日銀はなぜデフレ政策を堅持するのか?■ 4

このエントリーをはてなブックマークに追加
飯田(I:時代劇で見るような江戸の町並みはすべて1820年代を再現したものです。
また、僕たちが江戸っぽいな、と思うもの、寿司、うなぎ、天ぷら、歌舞伎、浮世絵、こういったものも1820年代のものです。

勝間(K:もう明治の直前なんですね。

I:そうなんです。
なので時代劇で徳川吉宗や水戸黄門が1820年代の江戸の町並みを歩いているというのは
実に困った話なんですが、撮影されている太秦の町並みが1820年代ですからそうなっちゃうんですね。

K:私たちが2300年代にいるような感じですね。

I:ではなぜ1820年代がこんなに影響力を持つほど素晴らしい時代だったのかというと、
これが金融政策の話になります。
徳川家斉という浪費家の将軍がいまして、彼が老中に「どうしても贅沢がしたいんだ」と、
そんなことを言うわけです。
で、老中はお金をなんとか集めなきゃいけなくなるんですが、そこで貨幣の改鋳を行います。
一枚の貨幣に含まれる金や銀の量を減らすことで、貨幣をより多く作ったわけです。
例えるなら、一円分の銀しか入っていないのに、これは十円です、
って言い張るわけですから、九円儲かるわけです。

K:今のお金の作り方と同じですよね。

I:そうなんです。これを乱発したんです。
そうするとどうなるかというと、インフレになります。
その結果、江戸の街は好景気になりました。
そして、うなぎを食べたり、初鰹に一両なんて値がついたり、みんなで歌舞伎を見に行ったり、
お伊勢参りに行ったりするようになったんですね。

K:バブルですね。

I:そう、文政バブル絶頂期というのが、今の日本人の江戸のイメージを作り上げているんです。
K:バブルというのはいつか弾けますが、文政バブルも弾けたんでしょうか。

I:ここが非常に賢いところで、急激なバブルを起こさないように
ゆっくりとお金の量を増やしていったんですね。
年率にすると1%くらいです。
1%というのは現代ではすごく少ないんですが、当時はお金の量というのは減るかそのままかの
どちらかでしたから、その頃としては1%インフレが10年続くというのは充分に影響力のある数字です。
そのおかげでとても安定して成長していきました。

K:まさにインフレ・ターゲットですね。

I:やがてバブルも弾ける、というよりもしぼんで終わってしまうのですが、
それはこの政策をすすめた老中が在職中に亡くなってしまったからです。
そうするとやはり、「こんな貨幣を乱発するような政策はけしからん」という雰囲気になってきます。
そうして引き締め政策、つまりデフレ政策がとられるようになりました(天保の改革)。
さらに、「商人は儲けすぎている」ということになって、規制が増えていきました。

K:そんなことをすれば大変な失業を生み出しますよね。

I:このデフレ政策によって、江戸というのは、ほとんど街の火が
消えてしまったような状態になりました。

K:どこかで聞いたような話ですよね(笑)。
1980、90年代の日本みたいです。

I:そうなんです。
実は日本は江戸時代の頭からこれを繰り返しています。
景気が良くなると意図的に引き締めてしまう。
80年代後半からのバブルでも、アメリカのサブプライムローンバブルのように
派手に弾けることはしないで、意図的に規制や金融引締めを行って潰しましたよね。
そこで問題なのは、弾けたときよりも、意図的に潰したときの方が
ダメージが少なかったと言えるのか、ということです。

K:とんでもない。
長期停滞を招きました。

I:弾けた後に手を打った方が軟着陸となったかもしれません。
江戸時代の経済史を見ていくと、景気を重視し商人の活躍を評価する人たちと、
商人がのさばるような世の中はけしからん、という人たちのせめぎ合いがあるようです。

K:それもどこかで聞いたことがありますね(笑)。

I:はい(笑)。
江戸時代はそれでもいいんです。
武家政権なわけですから、お侍が一番偉い。
でも現代でも何故かそういう考え方が残っているんですね。