うちの担任は右翼

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引用:酒たまねぎ.やURAホームページ
http://www.tamanegiや.com/indonesiadokuritu.html

市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生

市来氏は1906年(明治39年)熊本県生まれ、1936年からジャカルタの
日蘭商業新聞に勤務。吉住氏は1911年(明治44年)山形県井岡出身、
昭和5年に旧鶴岡中学校を卒業後インドネシアに渡り、日蘭商業新聞で市来
と知り合う。戦前より現地で新聞記者として活躍していたお二人を、蘭領東
インド政府(オランダの植民地政府)は目障りなために、逮捕、投獄後に日
本に追放されました。大東亜戦争が始まり市来氏は陸軍の宣伝班員としてジ
ャワ派遣軍に加わった。吉住氏は、1944年から海軍武官府で民族主義運動工
作に従事。我が国の敗戦のちもインドネシアに留まり、独立軍の軍事参謀指
揮官として活躍しました。吉住氏は一個師団の軍隊を率いてオランダ軍に対
して結核で血を吐きながら山中を転戦して戦いましたが、昭和23年7月ゲ
デリ州セゴンの山中にて力つきて病没。

市来氏は昭和24年1月マランのサトウキビ畑でオランダ軍と攻防をくり返
した時に、頭部を打ち抜かれて戦死。
インドネシアの独立を夢見て、独立軍にとして戦った我が国の将兵は約20
00名といわれています。そのうちの数多くの方々は、インドネシアの独立
を見る事なくオランダ軍との戦闘で戦死されました。市来、吉住のお二人の
御霊も、多くの元日本軍将兵とともに、独立の英雄として、インドネシアの
英雄墓地に眠っています。