高校国語は完全に虚学化してしまっている

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537530-531:04/03/05 13:32 ID:GZpr2TtE
>>533
 おっしゃるように、論理学で最初に習う「逆は必ずしも真ならず」は、国語に
も役立ちますね。論理学と国語学とで交錯する領域といってよいでしょう(もっ
とも、とくに論理学と位置づけずとも、常識として学ぶべき範囲だとも思いま
すが)。
 しかし、日常生活では、>>530で述べたような何らかの飛躍によって、逆が
たまたま真である場合が少なくないところが論理学とは異なります。2chの議論
において>>535の架空ログ内容のような混乱が少なからずみられるゆえんです。
 私の専門である法解釈学では、反対解釈という解釈手法が多用されますが、こ
れは、いわば逆は真であるという解釈ですから、当然ながら、誤った結論をも帰
結しえます。そして、ある条文について、そこから反対解釈を帰結することが妥
当かどうかについて、論理学は何ら手がかりを与えません。このことを国語に引
き直して考えると、国語でも「逆は必ずしも真ならず」を知ることは必要である
にせよ、「論理的思考」を働かせる局面は、むしろその先のほうが大きいと思う
のです。
 野矢氏の『論理トレーニング』にも、「3時になったら、おやつを食べていい」
のような例を用いて同様の指摘が簡単にあったと記憶しています(今、家族に貸
していて手元にありません)。
538530-531:04/03/05 16:13 ID:GZpr2TtE
訂正。法解釈学における反対解釈とは「裏は真である」というものです。「逆も真である」の例としては不適切でした。
539307=264=148:04/03/05 21:10 ID:1TE8HUa7
「論理」という言葉にみんな振り回されている……と思ったら、
なんだかんだいって妥当な意見がいろいろな人達から出てきてるじゃないですか。
「論理『学』」の基礎について私も学びましたが、それ(論理学)によってわかることは、
ある文章に「しかじかの論理が働いているねえ」という事実(のみ…をつけたいけどちょいっと
その自信まではない…)です。授業中、この文章の展開は○○律に従っている、というような
解説はよほどの必要がない限り使いません。教員が論理学を心得ていることと、生徒に何を
教授するかは別問題です。
・教材の論理を読み取ること/論理的な文章を書くこと ・論理学を修めること
これを混ぜこぜにしてはいけないのです。
こちらの方がもっとわかりやすいのではないかと思いますが、文法についても同じ事がいえます。
・用例の文法を理解すること/文法から外れない文を作ること ・文法学を修めること
「あなたは、生徒を文法学者にしたいのですか?」この言葉は、新任教員が先輩教員や
指導主事に食らわせられるパンチの典型です。

ついでにいえば、このスレか別の国語関係スレか忘れましたが、私自身が文章読解について
生徒達に最も身につけてほしいと思っている能力は「類推(アナロジー)」の能力です。
ちょい上の方のレスで「飛躍」「ジャンプ」などと表現されていることと極めて近いと
思います。漢字や語句の予習をマメにこなす生徒でも、文章理解になかなか至れない
場合、[例示された話題]→[主題への考察] という思考の流れが阻害されている場合が
ほとんどです。これは、論理学的な意味での推論では乗り越えることが難しい壁です。
[リンゴ落ちる]→[万有引力]みたいなもんです(違うかな?)
540307=264=148:04/03/05 21:13 ID:1TE8HUa7
後段の最初の2行、さすがに訂正。
  ついでにいえば、このスレか別の国語関係スレか忘れましたが、私自身が文章読解について
  生徒達に最も身につけてほしいと思っている能力は「類推(アナロジー)」の能力だ、
  と書いた事がありました。
  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ← これを加えてください
541実習生さん:04/03/05 22:23 ID:gdlG4B+j
へー、市毛さんエラくなったんだなぁ。
大学時代に論文(というよりむしろ作文)の書き方を教わったっけ。
今現在大いに授業するときに役立たせていただいてますよ。
542実習生さん:04/03/06 10:24 ID:Iud0VMta
==ここ最近のスレの基本的な流れ==

>>504で「国語の授業って体系があるの?そもそも目的は何?」と質問が出る。

それに対して
1. >>511-513で「目的」に関して指導要領が紹介される(307=264=148氏)。
2. >>518で「体系」に関して「体系化できる部分とそうでない部分がある」(No.3氏)
・論理学、意味論、語用論などは体系化可能
・現代評論を読むにはそれ以外に膨大な知識や教養が必要(体系化難)

上記の2つのレスに対し、>>520で504氏より
1.「511-513は標語のようで、ここからどう実際の授業に行くのかわからない」
2.518に対して「体系化できる部分(例:論理学の初歩)をなぜしないの?」
と、再度の質問。

その再度の質問に対し、
1. >>522で「納得してもらえる説明だと本当に長くなる」(307=264=148氏)
→この発言で「目的」に関する話は事実上打ち切り?
2. ・>>524で論理学の初歩を教えない理由を想像(No.3氏)。
(これに関連するやりとりが525-528まで)
・さらに、>>529で「論理は数学でも教えられる」(No.3氏)とも。

これに関して>>530で「数学・論理学の『論理』と国語の『論理』は違うのでは?」
と指摘あり。
(530-538まで関連レス。両者の違いの簡単なまとめは>>532>>536
これを受けて307=264=148氏があらためて国語と論理学の違いを強調し、
  身につけて欲しい能力は類推の能力と。
543実習生さん:04/03/06 10:41 ID:Iud0VMta
指導要領に関する話は別に「目的」だけじゃなかったね。スマソ
544526:04/03/07 11:15 ID:9gCdu+LL
>>530で言う「論理学の論理と国語の論理の違い」を認めた上で話をします。
国語の論理に特徴的な「飛躍を一本道で結ぶ力=>>539で言う類推の能力」ってのは、
体系的に段階を追って習得することが可能なのでしょうか?
いや、>>531のようなドリルもあるし原理的には可能な気もしますが、
国語教育研究の現場であるていど評価を得た、
段階的な習得法というのがあるものなんでしょうか?

