岩井克人の『貨幣論』は正しいのか

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1名無しさん@お腹いっぱい。
岩井先生の『貨幣論』を徹底検証すべし。

http://www.nttdata.co.jp/profile/organ/riss/h9/theme1/guest1_1.html
2OFW:2000/12/25(月) 00:00
>「俺頭悪いんだけど経済って」スレのレス20
>岩井克人は手放しの資本主義礼賛者ではないよ。
 手放しの礼賛者などは他の経済学者の中にも少ないのでは?
 ケインズさえ、資本主義は病んでいると考えていた。
>それに、マルクスをそんなに誤読しているだろうか。
 決定的な点での誤読としては、ひどいものでしょうね。それも、マルクス
 に依拠していながら、「マルクスは誤っていた。正しいのは私」と言う所
 は、かの宇野弘蔵並みでしょう。「マルクス主義経済学ではなく、マルク
 ス経済学すなわち宇野経済学こそが真理だ」!!!
 マルクスは経済学(当時の国民経済学)批判をしたのであり、独自の経済
 学体系を立てたのではない。資本主義の経済学は不可能だと言った訳です。
>あのサイトは、ああいう設定下での講義だから
 「電子マネーの可能性を強調して、資本主義の否定的側面は強調しない
 ようにする」という設定?
>随分と誤解を招く表現になっているのだろうけど。
 別に誤解を招きそうな表現とも思えない。自説に正直だと思います。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/25(月) 07:15
>決定的な点での誤読としては、ひどいものでしょうね。
>それも、マルクスに依拠していながら、
>「マルクスは誤っていた。正しいのは私」と言う所は、
>かの宇野弘蔵並みでしょう。

岩井は教条主義的なマルクス読解に興味ないんじゃないの。
「貨幣とは何か」という問いを考えていくと、
似たような問題意識に突き当たる、というだけで、
純粋に形式的な問題じゃないかな。貨幣商品説と貨幣法制説
はともに貨幣流通の実体的根拠を与えない。少なくともここまで
は『貨幣論』で説得力のあるところだと思う。そこから先の
ハイパーインフレの予言が限りなくあやしい。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/25(月) 10:21
通貨=金→通過=金の採掘量→通貨=通貨の流通速度・・・
ということで通貨事態にインフレ化していく内在要因があると考えたんでしょうが、
実際には通貨圏が分化してそれが時々暴落するという調整プロセスにありますよね。
5OFW:2000/12/25(月) 22:05
>>3
>岩井は教条主義的なマルクス読解に興味ないんじゃないの。
 私も興味がないが、少なくとも「無限の循環論法」「無から有が生じる」
「ここに『神秘』がある」といった、貨幣物神をそのまま披瀝する貨幣論
 では、『貨幣の謎を解く』と題した著書で「結局、貨幣は謎である」との
 答えを披瀝している非―学問的な「マルクス経済学」者と同然でしょう。
>貨幣商品説と貨幣法制説はともに貨幣流通の実体的根拠を与えない。
 実体的根拠とは何のことかな?「労働価値説」のこと?少なくとも
 マルクスは単なる貨幣商品説および貨幣法制説を主張しているのではなく、
 価値形態の歴史的な発展を跡付けているのです。そして、物々交換から
 貨幣の発生を説く以上、「すべての商品は潜在的に貨幣である」と考えて
 いたことは当然であり、また、国家を前提せずに信用を説く以上、信用と
 法制度を区別していたことも自明でしょう。
 どうも、「価値形態」という言葉が分かっていないようだなぁ…。
 そして、現象形態は実体的本質を前提するとは、論理的に当たり前の事柄
 であり、本質なき現象などという現象主義や、「記号が記号を表わす」など
 というポストモダニズム的な汎記号主義は観念論的なナンセンスです。
 価値の源泉を人間の社会的な必要労働におくという、唯物論的に根拠ある
 議論こそが、経済学を合理的な社会科学に高める唯一の道でしょう。
>少なくともここまでは『貨幣論』で説得力のあるところだと思う。
 まったく説得力に欠けているところ、でしょうね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/25(月) 23:28
>価値の源泉を人間の社会的な必要労働におくという、唯物論的に根拠ある
>議論こそが、経済学を合理的な社会科学に高める唯一の道でしょう。

もしかして、いまだに本気で労働価値説とか信じてるの?
マジ? 
7名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/25(月) 23:37
>>6
労働価値説のどこがどう間違っているのか、論理的に説明できます?
8:2000/12/25(月) 23:57
あんまり人の揚げ足取らないでほしいな〜。
俺は岩井本人ではないし、あくまで『貨幣論』の論旨を
説明してるだけなんで。いささか不快。まあ、哲学板の
常連なので、もういいけど。
岩井の説明を確認しておけば、
ある人が1万円札を1万円の価値のある貨幣であるのを
信じているのは、他の人が1万円札を1万円の価値が
あるものとして喜んで受け取ってくれるからであり、
さらに誰か別の人がそれを受け取ってくれるからであり、
このプロセスは永久に続いて、要するに、
すべての人が貨幣を貨幣だとしているから
貨幣は貨幣だという自己循環論法に陥る。
岩井によれば、この循環論法こそが貨幣を支えている。
そして政府や法律といった社会的制度にその根拠を
求める貨幣法制説も、商品という具体的モノに根拠を求める
貨幣商品説もこの循環論法を満足に説明しない。
これが貨幣流通に<実体的>根拠がないという意味だろね。
で、OFW氏によると、そのへんはどう説明されるわけ?
9OFW:2000/12/26(火) 23:59
>>6
>もしかして、いまだに本気で労働価値説とか信じてるの?
 本気ですね。逆に本当にその内容を知っているの?と聞きたいな。
 単に他人の話を信じているだけのような…。
 大体、学問や思想は「信じる」などという信仰とは異なる。「根拠ある
 確信」とでも言った方が良い。
>>8(3さん)
>あんまり人の揚げ足取らないでほしいな〜。
 ども失礼しました。どうしても論争調になってしまうのは、貨幣という
 テーマが重要だと思うためですので、ご容赦。しかし、私が指摘したい
 のは、岩井氏の(ポストモダニズム的な)論法こそが揚げ足取りだ、と
 いうことで、それが反射して私の方が揚げ足取りに見えるのは半分誤解
 です。
>で、OFW氏によると、そのへんはどう説明されるわけ?
 順番に対置すると、
>ある人が1万円札を1万円の価値のある貨幣であるのを
>信じているのは、他の人が1万円札を1万円の価値が
>あるものとして喜んで受け取ってくれるからであり、
 貨幣自体には<実体的>根拠はないのだから、人々がそれを「1万円札は
 1万円の<実体的>価値がある貨幣」と信じていることが無限の循環論法
 を招き、それこそが貨幣を支えている<非実体的な>根拠である、
 という論法でしょうが、これはおかしな論理だと思いません?
 思い込みという「実体的でないもの」が現実の貨幣流通を「支えている」
 とは、哲学的に言えば、「現実は幻想である」と言う主観的観念論の
 主張です。ポストモダニズム的と言うのはそういうことです。ですから、
 まず「1万円の<実体的>価値」という概念を問うべきでしょう。つまり、
 「価値とは何か」という価値論がまずあって、初めて貨幣論が展開できる
 ということです。
10OFW:2000/12/27(水) 00:07
>>8(3さん)(つづき)
 岩井氏の議論の中でも
  1.モノとしての価値
  2.他者にとっての(商品としての)価値
  3.貨幣としての価値
  4.信用としての価値
  5.記号としての価値
 という言葉がでてくるが、すべてを貫く自己同一的な存在こそが「価値の
 実体的本質」と呼ばれるものであり、上記の1〜5はその現象形態である
 という見方が学問的な探求の開始点です。つまり、価値の本質から、貨幣を
 含めた価値現象を「説明」することが、科学的な認識態度というものなの
 です。(数学的モデルとて、価値を数量的な本質とする立場からの仮説です)
>貨幣法制説も…貨幣商品説もこの循環論法を満足に説明しない。
 ですから、「無限の循環論法」は説明されるべきものであり、それを説明
 原理にしている『貨幣論』はおかしい、と言っているのです。
 これは決して揚げ足取りではなく、本質論という「はしごを外した」の
 は岩井氏の方なのです。
>これが貨幣流通に<実体的>根拠がないという意味だろね。
 もし、貨幣流通に何の客観的根拠(根拠とは、それが単に主観的でなけれ
 ば、すべて実体的なものを前提します)もないとすれば、単に無根拠と
 言うべきであり、それを前提している経済学自体が崩壊するでしょう。
 これも揚げ足取りではなく、そこにあるのは概念の混乱だと言っているの
 です。貨幣流通には明確に根拠がある。それは、「私的生産者による社会
 的生産」という矛盾でしょう。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/27(水) 01:59
こりゃ、まじめに論議したらOFWさんの負けだな。
OFWさんが言っているのは、貨幣(価値)のあるべき姿であって、実際
の姿(の全て)じゃない。

でも、そんなOFWさんに好感を持ちます。
123さん:2000/12/27(水) 02:07
>>8
哲学板から来られたそうなので、柄谷氏と岩井氏との違いにも
言及欲しいです。NAMも経済板では誰も知らないので。
13OFW:2000/12/27(水) 22:24
>>11
>こりゃ、まじめに論議したらOFWさんの負けだな。
 そう見えますか。でも、勝ち負けよりは「正しい理解」が重要です。
>OFWさんが言っているのは、貨幣(価値)のあるべき姿であって、実際
>の姿(の全て)じゃない。
 どうも理解して貰ってないようで、説明が必要。私が言っているのは、
 貨幣および価値などという存在は無くなるべきであり、いずれそうならざ
 るを得ないということです。それは価値とは何なのかを突き詰めて行けば
 出てくるでしょう。
 そして、およそ事物の客観的認識のためには、実際の姿(現象)を超えて、
 その本質に遡及しなくてはならない、ということです。
 20世紀の学問全体が現象論になってしまった。それは、「本質」「概念」
 という言葉の意味すら理解できない程にまで進んでいる。
>>12(“3さん”さん)
>柄谷氏と岩井氏との違いにも言及欲しいです。NAMも経済板では誰も知
>らないので。
 1980年代以降、いわゆるニューアカデミズムからポストモダニズムという
 思潮が日本で流行ったが、私は商業主義ジャーナリズムが煽った「知的な
 ファッション」に過ぎないと思っていたので、殆ど興味なかったし、今で
 も積極的な意義など少しも感じていない。だから違いは分からないです。
 しかし、両者(そして浅田彰氏等)が「否定かつ肯定」の両義的な態度で、
 「マルクスは終わった」「マルクスは偉大だったが、間違っていた」など
 と繰り返し言及することは、マルクス(主義)について誤った理解を広め
 ることになり、これは世の若者および労働者を誤まらせる結果になる。
 このことは、やはり見過ごせないでしょうね。
 (NAMの宣言などを読むと、資本や国家に対抗しようと倫理的になって
 も、小ブル知識人としての自己の階級的立場は、絶対に手放せないようで
 すなぁ…。しかしまたなんで「不買運動」なの?思弁的かつ現実的実践?)
14名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/27(水) 23:47
>両者(そして浅田彰氏等)が「否定かつ肯定」の両義的な態度で、
>「マルクスは終わった」「マルクスは偉大だったが、間違っていた」
>などと繰り返し言及

ほんと?
15トリックスター:2000/12/28(木) 03:13
OFWさん江

「労働価値説」=「物の価値はそれを作り出すための労働の量で決まる」
じゃダメ?
16名無しさん:2000/12/28(木) 05:41
>「マルクスは偉大だったが、間違っていた」

毛沢東批判みたい(^_^
17:2000/12/28(木) 07:10
>>貨幣法制説も…貨幣商品説もこの循環論法を満足に説明しない。
>ですから、「無限の循環論法」は説明されるべきものであり、それを説明
>原理にしている『貨幣論』はおかしい、と言っているのです。

そうなんだよ。当たり前といえば当たり前だけど、
貨幣法制説も貨幣商品説も貨幣の流通という経験的事実
を満足に説明しないからといって、<だから>
貨幣が流通しないということにはならない。
理論モデルが経験的事実を説明しうるか否かという
「認識」の問いと、経験的事実が存在するか否かという「存在」
の問いは違う。岩井の議論には明らかに両者の間の混同があるね。
既存の理論モデルは貨幣流通を満足に説明しない、
よって、貨幣流通に実体的根拠はない、
よって、ハイパーインフレは何時おきてもおかしくない
・・・・・んなわけねーだろ。理論に不備があるだけさ。藁)
18:2000/12/28(木) 07:19
3でいった

>貨幣商品説と貨幣法制説
>はともに貨幣流通の実体的根拠を与えない。少なくともここまで
>は『貨幣論』で説得力のあるところだと思う。そこから先の
>ハイパーインフレの予言が限りなくあやしい。

