小学生のころは親父が怖かったよ。
といっても酒乱や家庭内暴力とは違う。とても真面目な人だった。
煙草嫌いの国家公務員でプライドが高く読書好き。
広くはない家だというのに、ひと部屋は親父の本だけで埋まっていた。
書斎なんてものではなく、床から天上まで平置きにされた本でびっしりでさ。
極度に厳しいわけではないけど、子供の教育には明確な考えがあったみたいだ。
門限は夕方6時でテレビは8時まで。
いちど親父が外出してたんで9時ころまでテレビを観ていたら、
突然帰ってきてハサミでコンセントを切断されたこともあったよ。
自分も大の野球ファンで、テレビがなきゃ味気なかったんだろうに。
悪さをすれば数時間は正座で説教だし時には平手打ちもあった。
たまに強烈な皮肉屋になってお袋をひとことで泣かせた。
こうして書くと、ごく普通で実にまっとうな親子関係だと今では思う
だけど、当時ひとつだけ、どうしても我慢できないことがあったんだ。
ウチは自転車禁止だった。
小学生男子としては、けっこう致命的だ。
それでも1〜2年生は問題なかった。 3年生もなんとかやり過ごせた。
だが4年生になると、もうどうしようもなかった。
自転車に乗れないヤツは俺ひとりになった。
子供ながらそれをひどく恥じて、もちろんひた隠しにしていた。
乗れるけど親が買ってくれない。 ばればれな嘘の頼りない砦。
だけど俺は友達に恵まれていた。
いつも放課後に遊んでた3人は、何も聞かずに交代制で俺を後ろに乗せてくれた。
「ちょっとお前運転しろよ」俺はいつそのときが来るかとビクビクしてた。
だが、だれもそんなことは言わなかった。
そんな4年生の夏休みのある日、リーダーだったコーちゃんが言った。
「多摩川の終わりを見にいこうぜ」
それは俺にとって子供だけでは初めての遠出だった。
次の日、朝9時に集合した俺たちは、自転車でひたすら多摩川土手の
サイクリングコースを進んだ。 もちろん俺はリアシートで。
右手に川、左手に車道を見下ろす高い土手。
河川敷の野球グラウンド、遠くの釣り人、でっかい橋。
見たこともない景色が次々と広がっていく。
すごくワクワクしたのを憶えている。
そして昼もとっくに過ぎたころ、俺たちはついに多摩川の終わりに着いた。
あれがいったい何処だったのか、今でも分からない。
ダムというのか貯水地というのか、とにかく今まで見てきた風景とは
明らかに異質の場所に到着したんだ。
誰が決めるでもなく、俺たちは自転車を止めた。
4時間は経っていたと思う。 全員一致でそこが多摩川の終わりだった。
誰かが用意してきたパンと凍らせてあったスポーツドリンクをみんなで回した。
しばらくその場で遊んだあと、同じ時間をかけて俺たちは帰った。
俺はみんなのリアシートをいったりきたり。
「重いんだよおまえは」「あーつかれる2倍つかれる」
だけど誰も本気では言っていない。 そのくらいは分った。
空も暗くなるころ、尻が擦り切れそうなくらい自転車に乗った一日、
最高に楽しかった一日は終わった。 門限をちょっと過ぎたので親父に怒られた。
だけど俺は子供ながら、「このままじゃダメだ」とそればかり考えていた。
次の日の朝。
俺は近所に住んでた知り合いの2つ下の子から、自転車をむりやり奪い取った。
もともとは補助輪がついていたと思われる、ホントに子供用の小さな自転車だった。
期限は一日しかない。 さすがに誰かに見られたらたまらないので、学区外の町まで
押して行き、俺はひとり自転車の練習を始めた。
初めてちゃんと乗る自転車。
1メートルもバランスを保っていることが出来ない。
ほんとうに自分が情けなかった。
だけど、子供のころの吸収力は本当に別格だ。
時間が経つごとに距離は徐々に伸びて行き、昼飯も忘れ没頭して、
気付いたら夕方。 俺はその学区外の住宅地をスイスイ走り回るまでになっていた。
自転車を返し、家に戻り夕飯を食べて、しばらくすると親父が帰って来た。
「ねえ、ちょっと見てほしいんだけど」俺は親父を外へ誘った。
お袋は何事かと心配そうに見ていた。
俺は親父の自転車を引っぱりだして跨がると、夜の道路をこぎ出した。
子供用とはあまりにサイズが違うのでふらふらしながらも、なんとか
足を着かずにUターンしながら、親父の前を行ったり来たりしてみせた。
自転車を降り、俺は一生懸命説明した。
今日一日練習したこと、いつも友達のうしろで申し訳ないこと。
親父は腕組みをして黙って聞いていた。ちょっと怒っているようにも見えた。
しばらくするとひとこと「風呂にはいって寝ろ」とだけ言って、家に戻ってしまった。
