スクールランブルIF12【脳内補完】

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167If...brilliant yellow
 まだイギリスにいた頃、彼女は父に、スペインへバカンスに連れて行ってもらったことがあった。
 その時に見た、どこまでも広がる向日葵の原は、幼い心に焼きついている。そして、父の言葉も。
「この花のように、気高く、輝きなさい」
 以来、沢近愛理は部屋に必ず、黄金に輝く花の写真を飾っている。

 If…brilliant yellow

 目を覚ましてまず初めに、彼が思ったのは、見上げた天井を自分が知らないということだった。
 ベッドに体を起こし、汗ばんだ裸の上半身にまとわりつく薄檸檬色のシーツを引き剥がす。そし
て播磨は、額に手をあてながら辺りを見回した。
 小さなガラス張りのテーブル、木製の勉強机、本棚、箪笥、クローゼット。そういったものをぼ
んやりと見て取った後、徐々に明晰になる意識と反比例するかのように、彼の顔は青ざめていった。
 子犬や子猫が可愛くポーズをとるポスター、そして咲き誇る向日葵の写真が壁に何枚か貼られ、
ガラス製の小さな白鳥の像が机の上に飾られている、ここは勿論、播磨の部屋ではない。
 そしておそらく、男の部屋でもない。
 ハンガーにかけられた服はどう見ても女性物のスーツだし、片隅に畳んで置かれた洗濯物の、一
番上に置かれているのは白のミニスカートだ。
 女装趣味を持つ知人はいないはずだから、ここは女の部屋だということになる。そこまでは彼に
も理解できた。
 だが、何故、自分がここにいるのか。そして誰の部屋なのか。全く記憶にない。
 必死に彼は思い出そうとして、微かに痛む頭に手をやった。

 昨日は、確か。なかなか動き出そうとしない脳に鞭を打って、彼はやや混濁する記憶を追う。
 連載中の作品の今回分の脱稿と、単行本化決定を祝って、担当編集と飲みに出た。そこまではは
っきりと覚えている。
 そして出かけた先で、懐かしい誰かに会ったような……
 考える播磨の鼻に届く、香ばしく焼けたパンの匂いに、ぐぅ、と盛大に彼の腹が鳴った。思わず
一人赤面する彼の前に、キッチンとおぼしき場所から彼女が、現れた。
「あら、やーっと起きたの?」
 綺羅綺羅と輝く金の髪を、無造作に首のあたりでまとめた彼女は、
「お、お前……お嬢?」
 沢近愛理、だった。
168If...brilliant yellow:04/08/17 06:08 ID:WL4iFSCg
「アンタねぇ、いつまでそんな格好してるわけ?」
 言われて初めて、彼は自分がパンツ一丁だということに気付く。慌ててシーツに潜り込む播磨に、
目のやり場に困るような素振りをしながら、愛理は無地の白いTシャツを投げて渡した。
「ズボンはベッドの下にでも転がってるでしょ」
 キッチンへと戻る彼女の背中を呆然と見送ってから、のろのろと彼は服を着る。そして今では体
の一部となっているサングラスを探すが、見当たらない。
 仕方なく播磨は、素顔のまま愛理の後を追う。
 何故、このような状況になってしまったのか。それだけを、考えながら。

「あー、お嬢」
「ちょっと、黙ってて」
 声をかけるが、彼女はじっとフライパンと、その中で徐々に硬くなる卵を睨んでいた。肩越しに
覗き込む彼に構わず、やがて、よしっと言って火を止める。
「何やってんだ?」
「見てわからないの?朝ごはん、作ってるんじゃない」
「……目玉焼きだよな?」
「他の何に見えるって言うのよ」
 いや、そうじゃなくて、何でそこまで気合を入れて、と口にしかけて播磨は、すんでのところで
言葉を飲み込む。それは愛理の、フライパンを返す手つきがあまりにも危なっかしくて、はらはら
したからだった。
 料理、あまりしたことねぇんだな。ぎこちない彼女の動きに播磨は思う。
 目玉焼きを皿に盛ったその後に、レタスを洗いキュウリを切ろうとする段になって、とうとう彼
は我慢が出来ずに口を挟んだ。
「お嬢、貸してみな」
「あっ、ちょっと、何すんのよ」
 彼女の手から包丁を奪い、まな板の前に立った彼は、慣れた手つきで胡瓜を切り始める。その鮮
やかな手つきに、思わず目を丸くする愛理。
「アンタ、料理、出来るの?」
「これぐらいならな」
「ふぅん」
 背の後ろでは愛理が、わずかに悔しそうで、だがどこか楽しそうな顔をしているのに気付かず、
播磨は皿に手早く野菜を盛り付けた。
169If...brilliant yellow:04/08/17 06:09 ID:WL4iFSCg
 テーブルの上に並んだ、朝御飯。トースト、目玉焼き、レタスとキュウリとトマトのサラダ、そ
してティーバッグで出したミルクティー。
「それじゃ、食べましょうか」
「ああ……だがその前に、お嬢」
 何よ、と若干、不機嫌そうに問い返す愛理に、播磨はきちんと正座をして向かい合う。
「どうしたのよ、突然、改まって」
 驚く彼女に、彼はおそるおそる尋ねた。
「あのー、俺はどうして、ここにいるんでしょうか?」