とはそういうこったよ。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/28(木) 19:43
>既存の理論モデルは貨幣流通を満足に説明しない、
>よって、貨幣流通に実体的根拠はない、
岩井の話はそれだけですか?
既存のモデルは貨幣流通を満足に説明しない、
のみならず、○○なので、
貨幣流通は実体的根拠を持たない。という話をどこにもしてないんですか?
20:2000/12/28(木) 22:34
自分で読め。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/28(木) 23:07
労働価値説って理論的にはどうあれ、
おれの給与って労働時間に比例してるから現実とはよく適合してんだよなあ
22:2000/12/29(金) 03:58
オマエとビルゲーじゃ時給が違うじゃろゴルァ!
23OFW:2000/12/29(金) 22:50
>>15(トリックスターさん)、>>21
 労働価値説とは給与(正確には賃金)が労働時間に比例していることでは
 ありません。それは、価値の本質に関する次のような認識です。
「あるモノの経済的価値とは、そのモノの必要量を再生産するために、社会
 全体の労働量をどれだけそれに振り向けたら良いかを表示している指標で
 あり、社会的な必要労働こそが価値の本体をなすものである。」
上記の認識は、次の考察を前提にしています。
1.モノの有用性(価値の直接的・質的な側面)
  あるモノが有用か無用かは人により異なるし、代替物の存在によって
   も異なる相対的な(主観的ではない)性格をもつ。いわゆる「限界効
   用説」は有用−無用が相互転化する限度を価値としている。
2.モノの稀少性
   それは価値の量的な側面であり、有用物の現存量と必要量との割合に
   応じて変化する。いわゆる「需要と供給の均衡」という事態です。
 しかし、上記1&2は価値が実在するという前提に立っているために、現
 象論でしかない。それらの現象の底にある価値本体に関する本質論として、
3.モノの社会的生産
  人間は生活に必要なモノを生産することで、必要物の稀少性を減じるこ
  とができるが、そのためには労働力を支出しなくてはならない。モノの
  価値とは稀少な労働力を、生産物のうちに対象的に見たものである。
 結局、経済とは、人間にとって必要なモノ(財)をどれだけ生産、分配、
 消費するかに関する事柄であり、限られた資源と限られた労働力を如何に
 社会的に配分するか、という事柄を巡る諸現象、諸本質のことです。
 しかし、資本主義経済では、経済とは要するに「金儲け」のことでしかな
 い。何故そうなるのか。そこにお金(貨幣)の秘密(顛倒)があるが、
 結局、労働しない「私的生産者」つまり資本家と、労働力を私物として売
 るしかない賃労働者との間の対立関係に原因があるということです。
24OFW:2000/12/29(金) 22:51
>>22
>ビルゲーじゃ時給が違うじゃろ
 ビルゲイツの収入は給料(賃金)ではなく、資本家(経営者)利得ですか
 ら、労働者とは本質的に収入の源泉が異なる。また、彼の途轍もない収入
 の高さは、基本ソフト技術の独占状態による「特別利潤」に基づくもので
 す。それは特許や「営業上の秘密」によって保護されているから、消費者
 は自由主義経済に反して、不当に高いものを買わされている訳でしょう。
 「競争と言っても、あくまで独占を目指したものであり、競争と独占とは
 同じ事柄の両面に過ぎない」(レーニン)。
2515:2000/12/30(土) 06:44
>OFWさん
お忙しいところレスどうもです。
○経の究極奥義をそう簡単に理解できるともおもってませんが、
とりあえず…

経済的価値って言うのは価格のこと?
それは需給の均衡で決まるっと。
それを指標に労働力の支出が行われる。
その投入された労働量がモノの価値である。

ってな感じでいいっすか?
良くないんだろうねきっと(;;
26名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 10:56
比較的未開な段階の農業では土地当たりの投下労働量で生産量が決まるので、それで
成り立つ仮定を産業全体に敷衍したのが労働価値説なのかも知れませんね。
27OFW:2000/12/30(土) 15:39
>>25(トリックスターさん)
>○経の究極奥義をそう簡単に理解できるともおもってませんが
 いわゆる「マルクス経済学」には理解すべき奥義といったものはないでし
 ょう。それはマルクスの主張を換骨奪胎して、「マルクスは、共産主義イ
 デオロギーに毒されたために、肝心の点で科学的・学問的認識を踏み外し
 た。これが正しい『マルクス的』経済学体系だ」と言う。しかし、それは
 大げさな見かけとは異なり、内容のない訓詁学あるいは抽象的なドグマの
 ように見える。繰り返しですが、マルクスは経済学を批判したのです。
>経済的価値って言うのは価格のこと?
 市場経済(商品経済)の下では、価値は価格(価値の貨幣表現)として
 現象するが、それはあくまで現象形態であり、その下にある価値の本質は
 それを超える存在です。岩井氏をもじって言えば、「貨幣はモノとしての
 価値(使用価値)を超える価値(本質的・実体的価値)を示す」のです。
 (岩井氏はそれを単なる量的な超過のように説いているが)
 およそ科学者は現象を本質から説明しなくてはならず、現象を追うだけで
 は駄目です。価格の理論ではなく、価値の理論が必要でしょう。
>それは需給の均衡で決まる
 市場経済の下では、商品の”自然的”価値からの偏差として価格が変動
 する。それは特定の商品の需要(支払い可能な欲望と呼ばれる社会的必要)
 とその現存量との不均衡を表示するバロメータでしょう。つまり、価格は
 需給の均衡ではなく、不均衡(偏り)しか示さない。比喩的に言えば、
 バネの均衡点からの偏り(力)は均衡点でのバネの内部エネルギーの絶対
 値を示さないのと同様です。実際、需給関係からは、貨幣価値自体が変動
 する現象(例:一般的な物価騰貴)は説明できないでしょう。
28ななしるふぃ:2000/12/30(土) 15:41
交換価値は社会的なもんだから、価値の源泉を労働に求める
のはおかしいのでは。。バブルはどーなるの?
29OFW:2000/12/30(土) 15:42
>>25(トリックスターさん)(つづき)
>それを指標に労働力の支出が行われる。
 何故生産物を商品という形態で市場に送り出すのか?それは「売る」ため
 であり、売れて貨幣に変換しなければ、価値は実現しない。それは、生産
 が個々の私的な生産者によって勝手に行われているためです。社会全体が
 一工場のようになり、全体の需要を直接生産に反映させ、経済を計画的に
 運営すれば、商品や貨幣は不要ということになるでしょう。
 (社会的需要の測定、生産物の分配方法、といった細かい点は省きます。)
 そして現在、「労働力の支出」を行っているのは、利潤を追求する資本家
 (経営者)であり、「労働せよ」と命令されている労働者自身ではない。
>その投入された労働量がモノの価値である。
 これはアダムスミスを始めとして、多くの経済学者が躓いた(今でも躓いて
 いる)点ですね。
 「モノの(実体的)価値」とは、自然物が色素を含むように、モノに内在
 したあるものではない。それは社会的な存在であり、あくまでそのモノの
 再生産に必要な労働量です。つまり、実際に投下された過去の労働量では
 なく、現在の社会的な必要量と現存量とから出てくる、「投下すべき」労
 働量です。
 社会的実体とは、具体的な諸個人間の諸関係の総体を言います。
 社会が個人にとって外在的であれば、社会は実体として不可測な自然の
 ように振舞う。(いわゆる「見えざる手」、「必然的運命」)
30OFW:2000/12/30(土) 20:54
>>28(ななしるふぃさん)
>交換価値は社会的なもんだから、価値の源泉を労働に求めるのはおかし
>いのでは。
 労働は社会的なものではないの?自給自足なら別でしょうが、近代以降
 は社会的分業が確立しており、そのような歴史的背景から、社会学という
 「社会の発見」も誕生した訳です。コントやウェーバーも労働の社会性が
 なければ、職業人として学者にはなれなかったでしょう。
 また、繰り返しになるが、交換価値とは価値の現象形態であり、その本質
 (実体)とは異なるという認識が、経済学を合理的な社会科学とする。
 そして、交換価値(商品価値)は社会的なものとは正しいが、それは「裏
 返された」社会性(正確には物象化された社会性)だという認識こそが、
 市場経済そして資本主義経済の本質に迫るための出発点でしょう。私的
 所有がそれを支えている。
 マルクスは商品、貨幣および資本の本質を「価値形態」の発展として、
 歴史上初めて明らかにしたのです。
>バブルはどーなるの?
 バブル経済とはまさに「実体経済」から遊離した、幻想のマネーゲームで
 あり、実質的な価値を何ら産み出さない、貨幣物神とそれに基づく信用の
 自己増殖現象でしょう。苦労して働かなくても、誰もが一攫千金の機会を
 得られるとは!利子生み資本(金融資本)とは「ブルジョア社会の狂った
 花嫁」(マルクス)と呼ばれました。
(今世紀になり、国家が金融・財政を通して、経済に直接的に関与するよう
 になり、経済はますます政治化されてきているが、それはそれで、階級
 社会の現実を覆い隠す「国家幻想」に裏打ちされている。)
31OFW:2001/01/03(水) 18:35
>>12(”3さん”さん)(補足)
>NAMも経済板では誰も知らないので。
 NAMの理論を支える一人らしい先生の「貨幣の本質と貨幣の未来」
 http://www.econ.hokudai.ac.jp/~nishibe/essensemoney.html
 には、貨幣は廃棄すべきではないと主張されている。
>貨幣が体現すべき「価値」とは,自分ではなく他の人々の評価と是認に
>依存する社会的なコトである。
 1970年代後半の日本思想界で流行った、「物から事へ」の強調は、
 たとえば広松渉『事的世界観への前哨』等を生んだが、実際には現象主義
 に終ってしまった。本来、モノ性(物性)とは自然の本体的在り方を言う
 のであり、「自然的な必然性」についての理解がなければ、貨幣の本質は理
 解できない。確かに「貨幣とは社会的な事柄」とは正しいが、それは単に
 お約束といったものではなく、「自然的人類の物質生産の必然性」から来て
 おり、社会の生産関係が客観的・歴史的な根拠なのです。
>人々は貨幣の発行者の約束や権威や権力を信じているのでも,貨幣のモノ
>の価値を信じているのでもなく,ただ,貨幣のコトとしての社会的価値の
>「同一性」を信じている。
 「価値の同一性」こそが価値を「自己同一的な実体」と呼ぶ所以であり、
 それは社会的労働による再生産活動を実体化したものです。
>もう一つの貨幣の未来は,貨幣の本質をすべての人々が自覚するところか
>ら始まる。
 全くその通り。そして、貨幣に未来はないのです。
>地域通貨は…近代社会が実現した個人主義と自由主義を基本としながらも,
>新たな互恵的なコミュニティを再生し,信頼と自己責任にもとづいて,経
>済と言語におけるコミュニケーションを活性化することを目的としている。
 ここでは、経済が政治と混同されている。そして表明されているのは、
 近代的個人主義・自由主義という、市民(ブルジョア)イデオロギーに過
 ぎない。実際、社会の唯物論的な認識はどこを探しても見当たらないにも
 拘らず、彼らは何故、繰り返しマルクスに言及するのだろう?
32名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 21:07
>全くその通り。そして、貨幣に未来はないのです。

貨幣には未来しかない。
33OFW:2001/01/04(木) 11:34
>>32
>貨幣には未来しかない。
 それを貨幣物神と呼ぶのです。「貨幣は何でも買える」が故に(マナのように)
 絶対的な魔力を持つと思い、そして拝金教徒は皆それに従う。
 価値の実体力とは過去の対象化された労働が未来の労働を支配しようとする、
 まさに「過去の支配」でしょう。それは時間の流れを逆転させ、流動性を固定化
 させ、自由を必然性に変えるものです。
 「実体とは偶有性の総体として、事象を貫く自己同一的な本質力である。
 人はそれを必然的な運命と呼ぶが、それは外的な必然性であり、自由(偶然)な
 人を突然襲う。すべての現象は実体から出て実体に帰って行く。それは全き闇で
 あり、『無』自体である。」(ヘーゲル)
 自由主義経済とは、物象化された社会的実体力である、貨幣および資本がその
 絶対的な必然性(等価交換、支払期限の厳守等々)をもって自己に帰るという
 矛盾を、個人の自由と呼ぶ。しかし、それは人間の自由ではなく、貨幣および
 資本の顛倒した自由でしかない。
 「貨幣には過去しかない」、これが正しい。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 08:52
哲学?
35OFW:2001/01/05(金) 23:42
>>34
>哲学?
 そうですね。実際、今の経済学は経済の本質を忘れた、非哲学的、非思想
 的な学問になっている。哲学的反省なき貨幣物神・資本物神をそのまま受
 け入れているため、「おカネって何?」「価値って何?」という小学生の
 素朴な質問にすら、満足に答えることができない。
 もし、経済学を人間の物質的生存にとって必要な財の生産・分配に関する、
 希少な資源と希少な労働力の最適な配分の研究、と定義するならば、そこ
 には本来「価値」などという仮象的存在は現れることはなく、現存する生
 産手段の下で、多様な財の社会的な必要量を再生産するのに必要な、社会
 的な労働量を計算するという、計画的生産と生産物の分配の問題に帰着す
 る。
 しかし、生産手段の所有者と実際の生産者が分離・対立している社会では、
 すべては無秩序であり、市場という無計画な偶然性が支配する「疎外され
 た社会」を通してしか、社会の再生産と生産物の分配は達成され得ない。
 何よりも「労働力以外に売るべきものを持たない階級」が出現して以来、
 資本というその影が世界を完全に転倒してしまった。工場内の厳格な計画
 的生産と工場外の無計画な販売競争との対照は、社会の分裂をそのまま表
 現しており、金勘定だけが唯一の「合理的」法則になっている。
 その点で、現代の経済学はちょうど、中世の天動説が惑星の軌道を計算す
 るために、複雑な周天円モデルを作り再現しようと苦労したが、結局「コ
 ペルニクス的転回」(Copernican Revolution)に至らざるを
得なくなった、神学的天文学の歴史を思わせる。
 若き研究者とすべての労働者にとって、そこには良く考えてみる「価値」
 (但し経済的価値ではなく、学問的あるいは実践的な価値)があるのでは
 ないでしょうか。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 00:11
>もし、経済学を人間の物質的生存にとって必要な財の生産・分配に関する、
 希少な資源と希少な労働力の最適な配分の研究、と定義するならば、そこ
 には本来「価値」などという仮象的存在は現れることはなく、現存する生
 産手段の下で、多様な財の社会的な必要量を再生産するのに必要な、社会
 的な労働量を計算するという、計画的生産と生産物の分配の問題に帰着す
 る。

