フランスW杯アジア地区最終予選を振り返る

このエントリーをはてなブックマークに追加
411GK
懐かしいな・・・ずっとROMってたんだけど熱い想いがよみ
がえってきてどうしようもないので書き込みます。長文になり
ますのでウザイ人はとばしてね。

 俺は今21歳。初めて親に連れて行ってもらったレンタルビ
デオ店でなんとなく「キャプテン翼」が目に留まり借りてもら
ったのが5歳のとき。それ以来外で遊ぶときは野球よりサッカ
ーだった。小学校に入学した90年にW杯の存在を知る。
でも当時家にはBSが無く一切試合は見れなかった。ただ強烈に印
象に残っているのが「マラドーナ」というすごい選手がいて、
その人が決勝で負けて子供みたいに大泣きしていたということ
(おそらくニュースで見たのだろう)。この時W杯がどれだけす
ごい大会なのかなんとなく理解したような気がする。
412GK:05/01/30 22:30:58 ID:P9TKYXKx
92年、9歳になった俺は迷わず田舎(北海道)の弱小サッ
カー少年団に入団した。球拾いばかりの日々だったけど楽しか
った。93年、日本サッカーは一大転機を迎えた。Jリーグ開
幕。国民の目がサッカーに向いた。サッカー部がもて出した。
まぁ学年10数人の部員中1,2を争う下手糞の俺には縁
の無い話だったがw。そして日本にも「代表」が存在すること、そ
こには憧れのカズ、ラモス、堀池(当時俺のポジションはGK
をやりたいという希望が聞き入れられず右サイドバック)らが
選出されていること、そしてアジア最終予選に挑んでいる最中
で、あのW杯までもう少しということを知った。
413GK:05/01/30 22:33:46 ID:P9TKYXKx
 93年10月。当然代表を応援していた。コートジボワール?
との壮行試合に勝ち、ドーハもテレビに噛り付く予定だったが
時差がある。当時10歳の俺は九時に寝かされていた。
さらに親はサッカーに興味は無い。当然中継を見ることは叶わず、
俺の情報源はズームイン朝だけだった。サウジと引き分け、イラン
にやられ絶望していたが中山の終了間際の角度ゼロからのゴールに
わずかな光を見ていた。でも北朝鮮に快勝し光が夜明けの朝の光に
変わり、韓国に勝って光は昼の照りつけになった。そして運命の
イラク戦。この試合は確か開始時間が他の試合より早く10時ごろ開始
した気がする。なので親と交渉し前半だけの視聴権を獲得した。
(親も11時には寝る家庭だったのでそれ以上は無理)
414GK:05/01/30 22:35:32 ID:P9TKYXKx
開始直後にケンタのシュートがバーを叩き、詰めたカズのヘッドが決まって
1−0。「なんだ楽勝じゃねーか」そう思った。その思いは前半を見終わっても
変わらなかった。今あの映像を見返してみると日本のリズムはだんだん悪くなっ
ているのだが幼い俺には試合の流れなんてわからなかった。
そしてテレビを消して寝たかされた。俺の中ではW杯は手の中にあった。
次の日目を覚まし居間に直行し先に起きていた父親に聞いた。
「どうだった!?」
「引き分け。ダメ。」
『はぁ????』
415GK:05/01/30 22:36:23 ID:P9TKYXKx
引き分けでも可能性はあったはず!!そう思いおれは慌てて居間に置いてある
日刊スポーツを手に取った。そこには「日本、無念!!」の文字と虚しく
でんぐり返りして喜ぶカズとラモスの写真があった。
テレビでは福留さんが日本のW杯出場が不可能になったことを伝えていた。
泣いた。泣きながら学校に行った。席についても机に突っ伏して泣き続けた。
当然クラス中の笑いものになった。さらに当時の担任は大の野球フリークで
「これでサッカーも大人しくなるだろう。ザマアミロ!」と言った。
悔しくて気が狂いそうになった。

416GK:05/01/30 22:37:44 ID:P9TKYXKx
94年。11歳(小5)になった俺は相変わらず下手糞サッカー部員だった。レギュラーには
六年、サブには4年が入り俺はわずか30人足らずのサッカー部でユニフォーム
ももらえない。Jにはカズがいなくなり、代わりに高校を卒業したばかりの城が
フィーバーしていた。家にはBSが入りアメリカW杯を見ることができたが日本
がいないW杯なんか見る気になれなかった。ただ決勝のPKだけは見てた。
バッジオが肩を落とすシーンが「悲劇」ともてはやされていた