「……覚えてないの?」
 心底呆れた、と言いたげな愛理に、播磨は重々しく頷いた。
「いや、飲みに出たとこまでは覚えてるんだが……」
「ハァ……全く記憶にないってわけ?」
 首を縦に振って、その場に縮こまる彼の姿に、愛理はもう一度大きく、聞こえよがしに溜息をつ
いた。そしてマグカップを手に取り、ミルクティーを一口、喉に流し込む。
 控えめな甘さがじんわりと広がるのを感じながら、愛理はテーブルに頬杖をついて、久しぶりに
会った男の、昔はほとんど見たことのない素顔をじっと眺めた。
「アンタはね、昨日、私のバイト先に来たのよ」
「バイト先?」
 首をかしげる播磨に、彼女は矢神坂近くにある居酒屋の名前を挙げた。それは確かに、彼が聞い
たことのある店だった。
「お嬢が?」
「そ。晶に紹介してもらってね」
 少なからず驚いて、目を見広げる播磨を、愛理は軽く睨みつける。
「何よ、なにかおかしい?」
「あ、いや……」
 彼の記憶に間違いがなければ、その店は典型的な和風居酒屋だ。従業員は店の名前が書かれた半
被を着て働いている。
 目の前の、金髪碧眼の女性とその衣装とが、彼の中で上手く結びつかなかったのだ。
「そんなことより、早く食べないと冷めるわよ」
「あ、ああ。そうだな」
170If...brilliant yellow:04/08/17 06:09 ID:WL4iFSCg
 しばしの間、二人は目の前の食事に集中する。
「卵の黄身、半熟で良かったわよね?」
「いや、俺は固い方が好きなんだが」
「半熟で良かったわよね?」
「……はい」
 そんな会話を交わしつつ、播磨はあっさりとその朝食を平らげた。もちろんまだ、ちゃんとした
答えをもらっていないことに気付いていたが、空腹には勝てなかったのだ。
「アンタ、本当、バカみたいに食べるわねぇ」
 見ると彼女は半分も食べ終わっていない。フォークの先で目玉焼きの黄身をつぶしながら、呆れ
たように彼が綺麗に食べた後の皿を見つめている。
「そりゃあ、まあ、男だからな」
「ふうん。で、まだ食べる?パンぐらいしかないけれど」
 少し考えてから、播磨は首を横に振った。
「いや、さすがに悪いしな」
 実際は空腹が満たされたとはとても言えなかったが、自らの立場を考えて彼は遠慮をする。
 何せ、知らない仲ではないとはいえ、女性の一人暮らしの部屋に押しかけているのだ。しかもど
うやら泊まってしまったらしい。
「……あれ?」
 そこでふと、播磨は腕を組んで首をかしげた。そしてもう一度、辺りを見回す。
「何よ、女の子の部屋よ。あんまりじろじろ見るもんじゃないわ」
「あ、ああ。すまねぇ」
 ひとしきり謝ってから、播磨は疑問に感じたことを口に出す。
「あのよ、お嬢」
「ん?」
「お嬢って確か、でかい屋敷に住んでなかったっけ?」
 いつか雨の日に、彼女を送って行った時。家というよりは館、と言った感のある建物に驚いたこ
とを、彼は思い出していた。
「一人暮らししてるだけよ。大学生なんだから別に、珍しくないでしょ?」
「いや、まあそうなんだがな。何でまた?」
 その問いかけに答えず、愛理はじっと、播磨の顔を見つめた。
 訳がわからず、彼は少女の青い瞳を見つめ返す。
171Classical名無しさん:04/08/17 06:23 ID:K8shxm8U
マダー?チンチン
172If...brilliant yellow:04/08/17 06:50 ID:WL4iFSCg
 高校を卒業し、近くの女子大に進学した愛理は、同時に家を出ることを決めた。
 家を出る、と言ってももちろん、一人暮らしを始めるということなのだが、これは家族だけでな
く、様々な人の反対にあった。
 当然と言えば当然であろう。これまで文字通りの箱入り娘として、厨房にすら入ることを許され
なかった少女が、いきなり一人で暮らせるはずがない、と彼らは異口同音に言った。
 愛理はしかし、強引にそれらを押し切った。一番、最後まで渋っていた彼女の父親も、最後には
根負けし、少女の独り立ちを認めた。
 彼女にとってもっとも意外だったのは、執事の中村が彼女の後押しをしてくれたことだった。
 屋敷を後にするという日、彼女は中村を呼んで尋ねた。
「貴方は一人暮らしに反対すると思ってたんだけれど」
「私は一介の執事に過ぎません。それに」
「……それに?」
「あの高校に入られて、お嬢様はお変わりになられました。自らの足で立ち、考えることを学ばれ
ました。そのお嬢様が御決断されたこと、私は精一杯、応援させていただきますよ」
「……どうしてそういうこと、言えるわけ?」
「信じておりますから、愛理お嬢様を」

