婦人公論に(11/7発売)地村保さんのインタビュー記事
■拉致された息子の名を呼び続けて、母ちゃんは逝った■
北朝鮮に24年間拉致されていた地村保志(48歳)・富貴恵さん(旧姓・浜本、48歳)
夫妻が帰国したのは昨年10月15日だった。
羽田空港で保志さんを出迎えたのは父親の保さん(76歳)と兄の広さん(50歳)。
「やっちゃん、やっちゃん」とだれよりも保志さんの帰国を待ち望んでいた母親、
と志子さんの姿はなかった。保志さんが行方不明になった心労で脳梗塞の発作を
起こして以来、病床にあった、と志子さんんは、半年前に帰らぬ人となっていた。
74歳だった。息子の救出活動をしながら、一人で妻の世話を続けた保さんが、
足かけ23年の介護生活を振り返る。
■もう半年早く帰ってきたら・・・■
「おう、母ちゃん、やっちゃんを連れて帰ってきたぞ」
北朝鮮から帰国した保志を東京から小浜(福井県)の家に連れ帰ってきたわしの
第一声が、それだった。仏壇の前に座ったとたん、思わず口をついて出たんや
。わしの後ろに続いて保志が線香を上げ、鉦を叩いて、
「母ちゃん、今帰りました」
と挨拶した時、後ろにおった親類やら保志の同級生やら50人ほどが、ワーッと
泣いて、外におったマスコミの方々もみんなもらい泣きしてくれていた。
その後、保志はこう言ったんや。
「母ちゃん、ぼくがもう半年早く帰ってきたら会えたのに、すみません。母ちゃんごめんね」
わしはあんまり泣くことのない人間やが、これを聞いて、ほんまにジーンときたわ。
この瞬間を、保志が帰ってくることだけを待ち続けて死んでいった母ちゃんに
見せてやりたかったなあと思たんや。
わしと家内のと志子は同い年。22歳の時に見合いで結婚した。と志子は和裁を
習っていて縫い物は何でもできたから、うちの母親のほうが結婚に乗り気やった。
父親はわしが2歳の時に亡くなっていたから、母親の眼鏡にかなった人なら文句は
ないし、うちみたいなところへ来てくれる人なら、だれでもええとわしは思とった。
と志子に会った時の印象は、なんとよう肥えた人やなということ。太っとったん
ですよ。冗談で「豚やなあ。」といいながら話をしたくらいや(笑)。わしは
「うちへ来てもうらからには、ずっと私が責任をもつ」
ということを伝え、一緒になったんや。
どうしてわしとの結婚を承諾したんか、結婚してから聞いてみたことがあった。
けど、家内は「そんな照れくさいこと聞かんといて」と笑ってごまかしてたなあ。
働き者やったよ。結婚して1年後にわしの母親が亡くなってからは、家のことを
しながら5反の田んぼを一人でやっておった。
わしは大工で、一緒になって間もなく「地村建築」の看板を掲げて人を使って
仕事を始めた。そやから、田んぼのことはみんな家内に任せきりや。
4年後に長男の広、それから2年して次男の保志が生まれた。兄弟仲はよかったよ。
けど、けんかすると
兄貴のほうはいつも「おまえ、母ちゃんに何でも言わんかい」と保志をから
かっていた。
保志は母ちゃん子で、家内もまた末っ子の保志をかわいがるから、兄貴はやきもち
を焼いていたんやろう。
わしも、あんまり保志が「母ちゃん、母ちゃん」と言うもんで、嫉妬を感じていた
くらいや。(笑)
長男は家業を継ぐ気がないと言って、高校を出て就職した。保志も高校を出て
一時は大阪で会社勤めをしていたが、20歳前に小浜に戻り、大工見習を始めた
。富貴ちゃんと知り合ったのは22歳の時。二人がつきあい始めたと知ってすぐ
わしは保志に言うたんや。
「父ちゃんは、結婚すると決めんとズルズルつきあうのは、かなわん。嫁にもらう
