彼の顔へと移した。
「なあ、拳児君」
「……あ?」
「あの頃の私のことを、覚えているかい?」
 控え目に飲んでいたとはいえ、それでもさすがに顔が酔いに染まりつつある播磨は、その言葉に
わずかに身じろぎをし、向き直って絃子を見つめ返す。
「あの頃って、あの頃のことか?」
 絃子は、ああ、と呟いて一つ、首を縦に振る。


 あの頃。
 どこにいても、何をしても、刑部絃子は満たされることがなかった。
 ここは自分の場所ではない。そんな違和感が常に、彼女の心に影のようにつきまとい、離れよう
としなかったのだ。
 自分以外の誰をも、醒めた目で見つめていた。交わることのない生き方だと、思っていた。
 知らず知らずのうちに、彼女は孤独を歩いていた。
 世界を拒絶したわけでも、拒絶されたわけでもない。ただ絃子は、ざわめき羽ばたきたがる体を
持て余しながら、振り向くことなく歩いていただけ。そしてはぐれただけ。
 その姿は、しかし気高く見えた。その瞳に浮かぶ蒼く燻る炎に魅せられ、惹き付けられた者達に、
彼女は囲まれた。
 だがそうやって彼女個人に惹かれて集った人間の中にいてもなお、彼女は馴染もうとはしなかっ
た。いや、むしろなおさらに違和感はつのり、孤独を感じるのだった。
 そんな彼女の前に現れたのが、笹倉葉子だった。
398If...moonlight silver:04/08/24 08:22 ID:nFOxrung
「絃子先輩」
 絃子が葉子のことを考える時、最初に浮かぶのは、あの頃、笑いながら声をかけてくる彼女の姿
だった。
 その穏やかだが明るい物腰、稚気を感じさせる振る舞い、澄んだ声。それでいながら、見かけに
よらず情熱的で、向こう見ずな性格。
 慕われ、付きまとわれることを鬱陶しいと、彼女は思ったが、好きなようにさせていた。
 どうせこいつも、他の人間と一緒なのだから。私の中には、入ってこれないのだから。

 だが彼女は、葉子は違った。
 どんなに邪険にされても、葉子は彼女の傍らから離れようとしなかった。
 そんなある日のこと。
「あ、絃子先輩」
「……何をやってるんだ、葉子」
 彼女がよく行く深夜のライブハウス。薄暗い地下の狭い空間に、紫煙と爆音が満ちている。
 その一角で葉子が、男達と一緒になって騒いでるのを見つけて、絃子は眩暈すら覚えた。
「今、何時だと思ってる!?何をやってるんだ!!」
「絃子先輩に会いに来たんですよ」
 あっけらかんと答える彼女の口から漂うアルコールの匂いを嗅ぎ取り、絃子は近くにいた男をつ
かまえて問い詰めた。
「あいつに酒、飲ませたのか?」
「ん?ああ、飲みたいって言ってたしよ」
 答えた後、彼は好色そうな光を浮かべた目で葉子を見つめる。
「なあ、あいつ、刑部の知り合いなのか?紹介してくれよ」
「バカ」
 吐き捨てるように言った後、絃子は葉子の腕をとって男達の輪の中から連れ出す。
「おい、刑部。葉子ちゃん、また連れてきてくれよ」
「葉子ちゃーん、またね〜」
 アルコールに微かに上気した顔に笑みを浮かべ、男達に手を振る葉子を引きずるようにして、絃
子はその場を後にした。
「あー、気持ちいい」
 外に出てすぐ、深呼吸をしながら、大きくのびをする葉子の背を、絃子は苦虫を噛み潰したよう
な顔でにらみつけていた。
399If...moonlight silver:04/08/24 08:23 ID:nFOxrung
「絃子先輩、よく平気ですね。私、煙草の匂いとかって苦手で」
「あのね、葉子」
 にこにこと笑う彼女の様子に耐え切れず、とうとう絃子は苛立ちを表に出した。
「女一人で、こんな時間まで出歩いて!!危ないと思わなかったのか!?」
「知ってますよ」
 葉子の抑えた一言は、なおも言い募ろうとする彼女の頭を冷やすに十分な力が込められていた。
 振り向いた少女の瞳の奥深くに、熾のごとく燃える意思と理知が、絃子をとらえた。
「でも、絃子先輩だって、一人じゃないですか」
「私は……」
 言い返そうとしたが、喉にからみつく何かが彼女の声を止めた。眉を寄せて口を閉ざす絃子に、
「特別だ――――とでも言うんですか?」
 たたみかけるような葉子の言葉は、激烈なものでは決してなかった。穏やかで、落ち着いた口調。
 しかし、だからこそ余計に、絃子の心は打ちのめされた。
「私は……」
 もう一度、そうとだけ言って――――いや、それだけしか言えずうつむいた彼女を、葉子はじっ
と見つめていた。
 そして、優しく微笑む。
 銀の月光が、少女の笑顔に跳ねた。
 絃子はその姿に、心を奪われたのだった。