やっぱりW杯に出ないと悲劇は意味の無いものだと子供なりに解釈した。
日本代表の監督にはファルカンが就任していた。
岩本、田坂、前園、本並、菊池新吉、小倉など若い選手がいた。
この年で印象深いのは広島アジア大会の韓国戦。終了間際のPKで2−3。
この時韓国という壁を越えないとW杯は永遠に無理なのだということを悟った。
417GK:05/01/30 22:39:04 ID:P9TKYXKx
 95年。12歳(小6)さすがに下手糞の俺も少しは試合に出始めていた。
初スタメンもこの年(それでも五年に出場試合数は負けていた)。
初めて監督に褒められたりもしたが、
チームが弱すぎた。それでも引退の大会は好ゲームだった。
終了間際まで0−0のロスタイム、右サイドバックの俺が振り切られ、
そのままゴール。0−1。俺の小学サッカーは終わった。
始めて試合で悔しいと思った。
この頃はJの芝が枯れたり禿げたりしていてそれにともなって観客数も
激減していた。俺もそんな人間のうちの一人となりテレビでサッカー
を見ることがほとんど無くなっていた。
代表も加茂という元フリューゲルス監督が率いているんだなーというくらい
しか記憶に無い。
418GK:05/01/30 22:40:51 ID:P9TKYXKx
96年三月。五輪の最終予選があることを知った。フーリューゲルスサポの俺は
キャプテンマークをまいた背番号7前園を応援しようとテレビを付けると。
1試合目(イラク戦)は出場停止だった。
代わりにキャプテンマークを腕に付けていたのはゴールマウスを守る坊ちゃん刈り
の甘いマスクの「川口」という男だった。俺は彼のプレーに心底魅せられた。
五輪代表を決する準決勝のサウジ戦、意地で二発のシュートをゴールに
叩き込んだ前園にも感動したが、2−1となり押せ押せになったサウジの選手
のゴールに吸い込まれそうなヘディングを右手一本ではじき出した川口には涙が
出た。俺はこのプレーで中学に入学してもサッカーを続けること、
ポジションはGKを希望することを決めた。
でも決勝で城がバイシクルを決めてもあっさり日本に勝って優勝してしまう
韓国には憎らしさと恐れを感じた。
それと同時に2002W杯開催は韓国に持っていかれることを覚悟した。
419GK:05/01/30 22:42:38 ID:P9TKYXKx
96年4月〜、俺は中学でGKになった。
監督はとても厳しい人で毎日5キロマラソンと20本ダッシュを強いられたが
俺にとっては何も苦にならなかった。それはその後のキーパ練習が楽しくて
仕方なかったからだ。下手ではあったが何しろキーパーは希少価値が高い。
学年に一人ずつしかいない。6月には三年生が引退し部にキーパーは二人となり
練習が面白くて仕方なかった俺は自然と上手くなり二年を抜き、
スタメンになった。初めて仲間から信頼される喜び、最後尾を守る責任を感じていた。
そして7月、五輪が始まった。日本の緒戦の相手は王者ブラジル。
しかもこのブラジル五輪代表はロベカル、ロナウド、ジュニーニョ、ベベトらを要する最強メンバー。
0−3で収まればいい方だと俺は思ったし、多くの国民がそうだったはず。
試合は土曜の朝開始されたと記憶している。
なんと0−0!しかし後半を見てると学校に遅刻してしまうので仕方なく家を
出た(当時土曜日はまだ休みではなく3時間目まで授業があった)。
登校途中サッカー部のやつ等と「もしかして引き分けくらいいけるんじゃねー?」
と話していたのを覚えている。そして学校が終わり帰りのホームルーム
。担任が教室にかけこんで来た。
「えらいことがおこったぞ!日本が勝った!!」
420GK:05/01/30 22:44:16 ID:P9TKYXKx
俺のマイアミの奇跡はこうしてもたらされた。
しかしこの後日本はナイジェリアに乾杯する。
アフリカ勢の脅威的な身体能力を目の当たりにしたのはこのときだ。
ハンガリー戦は開始早々決められたところでテレビを消してしまったが、
俺の影響ですかっりサッカーファンになっていた母親が
「まだわかんないでしょ!」といってテレビを再びつけた。
その後また奇跡が起こり「ほらね!」と母は得意になっていたが母は勝ち点、
得失点差を計算するところまでは成長していなかった。
日本は予選リーグで散った。なんとなくこのチームは雰囲気がおかしく
「選手間になんかあるのかな?」と感じていたのだがそれが確信に変わるのは
