日本の教育における集団・全体主義的体質-3

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418実習生さん
★教育勅語を読む(4)  1/3

つまり、教育基本法に於いて、生徒の個性を尊重するという所が、教育勅語の中では
心を一つに、という形で、全く逆の立場を取っている点です。実際、教育勅語の中には、
子ども(あるいは国民)の個性を尊重するという表現は一切ありません。画一主義、
これは教育勅語の一つの大きな特徴の一つです。
 戦後教育の中でも、個性化教育はこれまで軽視されてきた事、「みんな一緒主義」が
教育界を支配し、その結果、多くの弊害が生じている事は、これまでも書いてきました。
この「みんな一緒主義」こそ、教育勅語の残した悪しき慣習であると、私は断言します。
 例えば、今の教育者の中には、昨今の学級崩壊の問題に絡めて、「今の子どもは
個性を大切に育てられている分、集団性が育っていない」などという言い方をされます。
ここで言う集団性というのは、教育勅語的な集団性であって、民主主義的な集団性
ではありません。
 教育勅語的な集団と、民主主義的な集団はどう違うのか。オリンピックの入場行進を
例に取ってみましょう。東京オリンピックの時、日本選手団がやっていた、縦横に綺麗に
列を作り、手の振り方、足の進め方をキチンと揃えた軍隊式の行進、これが教育勅語的な
集団の秩序です。運動会などでやらされているのも、この教育勅語的行進。それに対して、
他の多くの国の選手団がやっていた、雑然とその国の選手が集まって、ゾロゾロと
移動しているのが民主主義的行進です。
 教育勅語的な世界観に従えば、秩序というのはみんなが一斉に同じ事を始め、一斉に
終わるという事です。このような「みんな一緒主義」は今の教育界にいまだに蔓延し、
子どもの個性や権利に優先して、この教育勅語的秩序の実現が大事であるとされています。

419実習生さん:2007/11/11(日) 12:06:49 ID:XYREVpy7
★教育勅語を読む(4)  2/3

 そのような感覚からすると、民主主義的な秩序というのは、無秩序でしかない。現に、
最近の日本の選手団の行進を「だらしがない」と考えている人は多いのです。ですが、
教育勅語的な感覚で見ると無秩序に見えるものも、民主主義的視点からすると、そこには
厳然たる秩序が存在するのです。
 みんなが好き勝手に行動している。ところが、全体として見るとそこにちゃんと節度があり、
規律が保てている。これが民主主義的な秩序です。オリンピックの行進を例に取れば、
歩き方などは確かにバラバラである。しかし、ちゃんと各国選手団は他の選手団と区別されて
一つの集団を形成し、しかも目指す方向に向かってみんなが歩いている。一見だらしなく
見えて、その実、最低限必要な秩序はちゃんと保たれているのです。
 両者の差をさらにはっきり定義すると、教育勅語的な秩序は形式的秩序、民主主義的な
秩序は目的的な秩序と言えるのではないでしょうか。
 例えば、「学生の本分は勉強であるから、勉強はしなければならない」という事になる。
民主主義的な教育にあっては、その成績を上げる方法は生徒個人に任されている。カンニング
などの非合法的手段を用いない限り、どんなやり方でアプローチしても全く自由です。そして、
それなりの結果を出していれば、つまり、成績が最低限のレベルの成績を上げていれば、
何も注意されません。成績が悪くなって初めて、指導が入ります。
 教育勅語的な感覚でいくと、勉強をしっかりしているというのを先ず形で捉えます。授業中は
足を揃えて背筋を伸ばす。両手は膝の上に置き、質問する時は手を真っ直ぐ上に上げる。
先生が話をしている時は真っ直ぐ先生の目を見て、私語をしない。家庭学習は一日○○
時間以上。テレビゲームはしない、漫画は読まない、本は、詰まらない本は読まずに役に立つ
本を沢山読む。エトセトラ、エトセトラ……。

420実習生さん:2007/11/11(日) 12:09:18 ID:XYREVpy7
★教育勅語を読む(4)  3/3

 民主主義的な教育に於いて、「勉強する」の一言で済むものが、教育勅語的な世界では
十何項目、あるいはそれ以上のチェックポイントに膨らんでしまいます。さらに言うならば、
教育勅語的な世界観で一番嫌われるのは、このような形を実践しないで、結果だけ出す
生徒です。教育勅語的な感覚で言うと、この形こそが大事なのです。「みんな一緒」に
同じ形をなぞる事が一番大事で、それをしない人間は落ち零れでなければならないのです。
 教育勅語的な感覚から、「子どもに自由を与えると収拾がつかなくなる」という考え方があります。
そしてこれは、半分くらいは事実です。
 教育勅語的な規律を強制された人間は、常に誰かから規制されている状態に馴らされています。
逆に言えば、全くの自由の状態での自己規制能力が非常に未発達なのです。ですから、
こういった人間を自由に行動させると、とんでもなく自己中心的な行動を取ったりします。
 民主主義的な、つまり、全く自由でありながら自分を律して行動する能力は、幼い内から
養われていなければなりません。もし、そのような自己管理能力の教育を十分に為されないまま
ある年齢まで育ててしまえば、もう、一生誰かが規制していく以外に、その人間の秩序だった
行動を保証する手だてはなくなるのです。
 ところが、教育勅語的な教師はこんな事を言います。「子どもは未熟で、自分自身の判断能力が
低い。だから、先ず教師や親が子どもに代わって判断してやらなければならない。子どもの
自主性に任せるのは、自分で判断が出来るようになってからだ」つまり、先ず教育勅語的な
秩序の中で子どもを育てて、然るべき時期が来たら民主主義的な社会に放してやるのが
正しい育て方だと言うのです。
 これは不可能です。民主主義的な社会での集団性は、一から育てていかなければ身に
付きません。教育勅語的な秩序に馴らされた人間は、一生教育勅語的な世界の中でしか
生きていかざるを得ないのです。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1999-1/iitai088.htm