 絃子が好んで葉子と行動を共にするようになったのは、その日以降だった。
 彼女といることで、自分の心が落ち着く不思議に、絃子は気付き始めていた。
「葉子、いるかい?」
「あ、絃子先輩」
 教室におらず、そこにいた葉子のクラスメイトに聞いて訪れた美術室で、絃子は初めて彼女の絵
を見た。
 それは何でもない静物画。下書きを終えたばかりなのか、まだわずかにしか色が入っていないそ
のキャンバスの前に、彼女は座っていた。
「上手だね」
「わかるんですか?」
「……いや」
 苦笑しながら、素直に絃子は首を横に振った。
400If...moonlight silver:04/08/24 08:23 ID:nFOxrung
「絵のことはよくわからないから。でも……うん、私は好きだよ」
「ありがとうございます」
 にっこり笑って、葉子は再びキャンバスに向かう。
「見てていいかい?」
「つまらないですよ?」
「かまわないさ」
 近くの椅子を引き座った絃子は、机に頬杖をつきながら、呆と彼女を見つめる。
 踊ったかと思えば、迷い止まる手。一筆一筆に真剣になる葉子と、徐々に鮮明なものになりつつ
ある絵を交互に眺めていた絃子はやがて、悪いと知りつつ葉子に声をかける。
「絵、好きなのかい?」
「ええ。好きですよ」
 筆を休めることなく、その顔に笑みを浮かべながら葉子は答える。
 ふうん。頷いた後、ぽつりと絃子は呟いた。
「羨ましい」
 小さな声は、しかし、葉子の耳から逃れることは出来なかった。顔だけを絃子の方に向けて、彼
女はゆっくりと尋ねる。
「何がですか?」
「好きな物があることが、さ」
「……ギターとか、モデルガンとか。絃子先輩にもたくさん、あるじゃないですか」
 たしなめるような葉子の言葉に、絃子は吐き捨てるように返す。
「あんなもの、暇つぶしだよ。好きとは、違う」
「…………」
 その答えに微かに顔を歪めた後、葉子はキャンバスに向き直った。
 不自然な沈黙が、きしむ。居心地の悪さを覚えながら絃子は、知らず自分が葉子の内に踏み込ん
だことに気付く。
 目を合わせるのが怖くて、彼女は顔を背け続ける。しかしざわめく胸を抑えきることは出来ず、
気付かれないように絃子は、葉子の横顔を何度も盗み見た。