ならもらうでハッキリさせて、結納おさめてからつきあいせえ」
それからちょっとして、保志が
「富貴ちゃんが、ぼくと一緒になると言うてくれた」
と報告にきたので、すぐ結納を持って、浜本家へ行った。二人とも23歳になって
間もなくのことやった。
■心労からきた脳梗塞■
「父ちゃん、今日は軽トラ貸してくれ」
結納から1週間が過ぎた7月7日の朝、出勤前の保志にそう言われて車を貸した。
いつもは自分の車で行くのに、仕事の後にデートするから軽トラックにする
と言う。結納の後、富貴ちゃんの兄さんの浜本雄幸さんが保志の新車を見て
「そんな大きな車に乗って所帯やっていけるんか」と冗談まじりで言ったのを
真剣に受け止めて、軽トラで迎えに行こうと考えたようや。
この日、午後9時を過ぎても保志は家に戻ってこなかった。遅くなる時は必ず
電話してきたのに、それもないまま。家内は飯台に並べたおかずを冷蔵庫に
しまったり。帰ってきたらすぐ入れるようにと、風呂のボイラーも何べんつけた
ことか。
「富貴恵がまだ帰らんけど、お宅におるんか」
「いや、お宅におるんかと思てたんや」
浜本さんからの電話で、いよいよ心配は現実味を帯び、家内もわしもまんじり
ともせず朝を迎えた。
ドライブ中にがけから転落したのではないかと疑い、8日は朝から浜本さんと一緒に
車で海岸を捜しまわった。けど、京都のほうまで範囲を広げても、そんな気配は
見つからなかった。10日には、二人が乗っていた軽トラックが発見されたものの
手がかりはつかめない。
その2日後くらいやったかな、だんだん家内の様子がおかしくなったのは。家の
ぐるりを何べんも回って、「やっちゃん、やっちゃん」うわごとみたいに保志の
名を呼んだり、「やっちゃん、戻ってこんやろうか」と独り言と言ったり。そやけど
わしはわしで仕事を放って二人を捜しまわっていたし、家内も食事のこしらえ
なんかはしとってくれていたから、ショックで一時的にそうなっているだけ
やろうと、深くは考えなかった。とにかく保志たちを見つけなあかんと、それ
ばっかり。
朝一番に仕事の段取りをつけたら、3日にあけず警察へ行き、自分でもあちこち
捜しまわり、家で保志からの連絡を待つ、そんな日々のくりかえし、大事な子供
がおらんようになったんや、親が一所懸命捜してやらなんだら、だれが捜して
くれると、そんな気持ちだった。
家内が倒れたのは、それから1年半たった頃や。朝起きた時から真っ赤な顔して、
目がうつろで、ごろんと横になったり、ブツブツ言ったり
しているんで、ああ、
これはおかしいな、と。そしたら昼間には、もの言えんようになってしまって、
名前を呼んでも反応がない。
あわてて救急車を呼んで病院へ駆け込んだ。血圧は230もあった。
「これは心労からきた脳梗塞やな」
医者にそう言われて、保志さえ連絡がついたらこんなことにはなっていないのに
と悔しかった。家内はそれまで病気一つしたことがないほど、丈夫やったんや。
幸いにも意識はあったが、言語障害が残り、両手足はマヒ、2日目くらいから
病室でのリハビリが始まり、看護婦さんがボールみたいなものを手に握らせよう
としていたが、いくらやらせてもポロッと落ちる、そんな状態やった。
入院中、わしはずっと病院に泊まり込んどった。長男や家内の弟の奥さんが
「看病を代わるから、一日ゆっくり休んで」と何べんもいってくれた。けど、
「嫁に来てもろた以上は、治るまでわしが責任を持って面倒みるのが当たり前や
さかい」と断った。
第一、家内自身が、わしでないと嫌がる。いや、言葉が不自由やからそうは口に
せんけどね。長年連れ添っているから、ちょっとした仕草で、わしでないとあかん