それを教えることができれば>>504のような不満もある程度解消できるかと…。
545実習生さん:04/03/07 19:32 ID:4ewlf8Rv
生徒の立場から一言。
私はセンター試験型の問題はほぼ満点が取れるんだが(148氏の言うところの類推力はあるんだろう)
論理的な文章が書けなくて大学のレポート課題では苦労してた。
そんな時、大学の授業でクリティカルシンキングに出会い、目から鱗。
148氏の言うように確かに全ての生徒に論文作成能力は必要ないかもしれない。
しかし、高校国語は明らかにこのような思考の技術に関しては指導を怠っているよ。
論理的な文章を書くのは才能ではなく技術だ。
高校の国語でなぜこのような技術を学ばせないのか、とオモタよ。


そこんとこは国語の先生方はどう思われているのかな?
546307=264=148:04/03/07 20:52 ID:AFZXh/Ts
まとめ役の方、ご苦労様です。
>>544
学問自体の体系の話でいうと、現代文で学ぶ内容は指導要領を見てもおわかりの通り、
数学のような意味での体系ではないですね。
(数学の目的は「数学における基本的な概念や原理・法則の理解を深め」とあるし)
数学における「三角形がわかる→平行四辺形がわかる」レベルのつながりは、国語の
世界で言えば、小〜中学校レベルのつながりなのではないですかね。母語の操作なわけですから、
そういう段階のつながりは建前上、高校前に学習済みという感じ。
逆に考えて見ると、私が高校時代の数学は数I・基解・代幾・確率・微積というまとまりでしたが、
不得意なこともあって正直な話、それらの横のつながりはあまりわかりませんでした。
今にして思えば見えてくるものが当時は見えず、わからずただ問題を解いていただけです。
学生時代〜教員になってからちょこっと学び直したり関連書籍を読んだりしてみて初めて、
群論以上の集合論から、あるいは非線形まで視野にいれた代数学から見下ろした時の高校数学の
横の連携がようやく自分なりにわかったような気がしてきた次第です。じゃあ、それを
高校時代の週3〜4時間の授業の中でちゃんと触れてくれてればその当時のうちに
わかったじゃんか!と思うかというと、今、教員の立場から考えてみれば「そんな講釈たれて
いる間にゃ1問やらせた方がいいわな〜」と私自身思ったりします。
547307=264=148:04/03/07 21:18 ID:AFZXh/Ts
現在主流の現代文分野における「読む力」の育成は、ケーススタディの積み重ねという
形であるといえます。はるか上の方で私が出したベストキッドの比喩でもそのことを
言っているし、その比喩はさらに、ケーススタディでは満足できない(自分のやっている
ことの意義をアタマで理解できないゆえに無駄だと判ずる)学習者の存在も含めて
使っています。
「クリティカル」でも「例の方法」でもいいのですが、ケーススタディを離れて公式集
然とした"読解の金言集"は、実はケーススタディをある程度身に解かしこんだ人でないと
有益でないと思うのです。
数学なら <学習する概念・公式の紹介→例題→演習>という流れがあるため、表面上は
何をやるための作業かわかりやすい(公式使えっていうんでしょ?)のですが、
これを現文でいうと授業は<今度読む文章のジャンル・形式の紹介→実際の精読作業>と
なります。<→演習>部分は・定期テスト・課外授業・受験前の問題演習で処理します。
数学の学習でも、ホントに学力底辺の子は、教科書・問題集の例題がそのすぐ上の囲みに
記されている公式を使ってみるために存在していること自体わかってないですよね。
評論や小説の読解も、ちゃんと教材としての読み所があって、普通の教師であれば、
最初の導入でその紹介をしてくれるはずです。巨人が勝ったの天気が雪だのといった話
から始めて(巧妙なフリである場合は別ですが)生徒が顔を向けたら授業開始なんて
教員に当たっちゃうとここがダメなんだろうなあ……
548307=264=148:04/03/07 22:03 ID:AFZXh/Ts
それから「段階」の話ですが、これは教材選択によってなされていると考えて下さい。
例えば、「こころ」「舞姫」は高1ではやりません。(最近また教材として復活した)「羅生門」は
高3ではやりません。読むまでに身に付けているべきだとされる基礎力・精神的成長段階が
異なるのです。
高3で扱う国語の教材は、ゆるやかに高2までに学ぶすべての教科の知識・感覚が前提と
されていると考えるべきだし、扱う側もそれを前提にした深さまで踏み込んでいいと
思います。
15歳にはどこまで考えさせて、18歳にはどこまで考えさせるべきか、というのは
難しい問題ですが、私自身は、一般化されたところの公式のガイドラインのようなものを
見た記憶はありません。ケースごと、つまり教材ごとに教員が寄ってたかってこれを教える
べきだ、これはさずがに無理だろ、といった研究を蓄積してゆきます。その結果が指導書、
問題集の作問レベルなどに反映されます。
それらを概観して一般化できるのは国語教育の研究者の仕事ということになるでしょうか。
私自身は、これまでの指導歴(上の成功・失敗の経験)を通じ、あまり言語化されては
いない形である種のラインを形成しています。教員育成の観点から見ると、一人の教員
が仕上がるまでの過程が、ある意味非常に徒弟制度的な世界であるのは事実です。
中・高時代にどんな先生の授業を受けたか、初任校がどこでそこにどんな先輩教師が
いたか……これらの環境的事情が、実は教師の教育観、授業スタイル等を決定すると
いっても過言ではありません。
549実習生さん:04/03/12 13:00 ID:NtysdnmJ
そもそも国語教師同士の議論なんか無意味。
教師がどう思っていようと
当の生徒が国語に意味を見出しておらず
内職か睡眠の時間となってるのは事実だし
そういう状況を何十年も変えられないじゃないか。
550実習生さん:04/03/12 13:43 ID:AIXad9ww
>>549
だいたいが、教育学なんてこういうもん。らしいよ。