「私、才能があるらしいんです」
「……へぇ」
 まだ未完成の絵を見ながらの葉子の言葉に、何と言っていいかわからず、絃子は曖昧に答えた。
その声の奥に、深みと落ち着き、そして全く反対の揺らぎを感じながら。
401If...moonlight silver:04/08/24 08:24 ID:nFOxrung
 彼女の視線の先には、誰のものとも知れない絵。しかし心の全てはすでに、葉子の声へと向けら
れていて、見えているはずのものが頭に入らない。
「で、子供の頃からずっとそう言われてて。だからこうして、今でも絵を描いてるんですけど」
 苦笑しながら、葉子は首を横に振った。
「私って、本当に絵を描くのが好きなんですかね?」
 その鋭い瞳に、戸惑いを浮かべながら絃子は、言った彼女の横顔に目を向ける。
 遠くを見つめる彼女の瞳、笑みの形をする唇。秋の夕の赤が、影をその顔に刻む。
 不意に、世界から音が消えたように、絃子は感じた。遠くに聞こえていた車や電車の音、合奏部
の練習、そういった全てのものが、耳を通り過ぎていく。
 ただあるのは、自分と彼女の発する吐息と声、そして身じろぎするたびに生まれる衣擦れの音。

 三分。
 絃子と葉子が、沈黙を共有していたのは、たったそれだけの時間だった。
 口を先に開けたのは、絃子だった。
「さっき、自分で好きって言ってたじゃないか」
「あんな聞き方されたら、好きって答えるしかないじゃないですか」
 そうふくれっ面で言う彼女の顔にはすでに、ほんの少し前まであった影は消えてなくなっている。
 幻だったのか、と絃子が自らを疑うほどに、全く。
「やらされてるわけじゃないんです。でも、すごく好きだからやってるわけでもないし――――惰
性なのかなぁ?」
「考えすぎだよ、それは」
 おどける葉子に、苦笑しながら答えた絃子は、しかし、
「じゃ、絃子先輩だってそうですよ」
 不意に投げかけられた言葉に、凍りつく。
 顔を上げた彼女の、弱い視線に絡みついていくのは、葉子の穏やかな瞳から溢れる光だった。
 心の奥底、誰にも触れられていない部分にまで見えない手を伸ばそうとする彼女に、絃子は拒絶
することを忘れて、されるがままになった。
 不思議とそれは、不快ではなかった。
 それは絃子を見る葉子の目にぬくもりが溢れていたからだったように、後になって彼女は思った
のだった。
402If...moonlight silver:04/08/24 08:24 ID:nFOxrung
「絃子先輩、何でも難しく考えすぎてるんじゃないですか」
「……そうかな?」
「考えなくていいことまで、考えすぎです。先輩は」
 断定するように言うその口調が、何故か妙に可愛く聞こえて、絃子は軽く苦笑する。
「そういうものかね?」
「ええ、そうですよ。もうちょっと、気楽にいきましょうよ。そんないつもしかめっ面してたら、
ふけるのも早いですよ」
「……あのね……最後の一言は余計だよ」
 微かにこめかみを引きつらせながら抗議する絃子の様子に、彼女は声を上げて笑ったのだった。

 二人はそれから、折に触れたくさんの会話を交わした。
「葉子は、絵で生きていこうと思ってるのかい?」
「そりゃ、そうできればいいですけど。絃子先輩は、将来の夢とかって何ですか?」
「……まだわかんないね。好きなことをやって、生きてければいいんだけど」
「銃を撃つのが好きだから、そうですね、刑事とか?」
「……あのね、結論はともかく、人を危ない人間みたいに言うのは止めてくれ」
「あ、でも警官姿も見たいけれど、女マフィアも似合いそうですね――――ってダメですよ、先輩。
悪いことしちゃ」
「だから、何故そう突っ走る」
 笑いながら過ごした、穏やかな時間。
 それは途切れることなく、ずっとこれまで続いてきている。
「大学、美大にしたんだって?」
「ええ。ダメ元、ですけど」
「そうか……」
「あれ、絃子先輩、寂しそうですね。もしかしたら私に、一緒の大学に来て欲しかったんですか?」
「ば、ばか。何を……」
「心配しなくても、毎日、遊びに行きますから」
403If...moonlight silver:04/08/24 08:37 ID:nFOxrung
 自らの下した決断を、いつも最初に話したのは、先輩後輩の関係から、いつしか親友へと変わっ
た彼女にだった。
「絃子さん、来年、卒業なのに、就活とかしなくていいんですか?」
「そのことだけどね、葉子。私、教師になろうかと思うんだ」
「……教師、ですか」
「ああ、高校の物理で――――似合わないかな?」
「そんなことないですよ。応援してますから」
 一年後、後を追うようにして矢神高校に葉子が赴任してきた時は、さすがの絃子も呆気にとられ
てしまったものだったが。

