現役女子高生と語るスレ2

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629名無しさん?
婦人公論に(11/7発売)地村保さんのインタビュー記事

■拉致された息子の名を呼び続けて、母ちゃんは逝った■

北朝鮮に24年間拉致されていた地村保志(48歳)・富貴恵さん(旧姓・浜本、48歳)
夫妻が帰国したのは昨年10月15日だった。
羽田空港で保志さんを出迎えたのは父親の保さん(76歳)と兄の広さん(50歳)。
「やっちゃん、やっちゃん」とだれよりも保志さんの帰国を待ち望んでいた母親、
と志子さんの姿はなかった。保志さんが行方不明になった心労で脳梗塞の発作を
起こして以来、病床にあった、と志子さんんは、半年前に帰らぬ人となっていた。
74歳だった。息子の救出活動をしながら、一人で妻の世話を続けた保さんが、
足かけ23年の介護生活を振り返る。
630名無しさん?:04/05/29 06:27 ID:???
■もう半年早く帰ってきたら・・・■

「おう、母ちゃん、やっちゃんを連れて帰ってきたぞ」

北朝鮮から帰国した保志を東京から小浜(福井県)の家に連れ帰ってきたわしの
第一声が、それだった。仏壇の前に座ったとたん、思わず口をついて出たんや
。わしの後ろに続いて保志が線香を上げ、鉦を叩いて、

「母ちゃん、今帰りました」

と挨拶した時、後ろにおった親類やら保志の同級生やら50人ほどが、ワーッと
泣いて、外におったマスコミの方々もみんなもらい泣きしてくれていた。
その後、保志はこう言ったんや。

「母ちゃん、ぼくがもう半年早く帰ってきたら会えたのに、すみません。母ちゃんごめんね」

わしはあんまり泣くことのない人間やが、これを聞いて、ほんまにジーンときたわ。
この瞬間を、保志が帰ってくることだけを待ち続けて死んでいった母ちゃんに
見せてやりたかったなあと思たんや。
631名無しさん?:04/05/29 06:28 ID:???
わしと家内のと志子は同い年。22歳の時に見合いで結婚した。と志子は和裁を
習っていて縫い物は何でもできたから、うちの母親のほうが結婚に乗り気やった。
父親はわしが2歳の時に亡くなっていたから、母親の眼鏡にかなった人なら文句は
ないし、うちみたいなところへ来てくれる人なら、だれでもええとわしは思とった。

と志子に会った時の印象は、なんとよう肥えた人やなということ。太っとったん
ですよ。冗談で「豚やなあ。」といいながら話をしたくらいや(笑)。わしは

「うちへ来てもうらからには、ずっと私が責任をもつ」

ということを伝え、一緒になったんや。
どうしてわしとの結婚を承諾したんか、結婚してから聞いてみたことがあった。
けど、家内は「そんな照れくさいこと聞かんといて」と笑ってごまかしてたなあ。

働き者やったよ。結婚して1年後にわしの母親が亡くなってからは、家のことを
しながら5反の田んぼを一人でやっておった。
わしは大工で、一緒になって間もなく「地村建築」の看板を掲げて人を使って
仕事を始めた。そやから、田んぼのことはみんな家内に任せきりや。
4年後に長男の広、それから2年して次男の保志が生まれた。兄弟仲はよかったよ。
けど、けんかすると
兄貴のほうはいつも「おまえ、母ちゃんに何でも言わんかい」と保志をから
かっていた。
保志は母ちゃん子で、家内もまた末っ子の保志をかわいがるから、兄貴はやきもち
を焼いていたんやろう。
わしも、あんまり保志が「母ちゃん、母ちゃん」と言うもんで、嫉妬を感じていた
くらいや。(笑)
632名無しさん?:04/05/29 06:28 ID:???
長男は家業を継ぐ気がないと言って、高校を出て就職した。保志も高校を出て
一時は大阪で会社勤めをしていたが、20歳前に小浜に戻り、大工見習を始めた
。富貴ちゃんと知り合ったのは22歳の時。二人がつきあい始めたと知ってすぐ
わしは保志に言うたんや。