それと、「将来、役に立つときも来るから、今はやっておけ」式の言い方に
ついては、ある先生がこんなことを言っていた。

「自分も、浅薄な実学志向、面白い授業には反対だし、むしろ、徹底して正統的な
 基礎基本が大事だと思っている。
 ただし、今は即効性が無くても、いつか役に立つ。この大切さを、生徒に
 地道に伝えられる優れた教師も、また少ない・・・。
 そうした教師の条件は、小手先の技術論ではなく、ある種の人格知や教養だろう」

こういう人には、自分もそんなに会えなかったな、という印象がある。まあ、
教師も多くは普通の人な訳だし、あまり高いものを望んでも、仕方がないのだろう。
551実習生さん:04/03/12 13:51 ID:AIXad9ww
それとその先生は、「生徒の知性の涵養において、教師にできる仕事など限られている。
親が養った価値観に、いくらかの上塗りができるか、どうか・・・」とも言っていた。

教師が悪い、というよりも、生徒の感受性には親の趣味傾向の影響も大きい。
教師ばかりをあんまり責めても気の毒、という気もあります。

>>548
話が前後するが、教員の価値観・指導力の形成パターンについては、そんなものですか?

家庭教育における人格知の形成に似て、環境が大きく左右する。とすれば、私が会った
人に、古典的な人間学志向主体の国語教育者が多かったのは、少なくとも私の地方の教育界
には、そういうムードが濃かった、ということなのでしょうね。
552307=264=148:04/03/12 22:00 ID:7iycikqg
卒業式〜入試業務〜単位認定〜次年度準備と、教員にとって3月は心臓破りの坂です。
どんな展開になってるかなと思って来て見たら……私がとりとめのないことを書き散らした
せいで流れを止めちゃったのかな?

>>549
>当の生徒が国語に意味を見出しておらず
>内職か睡眠の時間となってるのは事実だし
似たような書き込み、同じ人なのかな(ageてるってことは、釣り? 魂の叫び?)
う〜ん……私が持っている子達にはこれまでそうした生徒、あまり見られないんですよ。
(まあ、ド底辺高の経験はないので、そこに行った時の私の力量は未知数なのですが。)
つまり、↑↑↑は、実はあなたが知る範囲での事実でしかない、と。

>>551
>教員の価値観・指導力の形成パターンについては、そんなものですか?
私の知る限りでは、です。
教委が設定する研修講座の類は指導要領や法令の素読に気を盛った程度の概論的な
ものが多かったりします。(それはそれで必要なものかもしれませんが)
教科の研究会はたいてい研究授業の見学と、それに対する授業研究から成り立つことが
多く、どうしても個別の教材の扱いに対する研究が中心となります。
そのちょうど中間層にあたるようなレベルの教授法理論が体系化されていない、あるいは
学会レベルではされているとしても、それが現場(の私)にまで自動的に浸透する
システムになっていないのは確かです。
そんな現状にあって、たいていの教師が(本来非常に抽象的な)国語教育の理念なり
目的なりを、個別の教材処理の中に具現するためにどうしているのかといえば、
・あらかじめ中間コード的な理論を修めていてそれを演繹的に当該の教材へ適用して
  指導計画を立てる
という形よりは、
・以前(授業を受けた|授業をした|誰かの研究授業で見た)同ジャンルの教材に対する処理を
  援用して指導計画を立てる
という形で日々の実践をやりくりしている次第です。中には、
・指導書にある指導計画例のとーりにやる。
という人もいるとは思いますが……
553No3:04/03/14 00:27 ID:iYHhrKyr
>551 は九州出身者か…と想像するテスト。
554No3:04/03/14 10:58 ID:yRLYY6Fa
>549
むしろ、「何十年前」はそうでもなかったと思いますが。国語を軽視する
そういう傾向が、「イイ傾向」だとあなたは思うわけでしょうか?

