13 :
名無しさん@英語勉強中:
@1927年、長野県に生まれ、当時のエリートコース、旧制一高から東大文学部に進み
西洋哲学科を卒業。当時は徴兵を避けるため、理系進む人が多かったが文系へ進み、
戦時中、生産性がなく思想弾圧の標的ともなりえた西洋哲学を敢えて専攻。案外
このあたりに
>>81の方が指摘する「変わり者」という見方の原点はあったのかもしれない。
長く肺疾患に苦しみ療養生活を送り、学者への道は困難となった。独身を貫くことを
選んだのは、才能は持ちながらも挫折し、女性に対し健康・生活の両面で責任を全う
できないという、ある意味屈折した責任感の裏返しといってもよい。
A戦後、横浜日出町の山手英学院の講師となり、英語科主任として1964年に処女作
『新英文解釈大系』(有隣堂)を出版。この本が後の伊藤和夫の著作の方向性となり、代表作
『英文解釈教室』の流れを作る。『英文解釈教室』の短文の多くは、著書『英文法シリーズ』
から採用。彼の著作や講義の文が古いと批判されるのは、受験生が考え方・読み方で
つまずく部分は毎年同じであり、その部分を越えさえすれば、本人の語彙習得などの努力
次第で勝手に伸びてゆくことを期待し英文を使い回していたためだ。試験の採点や質問か
らデータをとって実証してきた適切な英文を簡単に捨てることは伊藤にはできなかった。
伊藤が受験生になるべく少ない英文の中で読み方を教え、後は大学に入学し勉強し
ようという意志と力の持ち主は自ずと他の英文・例文を読み、必要な知識は自ら得ていく
はずだという受験生への信頼が底流にあった。
14 :
名無しさん@英語勉強中:04/05/10 20:30
B伊藤は1966年4月、後に東洋大学文学部長を務める奥井潔氏の紹介で鈴木長十
率いる駿台英語科に移籍。本人は東京にいけば何か変わると期待したが、あまり変わら
なかったと語るが、駿台には大きな変革をもたらした。数年後、初代主任鈴木長十の死後、
後継の主任に就任し、合理的な英語科改革を進める。それまで講師は講師の紹介で採用
していたが、これでは内部の講師が自分より実力のある講師を連れてこない、採用を断った
り辞めてもらいにくいという事務方の意見と一致した。
C全国から公募が行われ、優秀な講師が選ばれた。さらにテキストの学力コース別の
カリキュラム編成を徹底し、全講師がそのコースで最低限教えるべきことなどを明示し、
講師による「当たり外れ」がないように工夫した。それまで大学教員のアルバイト講師が、
行き当たりばったりの個性的な授業をしてきたものが崩壊した。さらに1977年、「予備校の
講義の秘伝」を研究社という、予備校外の出版社から『英文解釈教室』として駿台内部の
大反対を押し切って出版。それまで大学教授が名義貸し、監修という形で高校現場と教材
と馴れ合いながら進めてきた受験指導と、浪人したら予備校に来なければ大学入試に受か
る適切な指導、秘伝の伝授はできないとしてきた、旧来の予備校体制を壊した。
15 :
名無しさん@英語勉強中:04/05/10 20:30
D79年から共通一次試験が導入され、教育現場が暗中模索する中、受験生の弱点を知
り尽くした伊藤が著した、予備校授業の中身の一端を示したこの著書は難解ながらも難関
大学志望者を中心に支持を集め、予備校の校舎展開にも大きな貢献をした。この功績は
駿台で絶対的なものとなり、さらに採用担当、駿台英語科主任として築き上げたシステムは
本人の意図とは無関係に独裁体制の確立へとつながる。本人は生徒と接することが好き
なのだが、名誉教授のように祭り上げられていった。学者や作家の夢はあったが、大学教授
への誘いは断った。組織で頂点を極めた人間がいまさら一年生教授というのも面白くなかった
かもしれない。省庁の事務次官OBが今更一年生議員になるのは馬鹿馬鹿しいと思うのと似
ているといったらよいか?
