【広島】民間登用小学校長自殺関連 パート2

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563実習生さん
尾道市高須小学校校長「自死」
広教組調査委員会最終報告書

                    
はじめに

2003年3月9日、尾道市立高須小学校の慶徳校長が自らの命を絶った。民間人校長として採用され、1年足らずの出来事である。広島県教職員組合(以下、広教組)は慶徳校長の死に際し、衷心より哀悼の意を表するものである。 
 今となっては、慶徳校長本人からは、苦悩と自ら命を絶った理由を確認することはできない。 しかし、広教組は同じ教育に携わるものとして、なんとしても慶徳校長の自死の真相を明らかにしなければならないことを強く感じ、
2003年3月28日、「尾道市高須小学校校長『自死』調査委員会」(以下、広教組調査委員会)を設置した。広教組調査委員会は、この間、高須小学校教職員をはじめ、高須小学校関係者から精力的に聞き取り調査を行い、
精神科医の野田正彰先生と弁護士の山田延廣先生に調査分析を依頼してきたところである。
2人の専門家への依頼は、悲劇を繰り返させない教訓を明らかにするため、第三者による分析が絶対条件であると確信したからである。
 本調査委員会の最終報告は、以下に示した「調査・分析の視点」を中心にまとめた。なお、第三者によらない身内調査で、意図的な事実の隠蔽と歪曲が疑問視されている広島県教育委員会(以下、県教委)及び、
尾道市教育委員会(以下、尾道市教委)の最終報告に対する批判的な検討も行っている。 

564実習生さん:03/07/28 09:18 ID:a6+lRXDQ
.調査・分析の視点

広教組調査委員会は4月21日に中間報告を行い、慶徳校長の1年間の様子について、高須小学校教職員や高須小学校保護者等からの聞き取り調査によって次のことを明らかにしている。

@ 学校システムや教職員の仕事についての知識、認識が不足していた。
A 校長としての任務が果たせないことで自分を責めていた。
B 教職員との意思疎通に悩んでいた。 
C シラバスなどの提出書類に苦悩し、サポート役の教頭の負担も倍加していた。
D 5月10日に藤井教頭が脳内出血で倒れたことで自分を責めていた。         
E 5月13日、病院で「うつ病」と診断され、診断書を持って病気休暇を申し出ていた。その後、「うつ病」の投薬治療を続けていた。
F 2月14日に坂井教頭が心筋梗塞で倒れて以降は教頭不在の状況となり、尾道市教委の  サポートが十分でなかったことに不安と不満を感じていた。
G PTAとの対応も過重労働になっていた。
H 自宅から遠い高須小学校への勤務に負担を感じ、5月には尾道市内に転居していた。

広教組調査委員会は、「慶徳校長や教頭の勤務実態や仕事量」「慶徳校長の病気休暇願いや診断書に対する教育委員会の対応」について早急に事実を明らかにしなければならないことを確認、
県教委及び尾道市教委に対し、校長の仕事量と勤務実態を明らかにする資料の開示請求を行った。同時に、関係者への聞き取り調査を継続してきた。また、山田弁護士、野田教授に、以下の視点で調査分析を依頼した。
565実習生さん:03/07/28 09:18 ID:a6+lRXDQ
(1)校長の勤務実態について
○ 慶徳校長及び教頭の勤務実態と仕事量について
○ 教育委員会から求められていた報告書などについて
○ 校長の病休を尾道市教委が受理しなかったことについて
○ 2人目の教頭が倒れた後、教頭が配置されなかった背景について
○ 教頭不在の状況での尾道市教委のサポートについて
○ 自死に至るまでの精神状態について