「父ちゃんは、結婚すると決めんとズルズルつきあうのは、かなわん。嫁にもらう
ならもらうでハッキリさせて、結納おさめてからつきあいせえ」

それからちょっとして、保志が
「富貴ちゃんが、ぼくと一緒になると言うてくれた」
と報告にきたので、すぐ結納を持って、浜本家へ行った。二人とも23歳になって
間もなくのことやった。


■心労からきた脳梗塞■

「父ちゃん、今日は軽トラ貸してくれ」

結納から1週間が過ぎた7月7日の朝、出勤前の保志にそう言われて車を貸した。
いつもは自分の車で行くのに、仕事の後にデートするから軽トラックにする
と言う。結納の後、富貴ちゃんの兄さんの浜本雄幸さんが保志の新車を見て
「そんな大きな車に乗って所帯やっていけるんか」と冗談まじりで言ったのを
真剣に受け止めて、軽トラで迎えに行こうと考えたようや。
633名無しさん?:04/05/29 06:31 ID:???
この日、午後9時を過ぎても保志は家に戻ってこなかった。遅くなる時は必ず
電話してきたのに、それもないまま。家内は飯台に並べたおかずを冷蔵庫に
しまったり。帰ってきたらすぐ入れるようにと、風呂のボイラーも何べんつけた
ことか。

「富貴恵がまだ帰らんけど、お宅におるんか」
「いや、お宅におるんかと思てたんや」
浜本さんからの電話で、いよいよ心配は現実味を帯び、家内もわしもまんじり
ともせず朝を迎えた。

ドライブ中にがけから転落したのではないかと疑い、8日は朝から浜本さんと一緒に
車で海岸を捜しまわった。けど、京都のほうまで範囲を広げても、そんな気配は
見つからなかった。10日には、二人が乗っていた軽トラックが発見されたものの
手がかりはつかめない。
その2日後くらいやったかな、だんだん家内の様子がおかしくなったのは。家の
ぐるりを何べんも回って、「やっちゃん、やっちゃん」うわごとみたいに保志の
名を呼んだり、「やっちゃん、戻ってこんやろうか」と独り言と言ったり。そやけど
わしはわしで仕事を放って二人を捜しまわっていたし、家内も食事のこしらえ
なんかはしとってくれていたから、ショックで一時的にそうなっているだけ
やろうと、深くは考えなかった。とにかく保志たちを見つけなあかんと、それ
ばっかり。
朝一番に仕事の段取りをつけたら、3日にあけず警察へ行き、自分でもあちこち
捜しまわり、家で保志からの連絡を待つ、そんな日々のくりかえし、大事な子供
がおらんようになったんや、親が一所懸命捜してやらなんだら、だれが捜して
くれると、そんな気持ちだった。
634名無しさん?:04/05/29 06:31 ID:???
家内が倒れたのは、それから1年半たった頃や。朝起きた時から真っ赤な顔して、
目がうつろで、ごろんと横になったり、ブツブツ言ったり
しているんで、ああ、
これはおかしいな、と。そしたら昼間には、もの言えんようになってしまって、
名前を呼んでも反応がない。
あわてて救急車を呼んで病院へ駆け込んだ。血圧は230もあった。

「これは心労からきた脳梗塞やな」

医者にそう言われて、保志さえ連絡がついたらこんなことにはなっていないのに
と悔しかった。家内はそれまで病気一つしたことがないほど、丈夫やったんや。
幸いにも意識はあったが、言語障害が残り、両手足はマヒ、2日目くらいから
病室でのリハビリが始まり、看護婦さんがボールみたいなものを手に握らせよう
としていたが、いくらやらせてもポロッと落ちる、そんな状態やった。
入院中、わしはずっと病院に泊まり込んどった。長男や家内の弟の奥さんが
「看病を代わるから、一日ゆっくり休んで」と何べんもいってくれた。けど、

「嫁に来てもろた以上は、治るまでわしが責任を持って面倒みるのが当たり前や
さかい」と断った。

第一、家内自身が、わしでないと嫌がる。いや、言葉が不自由やからそうは口に
せんけどね。長年連れ添っているから、ちょっとした仕草で、わしでないとあかん
と言いたいのがわかるんや。
635名無しさん?:04/05/29 06:32 ID:???
■息子の写真を胸に抱き■

