美智子資料庫

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241皇太子時代の明仁の評判 
【保守の怒り】皇室問題を語る【疑問と不満】part33
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1321502434/

367 名前:朝まで名無しさん [sage] 投稿日:2011/11/22(火) 11:57:34.79 ID:cu6lI5d6

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 (皇太子時代の明仁親王のこと)

やがて、彼を“象徴”と呼ぶ日の憂鬱を友人に語ると笑われた。
「それはお前がまだ関心がある証拠だ。いまや、おれたちには、彼にそんなことを感じることもない。
無関心でいろ。その方が気が楽だ」

大宅壮一は生前、天皇、皇太子の職業論にふれて
「天皇や皇太子は国家や民族のマネキンである」とたとえた。
私が皇太子というマネキンに衣裳を着せるなら、“マイホーム”という衣裳しかない。
皇太子の女性週刊誌的疑似庶民像には、もう飽き飽きした。

皇太子という四十二歳になる男性は、“妻の持参金”で食べている。
だが、その“貯金”はもうなくなりかけていることに、周辺は気づいていない。
そこに、不人気の原因と皇太子の不幸がある。これはある宮内記者の指摘だ。

貯金とは、金ではない。いわゆる“ミッチーブーム”といわれた、結婚のイベントである。
皇太子はあの馬車行列の日の、マスコミの興奮ぶりや沿道の拍手と日の丸が、
国民の間にいまも続いていると考えているのではないか。

「 国民と共に歩むのがこれからの皇室である 」 という。
だがあれだけ広い御所に住んでいながら、記者会見で「殿下お住まいはいかがですか」とたずねられると、
「 せまくて困る。もっと増築してもらいたい。物置が混んでせまい 」 と答えられたと聞き、私は耳を疑った。

公人たるもの、物置まで口にすべきではなかろう。“マイホーム文化の模範”も限度がある。

こういう皇太子の言動に接すると、かならず対比されることばがある。

「父・陛下は絶対にそんなことをおっしゃらない」というのだ。 (中略)
 
242皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 14:46:46.60 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 2  (皇太子時代の明仁親王のこと)

「今上天皇のお人柄と比較するのが気の毒なので、とびこえて大正天皇とくらべればいい」
という意見が出る。

昭和天皇は侍従の名を呼びすてになさる。皇太子(明仁)は「さん」をおつけになる。
にもかかわらず、陛下の方がはるかに温かくていらっしゃるという声がある。

(池田潔博士御進講のエピソード)
陛下(昭和天皇)は幼稚な質問から突っこんだ質問まで、身をのり出してなさる。

終わると「池田、ありがとう、ありがとう。今日はおもしろかった」と持ち前の大きなお声でおっしゃり、
廊下まで出て見送られる。

いっぽう皇太子(明仁)は、棒をのんだようにストンとしておられ、ご進講が終わると
「池田さん、ありがとう」と、スッと立ちあがってしまわれる

甘露寺受長(元侍従長)が著書に書いている。
「陛下(昭和天皇)のおそばには、いつも笑いがたえない」と。

皇太子(明仁)はどうかというと、残念ながらそれがおありにならない。
学友は「殿下とは馬鹿話ができない。非常に利口で、間違っていることがあるととことんまで指弾し、
やりこめないと気がすまない」

「皇太子(明仁)の現状に、はっきりと危機感をもっている宮内庁某関係者に
 “そろそろ浩宮に帝王学が必要なのではないか”というと、“ いや必要なのは、皇太子です ” 」
 
243皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 14:51:16.36 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 3  (皇太子時代の明仁親王のこと)

宮内庁の幹部が「皇太子(明仁)さまは、あまり他人の意見に耳を傾けられるほうではない」ともらしたが
バイニング夫人の著書 『 皇太子の窓 』 にもこう評されている。

「 公的な人物にとっては実に大きな財産となる、あの愚者をもよろこんで
 寛容する能力を、殿下はどうやら欠いておいでになるように見受けられる 」

皇太子(明仁)は世継の皇子としての環境の中で、当然のことながら“優者”としての意識を持っている。
それがときに、自分よりも能力のある人間に対して、不快に感じる性癖があったようだ。

バイニング夫人の著書に「(明仁)殿下は自分よりも英語のできない友人をつれてくる」と
いう意味の記述がある。 学友は

「(明仁)殿下は負けずぎらいで、敵に勝ちをゆずる余裕はない。相撲でもテニスでも、
 自分が負けると思う相手と組むのは、いやがった。 
 スポーツマンシップは心得ているのだが、感情の面でおさえられない 」 と 指摘している。