 懐かしい記憶を手探りでたどっていた絃子の意識が、急速に浮上してくる。
 見慣れた天井、アルコールの匂い、自分が変わらず、部屋にいることを彼女は認識する。
 時計を見て、己の内に向かっていたのはほんの数分のことだった、ということを知る。
 ゆっくりと、もやがかかりつつあった意識が晴れていく。
 何をやってるんだ、私は。
 この自暴自棄としかとれない状況に舌打ちをしたい気分になりながら、そのままの姿勢で、彼女
は側にいる男に声をかける。
「葉子がいなかったら……私はきっと、ここにいなかっただろうな」
 前振りの何もない唐突な一言に、播磨が怪訝そうな表情を浮かべるが、それに構わず、絃子は天
井を見上げ続ける。
 今なら、わかる。彼女は胸の内で呟いた。
 あの頃の自分は、逃げていた。
 目をそらして、ただ心の飢えを満たしてくれるものを探すふりをして、快楽に流されていただけ。
 ふわふわと浮かぶ絃子の心にとって、葉子の存在はいつも、重しだった。
 負担、というわけでは勿論、ない。
 あてどなくさまよい、流されそうになる彼女の精神を、地に引き止めてくれた、大切な存在。
「もしも葉子と出会ってなかったら――――私は」
 どうなっていただろう。ふと、彼女は想像してみる。
 なんにせよ、ろくでもないことになっていただろう。彼女はそう思う。
 少なくとも、胸を張って、自分の見ている世界の素晴らしさを誇れるような生き方は、出来なか
ったに違いない、と。
404If...moonlight silver:04/08/24 08:39 ID:nFOxrung
 そんな大切な彼女のことを、絃子は鏡のようなものだと思っている。
 葉子の瞳に映る自分こそが、本当の自分。
 刑部絃子という女性の弱い部分であったり、情けなさを、葉子の瞳ははっきりと映し出すのだ。
 いたたまれなくなることもありながら、しかし彼女を必要としているから、絃子は決して逃げ出
さなかった。
 だから今、絃子はここにいる。
 そして充実した生を謳歌している。心の飢えなど、もはや感じることもない。
 何故ならそれは、幻に過ぎなかったのだから。ただの、エクスキューズにすぎなかったから。

「私はね、拳児君」
 体を起こし、絃子は彼の方へと向き直る。
 サングラスのない播磨の顔をじっと、彼女は見つめる。そして彼は、見つめ返す。
「あの頃の自分も、嫌いじゃないんだ。あれも、私だったからね」
 播磨の表情が、かすかに揺れた。それはきっと、彼自身が過ごした日々のことを、思い出してい
るからなのだろう。
 中学時代の彼が身にまとっていた、張り詰めて尖った空気を絃子は思い出す。そしてその向こう
見ずな性格と我の強さに、過去の自分の面影を重ねていたことも。
「でも、ね」
 だが彼女は、葉子と出会った。
「私は、今の自分に満足しているんだ――――妥協や、諦めじゃない。無理矢理、自分に言い聞か
せているんでもない。あの頃があるから、今の私がいる」
 自分の目と、心に力が宿るのを絃子は感じていた。酔いはすでに、霧散している。
「人は変わる。けど、別人にはなれない。あの頃の私の中にも、きっと、今の私がいたんだ」
 生まれ変わるなんて、出来やしない。絃子はそう信じていた。
「それを見つけるきっかけをくれたのが、葉子だった」