体も言葉も元には戻らんまま、3カ月後に退院が決まった。薬が効いて病状は安定
してたんやけど、寝たきりになってしもうてな。
家内を介護する生活が始まったんや。

朝6時に起きると、まずはぬるま湯で顔と体を拭いてやる、そうすると気持ちが
ええんか、ニヤッと笑とった。
「おまえ、なんちゅう笑い方しよんねん」
そう応じると、こっちの言うことがわかるんか、また嬉しそうに笑う。

それから朝ごはんの支度や。と言っても男やからご馳走はできへん。おつゆを
炊いて、たまにおひたしを作るくらいで、あとは漬物とご飯。家内は両手が
利かんもんやから、わしがスプーンでゆっくり口に運んでやると、もぐもぐ
食べる。食べ終わるのに1時間くらいかかっとったな。その後、わしもお茶かけ
みたいなことをしてガサガサとご飯を流し込んだ。それから、急いで建築現場へ
走り、仕事の段取りや職人への指示をしてまた家に戻ってくる。

その後は天気がよかったら、10時頃から車椅子に乗せて散歩や。家の辺りを回って
いると、近所の人たちが声をかけてくれる。それを聞くと、家内はアーアーと
言うて喜んでいた。心安い隣の人が手を握ってくれたりすると、うなずいとったね。
なるべく人と触れ合って刺激を受けてほしかったから、時間があれば日に3回でも
4回でも散歩さしとった。
散歩から戻ったら、もう昼ご飯や。おかずは、車で出たついでにスーパーで惣菜を
買ってくることもあれば、朝の残り物ですませることもあった。自分は食わんでも
家内には3食きちっり食わしとったつもりや。
636名無しさん?:04/05/29 06:33 ID:???
家内が昼寝している間には洗濯機を回した。オムツをつけてたんやが、今みたいに
大人用の紙オムツなんかないしな。そやから、ボロ布や浴衣を解いて使い、何回も
洗った。選択は日に3回くらいしてたかな。なーに、洗濯機に放り込んだら絞るところ
まで自動でやってくれるし、冬場でも乾燥機にかけたらじきに乾く。
オムツ替えは、だいたい3時間おきや。赤ちゃんと違って大人は大便も臭いし、大変
だろうとよく言われた。でも、部屋の換気扇を回したらどうということはないもんや。
それに、わしがせんならんという気持ちがあるから、汚いとは思わなんだなあ。
替えた後は必ずぬるま湯できれいにしてやって、夏でも水で拭いたことはいっぺん
もなかったよ。

夕飯の後は一緒に風呂や。車椅子に乗せて風呂場まで連れて行き、抱いたり引き
ずったりして入れる。確かに力はいるが、苦にはならなん
だ。というのも、倒れた
当初は60キロあった体重も、寝たきりになって、気づくと45キロほどに減った
さかいに・・・・。
体を湯船につかっていると、もう出たいというような顔つきになる。
「上がるぞ」と声をかけけて引きずり上げ、タオルで体を拭いて車椅子に乗せる、
夏場は素っ裸のままベットに直行や。むろん、冬場はそんなことはできへん。
脳梗塞には寒暖の差が一番あかんから、風呂場にもストーブを置いて気をつけ
ていた。
637名無しさん?:04/05/29 06:34 ID:???
家内とのコミュニケーションは、仕草を見て察してやり、それを言葉にして
確認していた。
たとえば、お茶が飲みたそうやなと思ったら、
「お茶飲みたいんか?」
と聞くと、うなずくんや。
今でもよう覚えているんは、テレビの上に置いていた保志の写真たてを取って
くれと、何べんもねだられたことやな。胸元に持っていってやると、不自由な
手でそれを着物の中に入れる仕草をしよる。懐に入れてやると、いっつも涙流し
てたわ。倒れてからの家内は、保志のことしか思わなんだやろう。