50年ぐらい前のランゲとハイエクの論争を思い出すな
(って詳しいことは知らんけど)
3734:2001/01/06(土) 23:32
あっとレス貰ってるとは思いませんでした。
マル系すらろくに知らない俺には難しいですが、あなたのような存在は経済板では
貴重だと思います。頑張ってください。
それにしてもマル系やってる法政経済とやらは出てこんな
38OFW:2001/01/07(日) 00:07
>>36
>50年ぐらい前のランゲとハイエクの論争を思い出すな
 ランゲ市場社会主義における経済計算に関するレビュー
 http://www.bekkoame.ne.jp/~hyoko/langeindex.html
 実際、スターリン主義型の「社会主義」(実は国家資本主義)経済に価格
 メカニズムを最大限取り入れようとすることは、一つの矛盾を導入するこ
 とになった。
 問題は、「誰が生産を握っていたのか」であり、共産党官僚・独占資本家・
 軍部からなる「ノメンクラツーラ」か、労働者階級か、が要点でしょう。
 貨幣・資本(すなわち賃労働)そして国家の存在は、社会主義とは相容れ
 ないし、少なくとも「労働力の商品化」は第一に廃棄すべきものです。
 いずれにせよ、資本主義経済では、投資・金融・信用といった市場の事柄
 が経済の表舞台であり、その地下にある生産自体は「私的な事柄」とされ
 ている以上、経済学者の関心を余り引かない。実際、産業連関分析や労働
 経済学などは、証券アナリストや主流経済学者にとっては魅力のないテー
 マでしょう。
 労働者が資本家・経営者の単なる使用人に過ぎない体制下では、旧ソ連と
 同様、システム(体制)の維持(均衡)のために、総資本の代表としての
 国家が、どうしても乗り出さざるを得ない。経済は既に政治化されている。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 02:54
うんうん貴重だよ。
じき恐慌が来た暁には、誰もがマルクスに縋りつく。
ことを夢見て頑張ってくれ。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 03:04
マルクスは恐慌からの脱出方法を提案できないからダメだろ。
41名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 04:25
精神現象学なしの論理学って言うところかね。天から降ってきたエチカかな。
42OFW:2001/01/07(日) 20:19
>>39
>じき恐慌が来た暁には、誰もがマルクスに縋りつくことを夢見て
 恐慌待望論?それはマルクスとは無縁でしょうね。サラリーマンが自己の
 社会的地位を自覚するのは現実認識から出てくるのであり、その必然性の
 認識とは恐慌の必然性といった外的なものではなく、労働こそが経済社会
 の存立性の物質的根拠なのだ、という内的な必然性の自覚です。その点で
 は、「夢見る」とは逆に、幻想から現実への転回でしょう。
>>40
>マルクスは恐慌からの脱出方法を提案できないからダメ
 とても不思議な意見ですが、要は恐慌からの資本主義的脱出なのか、社会
 主義的脱出なのか、という事でしょうね。
 「マルクスの提案」とは、労働者階級の組織的団結による社会の転回
 (Revolution)であり、「主人を交替せよ」というものでしょう。
 また、「恐慌論」については、日本の(マルクス主義ではない)「マルク
 ス経済学」においても、「恐慌は必然的なものではない」と主張されてい
 るようですが、たとえば『資本論』を換骨奪胎した宇野弘蔵氏は、自然科
 学的な必然性と歴史的・弁証法的な必然性とを混同しているようです。
 「必然的なものは実在的条件に媒介されてのみ現実化する。しかし、それ
 は条件によらず現実化せざるを得ない。つまり、それは必然的だから必然
 的なのである」(ヘーゲル)。必然性の概念とは「他であることの不可能
 性」であり、単なる可能性および蓋然性を超えるものです。それは内的な
 本質存在の現象ということであり、「総体的なもの」の顕現です。一方、
外的な必然性は運命とも呼ばれる偶然的な必然性です。よくある恐慌
 待望論(例:一般的危機論)などは没主体的な宿命論の裏返しに過ぎない
 でしょう。
43OFW:2001/01/07(日) 20:21
>>41
>精神現象学なしの論理学って言うところかね。天から降ってきたエチカか
>な。
 『精神現象学』には有名な「主人と奴隷」の自己意識の相克の話が出てお
 り、主人のうちにしか自己を持たない奴隷は、大地に働きかける労働によ
 って自立的自己を獲得すると書かれています。近代的な自由・平等思想の
 起源と主体意識の誕生を勤勉な市民(自営農民?)の登場に見ているとも
 言えます。(無論それは観念論に止まるが)
 現代の社会においてはどうでしょう。誰が主人で、誰が奴隷なのか?
 (広告宣伝部長)「消費者は王様です」
 (営業部長)「しかし、売れない。何故だ?」
 (経営コンサルタント)「過剰供給、いや過少消費です」
 (経済学者)「賃金の『下方硬直性』がスタグフレーションを招いている
       のです」
 (労務部長)「それは労働組合がうるさいためで…」
 (社長)「ええい、『不良在庫』はリストラ処分だ」
 (広告宣伝部長)「しかしそれでは、王様が乞食になってしまいますが…」
                     …等々。
 エチカ(倫理)というより商品と労働の弁証法でしょう。いずれにせよ、
 経済学者には「真実を見る勇気」という倫理が欲しいものですね。
44>>24:2001/01/09(火) 11:53
>「競争と言っても、あくまで独占を目指したものであり、競争と独占とは
>同じ事柄の両面に過ぎない」
市場が競争的な限り〈競争が成立する市場に関しては)、独占は達成されないんじゃないの?
公共財とか収益逓増とか持ち出さないでね。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 12:17
>>44
自然独占という理論は昔からありますね。収益逓増は市場が小さいないし未開拓で
自然独占が可能という場合のみを扱ってますから例外として処分していいですね。
4645:2001/01/09(火) 12:21
自然独占が可能というのは、自然の条件が満たされているので独占が可能という意味です。
また市場が小さい場合には人為的に規制をして独占ができないように市場の性質を変えるという干渉をする
政府や国民のインセンティブが低くなりますね。
4744:2001/01/09(火) 12:40
個人の意思が通ってしまうような場合は例外(実証的な問題なので)。
独占が達成されなければ社会主義思想は必要ないの?
48名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 12:51
社会主義経済は生産設備の国有化=独占を目指したので、
独占が達成されてしまうと社会主義思想の存在基盤がなくなるのでは?
4944:2001/01/09(火) 13:04
んー?
社会主義思想ってのは、市場が消費者に分配することができない、独占によっ
て発生する超過利潤を、国家の力で再分配しようって物じゃないの?
50名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 13:21
>>49
それは修正資本主義。その成果物が公共政策と福祉国家。
5144:2001/01/09(火) 14:10
あららそうでっか。じゃあ社会主義(思想)の現代的意義ってなに?
52名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 14:13
疫病にが抗体を生み出すが如く、資本主義が自分を修正せざるを得なくなったという歴史を証言するのに意義があるのでは?
5344喩が厨房には分かりにくいよ:2001/01/09(火) 14:19
疫病=資本主義
抗体=修正資本主義
溶媒(だっけ?)=社会主義
ってこと?
54名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 14:23
疫病=社会主義
抗体=修正資本主義ってこと。悪口じゃない。
未だに資本主義(というか単に現存の経済活動)には
社会の矛盾を解決する内在的な作用があるという人はいるし。
5544@厨房:2001/01/09(火) 14:50
じゃあ社会主義自身はもう目指すべきものではないという事でOK?
修正資本主義というシステムが現状では(今与えられた選択肢の中では)
最善ということで終了。44は消滅なりー
56名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 14:57
修正資本主義による現在の社会にも矛盾はあって、本質的に生産性の低いプログラミングや通信に第三世界の特に質の良い
雇用が移動しているなど危機的な動きもある。当面の公共投資依存型の経済がそうで、程度の差はあれ日米欧で共通の問題。
IT革命は熱狂的だけど、それが意思決定に必要な情報を万人が共有すべきだというイデオロギーだとすると、
後世での情報社会論の意義は修正最適意思決定主義を生み出したことだとなるかもね。
5744@厨房復活:2001/01/09(火) 15:16
>修正資本主義による現在の社会にも矛盾はあって
根本的な代替案があるのかということが知りたかったですます。
>意思決定に必要な情報を万人が共有すべきだというイデオロギー
これは資本主義的なものというより民主主義的発想ですな。
>情報社会論の意義は修正最適意思決定主義
ワラタ
5856:2001/01/09(火) 15:25
ジョークですが、こんなところでジョーク垂れ流してる場合じゃないですよ。(トホホ
個人的には当面は「情報はどれだけの期間でどれだけの利益を生み出すことができるかで価値が決まる」という
情報=商品説で乗りきるつもりですが、そのままじゃあ拝金主義みたいですね。

岩井克人のスレですのでこの辺で。
5944@蒸発:2001/01/09(火) 15:37
そうでんな
60まだない:2001/01/09(火) 21:49
>29 OMF氏曰く:モノの(実体的)価値」とは...「投下すべき」労働量です。じゃあ
その「労働量」はどうやって測るんだろう?ソフトウェアのプログラミングに頭を
ひねるのと肉体労働するのとの違いをどう表す?貨幣価値で測るしかないんじゃな
いの。岩井さんが言ってるのは、労働量とかそういう風に単一の根拠を求めても
埒があかなくて、一般的等価形態と全体的等価形態(だっけ?)の循環として理解
するよい他ない、ということなんじゃないの。おれはそれはとっても感心して
読んだけど。柄谷行人もニーチェを引用して「AとBが等しいのはどういうことか」
って言ってる。

あとハイパインフレというのは、ある日「この世が終わる」とみんなが思ったら
その通りだけど、そういう仮定に意味があるのか疑問だ。そうなったらインフレ
なんてどうでもよくなってるはずだもの。

61名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 04:21
修正資本主義うんぬんの前に「貨幣論」に関してなら
まずはポランニーを読みましょう。
貨幣に関して言えば
貨幣がいかにいいかげんな(多様な)「交換」機能の統合として完成したか
分かれば貨幣の三態である決算・保存・価値表示の
「統合の奇跡」が分かると思います。
少なくとも私の研究していた(今は電子マネーについてですが)
中世東南アジアではそのような三態は統合されていませんでした。
最低でもそれらの統合については検証はされていません。
ご意見があれば「互酬・再分配・交換」の経済活動の三形態を理解した上で
ご返答をよろしくお願いします。
62OFW:2001/01/10(水) 23:44
>>60(”(名前)まだない”さん)
>その「労働量」はどうやって測るんだろう?
>ソフトウェアのプログラミングに頭をひねるのと肉体労働するのとの違い
 逆に質問ですが、実際に労働量は違うか同じか、どちらだと思いますか?
 頭脳労働の方が肉体労働より楽だから、少ない?
 (現代では、肉体労働の「賃金」は相対的に安いですよね?)
>貨幣価値で測るしかないんじゃないの。
 「何」を貨幣価値で測る、と言われるのかな?
>岩井さんが言ってるのは、労働量とかそういう風に単一の根拠を求めても
>埒があかなくて、…循環として理解するよい他ない、ということ
 岩井氏の『貨幣論』(ちくま学芸文庫)から少し引用すると、
「…「俗流経済学者」の誤謬とは、かれらが価値の形態を分析しながらそ
 の実体がなんであるかを明らかにしえなかったこと、あるいは「価値のう
 ちにただ社会的形態だけを、またはむしろ社会的形態の実体のない仮象だ
 けを」…見たということにあると、マルクスはいっている」(P24)
「たしかに、古典派経済学は価値の「実体」を発見した」(p25)
「古典派経済学は、…商品の交換価値が資本主義社会に固有な価値の「形態」
にすぎないという認識をもつことができなかったというわけである」(p26)
岩井氏は要するに、「価値の現象形態とは実体のない仮象に過ぎない」と
いう主張は正しい、と言いたいのでしょうか。もしそうなら、価値の科学
などはあり得ない筈で、確かに貨幣物神(貨幣の神秘)は妥当なものとな
る。しかし、他方で次の文からも分かるが、価値の科学を主張している。
「…ワルラスの一般均衡理論…は、資本主義社会をおたがいに依存関係に
ある数おおくの市場のネットワークとしてとらえ、すべての市場の需要と
供給を同時に均衡させる価値体系(一般均衡体系)の存在を数学的に証明
したのである」(p32)
 一般均衡理論で存在している体系とは「価値」体系ではなく、価値の現象
 形態である「価格」体系でしょう。上記は、まさにマルクスが俗流経済学
 に投げつけた「価値形態と価値との混同」そのものではないでしょうか?
63名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 06:47
>「価値」体系ではなく、価値の現象
 形態である「価格」体系でしょう。

デブルーの本は「価値の理論」であって「価格の理論」ではない。
ヒックスの本は「価値と資本」であって「価格の理論」ではない。
またヒックスの副題は主観的価値の理論だったのではないか?
64まだない:2001/01/11(木) 07:37
>逆に質問ですが、実際に労働量は違うか同じか、どちらだと思いますか?