私は、近年のそういう傾向を招いたのは、明らかに国語教師の側に
国語に対する安易な楽観(徒弟主義、あるいは浅薄な方法論万能主義)
があったためだと思いますし、その意味で550氏の言うような観点を
まさに「国語教師」が論じるべきだと思うのですよ。

>550
元来、どんな勉強にしろ「〜なんて役に立つの?」って思われた時点で
本当はダメなんじゃないですかね。そんなこと考える前の段階で終わら
せないといけないつーか。

事を起こす前に理屈こね過ぎる奴は、結局使えないことが多い、という。
習うより慣れろ、つー言葉も有るし、「見る」前に「跳べ」と命じるよりも、
生徒の方が、気が付いたら「跳」んでた…という方が良い教育ではないかと。
555No3:04/03/20 20:23 ID:SGOqg5Fz
ようやく一息ついたのでage
556網の四季:04/03/21 07:23 ID:OgOTJT7W
生徒の語彙数の少なさ・・。国語講師として涙が・・。

ttp://www4.ocn.ne.jp/~asunarog/
557実習生さん:04/03/21 16:58 ID:FKoaucQ8
>>556
なぜ、そのURLが貼ってあるのか、よくわかりませんが・・・。

極めて身も蓋もないことを言いますと、人間の言語力は、その個々人の家庭の文化資本や、
社会的な空気に左右されやすいものですよね?
「学校」や「教育」でどうにかなる部分と、ならない部分がある、そういうことだと思います。

なぜ、日本人の言語力は衰退したか? ですが、単純な話、TVを中心としたメディア・
カルチャーの言語表現が、お粗末で乱れまくっていますからね。その中で人間は育っている訳です。

こんなステレオタイプのTV・マンガ・ゲーム害悪論は嫌いなのですが、昨今は目に余りますので。

国語教育の悲劇とは、そうして基礎的な言語力が乱れた場所で、様々な授業を展開したり、
試験を行わねばならないシンドさでしょうね。大人たちよ、まずはTVを消しなさい。
558No3:04/03/21 21:53 ID:Nkrw4qh6
>557
確かに、「今の日本の」TVがロクでもないものであることは事実。
しかし、「そこにおける言語表現が乱れている」から「日本語が乱れる」
という論理の展開にやや粗雑さを感じる。

言語を主たる表現手段とする、従来の「知」を中心とした表現のありようと
映像や音といった多様で感性的な表現手段を主流とする現代の表現の
ありようは、ひどいズレをひきおこしている。

これは、おそらくTV放送が発達した現代の多くの国で普通に起こっている
現象なのではないだろうか?と思うよ。

たとえば、うちはケーブルTVが入ってて、海外の面白いドキュメンタリー
(ディスカバリーチャンネルとか)見られるんだけど、確かに日本のその手の
番組とは格段の差(知的・情操的刺激において)を感じるんだけど、それでも
もし「それしか見ない」とすれば、おそらく「国語力」はつかないだろう、と思う。

ただし、海外のそれらの番組は様々な知的好奇心を刺激してくれるし、
その結果もっと色々なことが知りたいと思って本を読むようになれば、結果と
して子供の国語力は育つだろう。その意味で、「良質なTV番組」は重要だと
思う。日本のTVの悪い所と言えば、それを見ただけで「わかった『気にさせる』」
ところのような気がする。
559No3:04/03/21 22:03 ID:Nkrw4qh6
えーと、何が言いたいのかわからんレスになったな。

つまり子供に対して「TVを消し、ゲームを禁じ」れば良いのか?と言えば
そうじゃないだろうね、ということ。この社会でそれを強いられた子供は、
逆に自閉的にならざるを得ないような気がする。

良かれ悪しかれ、「この社会」が彼らの生きていく場なのであり、その場か
ら子供を切り離して、なおかつ「健全」に育てられるというのは、懐古主義者
の妄想なんじゃないか。

あなたの投稿に基づいて言えば、「(現代日本の)文化資本、社会的な
空気」の全てが、短絡的で快楽的なものになっているという現状を踏まえ、
一体どういう社会をデザインしていくべきなのか、大人が考えなくちゃ
いかんのだろう。

以上を踏まえた上で、もしそれでも「この社会がどうこうではなく、私が
私の子供に何をすべきか?!が問題だ。私はTVの害毒から子供を
守りたいのだ!」というのなら、まず大人自身がTVを捨て、「TV無しで
どのように「この社会」で生きていくのか(…「この社会」で生きている他の
人達と調和しながら)」という見本を見せねばならないだろうね。
560557 :04/03/22 00:46 ID:ZBpuOKiB
>>558-559
補足、ありがとうございました。つまり、大人たち(親・教師)は、もっと主体的
なリテラシーを持たなくちゃならない、と言うことですね。
561実習生さん:04/03/23 02:48 ID:FMTXw0o6
>>559
このレスはなかなか面白かった。
率直に言って>>557-558>>556の意見を誤解のうえ批判しているだけだ。
556が言っているテレビとは、昨今のくだらない娯楽番組を指しているのは文脈から明らか。
それを消せと言っているのに、テレビそのものを捨てなくてはいけないかのように理解され
「回顧主義者の妄想」として批判されている。大人は子どもに悪い番組を見せるのはやめ
ようという556の意見はテレビ廃止論と混同・曲解され、「じゃあ大人がテレビなしで暮らせる
ところを見せてみろよ」という乱暴な結論でもって冷たく突き放されている。