「 感情を出さない生活をしている皇太子が、実に口惜しそうにする。それで、友だちもいやになる。
  四十にもなって子供っぽくこだわりすぎる。あの性格は小さいときのままだ 」

時代が変わったものの、侍従はいつも、「父・陛下のようにおなりなさいませ」と
耳にタコができるほど御教育申し上げた。 そう言われれば言われるほど皇太子は、学友の見るところ、

「 私は、新しい時代の新しい天皇、新しい皇室を目指すのだ。父・陛下は、天皇という制度の中に埋もれた人間だ。
 私は違う、私は天皇陛下のような生き方をしないぞ 」 という気持ちになるのも、また自然と言えよう。

皇太子は、旧憲法下の天皇という偶像を、青年の心で打破し続け、その当面の思想が
個人生活では 「 憲法で保障された両性の合意による結婚 」 であり、
結婚後は、育児を中心とする家庭革命に顕著にあらわれているのである。
 
 
244皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 14:54:35.68 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 4  (皇太子時代の明仁親王のこと)

(ご成婚)当時の 『 毎日グラフ 』 

* 井口道生(皇太子明仁と同窓)
とにかく皇太子(明仁)はご婚約が決まってからは、非常に決断力が強くなられた。
その反面、ひとのいうことをあまりお聞きにならなくなったようです。独断的なところが出てきました。

自信があることと、独断的なこととは違うと申し上げているんですが、特に美智子さまの
おっしゃることになったら、絶対ですね。 とにかく、すこし自信過剰気味です。

それでも前に比べれば、ずっといいです。 全然自信のなかった時にくらべれば、
過剰気味でも、いまの方がずっといいという意味です。

* 松本千世 ( 美智子妃 同窓 )
美智子さまの方は、ご婚約なさってからは、独断的なところがなくなって、なんでも
“殿下にうかがうわ”といってらっしゃいます。

学友の橋本明は、例の増原長官問題のとき<皇太子も同じだな>と感じた。
つまり「言っちゃうと切られる」のだ。 皇太子の耳に痛いことを直言する士が遠ざけられるのと同じように、
<長官も同じ手口でほうむられたな>という思いである。

皇太子(明仁)と「東宮」は「直言すると切られる雛型で、むしろその傾向がたくましく育った」

女性誌は“ミッチーブーム”以来「皇太子ご一家」が目玉商品であった時代が続いた。
怒らせては商売にひびく。 そこで宮内庁へのもみ手編集となった。

官僚は、弱者に対して天性の表情を発揮する。そういう力学の中で
「皇太子殿下はよき夫、よき父」「美智子妃殿下はお美しく聡明な」というマイホーム像が根を張り(以下略)

かつては小泉信三、安倍能成がいた。
彼らは参与として殿下にも言うが、長官や大夫にも面を冒して進言した。
宮内庁も新しいことをやっても責任を小泉さんに転嫁できた。

今はそれがないので、宮内庁は煙たい人がなくなって羽をのばせるかわりに
うっかりしたことができない。ご結婚にしても、小泉さんがいたからこそできたことで、
すべての“罪”は小泉さんがかぶった。(浜尾)
 
245皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 14:58:43.33 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 5  (皇太子時代の明仁親王のこと)

(施設訪問)
「何か温かい気持ちが生まれ、希望の芽が吹く」施設の職員は

「 せめて一日中ずっと見ていただかないとおわかりにならない 」
「 ご夫妻が来られたといっても、あくまで視察ですからね 」 と言葉を濁し、
せめてよかったことといえば、せいぜい皇太子のためにいままで凸凹道だった道路が
瞬く間に舗装されたことをあげる。

(浜尾)
「 ああ、あの人は殿下にとってぜひとも必要なバックボーンを持っている人だ、
 長くつきあってほしい友達だ、直言してほしい友達だと思う学友はだんだん離れていく 」

皇太子(明仁)を“疑似庶民”と規定したのは、山科宮家の出である評論家、筑波常治である。

筑波は、皇太子(明仁)に対するさらに深い絶望感から、ある結論をいう。
「 いまの天皇で天皇制を廃止するか、さもなければ、次代の天皇は京都御所に居を移し、
 一切の疑似的市民生活から隔離するしかない 」

昔の天皇は貧乏のただなかでただ皿数だけをそろえ、腐った鰯を食べながら、ひたすら
古代文化を守ることを業とした。 今の天皇(昭和天皇)は、庶民から見ると痛ましいご努力だが、
その「痛ましく大変なこと」をやってきた。

それが無言の権威となり、理論的には戦争責任者だが、共産党でも威圧を受け、国会開会式で
人が人を拝むことを拒否して天皇の前を横にあるいた松本治一郎にさえ
「制度と人間は別だ」と言わせる親しみとディグニティをもっている。