計れないと思います。労働を直接計量化することは不可能で、市場価値
つまり価格で間接的に計るくらいしか思い当たりません。

>貨幣価値で測るしかないんじゃないの。
 「何」を貨幣価値で測る、と言われるのかな?

労働「量」です。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 10:13
労働量=労働の質*労働時間:-)
66OFW:2001/01/11(木) 22:31
>>63
>またヒックスの副題は主観的価値の理論だったのではないか?
 近代経済学で客観的価値の理論があるのでしょうか?主観的価値とは価値
 の表象であり、その実体(表象の対象)に関する客観的議論がない以上、
 それは「価値とその現れ(表象)との混同」でしょう。
>>64(”(名前)まだない”さん)
>労働を直接計量化することは不可能で、市場価値つまり価格で間接的に
>計るくらいしか思い当たりません。
 労働とは対象的活動であり、およそ活動の量とは広くエネルギーと呼べ
 るでしょう。そして活動は時間的なものであり、「活動力」の一定時間の
 発現が現実的活動の量です。無論それを直接計量することはできず、その
 働きを受けた対象の量で計るしかない。たとえば、地震活動のエネルギー
 はそれが作用する震度計の振れを元に、それがどの位の範囲の地域に作用
 を及ぼすかという規模(マグニチュード)として測定する訳です。
 労働の計量は、労働対象に及ぼす労働の効果、すなわち生産物の量によ
 って可能でしょう。具体的な労働は、労働手段や労働組識に媒介された技
 術的なものであると同時に、多くの個別労働が結合した社会的なものです。
 そして、それは潜在的な「労働力」の一定時間の発現として見られ得る。
 あなたが言っているのは、(労働自体ではなく)個別的「労働力」の交換
 価値である賃金の事ですね。
>労働「量」です。
 同上。労働量とは実在的なものであり、価値とは非実在的なものですから、
 後者で前者を計ることは論理的に不可能です。現代の多くの労働組合でも
 労働力と労働が混同されているようです。繰り返しですが、「賃金」とは
 労働に対する対価ではなく、労働力の売価です。この混同は資本の秘密で
 あり、労働が価値の実体だという本質を覆い隠すものです。
>>65
>労働量=労働の質*労働時間
 多分、具体的な有用労働と抽象的人間労働の区別を示したいのかな?
67名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 22:38
>近代経済学で客観的価値の理論があるのでしょうか?
ないよ。だから?

>主観的価値とは価値
 の表象であり、その実体(表象の対象)に関する客観的議論がない以上、
 それは「価値とその現れ(表象)との混同」でしょう。

ここらへんが妄想じみている。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 22:42
古いスレだけど、ここで勉強しよう。
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=keizai&vi=0029
69名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 02:09
63ですがコメントくださってありがとうございます。
>64

ところで
客観的議論がない以上、 それは「価値とその現れ(表象)との混同」

計れないから客観的でない。だから価値とは言えない
ということでしたら、労働価値だって計れません。
直接間接に用いられている労働量なんて、産業連関表から
推察するしかないではありませんか?

また労働が投下されているからといって価値を持っている
ものではありません。たとえば作られても使われていないダム
を考えてみてください
70名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 02:19
最近マル経をけなすことが流行になっている。
しかしどういう資格があってけなすのだろうか?
ソビエトが崩壊したから社会主義国がなくなった
(中国、キューバ等以外)。
だから加護者がいなくなった学問は叩かれなくちゃならない
と考えているとすれば、その人は低俗ワイドショーを
みて得意になっている人と同じだ。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 02:20
69ね
72名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 02:53
ベルリン帰りさん見てられるかなぁ、、
73名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 03:34
そういえば細菌15chでも見ないよね
74名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 04:48
ヒステリックなマル経批判は止めましょう。
まるで批判者は新古典派の体現者の
ゴータマシッダールタのつもりでおられるようで・・
ちょっと気恥ずかしい
75名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 04:50
どこがヒステリックなの?

>新古典派の体現者
こんな用語使う方がよっぽど恥ずかしいのでは?
76名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 04:52
つーか○経そのものが希少価値なんだな、、
77名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 05:03
希少性のあるものは価値があるというのが
新古典派の価値論なんだから、マル経を
尊重しようよ
78OFW:2001/01/13(土) 15:13
>>69(63さん)
>計れないから客観的でない。だから価値とは言えない
 そうは言っていません。価値の計量の問題と主観的価値の位置付けの問題
 とは別の議論です。
>ということでしたら、労働価値だって計れません。
 労働価値とは何でしょう?私は「価値」と呼ばれるものは、「労働」の隠
 された別名であると言っているのです。そして、与えられた生産計画の
 もとで、どれだけの労働を投入すべきかの計算は、現在のすべての産業で
 行われているものでしょう。それを企業内だけでなく、社会全体に押し広
 げることが、社会主義的な生産と呼ばれ、そこでは「価値」という用語は
 不要なものとなるでしょう。
>直接間接に用いられている労働量なんて、産業連関表から
>推察するしかないではありませんか?
 推察というより、測定でしょう。産業連関表とはケネーの経済表並みに重
 要な経済法則の表現でしょう。貨幣に基づく市場原理を追求する経済学が
 実体経済(社会の再生産構造)を軽視するのは、ブルジョアジーの視点で
 経済を考えるからでしょう。
>労働が投下されているからといって価値を持っているものではありません。
>たとえば作られても使われていないダムを考えてみてください
 ですから、価値の本質とは「社会的な必要労働」が対象的に表現されたも
 の、と言っているのです。それは投下労働ではないし、単なる使用価値の
 ことでもない。社会とは一つの統一体であり、その再生産は抽象的な社会
 的労働の配分によって維持されている。何をどれだけ生産すればよいかは、
 社会的な必要に応じて決まるでしょう。使われないダムは社会的に不要な
 ダムであり、「無価値なもの」と呼ばれるが、本来「モノが価値をもつ」と
 いう表現自体が、仮象的(かりそめ、みかけ)なのです。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 19:07
>使われないダムは社会的に不要なダム
(だから投下された労働には価値が無い)
ということを認めれば、帰属価値というものが意味を
もつのであって、投下された労働量が意味を持つのでは
なく、したがってコストを価格と考えるのは間違いだと
いうことになると思いますが
80名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 19:18
近経・・・主観的価値
まる系・・・客観的価値

でいいんじゃないですか。
OFWさんが、客観的価値を追求しなければ
社会科学じゃないと、思っているなら
○系勉強したらいいじゃん?

近経に人は、客観的価値なんて考え出したら宗教になると
思ってるかもしれないけど(w

まともな議論をしたいんなら15chでスレでもたててみたら?
81名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 19:28
>80
勝手におまえが結論出すな
8280:2001/01/13(土) 19:32
>81
僕の意見というよりは、一般言われていることなのでは?
客観的価値を追求したいなら○経に鞍替えすれば?
8381:2001/01/13(土) 19:49
一般に言われてるから何?それがどうしたって言うの?
このスレでどういう話ししようがその人の自由でしょ?
それを一般に言われてるなんて理由でどうでもいいじゃんって言うのは
おかしくねーか?
俺は○経に鞍替えするつもりはねーがな(w
84名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 19:55
>このスレでどういう話ししようがその人の自由でしょ?

だれもお前がここで書き込みすることに
文句言ってないだろう。
国語力ないね。
8581:2001/01/13(土) 19:58
誰も俺のこととは言ってないけどね
国語力ないね君
86名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 20:07
別にあなたもふくめて
誰かの書き込みの自由を否定する書き込みをしましたか?
OFWさん対しては、ちょっとちゃかして書いたのは
悪いと思いますが、近経と○経で議論のすれ違いが起こる原因は、
結局
近経・・・主観的価値
まる系・・・客観的価値

にあるので、近経の人と議論がしたいなら
この点に論点をあてるべきでは?
と提案したまで。
8781:2001/01/13(土) 20:18
そう?80はそういう風には読めなかったけどね。国語力ないからなあ
食いつき悪いしもういいや。煽ってゴメンね
88名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 23:54
で、「貨幣論」はどうなったのよ?
89名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 06:52
80〜87まで喧嘩。
喧嘩はよくないあるね。仲良くするあるね。
90OFW:2001/01/14(日) 07:16
>>79
>(だから投下された労働には価値が無い)
 労働価値論とは、労働が価値を生み出す(正確には形成する)以上、労働
 自体は価値をもたない、ということです。
>投下された労働量が意味を持つのではなく、
 投下すべき労働が意味を持つのです。
>したがってコストを価格と考えるのは間違いだということになる
 まったくその通りであり、実際に支払われたコスト(原材料費、設備減耗
 費および労賃)(製造原価)が価格を形成するなどというのは誤まりです。
 古くからある生産価格の議論は、平均利潤率を前提にした転倒した説明
 でしょう。
>>80
>OFWさんが、客観的価値を追求しなければ社会科学じゃないと、
>思っているなら
 およそ科学は客観性の追求であり、世界は合理的な根拠(本質)があると
 いうことから出発する。現象には客観的本質はない、と言うなら、結局勝
 手な思弁に陥るだけで、事実「貨幣論」はそうなっている。
>近経に人は、客観的価値なんて考え出したら宗教になると思ってるかも
>しれないけど
 何故なのかな?私には客観的なものは存在しないという方が宗教じみて見
 えるが。価値の主観主義は資本(家)の無制限かつ無秩序な自由を正当化
 する「ブルジョアジーの夢」でしかない。確かに使用価値とは個人によっ
 て異なるが、それは相対的なだけで、「必要(必然)」という人間の客観的
 な有り様を反映している点で、決して主観の恣意に依らない本質をもつ。
>まともな議論をしたいんなら15chでスレでもたててみたら?
 以前15chを少し騒がせました。
 http://www22.big.or.jp/~15ch/readres.cgi?bo=economy&vi=0009&rm=30
 (30は私です)
91OFW:2001/01/14(日) 07:31
>>88
>で、「貨幣論」はどうなったのよ?
 価値の客観的形態を追跡したマルクスが、貨幣形態においてその完成を見
 たが、その論法を「踏襲」して価値形態Zなるものを案出した岩井氏は、
 マルクスの価値形態論を借りてマルクスの労働価値論を否定したと言って
 います。「すべての商品は貨幣である」ことが多様な通貨の併存や電子マ
 ネーにおいて実現されている、と仄めかしているが、実際には信用と貨幣
 とを混同しているに過ぎない。「無制限かつ無期限の信用」などあり得
 ず、精々国家(幻想の共同体)に対する国民の信用が幅を利かせている位。
 そして、それも国債がこれだけ肥大化しているため、国民は信用より不安
 が先立つといった現状でしょう。岩井氏の言うように「経済に本質的に新
 しいものなどない」以上、貨幣形態Zという循環論法とは労働が価値の実
 体であることを隠すための、新種の貨幣形而上学にしか見えない。
 確かに、貨幣とは一つの幻想に支えられている。しかし、それはまったく
 の無根拠ということではなく、社会の階級対立に根をもつ、必然的な存在
 (必要不可欠なもの)であり、また貨幣を現れるがままに受け取る経済学
 の表象は概念なき現象論と言えます。
 結局、逆立ちした経済学は社会自体の転回によってしか、合理的・客観的
 なものになり得ない、かな。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 18:33
2chには珍しく議論が成立している。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 19:31
>古くからある生産価格の議論は、平均利潤率を前提にした転倒
>した説明でしょう。

なにもわからないので、くだらないであろう質問をさせて
いただきます(これは僕が理解するために必要だからです)

「マルクスの価値論は労働価値説であって、投下労働に基づいた
もの。使用価値というのは近代経済学の交換により実現
される価格と同じ。」というのをアダムスミスあたりの
学説史を勉強したときにならったようなきがするのですが、
そのことと90さんの説明は違うのでとまどっているのですが、
マルクス経済学では学派ごとに価値の捕らえ方が違うのでしょうか?
どうして一般的だと僕が思っている理解と90さんの説明が
ちがうのでしょうか?できれば教えてください
94名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 19:33
マルクスの価格と価値の乖離(労働価値説が成立しないこと)
はマルクスの基本定理(という置塩の定理)で説明できること
ではないでしょうか?もし使用価値として、価格を意味している
とすれば、価値と価格が乖離するのは、利潤率がゼロでないから
だということになるでしょうね
95名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 19:36
貨幣について論じるときも、マルクス経済学で貨幣がどのように
取り扱われてきたかわからなければ、論じることができないので
できましたら、貨幣についての説明もお願いしたいのですが・・

