394 :
元学。:
来客を告げるインターホンが機械的に鳴った。
正月休みも最後となったその日の昼、部屋でごろ寝をしながら
退屈なテレビ番組を観るともなく眺めていた私は、のろのろと玄関まで
歩いていくとなんの考えもなしにドアを開けた。寂しかったのだ。
私は30才を過ぎているうえに独身でひとり住まい、新年というのに
きつねどん兵衛などというモノを食べ、おまけにひどく退屈していた。
ドアの向こうにいるのがNHKの集金だろうが宗教の勧誘だろうが
誰でもよかった。すくなくともきつねどん兵衛にくらべれば。
「へっへっへ、や、どうもどうも、おひとりで? じゃ、ちょい失敬して、へっへっへ」
触手だった。
395 :
元学。:03/01/07 03:05 ID:???
私が、ああしまったなあ、と思うまもなく触手は早くもその触手性を
むき出しにし、断りもなしに部屋のなかへ上がりこむと、さっきまで
私がきつねどん兵衛を食べていたコタツに足を入れ、悠々と煙草をふかし
くつろぎ始めた。ささ、どうぞ吉田さんも、座って座って、などと言っている。
まるでこちらが来客のようだ、との考えが頭をよぎったが、慌てて振り払った。
それこそまさに触手連中の思うつぼなのだ。部屋に上げてしまった以上
くれぐれも用心するよりほかに手はなかった。
会話は常に触手側がリードした。どうでもいいような世間話だった。
松井は来年大リーグで活躍するか、とかそんなたぐいの話だ。
ええ、とか、まあね、とか、そうですね、などと適当に相槌をうち
やり過ごしているうちに、ふと「今しかない」という沈黙が室内に降りた。
「今しかない」の声が実際に聞こえた気さえした。
触手がその機会を見のがすはずもなく絶妙のタイミングで
ところでね、とほんのついでみたいにさりげなく切り出してきた。
事態は本題に入ったのだ。
396 :
元学。:03/01/07 03:06 ID:???
「どうかなあ吉田さん、触手とか。6ヶ月。いや3ヶ月でいいんでしてね。
へっへっへ。いやあ触手もねえ最近めっきりでねえ、ほらインターネットとか
ああいうもんの普及がね、アレがね、アレでしてね。へっへっへ。しかしね吉田さん
やっぱりあっしはね、触手ってのも触手ってのでこれまた大切だと、むしろ今こそ
触手が必要とされてるんじゃないかと。その意味ではね吉田さん、吉田さんのような
若い力にぜひ触手をね、日本の未来のためにもね、ほんとうにお願いしたいんです。
これはほんとうです。へっへっへ。よくね、モノで釣る触手とか、いるでしょ?
ほら洗剤とかね、ビール券とかね、野球のチケットだとか。ウチはね、もうそういうのね
しない。ウチの触手は内容で勝負!なんてね、へっへっへ。でもねほんとう、内容にはね
自信もってる。触手もいろいろだけどね、ウチのがやっぱり一番。そうプライド持って
あっしもやってる。そうでなきゃこの仕事できない。ねえ吉田さん?そのかわりね、
吉田さん、いざ取っていただけるとなればね、あっしも精一杯のこと、させてもらう。
月々のねオカネもね、かなりギリギリまでいかせてもらう。それはね、もうあっしが個人で
負担するからね。結局ね、それがいちばんなんだ、チケットだなんだっていってもね。
ね?吉田さんそれがいちばんオトク、ね?どうかなあ、考えてもらえないかなあ吉田さん?」
397 :
元学。:03/01/07 03:07 ID:???
いやあ不況がね、いろいろきびしくて、それはそれでして。
だがこちらが懸命に逃げるほう逃げるほうへと触手はその触手を
触手的に伸ばしてくるのを止めはしなかった。窓の外が暗くなり、
つけっぱなしのテレビがゴールデンタイムの特番を流しはじめ、
やがてはその番組さえもエンディングを迎えたころ、私は触手との
攻防にもいささか疲れはて、もうどうでもいいという気分にさえなっていた。
そして気がつくと触手3ヶ月の契約書にハンを突いていた。
触手が現れて11時間と21分後のことだった。
398 :
元学。:03/01/07 03:08 ID:???
仕事始めの日、通勤の電車内で会った同僚は私を見るなり、
おや? という顔をした。
「触手かあ、ま、今どきお前らしいといえばお前らしいが、部長がなんていうかな」
その部長はオフィスで鉢合わせた瞬間、隠そうともせず露骨に嫌悪感を
あらわにし、触手かね? と苛立たしげに私を問い詰めた。
「困るよ、吉田君、そりゃ規則で禁止されているわけではないがその、廻りへの
影響もあるだろう? くれぐれも仕事に差障りのないようしてくれたまえよ!」
それを見ていた23才の部下は、吉田さん気にすることないですよ、
と声をひそめて言った。
「ボクは触手も悪くないと思います。質実剛健っていうか、硬派っていうか。
ボクから見ればとても新鮮ですし新しい刺激にもなります。勉強になりました」
若い世代ほど触手への抵抗やへんな先入観がないのかもしれない。
受付嬢や営業部の20代連中にもおおむね好評といってよかった。
ともあれこれから3ヶ月は触手とともに生活しなければならないのだ。
私は気を引き締め机に向ったのだった。