40 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:
「介護の仕事は引く手あまただからそこに就職すれば失業率が下がる?」
それは真実ではない。
もし引く手あまたの仕事なら、なぜその賃金が世界一低いのか?
世界一低い賃金の仕事ということは要するに「来なくていい仕事だから」
つまり「仕事の需要がない」こととイコールで、
だからその仕事は人手が足りているということを意味する。
それならそういうところに人が集まらないのは道理で、そういう仕事は要求されていない
という文字通りの結果。何も問題ない。
当たり前の結果だ。
41 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/09/09(木) 21:48:58
もし介護の仕事が需要があってどんどん人に来てもらいたい仕事である
というのなら、その賃金は当然ながら上昇して世界一高くならなければならない。
それが需要と供給の関係できまる市場原理である。
しかしこの原理に即して考えれば明らかなように、介護の仕事は世界一低い賃金である。
夫婦と子供1人の世帯で300万円以下で暮らせと言っている賃金。
これで「介護には需要がある?」 ???
そんなわけがない。もし需要があるなら年500万円は出さなければおかしい。
そうならないということは、たいした需要はない仕事ということである。
ならばそこに人がいかないのは当然。何も問題はない。
42 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/09/09(木) 22:02:10
なんべんも言っている通り、BIはあくまでも労働の対価をむなしくするための
方策である。つまりインフレ政策である。
生産性が上昇し、労働に価値がなくなるのは必然の流れ。
そうなると労働に賃金が必要であったものが必要なくなるから首を切って
労働者を路頭に迷わせる必要が生じる。
それがその生産物、生産サービスに対しても同様に起こってくる。それが
生産性の上昇ということである。
そこで、これまでの労働者が別の新しい生産活動の需要によって再雇用されない
限り、路頭に迷う元労働者でちまたはあふれ返っていく。
さて、そこで生産物もサービスもそれを受けられる人、つまり所有している貨幣
によって交換してそれらを享受できる人々の数は次第に減って行って最後には
ごく少数のお金持ちだけしかその恩恵に預かる者たちはいなくなってしまう。
最終的に、その淘汰によって貨幣の所有者はゼロに近づき、大半は餓死する
ほかなくなる。その結果、あらゆる価値の生産プロセスは不要になる。
最終的に大半の価値であった社会的インフラは価値がなくなり、誰も使う者が
いなくなる世界が来る。これが「デフレ」の構造で、生産性の向上によって
必然的に導かれる論理的帰結である。BIはこの矛盾を本質的に解決するものである。
ここを理解していなければ話は前に進まない、BIの本質は資本主義の矛盾の
解決のためのものである。
43 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/09/09(木) 22:21:43
>>42 >そこで、これまでの労働者が別の新しい生産活動の需要によって再雇用されない
>限り、路頭に迷う元労働者でちまたはあふれ返っていく。
というのは、GDPが成長している間は露呈しない。それは新しい価値が開発されて
その生産活動のために労働が必要とされる状態が継続するので、問題を生じないからだ。
しかし生産性が向上する分野が広がっていくとき、最後にはありとあらゆる分野の仕事が
労働不要に近づいていくから、最終的にはどの分野でも労働が不要になっていく。
最終的には価値を生む労働はごく一部に限られていく。特殊でごく一部の極めて創造的な根源業務、
不可欠な業務だけが、人間の労働需要として残っていくが、そのような能力は統計的にもごく一部
の人にしかこなせないので、誰もが賄える業務でもなく、また誰もがやってきてもそれほどの業務量は
ないために来られても余ってしまうから結局必要とされる労働力は限られてしまう。
結果として、社会の中で特定の一部の業務だけが必要とされ、凡庸な一般大衆は労働力需要から
あぶれて所得が得られない状況が、生産性の向上によって必然的に生まれてしまう。
ちょうど今の日本で起きている産業の空洞化はこれに似ているが、普通そうは考えず、これはアジア
とりわけ中国などに低賃金労働が奪われた結果としてみなされるが、現実はそうではあるものの実は
このアジアの労働市場が生産の低コストな自動化によって生まれたとして見ても結果は同じであった。
つまりこれと同じことが、地球上のあらゆる生産活動において起こることである。その雛形がすでに
先進国においては低賃金労働力の不要化の状況において現れていると見ることができる。
結果として、大半の大衆は社会にとって不要にされると同時に、社会はデフレ経済が定常化し、
社会保障予算の増大によって財政が逼迫化していく必然のプロセスを辿ることになる。この終着地点は、
要するに、大多数の無産大衆の餓死と社会インフラの価値の低下、最終的にはその消滅である。
つまりこれは「廃国」であり、またの名は「亡国」でもあるだろう。
44 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/09/09(木) 22:45:11
>>43 >しかし生産性が向上する分野が広がっていくとき、最後にはありとあらゆる分野の仕事が
>労働不要に近づいていくから、最終的にはどの分野でも労働が不要になっていく。
このように、社会が労働不要な構造に本質的に近づいていくとき、そこで凡庸な大衆が
餓死させられないで生き続けてよいとする根拠はどのように求められるのか?