何年か後に金子の「28年目のハーフタイム」を読んでからだ。
結局この五輪はカヌの鶏のようなパフォーマンスを記憶に刻みつけナイジェリア
が優勝した。
421GK:05/01/30 22:45:15 ID:P9TKYXKx
12月にはアジア杯があった。
久しぶりに見るA代表は10番に変わった苗字のレフティーが入っていた。
そのレフティーは予選リーグのウズベク戦で物凄いシュートを決めて見せた。
レフティーの名は「名波」。俺は彼に日本の未来をみた気がした。
他に俺がこの時初めて知った選手は多数いた。相馬、森嶋、岡野、柳本が
そうだ。俺は学業も部活も充実しいつしかA代表を見なくなっていたのだが、
フランスW杯予選がもう目前と気づき慌てて見始めたのがこのアジア杯から
だったのだ。そして準々決勝のクゥエート戦はかなりの衝撃を俺に与えた。
0−2。結局引いて守る中東に加茂のゾーンプレスは全く通用しなかった。
これからW杯を目指すには避けては通れない中東対策を加茂は考えている
のだろうか?そんな不安を抱きつつ97年はやってきてしまう。
422GK:05/01/30 22:46:17 ID:P9TKYXKx
97年。俺は中2になった。
この年はうちの中学始まって以来の中体連ベスト8という成績を残し
三年生が引退した。次の俺たちのチームはもっと上を目指し練習した。
そして10月の市民大会という市内の35中学が参加する大会で準優勝し、
サッカー部として始めて賞状を学校に持ち帰った。
サッカー部の賞状で学校に飾られているのは未だにこれ1枚しかない。
準々決勝、準決勝とPK戦になり2本ずつ止めた俺は学校のヒーローとなった。
その勢いで生徒会には選出されるはで大変だったがまぁ人生の春を
楽しんでいた。
423GK:05/01/30 22:48:01 ID:P9TKYXKx
そしてこの年いよいよW杯予選が始まった。
1次予選はオマーンに苦戦したこと意外ほとんど印象に無いのだが
1次予選の間に行われた日韓戦で20歳の若者がA代表デビューした。
このアシストをしても点を取っても喜ぶ素振りを見せない少しふてぶてしい若者
の名は中田英寿。彼はアトランタにも出ていたのだが俺の印象は0だった。
しかしこの頃の彼のプレーにはキラリと光る何かがあったと記憶している。
そして日本は最終予選へと突入していく。相手は永遠のライバル韓国、
中東の勇UAE、94広島アジア大会の優勝チームウズベキスタン、
イラクを一次予選で退けて最終予選にこまを進めたカザフスタンの4チームで
ある。無条件進出は1位のみで2位になると別グループの二位と第3代表決定戦
をやる。当初このグループは中東勢がUAE1チームしかいなく
非常に楽なグループと言われていたが俺はそうは思わなかった。
何より韓国が怖かったし、UAEには90年に代表になっているという
実績と経験がある。大事な試合になるとこの「実績と経験」が物凄く効いてくる
。それで3位になったら無理じゃん!というのが俺の当時の思いだった。
そして直前になってセントラル方式からH&A方式に変わり予選はスタートした。
424GK:05/01/30 22:48:52 ID:P9TKYXKx
97年9月7日 VSウズベキスタン(H)
 部活から帰ってきて即テレビをつけた。
カズ、城がボールに祈りを込める姿にもう泣きそうだった。
俺も祈っていた。序盤、井原が倒されPK。キッカーはカズ。
いつの間にか俺はテレビに手を合わせていた。ゴール!その後またカズ、
中田と決めて3−0。でも今後のことも考えて城にも決めて欲しいなぁと
考えていたら城もゴール。4−0で前半を折り返す。後半日本が崩されて
結局6−3で終了。今後の戦いを思うと守備に不安を残すも予選は結果が全て。
勝てばいいんだよと自分に言い聞かせた。
425GK:05/01/30 22:50:29 ID:P9TKYXKx
 97年9月19日 VS UAE (A)
 とにかくフラフラの名波が印象的。
彼に「ガラスのエース」という印象を持ったのはこの頃から。
相手ゴールキーパーのムサバーの動きは圧巻だった。
特に中田のダイビングヘッドをはじき出したセーブは俺の中のビッグセーブベスト5
には確実に入っている。終盤はいった15番モハメド・アリの
柔らかいタッチが怖かったが日本も「すっぽん」本田を投入して上手く抑えた。
終了間際の日本のフリーキック。井原が上手く合わせて小村がゴール!