(2)校長の学校運営について
○ PTAとの校長との関係について
○ 尾道市教委の指導・助言と校長権限との関係について
○ 教職員と校長との関係について

(3)民間人校長の制度について
○ 民間人校長の制度について
○ 広島県における民間人校長登用制度導入の手続きについて
○ 広島県における民間人校長の選考基準及び募集のあり方について
○ 広島県における民間人校長の事前研修のあり方について
○ 慶徳校長に対するサポートシステムや配置校の規模について
566実習生さん:03/07/28 09:20 ID:a6+lRXDQ
@ 校長の勤務実態についての調査結果

(ア)慶徳校長と教頭の勤務実態

5月22日、「高須小学校の学校警備保障の時間記録」(別紙資料1)と「教育委員会が校長に求めた提出書類一式」(別紙資料2)が情報開示された。
広教組調査委員会は、これまでに高須小学校教職員の超過勤務記録簿を入手し、月80時間を超える超過勤務が常態化していた事実が明らかにしてきた。
さらに管理職の超過勤務の実態を明らかにするため、高須小学校の学校警備保障時間記録簿を開示請求し資料を入手した。
以下の表(表T)は、高須小学校の警備保障システムにより、職員室が開いた時間と閉まった時間を確認し管理職の勤務実態を推測している。
これによると、勤務日数を8日間で計算している2003年3月と夏期休業中の2002年8月をのぞいて、全ての月で超過勤務が150時間を超えていたことになる。
特に10月は超過勤務が200時間を超え、休日も含め、全ての日で職員室が開かれている。
また、坂井教頭が不在になった2月15日から慶徳校長が自死する前日の3月8日までの超過勤務は159時間53分で、勤務日数の22日で割ると、一日平均の超過勤務時間は7時間16分となる。  
567実習生さん:03/07/28 09:21 ID:a6+lRXDQ
 「藤井教頭は本当に大変だったと思う。毎日のように、夕方から夜にかけて慶徳校長と話をしていた。だから脳内出血で倒れたのだと思う」

 「校長先生は仕事が忙しく、4月の半分はホテルに泊まっていた。だから、5月になって尾道に家を借りることになった」

 「坂井教頭は(5月に)赴任して毎日校長と6〜7時間話をしていた。(教育委員会から来る通知の説明や、職員への説明の仕方まで丁寧に教えていた)
校長と話をすることで坂井教頭は教頭の仕事があまりできなかった。教務主任が教頭の仕事を一生懸命手伝っていた」
 「坂井教頭は12時くらいまで仕事をすることが多く、因島大橋のパーキングで仮眠して家に帰り、朝5時くらいに家を出る生活の繰り返しだった。
『こんな生活をしていたら倒れますよ。少し休んでください』と職員が声をかけていた」

 「校長先生は教頭先生が倒れてから、特に遅くまで残っていた。『戸締まりは私たちがしますから、早く帰ってください。』といっても帰らなかった。」

568実習生さん:03/07/28 09:21 ID:a6+lRXDQ
(イ)教育委員会から求められていた報告書

「校長に提出を求めていた提出書類」について、尾道市教委から情報開示されたものの総枚数は指示文と報告用紙で合計1260枚であった。
校長の多忙化につながったと考えられる提出書類については、6月16日、尾道市議会の総務委員会でも取り上げられ、尾道市教委の黒木学校教育課長は、
「2002年度学校へ下ろした文書は1567件あり、うち約370件について報告を求めた」ことを説明している。
569実習生さん:03/07/28 09:22 ID:a6+lRXDQ
(表T)
年    月超過勤務時間 1日平均 勤務し た日勤務を要 する日勤務を要 しない日実際に勤務を要し ない日に休んだ日こよみ 
2002 年4月190時間   41分6時間 21分30日21日9日 30日
5月159時間   10分5時間  53分27日21日10日4日31日
6月170時間   33分6時間  5分28日20日10日2日30日
7月175時間   53分5時間 40分31日23日 8日 31日
8月100時間   24分3時間 27分29日22日 9日2日31日
9月171時間    8分5時間 42分30日19日11日 30日
10月209時間   35分6時間 45分31日22日9日 31日
11月171時間   45分5時間 55分29日20日10日1日 30日
12月179時間   26分5時間 47分31日19日12日 31日
2003年 1月152時間   54分5時間 16分29日19日12日2日31日
2月185時間    3分6時間 51分27日19日9日1日28日
3月60時間   51分7時間 36分9日5日4日 9日
計1927 時間23分 331日230日113日12日343日

