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Jリーグの名古屋、FC東京、仙台でプレー後、南米に活躍の場を求め、
現在はメキシコ・イラプアトのエースストライカー。FW・福田健二選手。
彼のチャレンジ精神の裏にある、余りに苛酷な過去が、スポーツ雑誌「Number」誌上の
小宮良之氏の記事によって明らかとなった────。
彼は今もその日の始まりをよく覚えている。
当時、小学5年生だった彼は朝から違和感を感じていた。
いつもは窓を開けて手を振ることなどない母親が、自分の姿が見えなくなるまで手を振っている。
胸騒ぎを覚えたが、それは少年特有の恥ずかしさにすり替わった。
「母ちゃん、もういいよ。恥ずかしいから」
2限目だった。彼は「お母さんが怪我をした」と校長室に呼び出される。
何が起きたのかは分からなかったが、恐ろしいことが起きた気がした。
母はビルの屋上に上がり、自らガソリンをかぶって火を放ち、そのまま飛び降りた。
少年は同じ言葉を繰り返していた。「母ちゃんに会わせろ」と。
「親父とは離婚していて…。お金には困ってました。兄貴が貯めていたお金を
母ちゃんが黙って生活費に充てて。二人は大喧嘩です。けど、たった1万円ですよ。
愛があればお金なんていらない、という人もいますけど、それは本当の貧乏を知らない人が言うことですよ」
福田健二宛に残された遺書には、たった三行だけ記されていた。
「好きなサッカーで
世界に胸を張れる
選手になって下さい」
6 :
:2005/09/13(火) 02:33:04 ID:Pm1UH6U1
福田は声を絞り出す。
「兄貴はこれからのこととか、大学を出て、とか原稿用紙3枚も書かれていたのに、
なんで自分は3行、しかもサッカーのことだけなのか、と悩みましたね。
確かに、サッカーの練習だけは一度も休まなかったですけど。」
その日から、彼はサッカーを通じて人生を自問自答しながら歩んでいくことになる。
朝起きてから夜寝るまで、彼はサッカーを意識して生活する。
そうでないと、自分がダメになる気がするのだった。
「母ちゃんが死んだときは、施設に入れられそうになってね。
結局、千葉にいたオヤジに引き取られるんですけど…。」
しかし引っ越した千葉での生活は、辛酸をなめ尽くすようなものだった。
「オヤジには『サッカーは金がかかるから辞めろ』と言われました。
『勉強も役に立たない』と教科書を捨てられて。
中学の時は荒れてたし、先輩から『調子に乗っている』としめられました。
一匹狼みたいな感じで突っ張っていて、その筋の人に入らないか、とも誘われました。
俺が信じられるのは兄貴だけだった」
中2になると、福田は練習に行けない日が続いた。
練習場に通うための、大人800円の電車賃が捻出できなかったからだ。
全日本クラブユース出場も、遠征費が払えないからと辞退。それでも中3の冬の大会では、
チームメイトだった広山が福田の父に懇願し、足りない旅費はチームのオーナーが
肩代わりしてくれたことで彼はほぼ1年ぶりのピッチに立つことが出来た。
そこで福田はブランクを感じさせずにゴールを量産し、チームを全国3位に導く。
7 :
:2005/09/13(火) 02:33:45 ID:Pm1UH6U1
彼はある決意を導き、中学時代を終えようとしていた。
福田は真剣な表情でブラジル人少年達が語る言葉を聞き、瞠目する思いだった。
「大きくなったら、プロサッカー選手になって、たくさんお金を稼いで、
お母さんに大きな家を買ってあげたい」
自分がプロ選手になっていれば、お母さんを楽にさせてあげられていただろうにと、彼は想像した。
当時、日本にはまだJリーグというプロリーグが存在していなかった。
だか福田がブラジルに自分が生きる場所を求めたのは、
飽食の日本に溶け込めない自分の存在を感じていたからだ。
貧しさから抜け出すために懸命に生きようとするブラジル人に、彼は共感を覚えずにはいられなかった。
中学校の担任との進路相談で、彼は真剣な表情で言っている。
「卒業したら、ブラジルに行きます」
先生は呆けた顔をしていたが、彼は大真面目だった。
2005年8月20日、イラプアトの第3節はホームゲームだった。
1−0という場面、彼は任されたPKを外してしまう。
「サポーターにはいろいろ言われているでしょうね。
FWは結局ゴールだから、ゴールしないと絶対に評価されない」
彼はこのままでは日本に帰れない、という切迫した心境でゴールを睨み続ける。
そして何かあると最後に母がくれたメッセージを思い返している。
「好きなサッカーで
世界に胸を張れる
選手になって下さい」
(Number9月22日号より、一部を抜粋)