しかしオフサイド。余計なことしやがって!
その後の部活では必死にオフサイドを否定する小村の顔真似が流行った。
0−0。アウエーで酷暑という環境を考えれば全く問題は無いのだが
試合後加茂が「勝ちに行っていた。悔しい。」とコメントしていた。
当時の日本にはまだ長い予選を計算するという概念が欠けていたように思う。
426GK:05/01/30 22:53:10 ID:P9TKYXKx
97年9月28日 VS 韓国 (H)
 試合数日前のニュースで韓国の新聞が取り上げられていた。
そこには中田、名波の顔写真が掲載されていて「敵の要注意人物!」
などと報道されていた。そして試合当日の日刊スポーツの一面「日韓、戦争だ!」
の見出しに「やってやろうジャン!」と心が躍っていた。
たしかこの日は日曜で部活は午前中のみだった。
家に帰ると家族は買い物で外出中。俺は一人で居間のテレビレビを占領した。
いつもこのテレビを見るときはソファーに寝転がるのだが
この時は寝転がりながらテレビを見れない自分がいた。
アッコにおまかせにレポーターとして出ているゴンを見て
「複雑な心境だろうな」と思っていた。
しばらくして試合前に全員にインタビューしている映像が流れ、
中田だけノーコメントだった。この頃は彼とマスコミの軋轢を知らずただ
「へんなやつ」と思っていた。そしてキックオフ。
FWには城に代わってブラジルから帰化した選手が入っていた。
男の名はロペス。ひざ下の振りの速さに惚れ込みながらも俺は
「そりぁ韓国は卑怯と思うよなぁ」とかんがいにふけっていた。
前半は0−0で終了。
427GK:05/01/30 22:54:35 ID:P9TKYXKx
でも流れ的にこのままでは終わらないと思っていた。
そして後半20分、ボールカットから山口のドリブル。
「なにやってんだ!放せ!はな・・・あああああ!」
あんなシュートこういう公式な試合では見たこと無かった。
1−0。行ける!後は守れ!そしてロペスに代えて秋田。
この交代は後に批判の嵐となるがその時の俺には素晴らしい交代に思えた。
韓国が怖かった。そこからは思い出したくも無い。
奇跡の逆転を許し1−2でタイムアップ。
韓国の二点目の際に川口が正座して芝を叩く姿をみて
同じキーパーとしていたたまれなくなった。この試合ゴールは決めていない
チェヨンスがすごく憎たらしかった。
その後親が帰宅したが茫然自失の俺を見て「負けたの!?」
と言ったが俺には「あぁ・・・」としか答える気力が無かった。
風呂に入り今後の星勘定をした。1位突破はもう無理だと悟った。

428GK:05/01/30 22:55:27 ID:P9TKYXKx
 97年10月4日 VSカザフスタン (A)
 試合前にはズバレフの高さだけを封じ込めれば何てこと無い相手だとふんでた。
でも日本のリズムはずっとおかしかった。
それでもこの試合からスタメン起用の秋田得意のヘッドが決まり安心しき
っていた。でもロスタイム、警戒していたはずのズバレフに決められた。
1−1で試合終了。またロスタイム、また勝ちきれない。
同じような浮気を繰り返す悪女に恋しているようだった。試合後、
加茂が更迭された。「更迭」の読み方を学んだ。
後任にはいつも加茂の隣にいた「のびた君」だった。
もう日本さズタボロだと思った。
429GK:05/01/30 22:56:55 ID:P9TKYXKx
 97年10月11日 VS ウズベキスタン (A)
 のびた君岡田は「闘う姿勢ができてない」との理由で西沢をクビにした。
意外とあののびたアツイんだなと思った。
スタメンからは中田とロペスが外れていた。
でもその代わりに入った森島が1対1外したりで腹が立っていた。
そしてカンバラビエフのミドル。0−1。
彼の背中から映すアングルでのリプレイに心底なえた。
後半途中からロペスと中田が入ってリズムは良くなったが。