つまり、557-558は556で特定なニュアンスで使われている「テレビ」の意味を意図的に
ずらすことでそこに生じた隙間を攻撃材料としている揚げ足取りのレスである。
ところが、559ではそれに対して「補足」ありがとうという「賛辞」を加え、大人による「主体的
なリテラシー」が必要という理解をしたとコメントしている。こういう観点からすれば、ここでいう
「補足」の意味は明らかであろう。「主体的なリテラシー」という表現は、おそらく557で一般的
なテレビ番組と「知」の表現のあり方が比較されていることに対する呼応だろう。そもそも存在
理由が違うのだから、その比較が何になるのかはまったくわからないことと対応するわけのわから
なさだ。
562実習生さん:04/03/23 02:49 ID:FMTXw0o6
↑レス番がひとつずつずれたなあ。
563557:04/03/23 05:44 ID:ze4QPwDd
>>561
また、深読みされてしまったなあw

>556が言っているテレビとは、昨今のくだらない娯楽番組を指しているのは文脈から明らか。

まあそうなんですけどね。明らかにコンテンツの質は下がっていると思う。
ドラマなんかひどいね。少なくとも80年代までは、刑事ドラマも時代劇も、
山田太一や倉本聰といった作家のドラマも、今よりも遥かにレベルは高かったと思う。

マジメな話、「娯楽」(とくに、物語的素養を必要とするフィクションは)
も教養なんですよ。かつては、最低限のレベルはあったと思うよ。
564557:04/03/23 05:49 ID:ze4QPwDd
>「主体的なリテラシー」という表現

これは、極めて単純化して言えば、メリハリのある視聴習慣を身につけよう、ダラダラ
点けっぱなしはやめよう、という程度の意味なんですけどねw

とくに父親なんか、仮に残業が無くても、せっかく家にいてもTVばかり、という人
が多いように思うのよね。
「勉強しろ」だの「本を読め」だの言う必要はなくて、時間を巧く使って、本を読んだり、
自前の勉強や趣味に没頭している姿を見せるのがいちばんの教育だと思うんだけどね・・・。

それとも、仕事で疲れているのかもしれない人間に、ここまで要求するのは
やはり酷なんでしょうか・・・?
565557:04/03/23 05:53 ID:ze4QPwDd
しつこくTVに関して言えば、個人的には、地上波はもうほとんど見なくていいん
じゃないか、とすら思ってます。
BS・CS・ケーブルはいい番組をやってるけど、これもコンテンツが豊富過
ぎて見きれないし。もう、日本人はTVはいいんじゃないかと・・・。

>そもそも存在理由が違うのだから、その比較が何になるのかはまったくわ
>からないことと対応するわけのわからなさだ。

スマソ、この一節は何が言いたいのか、ホントに意味がわからないw 
566実習生さん:04/03/23 07:30 ID:e/MzU5O4
>>561-565
で、君らはいつ寝るんだ?
567No3:04/03/25 00:48 ID:jf04cqu3
うーん、「TVを中心としたメディア・カルチャー」という557の発言を受けて、どうしてそれを
「低俗な娯楽番組のことを指しているのは明白」と言えるのかいささか理解に苦しむ。

ただ、557の発言をオレが少し「ずらして」答えている、という把握は正しい。
なんで「ずらす」のか、と言えば、「ずらさ」ないと、同じ結論にしか辿り着かないから。
それに、オレの立脚点は557さんと少し違うから。オレは「見るなよ、って言ったって、
子供は見るよ、そりゃ」という立場なわけ。それに、見たから即馬鹿になるってわけじゃないよ、っと。
だから、「子供は観る」という前提で教育を考えなきゃ仕方ないでしょ、と、まあそう思ってる。

かつてPTAの激しい攻撃にさらされてた「8時だよ!全員集合」を観てた(オレも含め)全国のPTA
「非」推奨児童たちが、全員馬鹿に育ったのか?と。今朝のニュースなんか観ながら思うわけだよ。

実際、ドリフの「コンテンツの質」が高かったかと言われると、あんまり自信ないしなあ。

その意味で、あんまり「かつての時代」を称美するのは、オレとしてはやはり
「懐古」趣味的だなあ、と思ってしまったりするわけです。

そういう雑多な刺激を受けながら、それでも自分たちが生きてきた時代には、
もっと多様な「学びの糸口」があったような気がする。そしてそれに気付かせて
くれる大人が。重要なのは、TVよりむしろそっちなんじゃないか。

「(娯楽として)TVに勝てるわけない」なんていうのは、単なる大人の逃げだと
思う。たとえば一緒にアッチ向いてホイしてやるだけでも、普通の子どもは、
TV見るのと同じくらい熱心に遊びに心奪われるもんだよ。
568No3 ◆4X2rb0GY3M :04/04/01 01:09 ID:VJ1Q63y6
明日からちと忙しいので、最後に。

書物もまたバーチャルな、そして人工的なメディアに過ぎない。
問題は、あるメディアがバーチャルな、人工的なものであるかどうかに
あるのではなく、むしろ我々を取り巻く環境そのものの人工性にあるの
ではないか。



569No3 ◆4X2rb0GY3M :04/04/05 01:27 ID:s/6Y93Dg
我々人間は、「現実そのもの」を扱うべきOSを初期設定で積んでいない。長らく「言葉」は(相互互換性
の点で不完全は持つものの)そのOSの役割を果たしてきたし、国語とはそのOSと基本アプリケーション
のインストール作業だったとも言える(これは非常にシンプル(過ぎるよう)な比喩ではあるが)。