 そして新しい生活を始めて、四ヶ月が経とうとしている。今は八月、夏、真っ盛り。
 慣れない一人暮らしに、彼女が心細さを感じなかった、と言えば嘘になるだろう。目を覚まして
も、誰もいない生活。料理は自分で作るか、外食をするしかない。部屋の掃除も、洗濯も、自分一
人でしなければならない。
 その上で、大学の授業にもついていかなければならないのだ。
 慣れないことの連続に、挫けそうになったこともあった。
 1DK、八畳の部屋は、住んでいた屋敷の自室の半分の面積もないのに、一人の身にはとてつも
なく広く感じられた。
 そんな彼女を支えたのが、友人達の存在であった。中でも同じ大学に進学した晶は時折、家事の
指導に彼女の部屋を訪ねて、何やかやと世話を焼いてくれた。
「サンキュ、晶」
「どういたしまして」
 友人の存在を、心の底からありがたい、そう思った。
173If...brilliant yellow:04/08/17 06:52 ID:WL4iFSCg
 やっと一人暮らしに慣れ始めた頃、愛理は次の目標であったアルバイトに挑戦することを決めた。
 お金に困る身分ではない。家賃や携帯代、食事代など生活費や学費は全て両親が払っている。
 遊ぶお金もまた、そうだ。彼女には月々の仕送りなどない。限度額いっぱいまで貯金された愛理
名義の口座から、好きな時に好きなだけお金を引き下ろす。減った分は、その折々で補充される仕
組みになっていた。
 だが彼女は無駄遣いを嫌ったし、どちらかといえば質素な生活を心がけていた。ファッションに
は確かに人よりお金を使うが、それも嫌味に見えない程度。
 そういった習慣は、高校時代の友人達と付き合うことで培われたものだった。今でも愛理は彼女
達と一緒に、セール品を買いに行くこともしばしばだ。
 とはいえ、いつまでも親の金に頼ってばかりというのも情けない。そんな風に愛理は考えていた。
174If...brilliant yellow:04/08/17 06:52 ID:WL4iFSCg
 周りを見れば、すでに高校時代から、天満をのぞくほとんどの友人がバイトでお金を稼いでいた。
 晶は言わずもがな、美琴も道場で子供達に少林寺を教える代わりにわずかながら月謝をもらって
いたし、天満の妹である八雲も喫茶店で働いていた。
 そして天満もまた、大学生になると同時にバイトを始めたという。彼女にしてみれば、ただ一人
そういった経験がないのが悔しかったこともあるし、また、世間知らずと言われるかもしれないと
いうことをプライドが許さなかった。
 加えて何より愛理には、自分の手でお金を稼いでみたい、という欲求があった。
 働くとは、どういったことなのか。それを知らないままでいたくはなかった。もちろん、そんな
ことは誰にも言わなかったが。言えば、金持ちの道楽、と思われるだろうと彼女は知っていたから。
 そんなこんなで、晶に紹介してもらったバイトが居酒屋の店員だった。晶も働いているその店の
雰囲気を愛理は一目で気に入り、また晶の紹介ということですんなりと採用も決まった。
 最初は色々におぼつかないところがあったが、一月が経ち、彼女は徐々に店に馴染んでいった。
 今では、彼女の日本人離れした美貌と外向けの笑顔で、彼女目当てに繰り返し訪れる客まで現れ
る始末。

 昨日も、彼女はいつものように働いていた。
 時計の針が、十時を回ろうかという頃、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませー」
 振り向いた彼女の目に飛び込んできたのは、完全に出来上がって、連れに支えられている男の姿。
 サングラスをかけたその顔は、忘れようとしても、忘れられないものだった。
「播磨……君?」
175If...brilliant yellow:04/08/17 06:52 ID:WL4iFSCg
「お嬢?」
 ぼんやりと昨日のことを思い出していた彼女は声をかけられて、はっと気を取り直す。
「どうかしたのか?」
「何でもないわよ」
 その口調に交じる棘に、播磨は気圧されてただ、そうか、と口にしただけだった。
 愛理は、フォークでまだわずかに残るレタスを突き刺し、小さく息を吐く。
「あー、お嬢?」
「何よ」
 見るとまた、彼は居住まいをただしていた。カーペットの上に正座し、その大きな体を縮こまら
せている姿は、どこか滑稽なものに彼女には見えた。
「で……昨日は、何があったんでしょう?」
「何って……何もなかったわよ」
 言ってから、彼女は昨日の出来事を語り出す。