後一歩のゴールが遠い。経験的にこういうときは絶対に入らない。
そしてロスタイム。井原のロングフィード。バスケで試合終了直前
のゴールに向かって思い切り投げるプレーに似ていると思った。
そして競り合うロペス、こぼれてごるにむかうボール、追うカズ。
「へっ!?ご、ゴール??!!」
若い割には中々の名手だと思っていたブガロの世紀の盆ミスで1−1。
引き分け。でも引き分けでしかない。
試合後岡田の「ひょっとすればひょっとするかも」のコメントに
「面白い表現してる場合かバカ!!」と殺意を覚えた。
「首の皮一枚つながった」それしかなかった。

430GK:05/01/30 22:58:46 ID:P9TKYXKx
 97年10月26日 VS UAE (H)
 スタメンには北沢が入っていた。
開始直後にロペスのウルトラシュート!ゴール!!1―0。
「行ける!今日は行けるぞ!」確信していた。
しかしこの日最終ラインには井原に代わって情けない顔の斉藤が入っていた。
そしてモハメドアリの柔らかいフリーキックからハッサン・サハイルのヘッド。
1−1。それから得点の匂いがしたのは名良橋のミドルがポストを叩いたのみ。
1−1でタイムアップ。ロスタイムが無いことにカズと北沢が抗議していたが
そんなことはどうでも良かった。例え10分あっても1−1だろうと思った。
ただ自力出場が消えたことだけが現実だった。
俺はついに恋していた悪女に別れを告げるときが来たのだと思った。
試合終了と同時にテレビをけしてテスト勉強をした。全然集中できずに寝た。
次の日の朝国立で暴動が起こったことを父から聞いた。
父もこの騒動でサッカーを見るようになっていた。
そしてニュースでは北沢が「まだ終わってないっす!つぎがあるっす!」
と涙をこらえてコメントしていた。
きっと自信の不甲斐なさから泣きそうになったのだろう。
でもこの映像をみて日本代表という悪女を最後まで信じて心中しようと
いう気になった
431GK:05/01/30 23:00:28 ID:P9TKYXKx
97年11月1日 VS韓国  (A)
 試合三日前くらいの新聞に「日本、背水の陣!!」と銘打って
寒い韓国で黙々ランニングしている選手たちの写真がのった。
あきらめながらも信じてた。試合の日は土曜か日曜だったと思う。
おれは午前の部活でみんなと練習の合間に試合について話していた。
みんな「もう無いだろー?」と言いつつどこか目は悲しそうだった。
そして話はスコア予想に入りみんな0−1、1−2、0−2などと言う中
一人だけ2−0と言うヤツがいた。俺が「じゃあ誰が決めるんだよ?」
と言うと「ロペスと名波!」と言い切った。「何だよそれ!?」とみんな笑った
。ちなみにこのチームメイトはFという男で、
うちのエースであり、チームで唯一市内選抜チームに選ばれていた。
そして帰宅。また家族は買い物に行って家には誰もいない。
テレビをつける。試合がはじまった。
432GK:05/01/30 23:02:06 ID:P9TKYXKx
立ち上がりいきなり名波のゴール!後に彼は「ダフった」と言っていたが、
ダフったから生まれたゴールだろう。俺は広い居間で一人で叫んでいた。
でも岡田が両手を下に振り「おちつけ」と言うような仕草をしていたので
俺も落ち着いた。そして思い直した。
「韓国がこのまま勝たせてくれるわけは無い!」と。
しかしホン・ミョンボがいないせいか、
W杯出場を決めた余裕からかこの日の韓国にいつもの怖さは無かった。
その後はロペスが魅せた、相馬からのクロスに「チョン」とあわせたゴールで
2−0。さらにオーバーヘッドをしたり本当にすごかった。
またこの日は相馬がキレキレで幾度もチャンスメイクした。
北沢のプレスも効いていた。
さらに秋田と接触しチェヨンスがいなくなったところでおれは勝利を確信した。
そして試合終了2−0!本当にFの言う通り名波とロペスが決めての2−0!!