皇太子(明仁)には京都御所の権威も人間としてのリーダーシップも感じない。
ただ支えているのは、平民と恋愛結婚をしたというイベントと、その延長線上の、生活面での
疑似庶民というキャンペーンである。

だが、庶民と同じだという人間が、わずか10メートルの小道を赤じゅうたんの上を歩き、
警官の挙手の礼に迎えられて御所に帰る。 ならばそういう疑似庶民ぶりをやめて京都御所に帰るべきだ。

筑波は、さもなければ大百二十四代天皇が亡くなったときをもって廃止がよい、
今なら皇太子(明仁)も一市民として暮らせる、という。
 
246皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 15:01:24.78 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 6  (皇太子時代の明仁親王のこと)

さまざまな皇太子観の中で、もちろん擁護論もある。(橋本明・浜尾実)
だがこういう声は、まことに少ない。宮内記者が、もっとも平均的な現状をいった。

「(昭和)天皇がお元気な間はまだいい。もしものときにはどうなるのか。これは大変なことに
 なるぞという危機感は、少なくとも宮内庁本庁の心ある人士の中にはある。
 『 皇太子(明仁)ご一家をよろしく 』 とスピーチでいわせたのも、そういう心理だろう 」

皇太子(明仁)は天皇になったとき、その一挙手一投足が全部さらけ出る。
そのとき、彼自身の“人より卓越した資質”で天皇でいることができるのか。
それとも単に“息子”というパスポートでその地位にいるのか。救いようはあるのか。

ひょっとしたら皇太子(明仁)は、結婚のときのまま、ストップモーション・フィルムになってしまった
自分を意識していないかもしれない。 やがて天皇になれば、父親と同じように注目されると
思っているかもしれない。 もしそうだとしたら、皇太子(明仁)もさることながら、国民も不幸だ。

そして “ 国民と共に歩む ” という信条の中に、あるできごとを思い出し、割り切れぬものを感じてしまう。

昭和四十八年春、皇太子(明仁)ご一家はスキーに行くはずだった。
ところが勤労ストの混乱で、皇太子はスキーを取りやめた。

だが子供たちは、宮内庁や東宮職の官用車で出かけた。
パトカーに前後を守られ、行く先々の沿道に警官が出てものものしく警備をする。

途中の役場で弁当を食べ、トイレを使う。役場の職員たちは清掃にかり出される。
同じ日の新聞には、足を乱された国民の怒りが大きく報道されている。
これが国民と共に歩む姿なのか?

さすがに疑問を感じた宮内記者が東宮大夫にただすと、有能な旧内務官僚はこういう考え方だったそうだ。
何が悪いのです。あの方々は存在そのものが公的なのである。
公的な方の旅行に公的な機関が便宜を図るのは当然です。
 
247皇太子時代の明仁の評判 :2011/11/24(木) 15:06:39.05 ID:mZavMirG

■ 「皇太子への憂鬱」から抜粋 7  (皇太子時代の明仁親王のこと)

オーストラリア・ニュージーランド旅行をした皇太子(明仁)夫妻に同行した記者が、
憂鬱なる土産話をしてくれた。

皇太子(明仁)に関する記事はウェリントンでは大きく報道されたものの、概して現地の新聞報道は小さかった。

なにしろ、この前皇室外交の老舗、英国の エジンバラ公 が来たとき、ロールスロイスで市内見物を
している途中で急に、「 ちょっととめてくれ。あの市電に乗りたい 」 といい、市電に飛びのって
市民と笑い合ったそうだ。

これはあきらかに演出であろうが、そういう演出をする知恵と勇気に、新聞は大きく報道をした。
その前例があるだけに、日本国皇太子(明仁)はいかにも書きようがない。

ある日オーストラリアの記者が皇太子(明仁)をさし、「 彼に趣味はないのかね 」

日本人記者が 「 いやテニスと乗馬は結構やるよ 」 と答えたら
「 おう、わが国は乗馬の国だ。テニスはデビスカップのチャンピオンがいる。うちのチャンピオンとやろうじゃないか 」
記者たちは皇太子(明仁)にその事を進言し 「 やれやれ 」 とけしかけた。

やれば一面トップ記事になる。
もちろん負けることは分かっているが、「 汗を流してやった 」 若さと意気を感じるだろう。

記者たちは 「 今日は・・・明日は… 」 と期待していたが、皇太子(明仁)は
「 遊びに来たのではない 」 と答えた。

皇太子(明仁)のこういう律義さと頑固さはときにはマイナスである。

皇太子(明仁)が 「 存在そのものが公人 」 であることの特権を受けるならば、反面の
“ ノブレス・オブリジ ” も果たさねばならぬだろう。