E採用試験でのことだ。山口紹という講師が講義に華がないなどの理由でで「不採用多数」
で落とされかけた。しかし伊藤の「採用」の声で一転合格となる。採用の段になって
過去のセンター試験などを解かせるとほんの数分で解答し全問満点、しかも日本のほぼ全て
の予備校講師が敬遠していた英作文の指導が非常に優れていたのだ。彼を採用しないことは
大打撃であった。伊藤の眼力はここでも発揮されたが他の採用担当の多数決がその場で
ひっくり返されたのは「一党独裁」ならぬ「伊藤独裁」と見られても仕方ない面もあった。大橋巨泉
が番組で受験英語を批判すると激怒し、激しく机を叩いて講師たちに甲高い声で「君はどう思うん
だ!」と怒鳴り考えを述べるように迫った。
16 :
名無しさん@英語勉強中:04/05/10 20:31
F英語科の副教材はほとんどすべて伊藤の著作になり、他の講師も伊藤の本を用いることになる。
授業は東大スーパー在籍者等、上位学力者に対して行われる「教養講座」のようになっていた。
甲高い声ながら単調な講義は眠気を誘い、かといって遅れたり眠ったりすれば容赦なく「君たちと
同世代で働いている人たちは社会人として遅刻や仕事中の私語など許されていない!真剣に授業
を聞いている君たちの仲間、いや、ライバルに対しても失礼だ!」と怒鳴る伊藤の講義への出席率は、
始めのしばらくは「伊藤見物」から満席になるものの、著書に書いてあることを、怒られたり眠くなり
ながら聞くことはない、という「お客様」意識の生徒からは支持を失っていった。しかし東京大学を初め
とする難関大の入試問題をわずかな時間で完全な解答と解説を作る点はやはりプロであり、他のどの
講師にも真似できないものであった。
G晩年は自身の著作の中で「英文解釈教室」の中で、記号を多く使って大系と構造を示しすぎた
ことを反省している。1987年、還暦を迎え出版した「ビジュアル英文解釈」はかつての肩に力に入った
著作とは変わっていた。「構文」という言葉の生みの親として受験教育界に大きな影響力を持ったが、
最後は日本語の表現力を心配していた。答案をみても確実に日本語の文章力が低下している。
昔の就職希望の高校生の方がはるかに優秀であったとさえ思っていたのではないか。信頼する
大島、入不二が授業でおもしろおかしく物まねをしている、それも非常に上手だと聞いて笑っていた。
17 :
名無しさん@英語勉強中:04/05/10 20:32
H故郷、信州諏訪湖の遊覧船に乗って無邪気にはしゃぐ伊藤は思った。伊藤家は長生きの家系だ、
ヘビースモーカーの高橋(善昭・英語科主任)に比べればはるかに健康に気を使っている。
余生を楽しもうとしたその時自分が病魔におかされていることを知った。独身の伊藤は妹に後を頼んだ。
1997年1月21日朝、新課程最初のセンター試験、受験シーズン、全国の受験生の健闘を祈りながら
駿台のお膝元、お茶の水の杏雲堂病院で転移性肺がんのためこの世を去った。69歳だった。
病院でも執筆を続けた遺作『英文和訳の十番勝負』が職員に届けられたのはこの日であった。
「英文解釈教室」のあとがきにある「諸君が本書のことを忘れ去ることができたとき」こそ、が
英語の思考過程を自由・無意識にたどることができた時であり、この本の役割は終わる。大学に受かる
までにその力をつけさせることが伊藤和夫という熟練の職人の使命だったのだ。門弟数万人、今は
参考書は予備校講師が書き、ノウハウの公開は衛星授業という形で公立高校の中にまで浸透している。
伊藤の「本書のことを忘れ去ること」という言葉には英語のこと以外に、、当時の屈折した心情があるように
思えるが、還暦を過ぎ対話型の「ビジュアル〜」には角がとれた伊藤の姿が見えるような気がする。(敬称略)
18 :
名無しさん@英語勉強中:04/05/10 20:33
(10)1月21日未明、当直の担当看護婦に「私はもう逝きます。大変お世話になり
本当にありがとう。」衰弱と呼吸困難の中で丁寧に礼を述べ、数時間後に旅立った。
激情ともクールとも言われた伊藤の最後の言葉は極めて素直なものだった。
白い髪を大事に撫でてもらい、愛用のメガネを実妹にかけてもらう伊藤の姿に、
杏雲堂病院地下1階の霊安室を訪れた職員はじめ、いい大人たちが心から涙した。
逝去から6年後の昨年七回忌を終えた伊藤からは「そろそろ僕を忘れ去ること」という
卑屈とも言える言葉がそろそろとび出しそうだ。しかし伊藤を著作でしか知らない
受験生たちに今もこうして名前を挙げてもらえることは嬉しいだろう。あるいは
無神論者に近い伊藤はもはや土に還元された、ただそれだけの「モノ」になったかも
しれない。