試合後、名波の「今日は相手を馬鹿にしたようなプレーをしてやろうと思っ
ていた」と言うコメントに真のサッカー小僧を見た気がした。
そして二位になれるかどうかはUAEとウズベクの試合にかかっていたのだが
俺は二位になることを確信していた。
何の根拠も無いのだけれどそう思っていた。
やっぱりUAEは引き分けて日本は次のカザフ戦に勝てば2位が確定することになった。夜が明けた。

433GK:05/01/30 23:03:22 ID:P9TKYXKx
97年11月8日 VSカザフスタン (H)
 この試合はFWカズ、ロペスの二人を出場停止で欠き、
追加召集に注目していた。追加は高木とゴン。
あのホームの韓国戦でテレビのレポーターに成り下がっていたゴンが
帰ってきたのだ。そして彼はスタメンに名を連ねた。
この試合から両親も参戦してきて3人で観戦していた。
この試合は久しぶりに寝転がってみることができた。
ベテランと若手が融合したこの日のチームには見えないパワーのようなもの
があった。秋田→中田→ゴン→井原→高木という得点の推移は正にこれを物語っていた。
ゴンのユニフォームの下の11番には素直に感動した。
岡田の試合後のコメント「冷静にファイトしろと常に言い続けてきた」
にはこの男のうちに秘める熱い想いに涙がでそうになった。5−1。
日本は第3代表決定戦へと駒を進めることができた。
しかし相手はサウジかイラン。楽な戦いになるわけがなかった。
434GK:05/01/30 23:04:47 ID:P9TKYXKx
 97年11月16日 VSイラン (中立地マレーシア)
 とにかくイランに決まってからの情報戦がすごかった。
アジジが練習中にこけて担架で運ばれたりしている映像が流れていた。
イランは準備不足だし監督は日本より直前に変わっていたし何より
中盤の要バゲリが出場停止だった。
普通に考えれば日本有利だが絶対に簡単なゲームになる訳無いと思っていた。
試合の日俺は友人たちと遊んでいて市内の繁華街にいた。
そして試合に間に合うように帰りのバスに乗ると二十歳くらいの若者が
イラン戦の展開をしきりに友人と語り合っており多くの国民が関心している
試合なんだということを実感した。家に着きテレビを付ける。
両親もテレビの前に座る。俺が5年間サッカーをプレイし、
また見続けたことで両親も一人前の代表サポになっていたw
435GK:05/01/30 23:05:33 ID:P9TKYXKx
試合開始。2トップのカズとゴンががっちり握手した。
その二人の目にはもう弱い日本は微塵も感じなかった。
いきなりオウンゴールが決まったか!?と思ったらオフサイド。
またアジジに川口が置き去りにされるなどの危ない場面などを経て前半40分。
このまま0−0で前半終了かと思った時、
中田からのスルーパスをうけたゴンの強烈な右インサイドキックが
イランゴールキーパーのアベドサデの脇をすりぬけてゴール!!1−0!
時間帯もシュートも完璧だった。そのまま1−0で前半終了。
「このまま後45分経ってくれ!」と思った。でも俺は感じていた。
このまま終わるわけが無いことを。
436GK:05/01/30 23:06:55 ID:P9TKYXKx
後半開始。いきなりミドルを川口がはじいた所に詰めていたアジジに
同点ゴールを奪われる。1−1。その後しばらくゲームは中盤の潰し合い
で膠着ムード。しかしそれを打ち破るダエイの完璧なヘッド。
1−2。諦めた。このまま試合が終わると思った。
俺はあまりにも同じような日本の負けパターンを見すぎていた。
2トップ交代。城とロペスが入ってきた。俺は城を全く信用してなかった。
いつもチャラいこいつがむしろ嫌いだった。
入ってすぐ惜しいシュートを外したとき俺は両親に「こいつはこういう選手なんだよ」
と解説したのを覚えている。しかしそのすぐ後左に流れた中田のアーリークロス。
城のヘット。ゴール!2−2!!「おーし!!!」
俺は前言を忘れて叫んだ!そして2−2のまま延長へ。
こういう時はPKになる確立もかなり高いのだが何故か俺は
全くPKになる予感はしていなかった。延長が始まるまでの間マッーサージ
を受ける選手の脇をロン毛の選手が猛然とダッシュし始めた。
男の名は岡野。
実況の山本さんが「お、おかの。日本は岡野を投入します!」
というコメントが耳に焼きついてはなれない。
437GK:05/01/30 23:08:24 ID:P9TKYXKx
 延長開始。中田からの長めのボールが面白いように岡野に通る。
しかし岡野は外す、外す、外す!!俺は何度も頭を抱えた。
そしてまた岡野が抜け出しキーパーと1対1。「これ外したら殺す!!」
俺は叫んだが外すどころか中田にパスしてクリアされる!!