「言葉」とは「現実そのもの」ではなく、「現実そのもの」を「人間が扱えるもの」に置き換えるための、そして
そのために作り出された、二重の意味で「人工的なるツール」なのであり、かつて「言葉」を扱う人間は「知」
を一手に握っていたわけだ。その意味で、このスレの上の方で言われていた国語=宗教説、もまたあなが
ち的外れだったわけではない、と思われる。余人には扱えない(それゆえその仕組みが秘されている)権力
を恣にしていたという意味で。

それは丁度、DOS時代にPCを使っていた人が、あたかもPC教の司祭であったかに見えたように。

しかし、windows時代の到来によって、多くの事情は変化してしまった。
今国語に起こっていることをこういう比喩で語ってみることが可能な気がする。

たとえばファッション、映像、ダンスパフォーマンス、など、さまざまな「現実をとらえ、表現する手段(OS)」
が生まれてきており、その多くはまだ「言葉」を基底OSとして(windowsも初期はDOSから立ち上げたもの
だった)はいるものの、徐々に人々は「言葉」というOSを積む必要を感じなくなってきているのではない
だろうか。少なくとも、「言葉」というOSが「非常に強力で有用なもの」と感じられる場面が減少してきて
いることは事実ではないだろうか。windowsを使いはじめてしばらくしたら、DOSのコマンドを忘れはじめ
たように…。
570561:04/04/07 15:07 ID:CiYxoy3e
>>569
君の比喩の話はいつもよくわからん。
それまでの話を簡単にまとめるのが長い比喩のわかりやすい使い方だと思うが、話そのものが
比喩で語られるから読む側は謎解きを強いられる。ベストキッドの時と同じだ。結局、君は
自分の言いたいことを自分でしっかり言語化できていないということ。

言葉を扱う人間が「余人には扱えない(それゆえその仕組みが秘されている)権力を恣に
していた」というのはいったいいつの時代のこと? 国語教師が「余人には扱えない」権力を
行使していたとも思えない(過去レスで国語教師=司祭説があったが、ここでいう権力者を
教師とすると次のwindows時代が何のことかわからない)。とすると大和まほろばや平安
時代かい。次の現代まで時代が飛びすぎだろう。

Windouws時代というのが何を指すか判然としない(まさかテクスト論の時代と言うんじゃない
だろうな)ものの、ファッションやダンス、映像文化の隆盛によって言語の重要性が忘れ去られ
ようとしているというのは?だな。そういう表現は表現のみとして存在しているわけではない。
その技術を習得したり歴史を知ろうとしたりする人間たちの活動によって文化となるわけで、
そのような過程において言語が介在しないはずがない。むしろ目立つと言ってもいいくらいだろう。
「その多くはまだ言葉を基底OSとして」と言うけど、上のような意味では言葉に拠らなくなる時
なんか来ないだろう。また、メールや掲示板を例に出すまでもなく、このインターネット全盛の
現代は文字文化の再来だとマクルーハンも夙に指摘してる。書道もパソコンも習う学校と
いう場はある意味すばらしい。文字・言語に興味を持つ子もこれから少しは増えてくるんじゃ
ないかと思うけどね。
571No3 ◆4X2rb0GY3M :04/04/07 23:30 ID:aJpU7iX/
誰でも手軽に扱える小さなデジカメが発売されたとき、

 「9つの誕生日に両親にデジカメを買って貰ったアイダホの農民の娘が
  新しい映像の時代のモーツァルトになるのかもしれない」

…てな趣旨のことを言ったのはだれだっけか。
なかなかおもしろい話だと思うんだよ、これ。

テクノロジーの急速な進歩が、我々を言葉から遠ざけることは、本当に「全くあり得ない妄想」だろうか?

言葉は、今もなおもっとも手軽なメディアであることは言うまでもないが、オレはあなたほど
「言葉=絶対」主義者ではない、そういうことかも。言葉はなるほど「もっとも手軽なメディアのひとつ」
ではある。しかし、同時にそれは「言葉もまたひとつのメディアで『しかない』」ということでもある。
「映像」だけでテツガクを語ることだって、十二分に可能だ。もちろんそれは「文字」には翻訳不可能
であるかもしれんが。そして広い意味ではそのような「映像」を「読む」力を養うのも国語の勉強だと
思ったりもする。

これは世代の違いというヤツかもしれませんね。
オレも「マンガ・ゲーム・音楽・アニメ」で育った世代だから。
572ひさしぶりの307(148):04/04/07 23:46 ID:c18OCQmg
>そして広い意味ではそのような「映像」を「読む」力を養うのも国語の勉強だと
>思ったりもする。

これは、国語の学習の補助教材として図版やビデオを見たりすることとは本質的に
異なることが言いたいのだろうけれど、そうであればなおさらのこと、「国語」の
定義の根底を覆すようなことは言わないでね。

