体育祭も終わったある日、暮れなずむ美術教室に黙々と筆を走らせる一人の影があった。
秋の気配は日ごとに深まり、沈みゆく太陽は早くも山の帳に姿を消しかけている。
「明かりを点ければ良いのに」
準備室から続く扉を開けて、鼻に掛かる甘い声が告げた。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、彼女が傍らに来たことを感じる。
「随分、良くなったわ。でも、どういう風の吹き回しかしら? 絵を見て欲しいなんて」
肩越しに覗き込む彼女の吐息を感じる。風に弄られた彼女の髪が一瞬目の前をよぎる。
「ある人に、基本を学べと言われて‥‥」
背中に彼女のぬくもりを感じる。――柔らかい――俺は、何を考えているんだ。
「そう‥‥。でも、あなたには足りないものがあるわ。わかる?」
思わず振り向いた俺は、間近にあった彼女の顔に慌てて視線を落とし沈黙で答える。
「‥‥‥」
ため息とともに、彼女は腕を伸ばし、俺の手に、繊手を重ねた。そのまま、線をなぞり始める。
薄絹越しに伝わる量感を肩に感じ、俺の意識はキャンバスから飛びそうになる。
「あなたって、本当に鈍いのね」
気が付くと、手を止めた彼女は、俺の瞳を覗き込んでいた。
「へ? なんスカ?」
「こんな子が、あの人のお気に入りだなんて‥‥」
彼女の手が、俺の頬を挟む。むせ返るような花の香り。
「え? え? 先生、何を?」
「黙って‥‥」
落ちた絵筆が床にあたり、どこかへ転がっていった。
「むぅっ――ぷはぁ。い、いきなり何をするんですか」
笑顔を浮かべながら、彼女は髪をかきあげた。
「気にしないで、少し意地悪がしたくなっただけよ」
「‥‥‥」
「このことは、刑部先生には内緒よ。絶対にね」
夕闇の中、白い微笑みだけが浮かび上がって見えた。
彼女の行為を反芻しながら家路についた。――わからねぇ――なんだってあんなことを。
呼び鈴も押さずにダブルロックの錠前を回す。扉を開けたとき、初めてドアアームに気付いた。
物音に気付き、駆け寄ってくる足音
「おかえり拳児君。遅かったじゃないか」
「んあぁ‥‥」
玄関に鞄を投げ出し、生返事をしつつ靴を脱ぐ。くそ、まだ顔が火照ってやがる。
「どうしたんだ? 熱でもあるのかい?」
「なんでもねぇよ」
顔を合わせたくなくて、つい乱暴な口調になってしまう。早く部屋に入ろう。
体を入れ替えながら、早足で廊下を進む。
「良くは無い。ん?」
無理やり首に手をかけて俺を振り向かせやがった。いいかげん死ぬぞ。
近ずいてくる顔が美術教師と重なって、俺の動揺は頂点に達した。
「ば、馬鹿、そうやって熱測るなって、何度言ったら‥‥」
いつものように、額を当てる、その予想は裏切られた。
絃子の鼻がうごめき、空調が運んだ移り香を嗅ぎつけた。
「――エタニティ、この香りは‥‥」
手から力が抜けたその瞬間を俺は見逃さなかった。
「飯は良いよ。俺はもう寝る」
身を翻し、一路自室を目指して歩き始める。
「待ちなさい拳児君。君に尋ねたいことがあるんだが」
氷点下の声が、俺の足を釘付けにした。のろのろと振り向く。
「私の特技を知っているかい?」
きらめく瞳に凝視され、俺は意識が遠のくのを感じた。