両手を大きく広げて呆れる中田。「こいつビビッてる。だめだ」俺は呟いた。
そして延長後半。城がアベドサデと接触。脳震盪。
中田がまるで恋人同士のように城のおでこにおでこを付けて励ましていた。
でもキーパーの俺はアベドサデの方が絶対死んだことがわかった。
この試合再三遅延行為を繰り返していたがアジアではサウジのデアイエ、
UAEのムサバーと並ぶ名手であると俺は思っていた。
その彼が見せた顔は明らかにこれまでの遅延行為で見せる顔ではなかった。
「行ける。どんどん打て!」と思った。だがその直後、
マハダビキアの低いクロスがらダエイが一気に試合を決めに来た!
シュートはバーの上を通過していったが俺は一瞬何が起こったかわからないほど
の衝撃を受けた。そして歓喜は訪れる。
438GK:05/01/30 23:09:23 ID:P9TKYXKx
中田が右から左に流れるように突破していき対角にシュート。
アベドサデははじくのが精一杯。そしてはじいたボールが転がった先には
何故かスライディングをしている青いユニフォームがいた。
ゴールデンゴール!!
3−2!
「よおおおおおおし!!!」
俺は叫んだ。父は「おめでとう」といって俺に握手を求めてきた。
父の手を握りながら俺は泣いた。4年前とは明らかに違う涙だった。
長かった。本当に長かった。日本はフランスに行くんだ!

 P.S 実はこの前の日俺は顔、性格、スタイル全てが悪い女に人生初の告白をされていた
(未だにこれだけw)。そして勢いでOKしちまって結局2ヶ月で破局・・・・

439GK:05/01/30 23:11:03 ID:P9TKYXKx
98年フランスW杯。
開幕戦ブラジル対スコットランド。
俺は中継に見入り、華やかな会場とスター選手のプレーに酔いしれた。
そしてここに日本も参加できていることにゾクゾクした。
本気で決勝トーナメント行きを考えていたので3戦全敗は悲しかったが
日本サッカーにとってこのW敗は確実に転機だった。そして俺にとっても人生の
転機がいくつか訪れていた。中学最後の大会2回戦で敗退。
昨年の準優勝ですっかり実力を過信してしまったチームを最後まで
俺はキャプテンとして建て直すことができなかった。
この後悔が俺を高校サッカーの舞台へと導いた。
440GK:05/01/30 23:12:00 ID:P9TKYXKx
99〜02年、俺は高校生になった。
高校はフツーの進学校だったのだがサッカー部はそこそこ強かった。
キーパーは三年に一人、一年に2人。一年のもう一人は
市内選抜経験者の名手だった9月には部を辞めてしまった。
俺はそれからの二年間キーパーの難しさをこれでもかと言うほど味わった。
ミスばかりしてチームメイトから白い目で見られる日々だけが過ぎて行った。
最後の総体でもループを決められ0−1で負け、涙に暮れた。
それでも高校で得た人生で一番素晴らしいチームメイト、
キーパーの哲学は俺の財産でもある。
441GK:05/01/30 23:13:06 ID:P9TKYXKx
02〜04年、北海道を出て関東の大学生になった俺は迷わずサ−クルではなく
サッカー部の方に入部した。でもそこにあったのは大学特有のだらけた部活で、
俺は一年で辞めた。俺のサッカー人生はここに終焉を迎えた。
だが当然日本代表は戦っていた。それもこの国で開催されるW杯で。
でも前ほどテレビに噛り付いてみることはなかった。
日本の試合では叫んだりもしたが「あの時」とは何かが違っていた。












 そして今年、俺は一枚のチケット手にいれた。そこには2月9日と記されている。初めて代表戦をスタジアムで見る。

こんなバカみたいな長文ほんとうにスマソ。ROMに戻ります。
442 :05/01/30 23:20:13 ID:lDlrITFv
>>441
あんた最高