570実習生さん:03/07/28 09:23 ID:a6+lRXDQ
(ウ)教育委員会の「病気休暇願」ヘの対応と「診断書」のウソ

5月10日に藤井教頭が脳内出血で倒れた後の5月13日午前11時、慶徳校長は尾道市教委を訪れている。そして山ア教育長に会い、慣れない学校現場の状況などから心労が重なり病院に行くことを告げている。
直後、JA尾道総合病院へ行った慶徳校長は精神科で受診、医師から「中程度のうつ病」と診断され、「1ヶ月休養」の診断書を受け取っている。
 慶徳校長は受診後すぐ、高須小学校の職員に電話をかけている。「中程度のうつ病と言われました。私はもうダメです」と今にも死んでしまいそうな声だったとその職員は証言している。
あまりにも切迫した慶徳校長の声を心配して、職員は真神田前高須小学校校長に助けを求めている。真神田校長は急いでJA尾道総合病院へ向かったが、慶徳校長と行き違いになってしまった。
高須小学校に電話をし、尾道市教委にいるのではと教えられ、急いで尾道市役所(尾道市教委は尾道市役所の4階にある)に行くと、慶徳校長が1階ロビーのイスにうなだれて座り込んでいた。
「どうしたんですか」「教育委員会に行きましょう」と声をかけて、一緒に4階の教育長室へ行った。
教育長室には、山ア教育長、山岡教育次長、黒木学校教育課長、高橋小学校校長会長、川中指導主事の5人がいた。そのとき、慶徳校長は診断書を示し病気休暇を申し出ている。
しかし、山ア教育長に「あなたの後ろには経済界がついているんですよ」「がんばってください」など、逆に叱咤激励され、病気休暇をとらせてもらえなかった。
真神田校長と一緒に帰った慶徳校長は、夕方の暮会(教職員のおわりの会)で涙を流して、がんばりますと言ってる。
571実習生さん:03/07/28 09:25 ID:a6+lRXDQ
 尾道市教委はことの重大性に最初から気づいており、教育長室にいた真間田校長には同日3時頃「あの件はマル秘扱いになりました」と指導主事が口止めの電話をかけている。
また、慶徳校長にも同日19時に黒木学校教育課長から「病名については秘密扱いにしておくように」という指示がなされている。
 こうした事実からわかるとおり、県教委及び尾道市教委の最終報告は「診断書」の存在や「病名」を意図的に隠している。
また、ことの重大性を最初から認識していた尾道市教委は、自分たちの身を守るためだけに(うつ病の慶徳校長の心配をすることはなく)、隠匿工作を行っている。
 県教委の最終報告によれば、慶徳校長が病気休暇を申し出て以降、慶徳校長を診断した医師に県教委が助言を求めたことになっている。これが事実ならば、慶徳校長が「うつ病」であったことは、この段階(5月21日)で県教委も認識していたことになる。
慶徳校長は、5月13日の尾道市教委訪問以降、診療時間の関係から、他の病院(精神科)にかわっているが、その後、向精神薬の量と種類が増えている。県教委及び尾道市教委の最終報告は10月1日の会合の時の慶徳校長の様子を「表情が明るく落ち着いた様子」としているが、
慶徳校長の「うつ病」は回復に向かうのではなく悪化していたことが投薬の量から伺える。
さらに尾道市教委に対する慶徳校長の「休ませてほしい」との申し出は、「自死」に至るまでの間、何度も繰り返されたという。慶徳校長に近い関係者は慶徳校長の教育委員会に対する次のようなメモがあることを語った。
「教育委員会は血も涙もない鬼だ。何度休みたいと言っても休ませてくれない」
572実習生さん:03/07/28 09:27 ID:b/YK0seo
(エ)自宅から遠い学校に勤務する慶徳校長の負担

