★教育勅語を読む(4) 3/3
民主主義的な教育に於いて、「勉強する」の一言で済むものが、教育勅語的な世界では
十何項目、あるいはそれ以上のチェックポイントに膨らんでしまいます。さらに言うならば、
教育勅語的な世界観で一番嫌われるのは、このような形を実践しないで、結果だけ出す
生徒です。教育勅語的な感覚で言うと、この形こそが大事なのです。「みんな一緒」に
同じ形をなぞる事が一番大事で、それをしない人間は落ち零れでなければならないのです。
教育勅語的な感覚から、「子どもに自由を与えると収拾がつかなくなる」という考え方があります。
そしてこれは、半分くらいは事実です。
教育勅語的な規律を強制された人間は、常に誰かから規制されている状態に馴らされています。
逆に言えば、全くの自由の状態での自己規制能力が非常に未発達なのです。ですから、
こういった人間を自由に行動させると、とんでもなく自己中心的な行動を取ったりします。
民主主義的な、つまり、全く自由でありながら自分を律して行動する能力は、幼い内から
養われていなければなりません。もし、そのような自己管理能力の教育を十分に為されないまま
ある年齢まで育ててしまえば、もう、一生誰かが規制していく以外に、その人間の秩序だった
行動を保証する手だてはなくなるのです。
ところが、教育勅語的な教師はこんな事を言います。「子どもは未熟で、自分自身の判断能力が
低い。だから、先ず教師や親が子どもに代わって判断してやらなければならない。子どもの
自主性に任せるのは、自分で判断が出来るようになってからだ」つまり、先ず教育勅語的な
秩序の中で子どもを育てて、然るべき時期が来たら民主主義的な社会に放してやるのが
正しい育て方だと言うのです。
これは不可能です。民主主義的な社会での集団性は、一から育てていかなければ身に
付きません。教育勅語的な秩序に馴らされた人間は、一生教育勅語的な世界の中でしか
生きていかざるを得ないのです。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1999-1/iitai088.htm