96OFW:2001/01/15(月) 00:34
>>93
>「マルクスの価値論は労働価値説であって、投下労働に基づいた
>もの。使用価値というのは近代経済学の交換により実現
>される価格と同じ。」というのを…ならった
 それはマルクスの労働価値説の内容ではない、と言えます。
 1.マルクスの価値概念は、使用価値、交換価値、価値本体(実体)とい
  う、相互に対立する3契機の統一として出されており、アダムスミスが
  まさに価値本体を労働として突き止めたことを、評価しているのですが、
  にも拘らず価格(交換価値の貨幣形態)と価値自体とを十分明確に区別
  できず動揺している、と評しています。
 2.投下労働が価値の実体だというのは、表面的には分かりやすいが、それ
  が誤りなのは、他の生産物の現存に応じて、(価格のみならず)価値が
  変化することを説明できないことからも明らかです。それは価値が自然的
  属性として生産物に含まれているかのように見る転倒(物象化と言います)
  を、労働価値説において踏襲する誤りでしょう。価値の実体とは、自然的
  実体ではなく、社会的実体を指すのです。それは結局社会の物質的再生産
  のために必要とされる労働に関する概念です。
>マルクス経済学では学派ごとに価値の捕らえ方が違うのでしょうか?
 私は専門家ではないので、学派の詳細は良く知りません。それに、前レス
 (>>5,>>27)でも少し触れていますが、現代の「マルクス経済学」は全般
 にマルクス労働価値説の核心を誤解しており、事実上放棄しているよう
 に思えます。
97OFW:2001/01/15(月) 21:22
>>94
>マルクスの価格と価値の乖離(労働価値説が成立しないこと)
>はマルクスの基本定理(という置塩の定理)で説明できること
 とてもミスリーディングな表現で、内容を誤解しているかも知れませんが、
 まず、「価格と価値の乖離」とは「労働価値説が成立しないこと」ではな
 い。それは、価値という本質が価格という現象において必然的に転倒せざ
 るを得ず、その根拠は抽象的人間労働という価値の実体が物象化され、物
 の属性であるかのように貨幣において実現されるという、労働価値説の帰
 結だということです。価値法則は市場において貫徹される。但し、それは
 価格という屈折を通して、自らの実体を隠蔽しつつ顕わにする、というこ
 とです。この辺は弁証法的な抽象力・総合力が必要であり、「定理」とい
 う形式論理では捉え切れないのでは?
>もし使用価値として、価格を意味しているとすれば、価値と価格が乖離
>するのは、利潤率がゼロでないからだということになるでしょうね
 まず使用価値は価格(自然価格?)を意味しません。使用価値は価値の質
 料(実在)であり価格は交換価値の貨幣表現です。ただ、おっしゃりたい
 ことは何となく分かります。要は「利潤はどこから発生するのか?」
 という根本問題でしょう。古典派以前の俗流経済学では、「等価交換の原
 則(価値通りの交換)が成り立つ市場において、商業利潤が発生する合理
 的な根拠は何か?」という点が難問だったようですね。
>>95
>貨幣についての説明もお願いしたいのですが・・
 日本の「マルクス経済学」が何を言っているのかは、良く知りませんが、
 余り期待できないようですね。
 マルクスが言っていることの表面的な概要は、岩井氏が述べている通りで、
 価値形態の最終段階として貨幣が登場します。その後、貨幣の具体的な機
 能として、価値尺度、価値基準、購買手段、支払い手段等が展開され、ま
 た、その形態として、鋳造貨幣、信用(代理)貨幣、価値章標等が唯物論
 的に議論されている。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/16(火) 03:23
>その根拠は抽象的人間労働という価値の実体が物象化され、物
>の属性であるかのように貨幣において実現されるという、労働価値説の帰
>結

これは、労働が本来持つ価値は労働者に支払われる賃金バスケットの
なかに含まれている価値よりも少ないということ(搾取の存在)
のことですか?つまり価格とは賃金バスケットに含まれる労働量
で価値というのは労働が生み出す生産物に含まれている労働量
ということです。

 価値が社会的に生み出されるものというようなことを書いて
おられますが、それはある財を生産するのに、直接用いる労働量
のほかに原材料のなかに含まれる労働量も必要で、
ようするに、1単位その財を生産するのに直接、間接に必要な
労働量で、それは産業全体の投入係数行列により決定するという
ことではないですか?

 マルクス経済学の説明がかなりむずかしいですね。
マルクスの基本定理は搾取率がゼロなら、利潤率もゼロで
このとき直接間接に入っている労働量と生産価格は等しいと
いうものでした。

これからもよろしくお願いします
99OFW:2001/01/17(水) 21:46
>>98
>これは、労働が本来持つ価値は労働者に支払われる賃金バスケットのなか
>に含まれている価値よりも少ないということ(搾取の存在)のことですか?
 違います。昔から社民主義者や労働組合が「搾取」という言葉を口にする
 場合、常に「我々の『本来の』取り分を返せ」と言ってきたが、それはむ
 しろブルジョア的私有原理を前提にした議論であることを、知る必要があ
 ります。搾取は確かに存在するが、それは事柄の一面に過ぎない。
 私は「物象化」すなわち「人と人との関係がモノとモノとの関係として現
 れるという顛倒」が価値という仮象を生み出していると言っているのです。
>つまり価格とは賃金バスケットに含まれる労働量で価値というのは労働が
>生み出す生産物に含まれている労働量ということです。
 賃金とは労働力商品の売価であり、そこに「労働量が含まれている」こと
 はない。価値あるいは労働量が生産物に「含まれている」というのはみか
 け(仮象)の表現です。ちょうど需要と供給を混同するようなものです。
 供給(十分な現存量)がないから需要(不足分の必要量)がある訳です。
>それは産業全体の投入係数行列により決定するということではないですか?
 与えられた最終生産物(消費財)の量(需要量)から始めて、すべての消
 費財、生産財の生産および再生産に必要な社会的な労働量を算定するとい
 う、産業連関の考え方でしょうね。
>マルクス経済学の説明がかなりむずかしいですね。
 自然科学のような意味で「資本主義社会の経済学」などは成立し得ないで
 しょう。それは歴史的に発展し、深化する矛盾としてのみ解明され得る。
>マルクスの基本定理は搾取率がゼロなら、利潤率もゼロでこのとき直接
>間接に入っている労働量と生産価格は等しいというものでした。
 利潤とは剰余価値の別名ですから、当然数学的にゼロはゼロでしょうが、
 重要な点は数式に表現された、事柄の本質内容です。数理的マルクス経済
 学者は、「マルクスの基本定理」などと言うが、「数学的」あるいは「形
 式論理的」な「定理の導出」などは、マルクスの思考法とは無縁です。
100OFW:2001/01/18(木) 23:15
>>98(補足)
>それはある財を生産するのに、直接用いる労働量のほかに原材料のなかに
>含まれる労働量も必要
 「原材料のなかに含まれる労働量」とは誤った言い方であり、労働量が生
 産物に含まれるという表現は、過去の死んだ労働がモノとして実在すると
 いう錯誤を示しています。それは通常の表現で「原材料の価値」と同義で
 しょうが、資本家は「労働(量)」という言葉を使わないから、上記の表
 現はいわば「ブルジョア的労働者」(自営生産者)の立場を表わしている。
 確かに原材料も労働生産物であることは事実ですが、それは労働量が原材
 料の中に「実在的に」含まれているということではなく、対象としての原
 材料において、人が知識(観念)として持っているだけの事柄です。
 価値の概念とは「その生産物を再生産する場合に、社会的に必要とされる
 労働量」であり、「既にその生産物に投下された労働量」ではない。
 両者は生産に関する条件が全く同一なら等しいと言えるかも知れないが、
 生産物が既に存在する以上、必要度合いは変化しており、歴史的条件は変
 わっていると言うしかない。
 さらに、労働を知らず、その生産物のみを扱う商人や資本家が生産物にお
 いて「価値」を本体的な存在とみなし、それを形成する労働自体すら廃棄
 する。そうなると労働は価値として実体化され、価値にもとづく商品、貨
 幣、資本といった仮象的で過去的な存在が「真なる存在」とされてしまう。
 それは「直接用いる労働量」、すなわち活きた現在の労働と対立する。
 過去の労働が現在の労働、さらに信用において、未来の労働をも支配する。
 それが「実体」(過去の必然)という概念です。資本主義経済の全運動は
 その矛盾にもとづいています。
 単に搾取が問題なのではなく、人間の非人間化(モノ化、疎外、奴隷化)
 が問題だということ、そしてその根拠の唯物論的な解明とその止揚(実体
 の主体化)の条件の探求こそが、マルクスの経済学批判の根底にあるので
 す。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/19(金) 01:03
たしかに歴史的条件(投入係数)は時間を通じて変わっている
でしょうね。そう考えると、直接間接必要な労働量=価値の
概念は複雑なものなってくるでしょうね。
 しかし、流動資本に体化された労働を過去の労働だから労働
じゃないというのはどうでしょうか?
 固定資本(機械など耐久的な資本財)に含まれる労働量の
扱いはたしかに複雑ですね。トレンズなんかがそういうものの
扱いをしてたのではないですか?
 リカードは流動資本しかない場合で、労働価値説を用いようと
したからうまくいかなかったんでしたっけ?(不変の価値尺度
の話ですがね。)
102名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/19(金) 01:47
>100さん
マルクス経済学を社会学の基礎のようなものと考えておられませんか?
103OFW:2001/01/20(土) 00:35
>>101
>流動資本に体化された労働を過去の労働だから労働じゃないというのはど
>うでしょうか?
 まず「流動資本」と「固定資本」の区分は、「可変資本」と「不変資本」
 の区分にすべきでしょう。(原材料は「不変資本」の一部)
 また「過去の労働だから労働ではない」とは誤解です。「資本とは過去の
 労働の対象化であり、現在の活きた労働(賃労働)と対立する」という事。
 自然の一部である人間は自然に働きかけることによって、その物質的生存
 を維持する。それを生産と呼びます。そして、生産は生産手段(労働対象
 と労働手段)と生産力(労働力)との結合として分析できる。この場合、
 労働手段自体が生産されたものであり、原材料も本源的自然を除いては、
 労働により加工された結果として現存する。
 資本家制的生産様式では、生産手段(原材料、機械設備等)の所有者(資
 本家)が労働力商品をその担い手(賃労働者)から購入して、私的な商品
 生産を営む訳です。過去の労働の成果である生産手段をモノとして私有し
 た資本家が、それに資本価値(価値を生む価値)が含まれていると見るこ
 とは、一つの逆立ちした表象です。それは、不変資本を労働力と結合して
 生産した生産物には「付加価値が含まれている」という表象をもつことで
 あり、「資本は利潤を生む自己同一的な価値実体である」という物象的な表
 象が完成する。まさにゾンビが活きた人間を支配するかのような世界がそ
 こに現出する。その転倒、その弁証法的な対立が見えないと、価値・貨幣
 ・資本の概念把握は不可能でしょう。経済学者のように平面的な価値理解
 では、価格と価値の質的区別すらつかず、あるいは労働価値(!)から生
 産価格への「転形問題」などという偽問題も発生することになる。それで
 は岩井氏と同様、「貨幣物神は正しい!」と言うはめになる。
>リカードは流動資本しかない場合で、労働価値説を用いようとしたから
>うまくいかなかったんでしたっけ?(不変の価値尺度の話ですがね。)
 リカードは形式的には「投下労働量」を価値尺度とみたが、実質的には
 「賃金」(労働力の貨幣価値)を価値尺度にしようとしたのでは?
104OFW:2001/01/20(土) 00:38
>>102
>マルクス経済学を社会学の基礎のようなものと考えておられませんか?
 「マルクス経済学」とは何でしょう?マルクスは決して資本主義経済に
 関して、合理的・科学的な理論体系を立てようとした訳ではなく、むしろ
 資本主義自体が矛盾した、不合理な経済システムであることの必然性を
 弁証法的に論証しようとしたのです。およそ科学とは整合的な理論による
 現象の演繹的・客観的な説明でしょうが、資本主義社会の理論は整合的に
 なり得ない。そこでは科学的理論は限界に達するのです。その限界点を明
 らかにすることが(優れた意味での)「科学批判」(Criticism)であり、
「客観的な世界は主体自身の客体化に媒介されている」という、理論と実践
 の弁証法が社会状況を開示することになる。「自由とはまさに必然性の真
 理である」(ヘーゲル)という言明は、観念論ではなく、唯物論によって
 具体的な内容をもつことができるでしょう。
 また、何故「経済」なのかと言えば、「自然と人間との間の永遠の物質代
 謝過程」こそが社会の歴史的かつ自然的な物質的基礎をなすもの、だから
 です。無論、「経済学」が「社会学」の基礎をなす訳ではありません。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/20(土) 00:56
同じ事の繰り返しになるのですが、
流動資本(原材料としての商品)と労働を用いて商品を作りますね。
その流動資本として使ったものを補填してもあまりあるだけの
商品が生産されるから経済は存立可能なわけですね。
 じゃあ流動資本と賃金分を超える部分はどこへ行くかというと
、資本の価値額に応じて資本家に分配されるはずなのです。
(すべての産業で利潤が等しくなるのは、資本は産業間を自由に
移動かのうだからです。)
 こういう現実があるわけで、それがけしかんというのは
規範的な考えであって、実証的な考えではないわけですね。