 月の光に浮かびあがる少女の面影。
 銀が、弾けて、そこから生まれたかのように無垢な、それでいて何もかもを知っているような、
深い笑顔だと、絃子は思った。
 それは月が見せた幻に過ぎないことは、その後に彼女と過ごした日々が教えてくれている。葉子
は、天からの使いでも何でもなく、悩みを抱えた一人の人間に過ぎない。
 だがそれでも、彼女はあの時に見た笑顔を、心に刻んで忘れようとしない。
405If...moonlight silver:04/08/24 08:40 ID:nFOxrung
「で、そんな大事な笹倉センセが結婚することの、何が不満なんだよ」
「…………」
 彼本人は、何気ない言葉だったのだろう。しかしそれで事実を思い出さされて、絃子は不機嫌そ
うに顔を背ける。
 その瞳に入り込む、月の光。
 彼女が考えていたのは、自分と葉子の関係だった。友達、親友。もちろんそれで言い表せる。だ
がそれだけでは足りないように、絃子は思っていた。
「何だか、あれだな。そんな風に言ってると、絃子、おめぇ、笹倉センセに惚れてるみたいだな」
「バカ、私にそういう趣味はない」
 茶化すような播磨の台詞に苦笑を返しながら、だが、と絃子は窓の外の月を眺めて続ける。

「もしも私が男だったら――――うん、葉子を他の人に、渡しはしなかっただろうね」

 雲に隠れて鈍く輝く月の中に、葉子の笑顔を重ねて言ったその言葉は。
 刑部絃子の本心だった。

「……絃子?」
 かけられた声に、我に返った絃子は照れに染まった頬をかく。そして、
「なあ、拳児君」
 居住まいを正し、背筋を伸ばして、絃子は播磨の視線をつかむ。
「説教臭いことを言うようだが、そういう人との出会いは大事にするもんだ」
 彼女につられてか、真摯な顔の播磨に、
「私には葉子がいた」
 一呼吸、間を空けてから、絃子は問いかけた
「君には、誰がいる?」


 それは、天満ちゃんだ。播磨はそう思った。
 生き方を変えるような、誰かとの出会い。それは、彼女とのそれをおいて他にない、と。
 自分が世界の中心で、神だと思っていた、中学生時代。
 誰にも縛られることなく、己を拘束するものなど何もないと思っていた。
 そんな自分が変わったのは、一人の少女と巡り合ったからだった。
406If...moonlight silver:04/08/24 08:39 ID:nFOxrung
 だが、本当にそうなのか?
 もう一つの内なる声が、播磨の心に木霊する。
 陽炎のように揺らめく人影が、閉じた瞼の裏に浮かび上がる。

 彼女――――天満の存在があったからこそ、自分は生き方を改めた。
 そう、確かに、あの出会いがなければ、自分がどうしていたかは、絃子と同じで想像出来ない。
 だが。彼は己の過去と向き合い、その先へと進む。
 だが、今の俺があるのは。
 くっきりと脳裏に浮かび上がる顔。
 妹さん、としか呼んだことのない少女。
 彼女が、そして彼女の言葉があったからこそ、自分は今、漫画家として生きていられるのではな
いのか?
 考えたとき、播磨の心は確かに、揺れた。
 それは天満と初めて出会い、心奪われた時ほどの衝撃ではなかったが、しかし確かに、胸をつか
れる想いだったのだ。