慶徳校長が本当に民間人校長を希望していたのかという点について、疑問を投げかける声が多くある。
「出向先として広銀から言われた」「急に決まった」「会社の意向を引き受けた段階では小学校の校長とは思っていなかった。
高校とかの事務関係の管理職を考えていたのではないか」「本当にまじめな人だったが、もともと教育に情熱を持っていたわけではないし、子どもは好きではなかった」などの声である。
その中で、慶徳校長が民間人校長を引き受ける際、県教委に出していた条件については、複数の関係者が慶徳校長から直接聞いていた。

 「校長先生は、校長を受けるとき『家から通えるところ』『小規模校』『問題のない学校』という3つの条件を出した。
(県教委からは)この3つの条件から外れていれば断ってもいいという話だったが、高須小学校だと教えられたのは記者発表の前日だった(ので断れなかった)」
採用に際しての条件が実現しなかったことで慶徳校長の負担が大きくなっていったことが明らかになっていった。
 「赴任当初は府中町の自宅から90分くらいかけて通勤していた。『府中に家を建てたが、転勤が多くてほとんど住めなかった。家から通いたかった』と言っていた」

 「5月になって尾道に家を借りることになった。『今のままでは体が持ちません。どこか良い家はないですか』と複数の教職員に相談していた」

 また、「2月26日にはPTAの役員が(慶徳校長の)学校を替えて欲しいと市教委へ頼みに行ってくれたから、学校がかわれると思っていたらしい。
3月になって『民間人校長だから簡単に替えられない』と言われて校長先生はすごくショックだったようだ」
573実習生さん:03/07/28 09:28 ID:b/YK0seo
 慶徳校長は高須小学校へ採用された後も「自宅近くに」という希望を尾道市教委へ告げている。そして、連日の超過勤務の中、「自宅からは通えない」という判断を余儀なくされ、尾道市内に住居を移転したのである。
「休む」という希望が閉ざされる中で、「4月になれば」「自宅近くになれば」という「願い」を、坂井教頭が倒れた一番苦しい時期にも尾道市教委へぶつけている。自死される直前のことである。
このときの尾道市教委の対応は「民間から来た校長なので1年で移られては困る」「早く成果を出してほしい」と、慶徳校長の希望を突き返している。
一方で、尾道市教委の最終報告は、慶徳校長の転勤希望を実現するために努力をしたことになっている。ではなぜ、希望は実現しなかったのか。このことについては、むしろ県教委が真相を明らかにしなければならない。
いずれにせよ関係者の聞き取りによれば、慶徳校長にとって「このときのショックが一番大きかったのではないか」ということであった。
574実習生さん:03/07/28 09:29 ID:b/YK0seo
(オ)慶徳校長の苦悩

 慶徳校長の一年間の苦悩を聞き取り調査から抽出した。その中で、「慣れない職場の中で教職員や子どもへの接し方で悩んでいたこと」
「児童転出による学級減で教職員が2人辞めなければならなくなったこと」「教頭が病気で倒れたことでの精神的な負担」「うさぎ事件に象徴されるように、毎日のように起こる予測できない学校での出来事に悩んでいたこと」
「PTAとの様々なトラブルに悩んでいたこと」「様々出されてくる教育委員会からの指示やとりくみに対して校長としての自信を失っていったこと」「急遽県教委のTTの監査が入ることになりその対応に大変悩んでいた」
などが読みとれる。

575実習生さん:03/07/28 09:30 ID:b/YK0seo
 「4月3日付けで、6年生が1名転出することになり、6年のクラスが4クラスから3クラスになった。それによって2人の先生が辞めなくてはいけなくなった。『自分の力が足りないせいだ』と悩んでいた。
クラスが減ることにより、時間割も校務分掌も替えなければならなくなり、学校全体が非常事態となった。校長先生は『皆さんに申し訳ない』と何度もいっていた」