  >過去の労働の成果である生産手段をモノとして私有し
 >資本家が、それに資本価値(価値を生む価値)が含まれていると見るこ
 >とは、一つの逆立ちした表象です。
という引用に規範的なものを感じるわけです。価値とか価格と
いうのは本来どうあるべきかというべきろんではなく、現実に
どうなのかという現実認識であるわけでしょう?
 どうも
お話が理解できないですね。
106OFW:2001/01/20(土) 07:29
>>105
>流動資本(原材料としての商品)と労働を用いて商品を作りますね。
 固定資本(土地、設備機械等)を忘れないように。また、労働を用いるの
 ではなく、労働力を用いるのです。労働は現実の活動であり、労働力はそ
 の潜在的な在り方。それは労働者自身でしょう。
>その流動資本として使ったものを補填してもあまりあるだけの
>商品が生産されるから経済は存立可能なわけですね。
 資本主義としての商品生産はそうです。そして、「あまりある」どころか
「あり余る」ほどの商品が生産可能なのが、工場制機械工業による大量生産。
>じゃあ流動資本と賃金分を超える部分はどこへ行くかというと
>、資本の価値額に応じて資本家に分配されるはずなのです。
 その前に、「商品形態」は「貨幣形態」に転化され、価値を実現しなけれ
 ばなりません。平たく言えば、市場においてすべて売れなければならない。
 それが問題の点です。生産物が売れるか売れないか、それはまったく分か
 らない。価値形態の転化のために、商品およびその担い手である資本家は
「命懸けの飛躍」(マルクス)を遂げる必要があります。それは需要を知ら
 ない無秩序な生産のためであり、市場における「見えざる手」によって事
 後的に生産の調整が行われる。それが資本主義的市場経済です。
>(すべての産業で利潤が等しくなるのは、資本は産業間を自由に移動かの
>うだからです。)
 まったくその通り。資本が自由なので、労働者は不自由な拘束を受け、ま
 た利潤が等しくなるから、剰余価値が不等になり、合理的な再生産が不調
 になるのが現実であり、それは現在でも「不況」として現実化していない?
 「価値通りの交換」(等価交換、一物一価の原則)という規範が、現実に
 は「生産価格での交換」になっているのが「転形問題」であり、にも拘ら
 ず経済学者が「現実は価値通りの交換が支配する合理的市場経済社会
 である」と言うことは、イデオロギー(現実に合わない観念)でしょう。
 経済学批判とは道徳的批判ではなく、現実とは違う、というイデオロギー
 批判(空想的理論の検証)なのです。
107OFW:2001/01/20(土) 07:32
>>105(つづき)
>こういう現実があるわけで、それがけしかんというのは規範的な考えであ
>って、実証的な考えではないわけですね。
 現実をみて、その矛盾した姿が見えないのは、「無概念的」認識と呼ばれ
 る。唯一の規範は「真理を探究せよ」という、すべての認識者に向けた規
 範であり、現実ではなく表象に捕われることを戒めるものです。また、実
 証は重要ですが、「何が実証されたのか」ということに関しては、反省的・
 本質的な理論(仮説)が必要だということです。そうでないと、実証主義
 は「木を見て森を見ず」という現象論になる。
>価値とか価格というのは本来どうあるべきかというべきろんではなく、
 どうあるべきか、ではなく、真理はどうなのか、です。「本来の価格」
「自然価格」「正常な利潤」「正しい経済政策」等々はすべて世の経済学者
 が使う規範的な言葉であり、現実を正しく反映していないのでは?
>現実にどうなのかという現実認識であるわけでしょう?
 まさにその通りです。マルクスは歴史上始めて「空想的観念ではなく、現
 実を見よ」と言ったわけです。
>どうもお話が理解できないですね。
 では具体的に「貨幣が何故必要か」という点にしましょうか?先ほどの話
 で、生産された商品には価値が「含まれている」としても、それは売れな
 くてはならない。それは何故でしょう?
108名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/20(土) 15:26
ちょっと訂正させてもらいますね。(他人の書いたもの
だが)

1.
>資本が自由なので、労働者は不自由な拘束を受け、
>また利潤が等しくなるから

というくだりは誤り。産業を通じて等しくなるのはなぜか?
(労働も自由に動いても、資本は自由に動けるよ)

2.なるほど「ま た利潤(率)が等しくなるから、
 剰余価値が不等になり、合理的な再生産が不調
 になるのが現実であり、それは現在でも「不況」として
 現実化してない?」

  ここのところは、労働価値説を用いて価値を求めても
 意味がないという転形問題のことの気がするけど。

3.なるほど。「売れないと価値がない」ですか。
  もうちょっと書かれることを読んで質問させていただきましょう。


109OFW:2001/01/20(土) 21:16
>>108
>産業を通じて等しくなるのはなぜか?
 まず現象面で言えば、資本家にとっては、彼が投下する貨幣がどれだけ太
 って戻ってくるか、にのみ関心がある訳ですから、投下すべき産業が何で
 あっても構わない、という事情は別に不思議なことではないでしょう。
 そして、すべての資本家がより高い利潤率を求めて競争する結果として、
 むしろすべての利潤率が全産業を通して均等化され、「一般利潤率」と
 いう平衡点に達する、ということも自由競争の直観としては分かるでしょ
 う。その過程は、市場というものが持つ逆説(見えざる手)の一つであり、
 市場心理について、たとえば、哲学者J.P.サルトルが『弁証法的理性
 批判』において、「他者性の次元」の例として分析したものでもあり、岩
 井氏も「他者の欲望」「未来への先送り」等の用語で分析していますが、
 要するに、物象化した人間(他者なる自己)の弁証法として説かれるべき
 ものです。そして、その過程の結果として実現される事態は、まさに社会
 全体の総資本による総労働の歪んだ再配分(誤った割り算)ですね。
 その場合、価値法則は全体として貫徹していると言える。実際現在は、
 IT産業に向けて「全ての個別資本」が誰よりも早くと、移動競争をして
 いるような有り様であり、早く独占して「他者の自由」を排除しないと、
 独占を排除した完全自由競争の負け組になる、と言われている。
>(労働も自由に動いても、資本は自由に動けるよ)
 マルクスは近代プロレタリアの誕生について、彼らが二重の意味で自由で
 ある、と言っていますね。第一に前近代的な隷従関係、古い役務からの自
 由、第二に生産手段から切り離され、裸の労働力として所有からの自由。
 それは「職業選択の自由」といったごまかしの観念とは違い、リアルに社
 会を見る視点、そして弁証法的な視点(自由は必然である)を示している。
 私が「労働者は不自由」と言ったのは、職業をいくら自由に選択しても賃
 労働者であることから自由にはなれない、といった意味です。失業の自由?
110OFW:2001/01/20(土) 21:18
>>108(つづき)
>ここのところは、労働価値説を用いて価値を求めても意味がないという転
>形問題のことの気がするけど。
 「価値」という言葉をどう定義するか、に掛かっているでしょう。
 1.「価値とはモノがもつ効用である」?
 2.「価値とは現存する有用物がもつ稀少性である」?
 3.「価値とは貨幣で尺度される、経済学の基本量である」?
 明らかに3は形式的な定義であり、実際には価値ではなく価格しか扱って
 いない。「名目価格」「実質価格」という用語がそれを補っています。
 尺度は存在するが、それによって尺度される実体は存在しない???
 また、岩井氏も含め、経済学者は「労働価値説」という用語を
「投下労働量で尺度された価値に基づく交換が実際に成立しているという、
 科学的な法則」と考えているようですが、私は「価値という存在の実体は
 社会的必要労働であるという、価値の本質認識」と考えます。それがマル
 クスの主張としての労働価値説でしょう。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/21(日) 01:29
>岩井氏も含め、経済学者は「労働価値説」という用語を
>「投下労働量で尺度された価値に基づく交換が実際に成立しているという、
> 科学的な法則」と考えているようですが、
そうですね。

>私は「価値という存在の実体は
 社会的必要労働であるという、価値の本質認識」

社会的必要労働というのを、投入係数を考えて一単位その
生産物を社会全体として生産するのに必要な労働量と
解釈するのが一般的ではないでしょうか?たしかに投入係数
は変わるし失業もあるのでうれないものを作る労働というのは
社会的には不必要と考えることができるのかもしれませんが、
そのようには経済学では考えないのでは?むしろマルクス
は古典派をひきずっているから完全雇用を考えていたのでは
ないですか?失業予備軍は賃金率が労働の再生産に必要な水準
に決まると言っているだけで。ちがいますか?
112OFW:2001/01/21(日) 09:36
>>111
>社会的必要労働というのを、投入係数を考えて一単位その生産物を社会全
>体として生産するのに必要な労働量と解釈するのが一般的ではないでしょ
>うか?
 概念としてはそうでしょう。ですから「社会が必要としている生産物」に
 関して、いかなる社会において?という社会の本質に問題が移るでしょう。
>たしかに投入係数は変わるし失業もあるのでうれないものを作る労働とい
>うのは社会的には不必要と考えることができるのかもしれませんが、その
>ようには経済学では考えないのでは?
 資本主義社会を前提にした経済学ではそうでしょうが、売買自体を廃止す
 る社会主義経済ではそうではないでしょう。念のために言っておけば、
 旧ソ連を始め、自称「社会主義国家」とは社会経済体制としては、国家
 資本主義と考えるのが正しい。
>むしろマルクスは古典派をひきずっているから完全雇用を考えていたので
>はないですか?
 「古典派をひきずる」という意味が良く分からないが、マルクスは雇用
(正確には賃労働)の廃止を考えていたのです。彼は、資本主義経済の整合
 的な理論体系をうち立てようとした科学者、ではない。
 『資本論』とはブルジョア経済学の批判の書であり、「マルクス経済学」
 なるものの教科書ではないのです。歴史的社会の唯物論という視点が必要。
>失業予備軍は賃金率が労働の再生産に必要な水準に決まると言っているだ
>けで。ちがいますか?
 まず「労働の再生産」ではなく「労働力の再生産」です。労働を再生産す
 るとは、「運動を運転する」並みの論理的エラーです。労働の価格とか、
 賃金とは労働の報酬とか、同じ誤りです。
(どうして皆、本質的な区別が分からないのかな…)
 また、「失業予備軍」という言葉は「産業予備軍」が正しい。資本主義経
 済下では賃金率を最低限に押さえるために、産業予備軍という失業者が
 必要、ということです。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/21(日) 14:08
ビョーム-バヴェルク「ようするにだ,マルクスらの主張はタマゴが先か
          ニワトリが先かのような循環論法
         (エッグチキンサーキュレーション)に過ぎない」

ミチオ,モリシマ「↑ですから,マルクスの資本論は多元連立方程式として
        表現すれば簡単なのです」
114マジレスさん:2001/01/21(日) 14:59
どの表記が一般的か?
ビョーム、ボーム、ボェーム、ベーム、バーム
115名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/21(日) 15:30
ギョエテ
116名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/21(日) 19:43
>112のOFWさん

しばらく僕はここのスレッドお休みにします。
(というかインターネットはお休みです。)
一言:「マルクスは雇用
(正確には賃労働)の廃止を考えていたのです」
本当ですか?資本主義はきっと滅びるという論理を展開して
、革命という新しい経済関係を作り出すときの軋轢をなるべく
少なくしたいと考えていたのではないですか?
117名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/21(日) 19:45
それと、そのうち戻ってくるかもしれないですから、
マルクス経済学スレッドか、古典派経済学スレッドかそんな
ものを維持していただけたらと希望します。OFWという
固定ハンドルも使っていてください。それでは、さようなら。

2ちゃんねるにはくだらない馬鹿書き込みが多すぎて
ちょっとうんざりしました。(やっぱり2ちゃんねるの
見方は、まともなスレッドだけをクリックして見て、あとは見ない
というのでしょうね)。なんであんな阿呆ばかりなんでしょう。
(OFWさんのことではないです)
118114:2001/01/21(日) 22:16
>>2ちゃんねるにはくだらない馬鹿書き込みが多すぎて

失礼しました。
これは良いスレッドなので、117さんも議論を続けてください。
119OFW:2001/01/22(月) 02:26
>>116
>しばらく僕はここのスレッドお休みにします。
 それは残念。インターネットは続けるべきでしょう。
>資本主義はきっと滅びるという論理を展開して
 資本主義が自動的に滅びるという論理は、誤解ですね。資本家というもの
 は、自らの階級的利害のためには、世界を消滅させてもよいくらいの考え
 をもち得ますから。現に20世紀には2度の世界大戦と数多くの戦争があ
 り、原爆・水爆(実験)まで使用された。環境は修復不可能なまでに破壊
 されつつある。
>革命という新しい経済関係を作り出すときの軋轢をなるべく少なくしたい
 革命は新しい経済関係のための転回(Revolution)であり、暴力的か
 非暴力的かは措くとして、不可避なものでしょう。それは「必然性の王
 国」から「自由の王国」に向けた人類の主体的な事業です。マルクスはそ
 れを労働者階級の自己解放に向けた理性と情熱に託したということです。
>>117
>2ちゃんねるにはくだらない馬鹿書き込みが多すぎて
 確かにくだらないものが多いのは確かですが、それは今まで余りにも
 「表現の自由」が押さえられていたためでもあると思う。また、一見して
 つまらない一行レスにも、カキコする人の表現したい本心が見える場合も
 ある。インターネットにより、確実に世界は変わるでしょう。それは、
 人類という一つの歴史的かつ自然的な共同体が現実のものになる過程の
 一つだと考えれば、多くの無名の人同志のコミュニケーションが如何に
 重要かということです。
120名無しさんの初恋:2001/01/23(火) 20:18
OFWさん萌え−
121名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/26(金) 06:15
このスレの岩井批判はためになる挙げ
122名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/26(金) 07:04
岩井氏の『貨幣論』は貨幣の自己循環論法を説き、貨幣の永遠性
を主張しているようにみえるけど、しかし、見方を変えれば、
それは貨幣が自分にしか根拠をもたない脆弱なものに過ぎないということ
を逆に暴き出してしまったとも言える。
つまり、岩井氏は他方で「紙幣なんて単なる紙切れだ」とも言っているわけだが、
そのことは、逆に「だからこそ貨幣なんていならい」という結論を発する可能性を
秘めているとも考えられる。
だから、岩井氏の貨幣論は貨幣からその存立根拠を理論的に奪うために
書かれたとも考えられるし、それを通じて暴き出された貨幣の本源的無根拠性を
「貨幣商品説」や「貨幣法制説」が隠蔽していくプロセスを逆照射してみせたのかもしれない。
こう見ると案外、岩井氏の貨幣論は貨幣否定論と近接しているように思う。
貨幣の本源的無根拠性を暴露することで、貨幣の否定可能性への道を開いたという具合に。
123>122:2001/01/26(金) 07:10
「貨幣なんていならい」を「貨幣なんていらない」に訂正
124名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/26(金) 07:13
貨幣の無根拠性と貨幣の否定可能性の間の距離はあまりに遠いと
思いませんか?