映像を読む力が現代社会において有効な、ある意味必要な技術であり、その養成は
現代社会を構成する人材育成にとって重要な課題だと私も思います。
ただし、文字コードから離れた瞬間から「国語」の領域ではなくなります。
573実習生さん:04/04/08 04:30 ID:hsL6H25O
>>572 聞いていいかな。「文字」ではなくて、なぜ「文字コード」?
574ひさしぶりの307(148):04/04/08 21:24 ID:80QWyd9t
>>573
巷にあふれる画像・映像も実は、知覚とか神経に直接訴える効果だけでなく、
知性の領域に訴えかける「コード」がたくさん含まれています。映像等の理解に
「読む」という言葉を使いたくなる部分があるとか、そうした能力は本能・直感と
いうより(訓練により修得される)技能であるという点に関して、No3氏が
考えている(んじゃないかなと私が理解している)ことに国語学習との類似点は
認めていいとは思う。これらは、ある種、広義の言語みたいなものだから。
で、
単に「文字」というと、印刷されているインクの染み(グリフ)の世界に寄り過ぎて、
上述の映像等との類似点が表現できない、かといって「言語」としてしまうと、
意味内容(概念)の側に寄り過ぎて、今言ったように映像等も広義の言語だ、
といってしまう立場に対して差異を打ち出しづらい。
といったわけで、文字コード、と表現してみました。
575実習生さん:04/04/08 23:44 ID:KqXhkCWG
>>574 そうですか。文字コードというと、JISとかUNICODEのことと思ってしまうので、不可解でした。
私の誤解でした。
576No3:04/04/10 00:59 ID:uSqWUb84
>572
「国語の定義の根底」?

たとえば「スピーチ」は「国語の定義」の中には入らないのだろうか?そこで
上手に「話す」ために必要な能力とは、「文字コード」とはまた別の能力では
ないだろうか。たとえば目の前の相手の気持ちを「読む」とか、場の雰囲気を「読む」
とかいった能力と言えるのではないか。

それとも、あなたの言う「文字コード」はそれらを含んだ概念なのだろうか?
(そうではない、と読めるのだが)

もちろん「広い意味では」とエクスキューズをつけた理由は、それを育てることが
国語の第一義的目的とまでは私が思ってないからでもあるのだけれども。
けど、それが「国語の定義を覆す」とは思わないなあ。

広義の「テクスト」を読む「力」はすべて広義の国語力だとしてよいのではないか。
たとえばバルトがファッションで、あるいはプロレスをテクストとして読み解いて見せ
たことを考えれば。

でないと、国語は将来「マンガ」を扱うこともできなくなってしまうしね。
577実習生さん:04/04/10 06:50 ID:EPa3uUjW
>>576 >でないと、国語は将来「マンガ」を扱うこともできなくなってしまうしね。
漫画を国語で扱うことはないでしょう。というか、やめてください。漫画がつまらなくなります。
578No3:04/04/10 09:24 ID:uP3EB96F
>576
「やめてください」…と言っても多分ムダでしょう。

小説だって、詩だって、現代俳句、現代短歌だって、明治の頃には
「程度の低い娯楽」に過ぎませんでしたよ。宮崎アニメなんかが小学校の
国語の教科書にのるのは、もう目の前じゃないですか?

強いて慰めを言えば、「国語でやる」から「つまらなくなる」というよりは、
「つまらなくなってくる」と「国語でやるようになる」という方が正しい…ということかな。
579ひさしぶりの307(148):04/04/10 16:54 ID:YDiE5HGt
「文字コード」という言葉はやっぱり不用意だったんだろうなあ。>>573さんのような
読み方を引き出してしまう時点ですでに明らかなように。反省。
もう少し厳密に言うと、「狭義の言語(日本語)」とすればどうでしょうか。

>たとえば「スピーチ」は「国語の定義」の中には入らないのだろうか?そこで
>上手に「話す」ために必要な能力とは、「文字コード」とはまた別の能力では
>ないだろうか。たとえば目の前の相手の気持ちを「読む」とか、場の雰囲気を「読む」
>とかいった能力と言えるのではないか。
スピーチは当然日本語の操作を扱うので国語の範疇。
目の前の相手の気持ちを読んだり場の雰囲気を読むのは、(いじわるな言い方をすれば)
瑣末なテクニックに該当する部分なので、あえていえば発展的項目ですね。
もちろん、実際の運用ではそうした技術の部分が情状、交渉ごとの成否などに大きく
影響することは承知しています。ただ、国語の範囲で扱うべきなのは、そこよりも
ずっと手前、表現側では文章構成や適切な語彙の選択、理解側では聞き取り時の注意や
メモの仕方といった部分だと思います。
宮崎アニメが国語の教科書に載る場合、やはりアニメの写真などを豊富に載せた「文章」
についての学習活動になるのではと思います。ととろのビデオを見て、映像から何かを
汲み取らせること自体を目的とする授業にはならないでしょう。ビデオを見て、
感じたことを「発表させる」、すなわちスピーチの練習に徹するのであれば国語の
範疇に収まります。ただし、その場合は、子供達ひとりひとりが「どう感じたか」に
ついては、ほぼ不問になると思います。ある子供の発表の<内容>に関して、その
理解の仕方では云々…といった学習活動になると、それは国語の範囲を逸脱すると
思うのです。
580ひさしぶりの307(148):04/04/10 17:16 ID:YDiE5HGt
こうした国語の守備範囲の問題は、漫画・アニメ・または実写のドラマ・映画が発展
してきてから揺らぎ出したわけではなくて、実は演劇・種種の(古典)芸能との距離感覚に
おいて古くからすでに考察が行われており、別に新しい問題ではないのです。

高校までの、いわゆる国語で扱われるのは、演劇でいえば「劇文学」までです。
私の小学校時代、教科書には「夕鶴」が載っていました。戯曲の読解までは国語の
範疇だということです。そこで本当に演じるのは、よくいえば発展的学習、悪く言えば
逸脱だと思います。実際に演劇の作品を一本舞台の上にのせるには、国語的な能力の
他に、様々な種類の力量が必要となります。話芸も然り。新課程の教科書には寿限無が
載ったそうですが、これも、言葉の楽しさおもしろさを実感させる目的から離れて、
ほんとに笑いをとることを修得させるための学習活動になってしまうと、それは逸脱じゃ
ないかと思います。