 すでに酔っ払っていた彼と、まだ素面のその連れ――――後で知ったのだが、彼の担当編集――
――は、奥の座敷に上がり、また飲み始めた。
 出来上がっていたとはいえ、騒ぐわけでもなく、ただ播磨は連れを相手に延々と語り続けていた。
「あれ〜、店員さん。俺のよく知ってる人に似てるな〜」
 注文を取りに行った時、顔を酔いに真っ赤にした彼の言葉に、愛理は顔を引きつらせる。
「アンタねぇ、クラスメイトの顔ぐらい覚えてなさいよ!半年も経ってないじゃないっ!!」
 だがその怒鳴り声も、播磨の耳には届いていなかったようだ。逆に、いい加減、彼の愚痴に困り
果てたようにしていた男性は、
「あぁ、お知り合いの方なんですか?そうですか。ああ、ハリマ先生、私、明日が早いですから、
このへんで失礼させていただきますね」
 言い残して、じゃあこのへんで、と万札を残して帰ってしまった。
 唖然とその様を見ていた愛理は、その視線を彼へと移す。
 一人になったことにも気付かず、彼は杯を煽り、一人ぶつぶつと何かを語っている。
 放っておこう。最初、愛理はそう思った。
 だが何故か、そうできなかった。このままにしておくのも、という気持ちと懐かしさが、結局、
彼女の心の中で勝ったのだ。
 おりよく、バイトのあがりの時間だったこともあり、私服に着替えた後、愛理は座敷に上がって、
彼と共に飲み始めたのだった。
176If...brilliant yellow:04/08/17 06:53 ID:WL4iFSCg
「つまり、そういうことよ」
「……全然、覚えてねぇ……」
 顔を真っ青にする播磨の様子に、愛理はわずかに顔をしかめる。フォークで、カツカツと皿をつ
つく。
「じゃあアンタが何を話したのかも、覚えてないわけよね」
「ああ……」
 答えると同時に肩を落とす彼に、愛理は、ふうん、とだけ言って、眉を上げた。
 仕方ないか、と彼女は心の中でだけ呟く。顔色をうかがうようにする播磨の姿に、微かな苛立ち
を覚えながら、愛理はトマトの最後の一つを口の中に放り込んだ。
 そして、言った。
「知らなかったわ。アンタが、天満のこと好きだったなんて」
「!!」
 ガタン。カチャン、カチャカチャカチャ。
 食器が跳ね上がり、音を立てた。
 テーブルを叩いて立ち上がり、身を乗り出してきた播磨に、愛理はフォークを突きつける。
「バカ、ドレッシングとかはねたじゃない。ティッシュ取ってよ」
 一瞬、何かを叫ぼうとした播磨だったが、彼女の目に宿った気迫に押され、もう一度座り直し、
ティッシュボックスへと手を伸ばした。
 気まずい沈黙が、二人の間を横たわる。愛理は渡されたティッシュで顔に飛んだフレンチドレッ
シングを拭い取る。
「あー」
 足を崩しあぐらをかいた播磨は、口を開いては呻くだけでまた閉ざす、そんな行動を何度もとる。
「言いたいことがあるんなら、言ったら?」
 放り投げた丸めたティッシュがゴミ箱に吸い込まれるのを見ながら、愛理は言った。もっとも彼
女には、彼が何を口ごもっているのか、そんなことはすでにお見通しだったのだが。
「……俺、そんなこと言ってたのか?」
「ええ。もう何度もね。まあ、話してる相手が私だって気付いてないみたいだったけれどね」
 両肘をテーブルにつき、組んだ手の上に顎を乗せて、愛理はじっと、冷や汗をダラダラと流す彼
を見つめる。
 そして、わずかに目を細めた。
 金の前髪が一筋、目にかかるのを彼女は、かきあげることもなく、そのままの姿勢で、また昨晩
のことを思い出す。わずかに苦いものが、心の中に流れ込んでくるのを感じながら。
177If...brilliant yellow:04/08/17 06:54 ID:WL4iFSCg
「天満ちゃん」
 目の前の女性が愛理と気付かないまま、話し続ける播磨が漏らした単語に、愛理はサワーをあお
る手を止めた。
「天満?天満がどうしたってのよ」
 バイト仲間達が、こちらを興味深そうに見ていることに、彼女は当然、気付いていた。だがそれ
でも、愛理は彼の隣を立つことはなかった。それだけ、彼の話に興味があったということ。
「天満ちゃん……マイ・ハニー……」
 サングラスから溢れ、頬を伝う涙の存在に、愛理は愕然とする。
 それは目の前の男の言葉が、偽りのないものだということだと感じたからだった。
「アンタ……天満が好きだったの?」
「違うな」
「え?」
「だったんじゃねぇ。今でも、好きなんだ」
 酔っ払った播磨は、素直だった。照れることもなく、誤魔化すことも言葉を濁すことも、そして
口ごもることもなく、彼女への想いを口にした。
「……そう」
 やっとの思いで、ただそうとだけ呟いた愛理は、グラスの中に浮かび揺れる氷を見つめる。
 グレープフルーツサワーの、その水面、氷の表面に浮かぶのはモノクロの彼女の瞳と、天井にぶ
ら下がる電灯の明かり、そして彼女自慢の髪の煌き。
 軽くグラスを強くつかんで、愛理は口元へ運ぶ。一気にあおり、杯を開けた彼女は、もう一度、
グラスの中を見つめた。
 浮かび上がるのは、苛立ち、そして戸惑い。
 加えて、捨てたはずの、封印したはずの熱情。
「好き、か……」
 ふうん、そっか。口にした言葉が、微かに震えていることに愛理は気付いた。ゆっくりともう一
度、唐突に静かになった彼を見つめる。
 播磨は限界を越えたのか、机に突っ伏して眠っていた。
 どうしようか。迷ったのは、ほんの一瞬だった。近くにいたバイト仲間に、一声をかける。
「ねえ、ごめん、タクシー一台、呼んでもらえる」
 ああ、いいよ。頷いて立ち去る彼の顔には、驚きと、どこか意地の悪い笑みが浮かんでいる。
 おそらく次にバイトに入った時、盛大にからかわれるだろう。
 だがそれでもいいと、その時の愛理は思ったのだった。
178Classical名無しさん:04/08/17 07:19 ID:dPuOaL8k
支援
179If...brilliant yellow:04/08/17 07:27 ID:WL4iFSCg
「アンタが天満のこと、好きだったなんてちっとも知らなかったわ」
「違うな」
「ああ、ごめんなさい。今でも好きなのよね?」
 酔ってても素面でも、こういうところは変わらないんだから。そう感じる愛理の前で、台詞を奪
われて虚をつかれた播磨は、一瞬、怪訝そうな顔をした後、重々しく頷いた。
「八雲の方じゃなかったんだ」
「あれは……違うんだ」
 目を伏せる播磨の態度に、どこか、愛理は違和感を覚えた。サングラスを外した彼の目は、雄弁
に己の感情を物語っている。だがその全てを見抜けるほど、愛理は聡くはなかった。
「妹さんには、悪いことをしたと思ってる。けど、俺が好きなのは天満ちゃんなんだ」
「彼氏がいるけどね?」
 愛理の一言に、胸を張って宣言した播磨はしかし、あっという間にまた背を丸めて肩を落とす。
 そんな姿を見せるな。何故か愛理は、そう叫びたくなった。苛立ちの原因がわからないままに、
彼女は言葉を続ける。
「じゃあ、八雲とはどういう関係だったわけ?」
 言葉にした瞬間、愛理の胸は強く脈打った。口をきっと結んで、しかめっ面をして見せるが、頬
が赤く染まるのは隠せない。
 播磨はほんの一瞬、天井に目を向けて何事かを考えた後、背筋を伸ばした。
「今更、隠しても仕方ねぇから言っちまうが、俺、実は」
 一息入れて、播磨は思い切ったように口にする。
「漫画を描いてるんだ」
「……知ってるわよ」
 冷静な愛理の一言に、彼は目を丸くした。ふぅ、小さく息を吐いて、愛理は何を今更、といった
顔で口を開く。
「昨日、アンタが自分で言ってたじゃない」

