ふーん。国語の教師って、やっぱ自分のやってることが役に立つと思ってる
んだあ・・・禿しく違和感。
オレは90年代前半に、センターで校内ハイスコアを獲ったけど(いちおう、
東大に数人受かる高校。点数は忘れた)、学校国語(受験国語)は知性や読
書量など無くても解ける。と悟った頃から、始めて現代文ハンターになれたよ。
それまでは、自分の主観で解答していて失敗した。実際は古典的だけど、
「こう答えて欲しいんだな」というスジを読んで、その通りに答えるだけで良かった。
他の連中は、自分の主観で解答するべきか、スジを読むべきか、その区別すら
つかずに撃墜されていた。
いつから読めるようになったのか・・・中3のある日、ふと気づいた、ことしか
覚えていない。
古文・漢文については、純粋に参考書・問題集の力で、別にあれで教養が身に着い
た実感は無い。何を使ったかは忘れたけど。
敢えて挑発的なことを書くけど、作文・読書感想文についても同様で、「こう書い
て欲しいんだな」というスジを読んで書けば、面白いくらい、教師がコロんでくれ
るんで怖くなったぐらいだよ。文例集じゃないけど、傾向と対策があるんだよね。
これまた、自分の主観を書いてはいけないんですよね。また間違っても、新聞の文化欄で
読み囓ったような文芸批評的スタイルで「分析」ごっこをしてもいけない。
何を書いても、背伸びせずに素直に「中高生らしく」書く。自分の人生への希望と
抱負を述べ、あくまで前向きでシメルのがキータームですw
小論文はどうしたか・・・これは受験で使わなかったからサボった(w
同じ学年に2人、家庭で贅沢な国語教育を受けていた女の子がいて、そういう子が
家庭で受けたような国語教育こそホンモノだと思う。
1人は、和歌の授業のとき、百人一首を完全にそらんじ、教室が静まり返ってしま
った。昔から家族でやっていたらしい。こういう優雅な習慣が日常生活に根づいて
いることこそ、小手先でない本当の教養だと思う。
もう1人は、図書室の常連で、あまり「勉強、勉強」と言われない家だったのか、
本ばかり読んでいた。まあその程度なら学年に数人いるが、学校の成績も悪くなく、
小論文を書かせると本当に巧かった。
この子は、旧帝の理系に進み、今はどこかの助手になっている。学力の基礎は読み
書きソロバン、という基本を体現していたね。
まあ、以上は自然発生的なケースで、ほとんどの生徒は(オレも含めて)「何のた
めにやらされたんだ」とブツブツ言いながら卒業していくのが現状です。
まあどうせ、「それでも、さわり程度にはやった方がいい」とか仰るのでしょうが、
日本人の感性とか、そら恐ろしいことだけは言わないで下さいよ。
そういうご大層なことは、天皇家に御進講するような國學院の国文学者さんの仰ることで、あ
っしらシモジモには、俵万智ちゃんレベルで充分で御座いますよ(読んでないけど)
まあ、最近は教科内容も変わってきているのかもしれませんが、私自身は、「役に
立った」という実感がどうにも希薄なのです。
この希薄感は、中高の各教科に共通して感じるのですが、いったい、これってどういう
ことなんだろう、と思います。