中学校まで国語の範疇で扱われる書写は、高校では芸術科書道へと移行します。書道
自体は国語の範囲ではないのです。演劇・芸能・映画・漫画・アニメはどうでしょうか。
表現活動の総体としてのそれらは、個人的には国語よりもむしろ芸術科の領域に近い
と思います。一部分だけを国語の領域に引き寄せて扱うことは可能です。でも、
それ以上のことにはならないはずです。
581No3:04/04/10 20:15 ID:NbEAPDRB
>580
あなたのしているのは「今」の話。
わたしのしているのは「未来」の話。

わたしがしているのは「変わるかもしれないなあ」という話。
あなたがしているのは「変わらないんじゃないかなあ」という話。

残念ながら、接点は見いだせなさそうですね。
582307(148):04/04/10 21:01 ID:YDiE5HGt
話してる内容の指し示す範囲が "将来どんどん変わっていく" ことが込みなら、接点もへったくれも
ありませんやね……

そろそろ512KBを超えるんだとか。長いレスいっぱい書いたからなあ。
いろいろふだんあまり考える機会をもてないことに目を向けるきっかけをくださった皆様方、
ありがとうございました。
583561:04/04/12 21:31 ID:shObzV0B
>>579
国語の定義を論じる際の「文字コード」は、明らかに不適切な表現。「文字」を基盤とすると、
「話す」「聞く」の部分が抜け落ちてしまう。蒸し返すようで悪いけれど、ここであえて繰り返すのは
英語教育にも通じる「読み」「書き」重視の傾向を国語でも垣間見た気がしたからだ。さらに
言えば「読み」偏重だけど。

インプットばかりでアウトプットがないのが日本の国語・英語教育の特徴だと私は思っている。
生徒に「どう感じたか」そして「何を考えているか」を問い、またそれを言語で「どう表現するか」を
見るのも「国語の範囲」であるべきだと思う。音楽で笛や歌のテストがあったように、国語でも
例えば今度の定期テストは50分600字の作文のみ、というのがあってもいいと思う。成績と
直結する定期テストなら出題者側も周到に問題を用意して評価の基準を明確にしておき、
できることなら複数で評価するなど工夫が必要だろうが。さらにテストの返却時に採点への
異議を唱えるのを許可すると、それだけで国語はずいぶん魅力的になるだろう。
584561:04/04/12 21:31 ID:shObzV0B
作文に正解はないから採点者は必ず文句を言われることになるが、生徒たちにとって自分の
考えを他人にぶつけてそれを評価してもらう経験は、それが本気であればあるほど貴重なはずだ。
提出するだけで終わる夏休みの読書感想文や修学旅行の雑記ばかりで、なぜ添削されかつ
評価もされる作文を書く機会が極端に少ないのだろう。スレの中央あたりで展開されかけていた
文章読解講座もいいが、自らの文章作成能力を高めることがひいては他人の文章を読みこなす
力ともなる。片方だけというのはやはりいびつだ。

このような意味で、先生の「正解」をみんなで押し頂く式の授業形式は(もちろん排斥すべき
類のものではないし主流を占めさえするものだけれども、それでも)必要な場合に限って慎重に
選択されなくてはならないだろう。多くの大学入試で小論文が課され、義務教育で絶対評価が
導入されているのはまさしくこういう流れを後押しするものでもある。作文=小論文は3年生に
なってあわてて希望者のみやるものではなくて、授業の根幹として位置づけ可能なものだと私は
思う。「作者の死」が常識化し国語でも読者の復権が叫ばれるなら、このような形で「読者の
意見」を掬い上げることも意味あることだと言える(個人的にディベート授業にはやや政治性を
感じるので今のところ懐疑的)。さしあたってトトロについて言っているというのはわかるが、「文字
コード」による定義と同じく、生徒たちが「どう感じたか」(教材としての「読み所」があるという立場
のあなたの議論にこの視点は希薄だったように思う)が「ほぼ不問」というなら、このような国語の
定義は悲しいほどに狭い。
585561:04/04/12 21:32 ID:shObzV0B
>>581
トトロが「そのまま」の形で国語の教科書に載るなんてことはないだろうね。教科書という時点で
まさしく「文字コード」なわけだし。演劇の一部でしかない「戯曲」を扱った教科書の「夕鶴」が
そうであったように、オリジナル(演劇・映画そのもの)とは次元の違う形でのテクスト化なので
あって、映画そのものを論ずることになったりはしない。それをするようになると言っているのであれば
>>576は暴論でしかない。国語教育に携わったことがある人の言葉ではない気がする。同じ
言語を扱っていても、バルトやデリダのした/ていることと、技能教科である国語の目的はやはり
別もの。文学と国語の差異は、文学科出身の教育実習生がまずぶつかる問いだ(作者を知る
ことが作品を知ることだった時代の文学と国語は、別の意味でもっと連続してたと思うけどね)。
586実習生さん
そんな事より日本語のおかしい1を祭ってあげて下さい

子供に中学をさせない親って恥かしくないの??
http://human2.2ch.net/test/read.cgi/ms/1081828508/l50