加地10

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この春、4歳の息子が近所の保育園に通うことになった。
友達はできたかとか、保育園の様子はどうかとか、息子にいろいろと話を聞いたところ、
先生は男の人なのだという。「ちょっとサッカーがうまいんだよ」と息子。

妻にもそのことを聞いてみたら、
「その先生、昔、ちょっとサッカーをやっていたことがあると言ってたよ。
でも、子供が好きだから、サッカーをやめて、保育士の資格を取ったんだって」
とのこと。私は「珍しい人もいるものだ」と思う一方、その先生にほのかな好感を持った。

その年の秋、運動会があるというので、息子の通う保育園に私が初めて足を運んだときのこと。
なんとグラウンドで子供たちと一緒に楽しそうな笑顔を浮かべているのは、加地亮、その人だった。
何かの見間違いではないかと思ったが、たしかに彼に間違いなかった。
妻の話を聞いてからこの瞬間まで、私は彼の名前などすっかり忘れていたのだった。
忘れもしない、8年前の2006年のドイツワールドカップ、ベスト4に入った日本代表のレギュラーで、
右サイドを颯爽と駆け抜けた加地さん。予選突破をかけたブラジル戦では、後半ロスタイムに
奇跡のゴールを奪った加地さん。私の中で、あの熱い日々が、走馬灯のようによみがえってきた。
その彼が今、子供たちと一緒に屈託のない笑顔を浮かべている。
グラウンドの大きさは違うとはいえ、あのときと同じ、いや、あの時よりも、いい笑顔だ。

運動会の終わったあとで、私は「加地先生!」と声を掛けた。
「いつも息子がお世話になっています」と私は挨拶をし、それから、おかしなことだが、
握手を求めてしまった。加地さんちょっと照れながら、私の手を握り返してきた。
「おとうさん、加地先生、サッカーうまいんだよ!」と、私の傍らで息子が言っている。
加地さんは朴訥な口ぶりで「昔、ちょっとサッカーをやってたんですよ」と照れ笑いを浮かべた。
私は、あの2006年ワールドカップのことが口に出かけたが、やめておいた。
目の前にいるのは、日本代表の加地さんではなく、保育士の加地さんなのだ。
息子や妻にとっては「ちょっとサッカーがうまい」先生だ。それでいいじゃないか。

私は「これからも息子をよろしくお願いします。サッカー、教えてやってください」とだけ告げた。
加地さん……いや、加地先生は「はい、頑張ります」と言った。
私は、彼の第二の人生を、ひそかに応援している。