と言いたいのがわかるんや。
■息子の写真を胸に抱き■
体も言葉も元には戻らんまま、3カ月後に退院が決まった。薬が効いて病状は安定
してたんやけど、寝たきりになってしもうてな。
家内を介護する生活が始まったんや。
朝6時に起きると、まずはぬるま湯で顔と体を拭いてやる、そうすると気持ちが
ええんか、ニヤッと笑とった。
「おまえ、なんちゅう笑い方しよんねん」
そう応じると、こっちの言うことがわかるんか、また嬉しそうに笑う。
それから朝ごはんの支度や。と言っても男やからご馳走はできへん。おつゆを
炊いて、たまにおひたしを作るくらいで、あとは漬物とご飯。家内は両手が
利かんもんやから、わしがスプーンでゆっくり口に運んでやると、もぐもぐ
食べる。食べ終わるのに1時間くらいかかっとったな。その後、わしもお茶かけ
みたいなことをしてガサガサとご飯を流し込んだ。それから、急いで建築現場へ
走り、仕事の段取りや職人への指示をしてまた家に戻ってくる。
その後は天気がよかったら、10時頃から車椅子に乗せて散歩や。家の辺りを回って
いると、近所の人たちが声をかけてくれる。それを聞くと、家内はアーアーと
言うて喜んでいた。心安い隣の人が手を握ってくれたりすると、うなずいとったね。
なるべく人と触れ合って刺激を受けてほしかったから、時間があれば日に3回でも
4回でも散歩さしとった。
散歩から戻ったら、もう昼ご飯や。おかずは、車で出たついでにスーパーで惣菜を
買ってくることもあれば、朝の残り物ですませることもあった。自分は食わんでも
家内には3食きちっり食わしとったつもりや。
家内が昼寝している間には洗濯機を回した。オムツをつけてたんやが、今みたいに
大人用の紙オムツなんかないしな。そやから、ボロ布や浴衣を解いて使い、何回も
洗った。選択は日に3回くらいしてたかな。なーに、洗濯機に放り込んだら絞るところ
まで自動でやってくれるし、冬場でも乾燥機にかけたらじきに乾く。
オムツ替えは、だいたい3時間おきや。赤ちゃんと違って大人は大便も臭いし、大変
だろうとよく言われた。でも、部屋の換気扇を回したらどうということはないもんや。
それに、わしがせんならんという気持ちがあるから、汚いとは思わなんだなあ。
替えた後は必ずぬるま湯できれいにしてやって、夏でも水で拭いたことはいっぺん
もなかったよ。
夕飯の後は一緒に風呂や。車椅子に乗せて風呂場まで連れて行き、抱いたり引き
ずったりして入れる。確かに力はいるが、苦にはならなん
だ。というのも、倒れた
当初は60キロあった体重も、寝たきりになって、気づくと45キロほどに減った
さかいに・・・・。
体を湯船につかっていると、もう出たいというような顔つきになる。
「上がるぞ」と声をかけけて引きずり上げ、タオルで体を拭いて車椅子に乗せる、
夏場は素っ裸のままベットに直行や。むろん、冬場はそんなことはできへん。
脳梗塞には寒暖の差が一番あかんから、風呂場にもストーブを置いて気をつけ
ていた。
家内とのコミュニケーションは、仕草を見て察してやり、それを言葉にして
確認していた。
たとえば、お茶が飲みたそうやなと思ったら、
「お茶飲みたいんか?」
と聞くと、うなずくんや。
今でもよう覚えているんは、テレビの上に置いていた保志の写真たてを取って
くれと、何べんもねだられたことやな。胸元に持っていってやると、不自由な
手でそれを着物の中に入れる仕草をしよる。懐に入れてやると、いっつも涙流し
てたわ。倒れてからの家内は、保志のことしか思わなんだやろう。
「わしが毎日毎日、こんなにも面倒みとるのに、おおきに、とも言わん。せめて
