ジーコは就任当初から支離滅裂で監督としてどういうチームを作ろうとしているのか
さっぱり見えてこなかった、選手の選び方、布陣、試合の進め方、何一つ取っても
「この監督はこういう人で、こういうことをやろうとしているのだ」というものが見えない、
トルシエは一流監督ではないかもしれないが、色ははっきり出せる人間で、
だから見る側も批判のし甲斐があったし、結果が悪かったら解任だ、
という緊張感が常に付きまとう中で、トルシエの代表チームは勝ったり負けたりしながら、
どうにかチームとして成長して、W杯で予選リーグを2勝1分で勝ちあがった。
トルシエじゃなかったらもっといい成績を残せていたかもしれない、たらればを言えば、
だが、ジーコが監督になって以降と決定的に違う点は、トルシエは明確に批判できる
存在だったことだ、ここがいい、ここが悪いと、そして結果が悪ければ批判の高まりで
解任に追いこむこともできる存在だった、見る側にとって、良くも悪くもトルシエは
非常にエキサイティングで、代表チームの行く末がファンにとっても自分自身の出来事の
ようになる、そういう現象を作り出していた、
だが、ジーコになって以降、この関係は崩れた、ジーコのやることはあまりにめちゃくちゃで
どこから手をつけていいか分からないほど不可解なものだったし、またジーコを擁護する
協会やファンたちの言い分があまりにも信仰じみているので、ファンの選択が「ジーコを
信じるか、信じないか」になってしまったのだ、トルシエ時代は、トルシエのここが悪い、
いいで熱弁を振るっていた人たちは、ジーコ時代になって、ジーコを信じますか、信じませんか
問われるようになって急激に熱意を失っていった、彼らは宗教には別に興味がなかったからだ、
今回、北朝鮮戦の苦戦でまたぞろ迷走を始めたジーコの姿はまさに絶望的なもので
本来ならサッカーファンはジーコの100の問題点を指摘して解任に追いこみたいのだが、
ジーコを解任させるには日本代表が立ち直れないほど負ける以外にないらしいと
分かってしまっているので、ただ呆然と事態の推移を見守るだけなのである、