世界の実在を証明することが難しいということが、世界の消滅へ
道を開くと思いますか?
125電波発信しま〜す。:2001/01/27(土) 01:53
まあ、ある種の精神病者は実際に「世界の崩壊感」を体験すると
いいますね。そしてその背景には「世界の無根拠性」への感覚がある。
なら、なぜ我々「正気の人間」はそういう「世界崩壊感」を体験しないのか?
それは「世界の無根拠性」から遠おざけられている(疎外されている)からでしょう。
それと同様、なぜ貨幣は崩壊しないかというと、それは信用貨幣として
国家が貨幣に根拠をなんとか与えているからでしょう。つまり、貨幣が崩壊しないのは実際的には
「貨幣法制説」が「貨幣の無根拠性」を隠蔽するのに現に成功しているからにすぎない。
しかし、その貨幣法制説さえその隠蔽性が暴露されてしまったら、信用貨幣は文字どおり
「紙屑」と化すでしょう。その時、貨幣は貨幣として否定されている(つまり誰も貨幣を受け取らない)。
もちろんそうなったら、社会は分裂病的状態(原始状態)に陥る(回帰する)でしょうが、
しかし、コミュニストのマルクスの目論見(貨幣の否定)は恐ろしいが案外そこにあるともいえる
わけであり、岩井氏はマルクスを批判しているつもりが、逆にマルクスの目論見の成立可能性
をむしろ示してしまったとも言えるのではないか、ということです。
岩井氏は貨幣の無根拠性が明らかになってしまった後でも、貨幣は流通すると考えている
ようだが、しかし実質的には国家が貨幣に信用を与えているから、貨幣は流通するのであって、
それさえなくなれば、つまり、貨幣の無根拠性が暴露されてしまえば、貨幣は流通しなくなる(貨幣の
自己否定が導きだされてしまう)のではないだろうか。
だから、岩井氏は国家の力を軽視していると思う。


126名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/27(土) 01:57
>なぜ貨幣は崩壊しないかというと、それは信用貨幣として
国家が貨幣に根拠をなんとか与えているからでしょう。

ここが分からない
127名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/27(土) 14:24
岩井って、21世紀の資本主義で、皇室典範改正私案みたいなことをやっているそうだな。
こいつはサヨか?
128名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/27(土) 17:20
マルクスよ、君があと10年長生きしていれば…
129名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/28(日) 00:04
>やっている「そう」だな
それ自体は事実だけど、読んでから来な。
130OFW:2001/01/28(日) 23:40
>>122
>それは貨幣が自分にしか根拠をもたない脆弱なものに過ぎないということ
>を逆に暴き出してしまったとも言える。
 それは少し誉め過ぎではないかな?まず岩井氏は「貨幣が自分にしか根拠
 をもたない」とは言っていない。彼は「貨幣は他者がそれを受け取るから、
 貨幣として流通する」と言っているので、要するに「人間同志の約束」が
 貨幣の根拠だと言っているに過ぎない。つまり、「貨幣の真の(客観的な)
 根拠は何か」という点には結局答えていない訳です。それは彼が予め「労
 働価値説」を否定した上で、「さて、貨幣とは…」と語り出す以上、始め
 から答えを遮断しているということです。
>岩井氏の貨幣論は貨幣からその存立根拠を理論的に奪うために 書かれた
>とも考えられる
 私には労働価値説を葬ろうとするために書かれたと見えますね。前にも書
 いたが、循環論法は貨幣にではなく、岩井氏および近代経済学の論法の方
 にあるのであり、貨幣という現実的な仮象は厳然として存在するのです。
>こう見ると案外、岩井氏の貨幣論は貨幣否定論と近接しているように思う。
 まあ、一般の貨幣論よりは踏み込んでいると言えるでしょうが、価値の
 実体に迫っていない以上、結局は無根拠な議論でしょう。
>貨幣の本源的無根拠性を暴露することで、貨幣の否定可能性への道を開い
>たという具合に。
 「貨幣の本源的無根拠性」という言葉で何を言おうとしているのでしょう?
 一般に根拠とは現存在の存立性ということですから、貨幣が存立するため
 の根拠はそれが「一般的等価物」であることですね。そして、その詳細は、
 マルクスの価値形態論が解明している。むろん、貨幣が貨幣自身の根拠で
 ある、というのはナンセンスでしかないが。
131OFW:2001/01/28(日) 23:45
>>124
(横レス失礼)
>貨幣の無根拠性と貨幣の否定可能性の間の距離はあまりに遠い
 貨幣は無根拠なものではない。それは「現実的な仮象」であり、その根拠
 は生産者が互いに孤立しており、社会的な生産物が商品として交換されな
 くてはならないからです。そのためには等価交換が必要でしょう?
>世界の実在を証明することが難しいということが、世界の消滅へ道を開く
>と思いますか?
 世界の実在が証明できないのは、それが実在ではなく現象の総体だからで
 す。また、世界自体は消滅しません。それは主体の必然(必要)です。
>>125
>貨幣が崩壊しないのは実際的には「貨幣法制説」が「貨幣の無根拠性」を
>隠蔽するのに現に成功しているからにすぎない。
 それは信用と貨幣とを混同する議論です。代理貨幣と本源貨幣との区別が
 必要でしょう。確かに信用とは資本主義世界に対する信頼であり、その
 崩壊は資本家にとっては「世界自体の崩壊」と感じられるでしょうが、
 労働者にとっては、まさに「世界の夜明け」でしょう。
>コミュニストのマルクスの目論見(貨幣の否定)は恐ろしいが案外そこに
>あるともいえる
 コミュニストの目論見?は資本家にとってのみ恐ろしいのであり、現在既
 に日々恐ろしい目に合っている労働者にとってはそうではないでしょう。
 あなたは労働者それとも非労働者?
>だから、岩井氏は国家の力を軽視していると思う。
 国家とは政治的な暴力装置であり、階級対立を隠蔽する幻想の共同体です。
 それは、労働者が現実を把握すれば、自分が作り出した幻であるという
 ことに気が付くでしょう。むろんその現実の廃棄は政治的な実践を必要と
 するが。
 「主人が奴隷に対して主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として
  振舞うからである。」(マルクス)
132名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/29(月) 01:42
>OFWさん

「可能なるコミュニズム」批判して下さい
133124:2001/01/29(月) 15:37
>>131
レスをいただいて、ありがとうございます。
私は岩井の貨幣論を読んでいないので、岩井がどう言って
いるかに興味を持ったというよりは、122さんの理屈に
矛盾を感じたので書き込みをしたまでです。
よって貨幣が無根拠なものではない、というご意見に
異論はありません。
また、世界の実在うんぬんの話というのは、唯我論者を
論破することが原理的に不可能、という意味で使ったの
ですが、これも私にとってはどうでもよいことです。
明らかにする価値のない議論に思われますから。

便乗でお聞きしたいのですが、OFWさんのおっしゃることで
わかりにくいことのひとつは「労働者」が何をさしているの
かということです。その労働者というのは、例えば革命と
いったコストを支払ってでも、現状を変革することに
ベネフィットを有する人びとのことなのでしょうか?
もしそうならば、どこにそんな人が存在するのだろうか、
と思えてしまうのですが・・・。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/29(月) 16:07
マルクスの誤算は、熟練労働者の生産性が年率十数パーセントで向上し続けて
彼らが持てる層へ転化したことだと(いう趣旨の事を)誰がが言っていましたね。
135名無しさんの初恋:2001/01/29(月) 21:48
>「主人が奴隷に対して主人であるのは、奴隷が主人に対して奴隷として
>振舞うからである。」
現実を把握すれば奴隷は何らかのアクションを起こすんでしょうか?
奴隷が奴隷の身分に甘んじているのは現実を理解していないからなんでしょうか?
なぜ弱者は現実を知ることを恐れるのでしょうか?
「自己を失うことはどうしてできるのだろうか。気づかれもせづ、考えも及ばない
変節は、小児期に、人知れづ精神的死を持って始まる。愛されもせず、我々の自然の
願望が妨げられたとしたらその時に。しかしそれでも人は生きる。ここには死骸もなければ罪もない。
失われてしまった彼の代わりに彼らが彼になるのである。

あんま経済に関係ないかな?


136電波発信してもよろしいかしら?:2001/01/30(火) 04:06
貨幣に否定しがたい根拠があったらしたら、それだけ逆に貨幣を廃止するのが困難だと思う。
その点、岩井氏は貨幣に根拠を与えるかにみえる「貨幣商品説」や「貨幣法制説」
を双方とも反駁することで、貨幣からその根拠を理論的に奪い、そして貨幣の廃止は決して
不可能でないことを明らかにしてしまった。
もし貨幣に反駁不能な位の強力な根拠があるなら、貨幣の廃止論などは
まさにその当の強力な根拠によって逆に反駁されてしまうでしょう。
だからこの点、岩井氏の貨幣論は彼の意図に反して貨幣廃止論に可能性を
与えた(あくまで可能性だが)といえるのであって、そういう方向で岩井氏の貨幣論を
読解できるかもしれない。"皮肉な"読解として(w

137電波発信してもよろしいかしら?:2001/01/30(火) 04:57
ちなみに金本位制が廃止された現代資本制においては、
一般に貨幣といえば、「信用貨幣」のことを指すでしょう。
もはや、金は貨幣ではない。だから、貨幣法制説が貨幣に根拠を
なんとか与えているのに成功しているのが現代資本制の特徴なのでは
ないでしょうか。昨今の所謂「通貨危機」は特定通貨(バーツ等)の減価(貨幣の
紙屑化の一歩手前)を衆目に示し、貨幣の紙屑化(貨幣の自己否定)
への可能性を示したと思います。ヘッジファンドとの攻防に破れたタイ政府は
国家の信用を失墜させられ、自国通貨の暴落(崩壊)を傍観するしかなかった
ことは記憶に新しい。国家の信用の低下と通貨価値の低下はこのように連動している。
貨幣法制説が貨幣に根拠を与えるのに現に成功しているというゆえんである。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/30(火) 22:56
age
139OFW:2001/02/02(金) 21:36
>>136
>貨幣に否定しがたい根拠があったらしたら、それだけ逆に貨幣を廃止する
>のが困難だと思う。
 「貨幣の根拠」とは、貨幣が無くてはならない理由ということですが、
 それは社会の分裂状態にある訳です。その廃止は社会革命なしには成し
 得ないのであり、現状の生産関係をそのままにして貨幣だけ廃止できる
 筈もないでしょう。
>>137
>貨幣法制説が貨幣に根拠をなんとか与えているのに成功している
 何らかの学説が現実の貨幣を支える根拠ではなく、実際の経済がその根拠
 なのです。
 無論、通貨は国家と一体ですが、世界貨幣としての金が相変わらずその底
 に隠れているでしょうね。
140OFW:2001/02/02(金) 21:55
>>132
>「可能なるコミュニズム」批判して下さい
 最近の柄谷氏が何を主張しているのか詳しく知りませんが、労働者に依拠
 せずに、コミュニズムが可能だとは考えられない。
>>133(124)
>「労働者」が何をさしているのかということです。
 現在の資本主義体制の下では、何よりもまず賃労働者を指します。
 そして、自ら生産手段を所有して同時に労働する自営業者も労働者です。
 自ら働かずして、他者の労働(その成果)を収奪する者以外は、すべて労
 働者です。
 とりわけ、「自らの労働力以外に売るべき何物をも持たない」賃労働者は
 資本の価値増殖の根拠ですから、その疎外された実存を止揚することは
 本質的に社会の解放と結びついているのです。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/03(土) 00:13
>>140
>「自らの労働力以外に売るべき何物をも持たない」賃労働者は
>資本の価値増殖の根拠ですから、その疎外された実存を止揚することは
>本質的に社会の解放と結びついているのです。