やっぱりまずかった、あれだけ自転車は駄目だと言われていたのに。
親父を怒らせてしまったことが悲しかった。
そして一週間ほど経った。
俺がいつものように夕方遊びから帰ってくると、
そこにはピカピカの自転車が1台置かれていた。
おどろく俺に、親父は得意げな顔でにこにこと笑っていた。
長くなってスマン。
いい話だね。
いいお話、ありがとう(つд`)
親父って、いいよなー。
しじみ
泣けた
酔っぱらった親父は、特に嫌いだった。
俺の親父はカッコ悪かったよ。
体格も小柄でまるっこくてなんだか頼りなかった。迫力や威厳がないのも若さのせいだけじゃなかったと思う。
ビールはいつも自分で注いでいた。夕食時のTVのチャンネルだって親父が変えたところを見た記憶はない。
休日に親父が寝転んでゴルフを見ていたって俺は平気で「ファミコンするよ」と言ってチャンネルを変え、
ゲームをしてた。親父はゲームの画面を見ながら俺に二言三言話しかけた後、寝室に行って狭い机に向かって
仕事をしていた。母親は何も言わずに淡々と晩飯の仕度をしてた。
そういう親父だから母親の言葉に首を振ったことは殆どないが、俺に楽器を習わせようとしたときに
親父が反対したことは覚えている。上品なことを俺に身に着けさせようとしていた母親が、
ピアノは置けなくてもバイオリンなら大丈夫というような意味のことを言ったとき、親父は
「昼間だけ練習するとしてもやっぱり壁が薄いからね、安い所しか住めなくてごめん」
と言って寂しそうに笑った。親父の申し訳なさそうな顔はこっちまで気の滅入ってしまうくらいに
弱々しかったから母親もしぶしぶ諦め、代わりに俺を少年合唱団に入れた。合唱団では後にあまり
思い出したくない思い出を作った。
親父に殴られたのは小5の時だった。
お昼の時間、給食をすばやく食べ終えた俺は同じように早く食べ終えた男子と一緒に教室を飛び出して
グラウンドへ出た。校庭が狭かったため、長い休憩時間の時は他のクラスと二面しかない
ドッチボールコートの奪い合いになるからだ。
しかし、その日は既に他の学年の男子にコートを占領されていて、場所はBランクのジャングルジムの側の
細長いスペースしか取れなかった。仕方がないので俺達はカラーボールでロクムシをすることにした。
仕方がないとは言ってもやり始めるとロクムシは面白い。ウチのルールは変に単純で、鬼にボールを
ぶつけられた奴はゼロムシに戻ってまた往復するという永遠に続くものだった。
休み時間が終わるまでに何往復できるかというのがポイントだからロクムシとは言えないかもしれないが、
それが俺達のロクムシだった。
その日、走る側になった俺はかなり好調で、他の奴がナナムシとかハチムシでボールをぶつけられて
ゼロムシに戻っていく中、二桁ムシに達していた。今までの記録が13、14ムシ辺りで、それを越えるか
越えないかでかなり盛り上がっていたと思う。
しかし、盛り上がりが緊迫してきたときにチャイムが鳴り、掃除の時間になってしまった。
途端に大部分の興奮が冷めてグラウンドのざわめきが静かになっていく。
俺達のクラスもほぼ解散してしまったが、その時の俺はやめれる気分じゃなかった。
5,6人が残ってロクムシを続け、一人が鬼のボールをかわして走る側のチャンスになったときに
俺は事故を起こした。あまりに夢中で走り過ぎてしまい、箒で掃除していた低学年の子に
思いっきりぶつかってしまったのだ。不意に俺に体当たりされた子は飛ばされて
ジャングルジムに頭をぶつけた。その子は起きあがって大丈夫ですと言ったが、頭から血が流れていた。
誰かが保険の先生を呼び、先生は念のために、と言って車で病院へ連れていった。
幸い、縫うほどの傷ではなく、その後に影響が残るようなこともなかった。
その日の晩に親父は拳骨で俺を殴った後、静かな声で言った。
「他人に迷惑をかける人間は最低だ。中でもルールを破って人に迷惑をかけることは絶対に許さん。
こんな情けないことを二度とするな」
自分でも情けないがその時の俺は事態が大事になったことに怯えてただシュンとしていただけだった。
ルールを破って人に迷惑をかけるという言葉に具体的なイメージが湧かなかった。
ただ、掃除時間にふざけるのはやめようと強く思うだけだった。
親父が強く怒ったのは後にも先にもこの時だけだ。
その時の親父に対する気持ちはしばらく経つと消え、中学、高校の間、親父は威厳がないなという感覚で
過ごした。
でも今、あの時の言葉を考え、誰に文句をいくこともなく愚痴を言うこともなく、
淡々と地道にまっすぐに道を歩きつづけている親父を見ると思う。
親父は誇りだ。