 それは酔いつぶれて彼が寝る前のことだ。
「アンタさ、今、何やってんのよ」
「何言ってんだ、漫画描いてるじゃねぇか」
「はぁ?……マジ?」
「ハリマ☆ハリオたぁ、俺のことだぜ」
「へぇ……アンタがねぇ……」
180If...brilliant yellow:04/08/17 07:28 ID:WL4iFSCg
 テーブルの上に散らばった皿を重ねる愛理の手を、彼は押し留めた。
「こいつは俺がやるよ」
 微かに二人の指先が触れ合う。何の感慨も見せない播磨に対し、愛理は胸の奥に生まれた重しに、
言葉を発しようとし、果たせず口を閉ざす。
 そんな彼女の様子にも気付かず、彼は皿を流しに持って行き、手早く洗い出す。
 テーブルの前に座ったまま、彼女はじっとその背中を見つめ続けた。ぼんやりと。
「で。漫画と八雲、どう関係あんのよ」
「相談に乗ってもらってたんだよ」
 水の音に負けない大声で、彼は返事をする。洗剤の芳香が微かに、愛理の鼻に届いた。
「付き合ってたわけじゃなかったんだ?」
「ああ……」
 彼の声が沈んでいるのを、愛理は敏感に感じ取る。わずかに目を伏せて彼女は、呟いた。
「ゴメン」
 洗い物をする彼の手が、止まった。


 その彼女の言葉に、播磨は一瞬、自分の耳を疑った。
 謝った?どうして?疑問符が次から次へと浮かびあがる。そして彼はキッチンから愛理を眺めた。
「私のせいだわ」
 暗い表情だと、彼は思った。影が落ちるその横顔に、常の気の強さは見えない。
 流れ続けていた水を止め、播磨は愛理の前に戻る。
「何が、だよ?」
「アンタと、八雲が付き合ってるって言ったの、私だから」
 彼女は、目を合わせようとしない。じっと黙ったまま、うつむいている。
 微かにその睫毛が震えているのを、彼は見て取った。