 いつの間にか、時計の針は十二時を回っている。
「そろそろ、寝るか。拳児君、君も今日は、泊まっていくといい」
「ん……?あ、ああ。じゃあ、そうさせてもらうぜ」
「――――なあ、拳児君」
 そのまま、リビングの床に寝転がる拳児に、ソファに横になった絃子がそっと呼びかける。
「ん?何だよ」
「さっきの話だけど、ね。私が男だったら――――という話」
「ああ」
「私は、こう見えても女でね――――私が女として好きなのは――――」
「……好きなのは?」
「――――何でもない。忘れてくれたまえ」
「……変な奴」
407If...moonlight silver:04/08/24 08:39 ID:nFOxrung
 目を閉じても、しばらくの間、彼は眠れなかった。
 思い出すのは、今日一日の出来事。
 沢近愛理の流した涙。
 刑部絃子の見せた弱さ。
 彼の心は、ひどく揺さぶられていた。
 初めて彼は立ち止まり、振り向いて己の歩んできた道を見つめ返す。

 俺がここにいるのは――――
 ――――いれるのは――――
 眠りの世界へと引きずり込まれる直前、彼の心に苦い痛みが訪れた。
 妹さんがいなければ、俺はこうしていられたか?
 ――――その妹さんに、俺は何をしてやった?


 絃子が目を覚ますと、空き缶や空き瓶はビニール袋にまとめられ、散らばっていたゴミも片付け
られていた。
 かけられたタオルケットを床に落としながら、彼女は立ち上がり、彼を探す。
 が、その姿はない。
 テーブルの上に置かれた手紙に気付いたのは、寝起きの頭がはっきりとしてきた後だった。
『昨日はサンキュな。ま、元気、出せよ。拳児』
 簡潔に過ぎるその文章に、絃子は苦笑する。
 思い切り良く開けたカーテン。外の世界は陽光に溢れていた。
 しばらく空を見上げていた彼女は、やがて長い髪をかきあげ、無意識に鼻歌を口ずさみながら、
浴室に向かった。
 彼女の胸の奥をしめていた鈍痛は、さっぱりとなくなっていた。

 ずっと自分を追ってきた、笹倉葉子という女性。
 その存在はいつの間にか、絃子の中でとても大きくなっていた。
 前から気付いていたことだったが、彼女が結婚すると聞いてなおさらに、その重さを思い知らさ
れたのだ。
 嫉妬していたのだ。
 彼女が、自分以外の人間と歩くことを。
408If...moonlight silver:04/08/24 08:40 ID:nFOxrung
 しかし、だからこそ絃子は、祝福したい、そう思った。
 彼女にとって葉子との出会いは、人生を変えるほどの重みのあるものだった。
 熱いシャワーを浴びる彼女の顔に、微笑が浮かぶ。
 葉子を大事に思う気持ち、それは例え、彼女が絃子以外の人間と歩む道を選んだところで、変わ
るものではない。
 そんな当たり前のことに、気付けなかった自分の不器用さに、絃子の微笑は、苦笑に変わる。
 大切な人の目を通して見なければ、己のことすらわからないのだから。
 だから昨日、絃子は拳児を呼び寄せたのだ。
 湯に打たれて染まり始める肌。胸に浮かぶぬくもりを逃がさないように、彼女は自らの体をぎゅ
っと、抱きしめる。
 彼女の想いも、彼の想いも、絃子は己のものにすることが出来なかった。
 だからといって、彼女は変わることなどない。
 そう。それが刑部絃子の、生き方なのだから。


 強い日差しに目を細めつつ、播磨は家路を急いでいた。
 ふと、その足が止まる。
 コンビニの駐車場、そこに黒猫がいた。
 目が合った一人と一匹は、そのまま見つめあう。
 金に輝く瞳。ふと彼は、塚本家の飼い猫、伊織のことを思い出す。
 そして、それがきっかけで言葉を交わすようになった、少女のことをも、また。
 どうかしてるな、俺は。こんなに妹さんのことばっかり、思い出して。
 心の内で苦笑交じりに呟いた途端、さっと背を向け走り去る黒猫。その後姿を見つめていた彼は、
ぼんやりとしていたかと思うと、携帯をズボンのポケットから取り出し、どこかにかける。

『はい、もしもし』
「あ、俺っす。ハリマ☆ハリオっす」
『ああ、先生。どうされました?』
「実は、前に頼まれた話についてなんすけど……」