誰にだって誇れる俺の親父だ。
このスレを見て親父のことが書きたくなって書きました。
ぐだぐだですいません。
>>82 いいよいいよ
どんどん書いて読ませてくれ
まさたかに導かれてこのスレに辿りついた
そして俺はこれからどこへ行くのか
父親はスイスに旅行へ行く予定だったが
SARS関連で行くのを中止した
どぅ思ってるかは分らないし、別に知りたいと思わない
85 :
名無しさん!:03/09/23 04:26 ID:9wBP/hM7
子供のころ、父親が大嫌いだった。
残念な事に殴る蹴る。
自分が好物の柿の種は、子供には一粒も分けてくれないし
パチンコが大好きで、週末どこも連れていってくれない。
おまけにいつも負けて、鬱憤を家族に撒き散らす始末、
よく2階の自室に非難していたら、「おい!」と呼び出され
自分が寝転ぶコタツから、3メートルと離れていない、
棚に置かれたテレビのリモコンを取らされた。
姉が自分の彼氏を連れてきたときは、「まだ早い」と
彼氏とはいえ、他所様の子にジッポのライターを投げつけた。
自分が父親になるときは、
もう少し理解力のある親になろうと心から思った。
86 :
名無しさん!:03/09/23 04:28 ID:NXvYn1YD
そんな父親の背中が唯一でっかく見えた日、
母方の祖父が他界し、葬式に参列した。
母親は祖母を気遣いながら、何かと忙しそうなので
私は父親と父方の祖父の家に一泊することになった。
縁側でばーちゃんが拵えてくれた、
とうきびを齧りながら、父親がポツリと一言
「ああやって、順番に死んでいくんだな」
夕日の逆行で表情は見えなかったけど、
なんとなく気まずく、照れくさく
黙々ととうきびを頬張った。
いまでも何が立派なのかさっぱり分からないが、
少し父親の事が好きになった。
#食った
このスレは、あかん。
親父の書こうと思ったら、涙がとまらない。
良スレだ。
私の親父は、5人兄弟の3番目に生まれた長男だ。
病室のベッドで既に昏睡状態の親父の前で、親父の姉さんに聞いた事があった。
私が生まれる前の父の事を知らなかった。いまさらだが、知りたかった。
教えてくれた中で一番印象に残っている事がある。
「あたしら生まれてきて女ばかりだったから、あんたのお父さんが生まれてきてね
あたしらのお父さんが『これでやっと鯉のぼりをあげる事ができる』って喜んでいたんだよ」と。
これを聞いて涙がこぼれてしかたなかった。
数日後、親父は死んだ。
--
アルバムには、まだ赤ちゃんである私を抱く親父の写真がある。
私を見ている笑顔がある。
私を見つめている目は、何を思っているのか、今はしるよしもない。
将来、こういう人になってほしいなーという話も聞く事もできない。
しかし、その願いは、私の名前に刻まれている。
父は、私の名前の中に生きている。
おない歳の従兄弟がいる
これは小学校の時の話だ
従兄弟は父親と2人でドライブに行くが
俺が父親とドライブに行く時はその
従兄弟もついてきた
俺はあまり父親が好きではなかったが
2人だけでドライブに行きたいとも思った
事も確かだった
そして今、父親も運転する車に乗っている
そして父親よりも自由に車に乗っている
ような気がする
ダチ募集
93 :
J:03/09/24 00:02 ID:???
たまたまこの板来て、たまたまこのスレを覗いたので足跡を残していこう。
俺の親父は威厳がありまくっていた。子どもの頃は怖い存在だった。
実は、別々に住むようになった今でも怖い。俺の友人からは
「おまえの親父さんを外に出すな」とか
「親父さんに電話を取らせるな」などと言われるほど恐れられている。
元やくざの義兄(俺のお袋の兄)からはなぜか「兄貴」と呼ばれていたりする。
特に暴力をふるうとか他人に罵声を浴びせるとかではなく、存在自体が怖いのである。
そんな親父が一度だけ涙を見せた事がある。
94 :
J:03/09/24 00:02 ID:???
今から四年前、体調を崩した親父が都内の入院した。ガンだった。
俺はお袋からそのことを聞いて知っていたが、親父は知らなかった。
だから、お袋からは固く口留めされた。
手術の二週間ほど前だったか、地方に住んでいる俺は病院に見舞いに行った。
病室(個室だった)に入り、たわいもない世間話をしたが、
話題がそんなにあるわけもなく、すぐに沈黙が訪れた。
親父はベッドに座りなおして、言った。
「なぁ、俺、ガンなんだってさ……」
親父の目から、涙が大量に溢れ出した。
俺が生まれて初めて見る親父の涙だった。
95 :
J:03/09/24 00:04 ID:???