「そうだ!愛理ちゃんと播磨君てLOVE×2なんだってね!!告白された?」
「天満……それはこの子よ」

 蘇る記憶に、播磨は渋顔になる。
「そういや、そうだったな」
 愛理は彼を視界から遠ざけようと、視線を部屋の壁へと移していた。そこにあるのは向日葵の花。
181If...brilliant yellow:04/08/17 07:30 ID:WL4iFSCg
「気にすんな。言ったって、しょうがねぇことだし」
 少しの沈黙の後、思い切り良く播磨は言った。
 彼の中にわだかまりがわずかもない、と言えばきっと嘘になるだろう。だが口にした言葉は、ま
ぎれもなく彼の本音だった。
「俺がだらしねぇのも、いけねぇんだ」
「……ゴメン」
 播磨の言葉は、耳に入っていないのかもしれない。愛理は呟いてまた、口を貝のように閉ざす。
 あぐらをかいたまま、播磨は居心地の悪さを覚えながら、じっと彼女と対する。
 頭の中に浮かんでくるいくつもの言葉、しかし彼はそのどれがこの状況に適しているのか、そう
でないのかを上手に判断することが出来ず、結局、宙を見つめて何も語らない。
 次第に重くなっていく空気。
「あの、よ」
 耐えられなくなったのは、播磨が先だった。
 おそるおそる口にした言葉に、愛理は微かに顔を上げて反応する。ほっと胸を撫で下ろしながら、
「何で、そんな風に思ったんだ?その……俺と、妹さんが、って」
「…………」

 顔を上げた愛理の、両の瞳がわずかにうるんだ。

「お、お嬢?」
「……なんでもないわよ」
 こぼれそうになる涙を指先でぬぐって、凛とした眼差しで愛理は、播磨を見つめる。それが強が
りだと彼女は気付いていた。
 そして彼もまた。だが播磨は、その瞳の奥の輝きに絡みとられて、何も言えなかった。
「嫉妬、かな」
「……嫉妬?」
 唐突すぎる彼女の言葉に、首を傾げる播磨に、愛理は想いを告げる。
「私、好きだったから。アンタのこと」

 目を丸くして、その場に固まる播磨に、少女は小さく笑って付け加えた。
「勘違いしないでよ、気の迷い、若気の過ちなんだからね」
 それは、涙のない泣き笑い、だった。
182If...brilliant yellow:04/08/17 07:31 ID:WL4iFSCg
「アンタのこと好きだったから、私より八雲の方が仲が良いって知って、嫉妬したのよ……だから、
あんなことを言ったの」
 そしてまた、付け加える。
「当たり前だけど、今は全然、そんなことないんだからね?」
「わかってるよ、そんなこと」
 照れているのか、目をそらす彼の姿に、愛理はまた微笑む。小さく。
「今では、アンタなんかよりももっとカッコイイ、いい男を好きになってるから」
 あれはホント、私の一生の不覚だったわ。そう言う愛理の顔をじっと、彼は見つめる。
 目の前にいるのは、高校の時、確かに時を同じうした少女、その成長した姿。
 だが彼は、彼女の心の内を、ついぞ知ることなどなかった。今、この瞬間まで。
 その揺れていた胸の内すら。


 とうとう口にした言葉の重みを、愛理は噛み締めていた。
 今、他に好きな人などいない。あの時以来、誰も心に踏み込ませていない。
 それでも、この場で彼を好きだと言うことは、愛理には出来なかった。プライドが許さなかった。
 好き。それはいつからか、彼女の心の内に忍び込んできていた感情。
 想いと共に浮かぶのは、播磨拳児という、男の面影。
 否定しようとした。どうしてあんな男を、と。
 だが彼女の心はすでに、思わずにはいられなくなってしまっていたのだ。彼のことを。
 その、淡い自らの思いに気付いてすぐに、しかし彼女は打ちのめされる。
 自分にないものを、彼女は全て持っているように、愛理には思えた。
 彼女は、裁縫が得意で、料理も得意で、おしとやかで、優しく、自分より人に素直になれるはず。
 そして自分よりも、彼と……親しい。
 塚本八雲。
 親友の妹の存在を、彼女は仰ぎ見ていた。
 だから、衝動的に言ってしまったのだ。
「天満……それはこの子よ」
 本当かどうか、そんなことはどうでも良かった。そうすることで、自分の気持ちと折り合いをつ
けたかったのだ。
 相手が彼女……塚本八雲なら、負けても仕方ない。
 そんな鬱屈した感情も、そこには確かにあったのだ。
183If...brilliant yellow:04/08/17 07:31 ID:WL4iFSCg
 嘘から出たまこと、というわけではないのだろうが、本当に播磨と八雲の二人は、付き合ってい
るようだった。
 いそいそと彼女に会うために屋上へと向かう播磨の後姿を、気取られないように眺めつつ、愛理
は内心、臍を噛んだものだった。
「愛理。素直になれば?」
「……何のことかしら?」
 全てをわかっている風な晶の言葉も、勘に触るだけだった。不機嫌そうな彼女に、晶は首をすく
めつつ、
「それでいいなら、それでいいけれど」
 謎かけのようなその言葉を、愛理は無視した。
 だから彼が、他の女と浮気をして八雲にフラレタと聞いた時、彼女は複雑に思ったものだった。
 それ見なさい。その程度の男なのよ。囁く内の声。
 放課後の教室、天満が彼と二人きりでいるのを偶然に見たのは、三年生の春のことだったか。
 涙を流しながら彼を非難する天満、そしてうなだれたまま、一切の反論をせずに受け止める播磨。
 教室の窓から差し込む夕日に、二人のシルエットが浮かび上がるのを、彼女は放心しながら見つ
めていた。
 周囲と距離を置き始めた彼に、愛理は近づくことが出来なかった。そうすることを、プライドが
許さなかったのだ。
 彼と共にいれば、自分が同種の人間に思われる。そんな気がして。
 それでも、卒業式の日。最後に彼に会いたいと思っていた愛理は、肩透かしを食う。
 遠くで自分と同じように、キョロキョロと辺りを見回す八雲の姿を見つけたが、愛理は声をかけ
ることはしなかった。

