(
>>1の続き)
実際の歴史においても、「自由」を急に与えられた人間の中には、自らに与えられた「自由」を自分の手で制限したがる人間がおり、
自らを他者に束縛されたい、あるいは他者を束縛して自分が君臨したい、という心理状態を取ることはしばしばあります。
ナチスを心理学的アプローチから分析したエーリッヒ・フロムはこれを「自由からの逃走(Escape from Freedom)」と呼びました。
フロムは、他人を支配しようとする「サディズム」と、他人から支配されたいと思う「マゾヒズム」はそれぞれ別のものではなく、
「権威(支配と服従の原理)との自己同一化によって、孤独や不安という、己に与えられた自由がもたらす現実への不安から、
逃避したいという心理状態の表れ」のコインの裏表です、と語ります。
(※参考1)エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」がどんな本かはこの辺を参照
[本][社会論]『自由からの逃走』 - Arisanのノート
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20140310/p1 フロム「自由からの逃走」<要約(1)>
http://omoinoha.exblog.jp/15809026 また、日本と中国についての評論を数多く書いている竹内好は、戦前の日本が、どうしてアジア諸国と連帯して、西欧諸国による
植民地化との対決を選ばず(建前上はそう言っていたにも関わらず)、自らが進んでアジア諸国を侵略し、支配しようとしたのかに
ついて、魯迅の「賢人とバカとドレイ」という寓話を用いて、このように語る。
ヨーロッパが「主人」、アジアは「ドレイ」という構図だった当時の世界情勢において、日本はどうしたか。「脱亜入欧」、つまり自らが
進んで主人となることによって、奴隷状態から脱しようとした。
魯迅は語る。「奴隷と奴隷の主人は同じものだ」。<「独裁者の反面は奴隷である。権力の座にあるときは万能だが、権力を失えば
奴隷性百パーセントになる。(中略)主人であるとき一切の他人を奴隷あつかいするものは、主人をもてば自分が奴隷であることに
甘んずる」と。
(※参考2)魯迅の「賢人とバカとドレイ」という寓話はこちら。
http://akemi.da-te.jp/e328982.html *
で、たかだかインターネット掲示板にすぎない2chですら、「己の奴隷根性」には気づかない人は大勢います。それが「記者は
住民の言うことだけ聞いてろや」という人たち。記者が住民の1人であることを忘れてしまってるのですね、こういう人は。
違いますよ。記者は「住民の1人」なのであって、「住民の主人」でもないし、「住民の公僕」でもありません。
というか、「公僕」とか言うなら、自治スレでグダグダくだをまいてないで、依頼スレでも処理してきてください。
「公僕」、つまりお前は「奴隷」なんだろ?じゃあ口を動かしてないでキリキリ働け。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1399899770/85 >85 返信: ◆TensaIV0XQ @ 甜菜屋 ★@転載禁止[] 投稿日:2014/05/16(金) 15:28:24.95 ID:???
>
>
>>57 >どうでも良いなら、いちど黙れ全レスは余所でしろ
(中略)
>記者は住民の公僕であれ。
>そうじゃないなら俺は記者様だといってデカイ顔する現実の記者や、ひろゆきの足舐めまくりのたもんと愉快な仲間たちと
>同レベルになっちゃうから。
というか、たもん君は少なくとも「いいからいちど黙れこのバカ」みたいなアフォ丸出しな感情論を言ってたことはほとんどない
ように記憶するので(彼はもっと狡猾だし、その意味では非常に頭は良いのだろうと思います)、だいぶ人間的には劣ってるなぁ、
というのが正直な感想だったりします。
まぁ、そんなわけでこの人間はどうやらあちこちの+板で必死にヘゲモニーを握ろうと奮闘しているようですが、どのぐらいで
あっさりとメッキが剥がれるか、引き続き注視していきたいなと思っております。
(終わり)