親父は自分の病気を知っていた。そのこと自体はさもありなんと思ったが、
親父が見せた涙には戸惑うことしかできなかった。頭の中が真っ白になった。
お袋の話によると、その日から手術の日までずっと泣き通しだったらしい。
しかも、自分が死ぬ事よりもお袋や俺や妹のことを心配して泣いていたそうだ。
そうして手術の日はやってきた。十三時間ぐらいかかっただろうか、
手術が終わり、俺とお袋は執刀医に呼ばれた。ステンレスのトレイの上に
切除された患部が乗っていた。さっきまで親父の体の一部だったモノ。
拳四つ分ぐらいの脂肪の塊のようなモノだった。
執刀医からはこう言われた。
「目で見える患部はすべて切除しました。しかし、再発の恐れがあります」
と。
96 :
J:03/09/24 00:05 ID:???
それから抗ガン剤による治療が始まった。
胃が食糧を受けつけず、親父はみるみるうちに痩せていった。
髪の毛が毎日のように抜け、とうとう坊主になってしまった。
見舞いに行くと親父は口癖のように
「俺、もう死ぬから」
と繰り返した。俺はそんな親父の泣き言は聞きたくなかった。
頭では人はいつか必ず死ぬということはわかっていても、
自分の親(しかもあの恐怖の親父)はいつまでも生きていると
根拠もなく思っていた。友人に相談すると
「あの親父さんが死ぬわけねえじゃん」
という答えが返ってきて勇気づけられた。
97 :
J:03/09/24 00:06 ID:???
手術から一ヶ月ほどしたころだろうか、親父は家に帰って来た。
退院祝いということで、俺と妻も実家に帰った。
親父は見るも無残に痩せこけていた。冗談抜きで今日明日にも
逝ってしまうのではないかと思うくらいに。
親父はそこでもこう言った。
「俺、もう死ぬから。覚悟しておけよ」
俺はつとめて明るく振舞い、わざわざ親父に合掌のポーズを取らせ、
「モノホンの生臭坊主にしか見えねえよ。そんなのが死ぬわけねえじゃん」
などと言いながら、痛々しい親父の姿をカメラに収めたりした。
今考えてもとんでもないことをしたもんだと思う。
98 :
J:03/09/24 00:07 ID:???
この時点で、俺は諦めていた。本人は死ぬ死ぬと繰り返すし、
はたから見ても明らかな病人である。
いくら自分の親は死なないと思っていても現実は上記の状態だ。
そんなとき、妻が妊娠していることがわかった。
一も二もなく親父に報告し、
「孫が生まれるんだ、あと一年間は死ぬんじゃねえ。
死ぬんだったら孫を抱いてから死ね」
と喝を入れた。
そこからの親父の快復力はただならぬものがあった。さすが恐怖の存在である。
これで大丈夫だろうと思うと同時に、奇跡ってのはあるもんだと思った。
恐れていた再発も、とりあえずはなく、親父は無事に孫を抱くことができた。
99 :
J:03/09/24 00:10 ID:???
しばらく前に、俺は親父本人からガンが再発したことを知らされた。
涙を流すでもなく、やけに穏やかな表情でたんたんと話してくれた。
予定では来月の末に再手術をするらしい。今度は前回よりも大変そうだと言っていた。
実は、妹の出産日も親父の手術と同時期、来月の末なんだわ。
妹の子どもも親父に抱かせてやりたい。でないと俺は妹に
「兄ちゃんの子どもばっかりずるい」と一生責められることになる。
今、このスレ覗いてあのときのことを思い出し、ベランダに出てタバコに火をつけた。
雲に覆われ月無き夜空に紫煙がたゆたった。
流れていく煙を見ながら、俺はまた奇跡が起こるんじゃないかと思っている。
100 :
J:03/09/24 00:12 ID:???
行きがけの駄賃に100ゲット。
お邪魔したね。長くなってスマソ
起こそうと思えば起きるだろうさ
大切なのは意思と、イメージだ
俺は失敗したクチだけどねタハハ
102 :
J:03/09/24 00:16 ID:???
>>101 そうだね。ありがとう。
「起こる」んじゃなくて「起こす」という意思。
本当にそうだと思う。祈るくらいしかできないけど。
見られません
昔XOOMってフリーHPスペースあったじゃん?
ほしゅ
砂原さんて誰?
さあて、誰だろうねぇ
お元気なのかしら。
綺麗な終り方をしたスレでした。