「わしが毎日毎日、こんなにも面倒みとるのに、おおきに、とも言わん。せめて
すまんぐらい言うたらどうや」

冗談にそう言うたこともあったけど、ニヤッと笑うだけやった。不自由な言葉で
保志の名前ばっかり呼んでた。

そうやって10年ほどは一人で介護しとったが、やがて訪問看護が始まり、介護保険制度
ができた。署名活動などで、どうしても家を空けんといかん時だけ頼んだが、
これはありがたかったなあ。ヘルパーさんが来てオムツを替えてくれたり、
ご飯を食べさせてくれたり、家族会がスタートしてからは東京へ行くたびに
施設でのショートステイを利用。週3回は巡回の入浴サービスも利用させてもろてた。
家内はショートステイを嫌がったけど、「遊びに行くんやないやないか。やっちゃんを
捜しに行くんやぞ」
と言うと、こくんとうなずいとった。保志の名前を出すと、とたんに聞き分けが
よくなるんや。(笑)
638名無しさん?:04/05/29 06:34 ID:???
■後悔は何もない■

「地村さん、と志子さんの呼吸が止まるようになったので、覚悟しておいてください」

わしの携帯電話にそんな連絡が入ったのは昨年4月6日のこと。前日から小浜市長たちと
姉妹都市の韓国・慶州へ行き、拉致問題への協力を訴えて帰国し、バスで小浜へ帰る
途中やった。ショートステイ先の施設で、具合が悪くなって病院へ運ばれたらしい。
病院に着いた時、家内はまだ酸素マスクを着けていた。ところが、医者は、

「残念ですが、亡くなられました。もう10分早ければ、反応があったかもしれないが・・・」

と言う。あわてて家内の手を握ったら、まだ温かい。

「と志子ぉー、もういっぺん目ぇ開けぇー」

わし、大きな声で4へんくらいそう言うて体を揺すったけど、目ぇ開けなんだ。
せめて最後は手を握ってやりたかったし、韓国で保志のことを頼んできたぞ
と言ってやりたかったが、それももうかなわんことやった。

霊安室に運ぶと言うので、わしは

「背中に負ぶうてでも、すぐ連れて帰る」

と訴えた。あんな冷たいところに家内を置いておけるわけがない。病院はすぐ車の
準備をすると言うてくれたが、韓国に行く前に近くの駐車場に入れていた自分の
小型バンを取りに行き、後部座席を倒して布団を敷いて、家内を寝かせた。
ほんまは助手席に座らせてやりたかったけど、親戚らに反対されたんや。
639名無しさん?:04/05/29 06:34 ID:???
「と志子、去ぬぞー」

運転席に座って、わしは家内に声をかけてから車をスタートさせた。家までの12分間、

「やっちゃん、もう帰ってくるさかいな」

と何べんも家内に話しかけた。嘘でもそう言って安心させてやりたかったんや。

棺に納まった家内は穏やかな、安らかな顔で、今にも「父ちゃん、やっちゃん
帰ったか?」と言い出しそう。火葬場に運ぶ前、棺の蓋を開けてその顔を写真に
撮ってやった。
「やっちゃん、やっちゃん」といい続けて死んでいった母ちゃんの最後の姿を
形に留めて、保志が帰ってきた時に見せてやろうと思ったんや。

実は、保志と富貴ちゃんが小浜に帰ってきて3日目、その写真を手渡した。二人は
それを持って2階に上がったが、階下にいても、いつまでも泣き声が聞こえていた。
今、その写真は保志が持っとる。

「大事に持っとく」

と言ってくれている。保志は生きた母親に会いたかったろうけど、わしはこれで
よかったと思うてるんや。北朝鮮で苦労してきた保志と富貴ちゃんに介護の苦労
までさせるのはかわいそうや。家内もそう思うて、74歳で逝ってしまったんやろう。


以上、婦人公論(11/7発売)地村保さんのインタビュー記事

「特集"幸せな介護"はきっとある」

ー心労で倒れて23年ー   
【嫁にもろた以上、わしが責任をもって面倒みるのが当たり前や。
それに、家内自身がわしでないとあかんと言いたいのがわかるんや】