 あれから、まだ半年しか経っていないが、今の愛理は、自分が何て馬鹿で愚かだったのだろう、
と考えるようになっている。
 どうして私は、そんなつまらないことに拘ってしまったのだろう、と。
 そう思えるようになったのは、一人で暮らし、全てを一人でこなさなければいけなくなったから
かもしれない。
 その意味で、成功だったのだろう。
 高校時代の砂を噛むようなその経験から、彼女は強く思ったのだ。自分を変えたい、と。
 彼女が、一人で暮らそうと思うようになった一番のきっかけが、それだった。
184If...brilliant yellow:04/08/17 07:32 ID:WL4iFSCg
「天満に彼氏が出来ても、アンタは、まだ好きなんでしょう?」
 彼女の問いかけに、播磨は頷く。
 そう、溜息を付くように言って、愛理は顔を背けた。
 彼女の視線の先にあるのは、また向日葵の花。写真の向こうから、彼女の心を見つめている。
「じゃあ、八雲のことはどう思ってるの?」
「言ったろ?妹さんには、悪いことしたって」
「本気でそう思ってんの?」
 目をあわそうとしないまま、静かに愛理は言った。
 一体、自分が何を話したいのか。それもわからぬままに、ただ衝動にかられるままに、彼女は言
葉を紡ぐ。
 その先に確かに、未だ己すら知らぬ自分の想いがあるのだと信じて。


「どういうことだよ?」
 問い返す播磨。
 彼は、思う。
 自分はずっと、好きだ。あの邂逅以来、ずっと彼女のことを。
「アンタはそれでいいかもしれないけどさ」
 背筋を伸ばして、愛理は彼を見つめる。
「アンタの周りの人は、それでいいの?」
 心の、奥の、そのまた奥を見透かすような蒼の瞳。矢のように鋭い視線に、彼は射抜かれて、思
いを縫い付けられる。
 コチコチと、時を刻む秒針の音が、部屋に響く。そして二人の、抑えられた息の音が、やけに彼
の耳にさわった。
「そりゃアンタはいいわよ。自分の想いに区切りをつけて、勝手に消えて。好きな人をずっと好き
で居続ける、そう言ってればいいんだから」
 刃となる彼女の言葉が、彼の意識に切りつけてくる。痛みを覚えながら、播磨はぎゅっと唇を噛
んだ。
「けど、そんなの自己満足よ」
 吐き捨てるような言葉は、一際重く、播磨の胸に轟いた。
 冷房のきいた部屋なのに、感じる熱。とめどなく、彼の体からは汗が溢れ、背筋を、腋の下を濡
らした。
185Classical名無しさん:04/08/17 07:35 ID:dPuOaL8k
沢近の目って青じゃないよね
186Classical名無しさん:04/08/17 07:38 ID:tJvOtpQ.
単行本の表紙ではグレーっぽい茶色
187Classical名無しさん:04/08/17 07:42 ID:tJvOtpQ.
アニメのほうは琥珀色かな
188If...brilliant yellow:04/08/17 07:43 ID:WL4iFSCg
「俺は……」
 口答えをしようとする播磨を、しかし、愛理は目だけで抑える。まだ、彼女は、言いたいことの
半分も言っていなかった。
「聞きなさいよ。アンタはそれでいいと思ってたんでしょうけれどね、あんな嘘ついて、八雲が傷
つかないって思ってたの?」
 彼が浮気をしたという噂。あれは嘘だったのだと、愛理は確信していた。
 そして悔しかった。あの時、それを見抜けなかった自分が。
「本当に、悪いことをしたと思ってる……俺みたいな男に」
「いい加減にしなさいよっ!!」
 ガタン。
 今度は愛理が、テーブルを叩いて立ち上がった。
 驚愕に口を開く播磨の、胸倉をつかまんばかりの勢いで彼女は彼に詰め寄る。
「アンタ、そればっかね!?逃げて、逃げて、逃げてばっか。誰かの気持ち、ちょっとでも考えた
ことあんの!?残された人の気持ち、わかってんの!?」
 愛理は、叫ぶ。
 くすぶっていた思いを、彼に叩きつける。
「アンタにとっちゃ、自分と天満以外の人間なんてどうでもいいのかもしんないけどね!!八雲の
気持ちは」
 同時に心の中で、彼女は叫ぶ。私の気持ちは。今の、私の気持ちは。
「どうすりゃいいのよ!?」
 勢いのままに熱を吐き出した後に、心に残る虚脱感。そして彼女が感じたのは、己の言葉が理不
尽だという、その事。
 そして彼女は気付く。
 頬を伝う、雫に。