本当ですか?到底そうには思えないし,それは高々形而上的言説
の中に回収されているだけの気がしますけど?
142OFW:2001/02/03(土) 20:14
>>141
>本当ですか?
 本当です。「本当」という言葉が真実を指すならば。
>それは高々形而上的言説の中に回収されているだけの気がしますけど?
 現象と本質は異なりますから、現象面だけに捕われていれば、私の言説は
 形而上学的に思えるのでしょう。しかし、本質を理解すれば、世の人がい
 わゆる「貨幣の形而上学」(貨幣物神)に陥っていることが見えてくるで
 しょう。
 実際、岩井氏は自ら貨幣論を書いている過程で、一つの神学を扱っている
 かのような錯覚に陥ったと言っています。それは錯覚ではなく、貨幣自体
 を考えていけば、文字どおり形而上学にしかならないでしょう。
143OFW:2001/02/05(月) 23:49
>>135
>現実を把握すれば奴隷は何らかのアクションを起こすんでしょうか?
 現実は動かし得ないと予想すれば、起こさないでしょう。
 それは「予想の自己実現」と呼ばれるもので、自らが作る現実、という点
 に対する無理解でしょう。そのためにむしろ、「カネこそが唯一の現実」
 という社会を現実化してしまうわけです。
>奴隷が奴隷の身分に甘んじているのは現実を理解していないからなんでし
>ょうか?
 直接的な現実については、最もよく理解しているでしょう。それは毎日
 経験する狭い現実です。そこではカネがすべてを支配しているが、貨幣
 とは何か、などと考える余裕など無いから、それが無くてもよい存在、
 むしろ無いほうが世の中はシンプルで合理的になることまで理解できない。
 まして、「カネは絶対的だ」という教義が蔓延している以上は…。
>なぜ弱者は現実を知ることを恐れるのでしょうか?
 それは「現実を知ってもどうにもならない」という諦めが先に立つからで
 しょう。精々の所、「金持ち父さん」を夢見る位が関の山で、自らが現実
 総体を変える力と方策を握っていることに気づかない、ということかな。
 ウォルフレンも言うように「仕方がない」とは日本人の口癖ですが、それ
 は「仕方を知らない」ためであり、権力志向の知識人の責任でもある。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/06(火) 16:14
ソ連って結局なんだったんでしょう?
145OFW:2001/02/07(水) 22:27
>>144
>ソ連って結局なんだったんでしょう?
 旧ソ連は社会経済体制としては、国家資本主義と言うべきでしょうね。
 ノメンクラトゥーラと呼ばれた共産党官僚、軍部および大企業のボス達が
 生産手段を実質的に所有し、社会の政治・経済を支配していた。
 彼らは自らを共産主義者と呼び、その国家をソヴィエト社会主義連邦と称
 していたが、相変わらず賃労働、貨幣、国家を廃棄することなく、上から
 の強制的な生産計画(ノルマ)をもって計画経済と呼び、生産者の有機的・
 自発的な連帯と協働を阻止していた訳です。
 最近では、「日本は社会主義だ」という半ば冗談とも思えない意見も出て
 いるが、歴史的に存在した旧ソ連の「あの体制」を社会主義と定義するな
 ら、独占・寡占状態の大資本が国家官僚と一体となって、一国の経済を
 政治経済的にコントロールしている姿は確かに社会主義的でしょうね。
 20世紀以降、国家が経済に介入せざるを得ない時代(帝国主義時代)
 には、純粋な自由主義経済など存在すべくもないし、階級対立が続く限り
 、国家(幻想の共同体)が必然的に登場することになる。
 いずれにせよ、極度に政治化された経済の下では、経済学者は中立的な
 科学者という自らの本分を守ることはできないのは確かでしょう。
 階級対立が存在する社会においては、社会科学の中立性とは貨幣の中立性
 と同様、幻想に過ぎないのです。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/09(金) 03:51
age
147名無しさん@お腹いっぱい:2001/02/09(金) 20:54
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148名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/12(月) 23:43
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149名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/13(火) 08:52
OFWさんの言う本質について聴きたいのですが・・・
貨幣物神が幻想だというような書き方をされてますが、極端な言い方をすれば、
貨幣物神も本質であるといえます。
というより、本質とは所詮そういったものだと思います。
本質とは追い求めるものであっても、存在するものではありません。
時代の要請によって個々人の考える本質になったりならなかったりでしょう。
僕は本質論より手続きのほうが重要だと考えます。
(おそらくそれにしびれをきらしてるんでしょうが)
>なぜ弱者は現実を知ることを恐れるのでしょうか?
変化への切実さがないのでしょう。
人が社会やそのしくみについて考えるのは、それを知ることによって
この惨めな自分が豊かに生きうるという可能性をそこに感じるからです。
社会が変われば自分が豊かになる(もちろん精神的意味を含め)と
いう実感を得られれば、考えてみようとも思うでしょう。
結局多くの日本人はいまのままがいいんでしょう。
150OFW:2001/02/14(水) 22:46
>>149
>貨幣物神が幻想だというような書き方をされてますが
 貨幣物神とは「人間の社会的な本質力が貨幣において体現され、人間的な
 関係性、豊かさ、主体的な自由等はすべて貨幣がもたらしてくれる。」と
 いう観念です。それは一つの幻想ですが、この疎外された社会においては
 必然的な(不可避的な)幻想です。
>貨幣物神も本質であるといえます。
 むろん転倒した形ではあるが、現実に無限の力をもつ本質です。それは
 非本質的な本質です。
>時代の要請によって個々人の考える本質になったりならなかったりでし
>ょう。
 確かに何が本質的で何が非本質的かは、観点や時代によって異なるわけで
 すが、決して個人的な主観には依らないものです。それは全体的な存在で
 あり、むしろ主観的な現象の底にある事物の客観的本質こそが、個々人の
 考えを規定していると言えるでしょう。
>僕は本質論より手続きのほうが重要だと考えます。
 手続きとはどのようなことを言われているのでしょう?
 誰もが豊かになるチャンスを増やすための、制度的な改良とかのこと?
>人が社会やそのしくみについて考えるのは、それを知ることによって
>この惨めな自分が豊かに生きうるという可能性をそこに感じるからです。
 そうですね。その可能性がないと思えば、現状に甘んじる方を選ぶ。
>結局多くの日本人はいまのままがいいんでしょう。
 確かに、多くの日本人は物質的には恵まれており、かってない程、豊かな
 時代を過ごしているとも言える。しかし、それはまったく根拠のない状態
 であり、偶然的で、見通しのきかない、徐々に崩壊しているという不安を
 感じながらのことでしょうね。現実から目をそむけ、ますます刹那的にな
 っていくのは、危機に対する弱者の防衛本能だと思う。
151過去スレ:2001/02/16(金) 20:35
こちらにも張っておきます
http://members.tripod.co.jp/aardvark/maru/marukei.htm
152廃嘘の名無しさん:2001/03/11(日) 04:34
age
153金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/04/18(水) 16:13
OFW氏はどこへ?
154金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/04/18(水) 17:36
>>153
↓ここですか、最近基地外に荒らされてますが。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs
=philo&key=985342720&ls=50
155訂正:2001/04/18(水) 17:38
156ウィンナー:2001/06/19(火) 21:20
「読んでから来い」てのはちょとキビシイな
実際面白いから読んでほしいけど

>岩井って、21世紀の資本主義で、皇室典範改正私案みたいなことをやっているそうだな。
>こいつはサヨか?
正確なタイトルは「憲法九条および皇室典範改正私案」で、これだけ見ても「サヨ」では
ないことはわかると思う
九条に関しては、自衛・国連の活動・災害救助のみに従事する軍隊の保持を明記し
皇室典範は、
1)男女に皇位継承権を認め
2)皇位継承資格者はその資格を放棄する権利を持ち
3)天皇自身も自らの意思で退位する権利を持つ
という内容にする、
で、この二者の改正はどちらも欠かせない一対のものである、という主張です
(その理由は・・・読んで)
『二十一世紀の資本主義論』はある意味岩井の“モダニスト・マニフェスト”かも
OFW氏の言い方を借りれば、ブルジョワ・イデオロギーへの支持表明ということになるの
かもしれないけど
書名になっている書き下ろしの文章は、ほとんど感動的だった
(べつにぼく自身が投機を生業としてるわけではないけど)
157ウィンナー:2001/06/21(木) 19:03
あと、>>19-20について。『貨幣論』の章立ては


1 価値形態論
2 交換過程論
3 貨幣系譜論
4 恐慌論
5 危機論

となってて、商品説/法制説は第二章ではじめて言及されるんだけど、このスレで
問題になってる「循環論法」は第一章で示されていて、「既存の理論モデルが貨幣
流通を満足に説明しない」ことはそこでは議論に用いられていない。

#このスレで問題になっている・・・と書いたけど、実はほとんどまともに論じられて
いないようにも見える。
158金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/06/22(金) 18:54
岩井先生

「貨幣一般に共通する実体的根拠はない」というのは当然だ
として、そこから「それぞれ個別の貨幣に実体的根拠がない」
ということには、全然ならないでしょう。
159金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/07/12(木) 04:41
age
160柴田 敬:2001/07/18(水) 12:30
桜美林の前畑雪彦教授に聞きましょう。立教経済学研究久留間健先生記念号に、
わけ解らない批判が出てます。
161経済評論家:2001/07/18(水) 12:57
懐かしいですね。柴田敬なんて。
久留間健って、久留間鮫造の御子息?
マル経なんですか?しかも価値形態論?
162置塩信雄:2001/07/21(土) 11:25
久留間健先生は、経済より囲碁が強いことで、経済学者の認知を受けています。
専攻は貨幣論。もち、マルクス経済学です。
スタグフレーション研究に力を入れました。
鮫造との関係は不詳です。吉祥寺在住。
山口義行の師匠。
163   :2001/07/21(土) 22:14
164金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/07/21(土) 22:15
高中さんのスレといいマル経に相当な事情通がいるな。
165金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2001/07/21(土) 22:16
立教経済学研究久留間健先生記念号をもっと詳しく!
166 :2001/07/21(土) 22:41
井上周八先生について詳しく教えてください
167前畑雪彦
W−G−Wの流動的統一においては、Gは金実体を持たない「仮象の金」とし
て機能する。それ故、この物質的定在を吸収した貨幣名目を持つだけの「仮象の
金」は、それと同一名目を印刷してあるだけの無価値な紙幣によって代理できる。
しかしそれと同時に、紙幣は、この代理関係においてのみ価値をもつ。すなわち
流通手段としての貨幣の「観念的な数的関係」においてのみ、したがってまた、
購買手段として、それと同一の商品価格を実現する仕方で流通することによって
のみ、紙幣は価値を持つ。このことを、マルクスは「紙幣は流通するから価値を
もつ」と言う。しかし、この命題を、岩井克人氏は、価値形態論の「悠久千年の
争いに明快な決着をつける」という鳴り物入りの宣伝で、氏が発表した貨幣形態
Zなるものと同一だと、頓珍漢に言う(同氏『貨幣論』119−122ページ)。すな
わち氏は、ここで、紙幣が媒介する商品流通を価格規定を脱落させて、素材的に
観察した上で、この流通過程を、 商品=紙幣=商品 の幻想的形態で理解し、
そしてこれを、価値形態の展開と混同していることを、自ら告白しているのであ
る。氏はこのZなるものは次のものだと言う。「貨幣とは、全体的な相対的価値
形態と一般的な等価形態という二つの役割を同時に演じている、いや演じさせら
れている存在である。……商品が貨幣に与える直接的交換可能性〔直接的交換可
能性を与えられているものがかへいであるから、直接的交換可能性に対して直接
的交換可能性が更に与えられる?〕と貨幣が商品に与える直接的交換可能性〔直
接的交換可能性をもつものが、商品に直接的交換可能性を与え、かくして商品が
貨幣となる? 貨幣と商品との関係が貨幣と貨幣との関係になる?〕とが宙づり
的な相互依存関係になっている」(同氏、54−57ページ、〔 〕内引用者)。す
なわちZにおいては、商品所有者は、彼の商品を、貨幣所有者がそれを欲望する
かしないかにじゃじゃわりなく、貨幣所有者に対して譲渡すると決意しさえすれ
ば、商品世界において、いつでもどこでも任意に、すべての貨幣所有者のポケッ
トから、商品と引き換えに、貨幣をひきだすことができる。なぜなら、彼のも含
むすべての商品は貨幣に対する直接的交換可能性をもち、商品は貨幣を買う
「goods buy money」(同氏、58ページ、脚注3より)からである。市場におけ
るどの個別取引においてさえも、商品の貨幣に対する直接的交換可能性により、
販売不可能性はあり得ないとする、ジェムズ・ミルを赤面させ、prince de la
scienceをも跪づかせるウルトラセイ法則、これが究極のZである。

(前畑雪彦「紙幣流通の独自の法則について──不換制の貨幣理論の形成のため
に──」『立教経済学研究』第51巻第4号(1998年3月、久留間健教授記念号)、
53ページより)

私はこの後、岩井氏の所説に賛同したマルクス経済学者、田中素香・東北大学教
授を論破し、マルクスの資本論を現実問題解明の理論として誠実に研究されるこ
とを期待し、3点のアドバイスを与えました。
なお、論文の欧語題名は、“Ein Spezifisches Gesetz der Papierzirkulation”
(紙幣流通に独自な法則、『資本論』第I巻、大月書店版、訳、166ページ)よ
りとらせていただきました。

私の考えについてより詳しくお知りになりたい方は、伊藤武編著、鶴野昌孝・
前畑雪彦著『貨幣と銀行の理論 第2版』(八千代出版、1995年)をご参照いた
だければ幸いです。

といっても、私もマルクスにしたがって論破はしましたが、なお結論を出せずに
いるというのが現状ですが。