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大黒のインタビューでバーレーン戦を控え、アブダビで選手たちが議論をする話である。
「何よりディフェンスはどこから始めるのとか(中略)というところから対話が始まっていた。守備の確認で、誰がどこに付くのか決まっ
てなかったからそれが良かったんですかね。」
さらに久保のインタビューで「ZICOは何も言わないですね。頑張れみたいな言葉だけで、何も言われたことが無い」と久保…。
最初は吹き出したが、なんだか代表選手が気の毒になった…。
彼らはそれをまるで不自然だと感じていない。
W杯最終予選の大事な一戦を前にしてどこから守備を始めるのか選手同士で話し合って決めている。
一方でZICO監督は、コンフェデ杯のMEXICO戦後に選手同士が導き取り組んだ守備を批判した。
「複数でボールを取りに行くのが間違いなんだ。しっかりとポジションをとり、最後に1人余ればいい。」
かつては「前からボールを奪いに行く」とも言っていた人である…。
そしてこうした状況下で、選手は監督の発言の矛盾に折り合いをつけようと必死に討論し、それをメディアは自主性の発芽と賛辞する。
さらに気になるのがZICO監督と五輪、ユース両監督によるチーム作りのアプローチの違いだ。
ZICOが理想として描いているのは昔のBRAZILである。
選手の質を頼りに大らかな戦術と軽やかな即興、それに強靭な精神力で世界に伍していけるようにしたい、
そして日本をかつての、第二の、BRAZILのようにしたい、と考えているのであろう。
細やかな指導が介入しなくても素材が次々に生まれ世界へと飛び出し、その優れた個の集合体が代表を形成する。
そうすれば戦術など関係無く個人の資質で日本も勝てるようになる。それがZICOが描く未来設計図なのだろうか。
だがそのようなものにするには、多分日本中の指導者たちがZICO的な放置を貫く必要がある。
A代表の供給源となっている五輪やユースが詳細な指示で組織的な戦いを追求しているのでは、本来辻褄が合わない。
欧州→南米→日本→欧州→南米…こうした場当たり的な路線変更にはそろそろピリオドを打つべきである。
日本サッカーの父といわれるクラマー氏。日本代表の指導に携わった最初の外国人コーチは70年代に欧州チャンピオンズ杯で
バイエルンを連覇に導くなど、今にして思えば破格の大物だった。クラマー氏の功績をこう評している。
「クラマーは理論を運んできた。それによって日本サッカーがモダンになった。」
放置なのか、理論なのか。監督とは論を尽くして決定された方向性に基づき人選されるべきものである。