 鼻と鼻がぶつかるほどの近さで、見詰め合う二人。
 播磨は、その瞳から溢れる涙に、心奪われる。
 泣いて、いる。あのお嬢が。
 それだけで彼は、何も考えられなくなってしまった。
「すまねぇ」
 やっとの思いで、ただそれだけを、口にする。
189If...brilliant yellow:04/08/17 07:43 ID:WL4iFSCg
「謝ったところで、変わらないわよ」
 身を離して、愛理は涙をぬぐう。虚脱したように座り込み、彼はその姿をじっと眺める。
「すまねぇ」
 それでも播磨は謝ることを止めなかった。
「すまねぇ」
「いいわよ」
 言って愛理は、わずかに笑って見せた。無理をしてだとわかっていても、彼は、それが綺麗な笑
顔だと感じたのだった。
「……俺はどうしたらいいんだ?」
 そう播磨が言ったのは、しばらく経ってからのことだった。
 赤くなり始めた目でチラリと彼を見て、愛理は素っ気無く、言った。
「知らないわよ。自分で考えれば?」

 それからしばらく後、彼は町を彷徨っていた。
 耳に残るのは、最後に交わした会話。
「アンタの漫画、読ませてもらったわよ」
「何?何時の間に……」
「アンタが気持ちよく寝てる間に、近くの漫画喫茶でね」
「……で、どうだった?」
「悔しいけど、面白かったわ……最初の三回ぐらいまでは。後はダメね。アンタ、このままだと打
ち切られるわよ」
「………………」

 最初の三回、か。心の中で彼は呟く。
 それは、播磨がまだ、八雲に原稿を見せていた頃のものだ。その後は……彼女に会おうとしなか
った。
 夢は確かに、そこに……漫画の中にあった。
 なのに、どうしてだろう。八雲に見てもらわなくなってから、自分の中で何かが欠けたように、
彼は感じていた。
 それが天満に失恋したからだと、今日まで彼は思っていた。
 だが……本当にそうなのだろうか?
 播磨の脳裏に、少女の面影が走った。
190If...brilliant yellow:04/08/17 07:44 ID:WL4iFSCg
 共に過ごした時は、彼の想い人より一層多い。だからだろう。様々な姿が、記憶に刻まれている。
 だが俺は……彼女の気持ちを、本当に考えたことがあるのだろうか?
 自らに彼は問いかける。
 そうしたのは、彼のことを嫌っていたはずの、お嬢……沢近愛理が自分に好意を抱いていたとい
う事実を知ったからに、他ならなかった。
 浮かび上がるいくつかのシーン。俺は……あの時、ああ振舞って良かったのだろうか?
 答えは、出ない。


 壁にもたれかかって、愛理は座り込む。
 眺める天井は、白一色。目の端には、輝く黄色の向日葵の花。
 結局のところ。愛理は、小さく笑う。
 何だったのだろう。彼との、この出会いは。
 ベッドに視線を移す。ほんの少し前まで、彼はそこに横たわり、気持ちよさそうに眠っていたも
のだった。
 薄い黄色のシーツを彼女は引っ張って、頬を寄せる。
 彼のぬくもりがほんのわずかにでも、残っていれば、と。
 だが心地よい冷たさだけしか、彼女は感じられなかった。

 二人の間には、結局、何もなかった。そして何も起こるはずがなかったのだ。
 もしも。
 彼女は、思う。
 もしも、少しでも彼女が歩み寄っていれば。意固地になっていなければ。
 Ifが、頭を巡る。
 例えば、昨日の夜。彼に体を、捧げるとか。
 笑って彼女は、自分の妄想を振り払う。そんなことは出来はしない。出来なかっただろう。そし
てこれからも、きっと、彼と自分の道が交わることは、ないのだろう。
 そっと、愛理は唇に指を寄せた。
 昨日の夜。わずかに欲望に負けて奪った――――そして、捧げた――――唇のぬくもりと、勉強
机の引き出しに隠した彼のサングラスの二つを残して、彼は去った。きっと二度と、戻ってこない。
 愛理はそう思う。それでいい、と。
 そして少し、泣いた。向日葵の花が、それを見ていた。