それは経済の論理からはじつは導かれることはない。
経済は人道主義や倫理上の論理から構成されてはおらず、あくまでも資本の蓄積と
拡大とその増大による価値の増減の数学に他ならない。そこでは大衆の餓死は価値の
増減にとってどうかという対象としてしか扱われず、餓死の問題を問題として論じる
論理的必然性は存在していないから。
議論すべき対象として有する分野はあくまでも人道主義や倫理上の論理においてのみ
「大衆の餓死」は論じられる。そうすると、憲法の「日本国民は最低限の生活が保証
される」という規定は経済学の要請ではなく、あくまでもこの人道主義や倫理上の論理
から発しているものであり、経済学の論理がこの論理を前提にしなければならないか
どうかについては不明である。なぜならば世界中のどの自治圏でも同じ人道主義や倫理規定
を基準にしているかなどについても論じなければならないからだ。
しかし、仮にこの「凡庸な大衆の餓死」を防止するということをあくまで普遍的な原理とした
場合は、当然それを前提にした社会的要請が経済の方程式に対して一項を加える必要が生じる
だろう。
そう考えない場合にはどうなるか?その場合は、
>>42-43のようにして、資本の蓄積と増大の
力学自体が淘汰によって導かれる状況のみから考えればよい。すなわち、資本の所有者、
有産階級の側がどう考えるかということだろう。有産階級は最終的には凡庸な一般大衆の餓死
によって実は一切の所有資産が価値を失って生産性の向上の暁にすべての資産が寂れた社会に
一人ぽつんとたたずむ状況を想像するべきだということを意味している。
45 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2010/09/09(木) 23:04:13
>>42-43の議論はすなわち、
1.「所有原理」を絶対視し、2.生産性が無限の向上した場合でも「所有」を握った
ままどこにもあけ渡さないままでいるならば、3.最終的に、その所有資産自体が究極的
には価値を失ってしまう、ということを証明していよう。
すなわち、無限の生産性は価値の所有を無意味にするということであり、これが
「所有」と「生産性の無限の向上要請」の運命的にして決定的な「本質的矛盾」
だろう。
ではこの本質的矛盾はどこに由来して「決定的」になったのか?それが
>>42-43に
現れている。
すなわち「所有」を絶対化して「生産性がどんなに向上しても」所有を厳密に維持する
ことによって「資本主義経済は確実にデフレに導かれて」決定的にその規模を収縮する
ことになるという法則を見出すであろう。この循環を最終結果の是非から見て「悪循環」
とするならば、この悪循環を断ち切って最終結果を「社会や国家の壊死」に決しない
方策がどこにあるかは明瞭であろう。
それは「所有の厳密化」を見直す必要性を示唆している。それは「生産性の向上」に伴う
「意図的で計画的なインフレ化」の必要性であり、そのための具体的な方法の一つが
「基本的給付」(BI)などによる「貨幣の計画的分配による所有の計画的分散」なのである。