 「校長先生は、藤井教頭先生が倒れてショックだったようだ、自分のせいだと自分をすごく責めていた」

 「『藤井先生が倒れて自分で仕事をしないといけないと思うと、ショックだった』と言っていた」

 「校長先生は、最初から校長室に閉じこもりがちで、教職員や子どもと接することをしなかった。
坂井教頭が、2学期から、朝、校門にたって子どもたちを挨拶で迎えることをすすめた。授業参観や補教(休んだり、出張で出かけた教職員の代わりに授業に出ること)に行くこともすすめた。
3学期になって慶徳校長は補教に行くことが今は一番楽しいといっていた」
576実習生さん:03/07/28 09:32 ID:b/YK0seo
 「いろんなことが毎日のように起こった。ウサギ事件、万引きの件、児童相談所の件、サラ金からの脅しの電話もあった。
校長先生は一つ一つのことをくよくよ考え『今日もいいことがなかった』といつも言っていた。
坂井教頭は校長先生に『一つ一つのことを楽しんでやらなければ、やっていけませんよ』とよく言っていた。」

 「校長先生は、坂井教頭を頼りにしていた。坂井教頭が倒れてから『教頭が2人も倒れたのは自分のせいだ』『自分がいろいろ聞いたからだ』と自分を責めていた」

 「校長先生はいろんなことをすごく気にする方だった。」

 「10月26日に『うさぎ事件』が発生した。27日(日)には130周年記念祭があった。28日には(月)には『うさぎ事件』で全校集会をもった。
29日にはマスコミが大勢つめかけ校長先生は精神的にも疲れ切っていた。その後、31日、PTA実行委員会で夜10時過ぎまで『うさぎ事件』を協議し、
11月2日のPTA総会では、あれこれ質問責めにあうことが耐えられない様子で立ったり座ったりしていた。
後片づけをしているとき校長先生が胸を押さえてしゃがみ込んだ、「大丈夫ですか」と声をかけると「大丈夫です」と言って立ち上がったが顔色が悪かった」

 「11月3日(日)2年生の児童が亡くなった。11月4日(月)通夜。11月5日(火)葬儀があった。
亡くなった児童の前の担任はもちろん関係の職員は皆、葬儀に参列するものと思っていたが、『担任以外は、葬儀に参列する場合は年休を出させるように尾道市教委に言われた』と校長が言った。
そんな対応は今まで聞いたこともなく、教職員から質問が出たが、『私もおかしい(教育委員会の言うことが)と思うが、上からの指示なので仕方ありません』といっていた。このことでも悩んでいた」

577実習生さん:03/07/28 09:32 ID:b/YK0seo
 「教育委員会から新しいとりくみが提起されるたびに校長先生は自信をなくしていった。人事評価制度では『授業もできない自分に先生たちを評価することはできない』と何度も言っていた」

 「3月7日、木ノ庄東小学校の花咲校長を呼んで人事評価制度の講習会をした。花咲校長は校長がやるべき仕事を次々と説明した。研修終了後も校長室でしばらく花咲校長と話していた。終わった後で『自分にできないことばかり言われた』と落ち込んでいた」

 「3月6日、TT(ティーム・ティーチング=複数教員による授業)の報告に問題があるとの指摘を受け、尾道市教委の実態調査があった。
(その書類をそろえるため遅くまで作業をした)校長はTTの報告に間違いがあるのではないかとすごく不安がっていた。」

 「尾道市教委の調査が終わるとすぐ、引き続き県教委(尾三教育事務所)から調査が3月11日に入ることになった。
元銀行員の校長先生はこのような調査をすごく気にしていた。教務主任が『私が整理します』と言っていたが、急に3月10日に調査が変更になり心配していた」