すまんぐらい言うたらどうや」
冗談にそう言うたこともあったけど、ニヤッと笑うだけやった。不自由な言葉で
保志の名前ばっかり呼んでた。
そうやって10年ほどは一人で介護しとったが、やがて訪問看護が始まり、介護保険制度
ができた。署名活動などで、どうしても家を空けんといかん時だけ頼んだが、
これはありがたかったなあ。ヘルパーさんが来てオムツを替えてくれたり、
ご飯を食べさせてくれたり、家族会がスタートしてからは東京へ行くたびに
施設でのショートステイを利用。週3回は巡回の入浴サービスも利用させてもろてた。
家内はショートステイを嫌がったけど、「遊びに行くんやないやないか。やっちゃんを
捜しに行くんやぞ」
と言うと、こくんとうなずいとった。保志の名前を出すと、とたんに聞き分けが
よくなるんや。(笑)
■後悔は何もない■
「地村さん、と志子さんの呼吸が止まるようになったので、覚悟しておいてください」
わしの携帯電話にそんな連絡が入ったのは昨年4月6日のこと。前日から小浜市長たちと
姉妹都市の韓国・慶州へ行き、拉致問題への協力を訴えて帰国し、バスで小浜へ帰る
途中やった。ショートステイ先の施設で、具合が悪くなって病院へ運ばれたらしい。
病院に着いた時、家内はまだ酸素マスクを着けていた。ところが、医者は、
「残念ですが、亡くなられました。もう10分早ければ、反応があったかもしれないが・・・」
と言う。あわてて家内の手を握ったら、まだ温かい。
「と志子ぉー、もういっぺん目ぇ開けぇー」
わし、大きな声で4へんくらいそう言うて体を揺すったけど、目ぇ開けなんだ。
せめて最後は手を握ってやりたかったし、韓国で保志のことを頼んできたぞ
と言ってやりたかったが、それももうかなわんことやった。
霊安室に運ぶと言うので、わしは
「背中に負ぶうてでも、すぐ連れて帰る」
と訴えた。あんな冷たいところに家内を置いておけるわけがない。病院はすぐ車の
準備をすると言うてくれたが、韓国に行く前に近くの駐車場に入れていた自分の
小型バンを取りに行き、後部座席を倒して布団を敷いて、家内を寝かせた。
ほんまは助手席に座らせてやりたかったけど、親戚らに反対されたんや。
「と志子、去ぬぞー」
運転席に座って、わしは家内に声をかけてから車をスタートさせた。家までの12分間、
「やっちゃん、もう帰ってくるさかいな」
と何べんも家内に話しかけた。嘘でもそう言って安心させてやりたかったんや。
棺に納まった家内は穏やかな、安らかな顔で、今にも「父ちゃん、やっちゃん
帰ったか?」と言い出しそう。火葬場に運ぶ前、棺の蓋を開けてその顔を写真に
撮ってやった。
「やっちゃん、やっちゃん」といい続けて死んでいった母ちゃんの最後の姿を
形に留めて、保志が帰ってきた時に見せてやろうと思ったんや。
実は、保志と富貴ちゃんが小浜に帰ってきて3日目、その写真を手渡した。二人は
それを持って2階に上がったが、階下にいても、いつまでも泣き声が聞こえていた。
今、その写真は保志が持っとる。
「大事に持っとく」
と言ってくれている。保志は生きた母親に会いたかったろうけど、わしはこれで
よかったと思うてるんや。北朝鮮で苦労してきた保志と富貴ちゃんに介護の苦労
までさせるのはかわいそうや。家内もそう思うて、74歳で逝ってしまったんやろう。
以上、婦人公論(11/7発売)地村保さんのインタビュー記事
「特集"幸せな介護"はきっとある」
ー心労で倒れて23年ー
【嫁にもろた以上、わしが責任をもって面倒みるのが当たり前や。
それに、家内自身がわしでないとあかんと言いたいのがわかるんや】