952 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2006/06/01(木) 20:04:40
100パーセントだとまるで北朝鮮だ。
社会主義だとそうなのかな。
パチンコ屋もすべて消滅するね。
大不平等時代の幕開けだと、メディア全体がかまびすしい。一度敗者のレール
に乗ったらもう這い上がれないなどと不安を煽る。
そうなれば、「せめて教育だけは何とかしたい」と思うのが親心。ぎりぎりの
生活費を切りつめて子供を塾通いさせ、母親は毎日パートへ――などという家庭
も少なくはないだろう。パートに出たら出たで、正社員と比べて「不平等」な実
入りに打ちのめされるのである。たしかに現代が厳しい環境であるのは確かなよ
うに思う。
しかしである。そもそも日本では大抵の家に風呂があり、お湯が出、図書館に行
けば本はいくらでも読める。仕事だって外国人労働者に頼らねばならぬほども
あるのである。その外国人労働者が見たらこう思うだろう。これのどこが下流な
のか不平等なのか、と。
たしかに上を見ればきりがないだろう。私も学生の頃、親の丸抱えで留学し
たり、結婚のお祝いに家やマンションを買ってもらえるような友人が羨ましくて
仕方がなかった。しかし、私はそういう幸運に恵まれなかったからこそ、逆に、
「考える」事を学べたのである。
すなわち最低限のお金とチャンスをどう活かすか。何を捨て、何を極めるか。
私はこれ以上ないくらい真剣に考え、行動した。お金もコネも情報も何もなかっ
たからだ。
今の日本に本当の不平等などありはしないと私は思う。一見不平等に見えるも
のは必ずチャンスになりうる。それを見いだせないのは、社会や国が悪いからで
は決してない。個人の気持ちの問題なのである。
頭の悪い馬鹿の特徴として、長期に株を持つのが投資で、短期に売買するのが投機だと
考える奴がいる。短期売買はマネーゲームとさえ言ってのけるのである。じゃあその根
拠は何?と聞きたくなる。じゃあ長期に株を持つとマネーゲームじゃないのか?
仮にマネーゲームはお金を増やすゲームと定義しよう。資本主義経済は人間の欲求を満
たす世界であるが、それはある一定のルールのもとで行われるものでなければならない。
馬鹿が勝手に投資と定義づけている長期投資は、馬鹿が言ってるように企業を育てるた
めの投資だろうか?言っちゃ悪いが、はっきりいってそんなの嘘である。自分のお金を
増やすための典型的なマネーゲームである。馬鹿が勝手に定義している実業だってそう
だ。お金を増やすために起業して活動するし、儲かると思うから設備投資するのである。
そういう意味では実業までもがマネーゲームと位置づけられる。
しかし馬鹿は、実業は物を生み出すからいいんだと言い出す。これこそ馬鹿の典型であ
る。じゃあ商社は何か生み出しているか?証券会社は物を生み出すか?銀行はお金を右
から左に流しているだけで何も生み出していない。挙句の果てに汗水垂らしてとか言い
出す始末。
じゃあ株式投資は楽して儲けられるとでも思っているのだろうか?株式投資は絶対に勝
てるものではない。大損するときだってある。多大なリスクを背負いながら株式投資を
やって常に儲けることが可能なら、みんな大金持ちになってしまう。素直に株で儲けら
れる才能のある人を認める勇気を持つべきだろう。野球の才能は認めて株の才能を認め
ないのは馬鹿の局地だろう。成功者を妬んで負け犬を演じるのは、いい加減やめるべき
だ。汗水垂らしてなどと奇麗事の能書き垂れる前に、評論家は成功者を妬む恥ずかしい
言動を避けるべきだろう。しょせん評論家は高いリスクを負わずに安全に生きている人
間である。大きなリスクを取って大きな利益をあげた人を僻む根性は、恥ずべき行為である。
金持ち重税主義者達の能書きに、機会の平等という言葉が存在します。
彼らが平等という言葉が大好きなのは言うまでもありませんが、
共産主義の失敗によって数々の平等というのは失敗に終わり、
最後のよりどころとして機会の平等というものを考え出したようです。
しかし機会の平等なんて有り得るでしょうか?
機会の平等が大好きな人間は学歴にばかり目がいっていて視野が大変狭いのですが
彼らのレベルに合わせて、学力だけに絞って考えます。
個人の才能を一切認めない共産主義は崩壊したので、彼らは才能だけには文句は言えないでしょう。
つまり、元々才能のある子は(学力の世界では)頂点に立つことができます。
才能のあるなしの時点でもはや平等ではありません。
そうすると今度は親が金持ちか貧乏かで機会の不平等を訴えてきます。
勉強部屋があるかないかとか、塾や予備校に通えるかどうかなど、いろいろ素材はそろっていますが
どれも現実を無視した議論にすぎません。
勉強部屋なんかなくったって図書館や学校の放課後の教室で勉強できるはずです。
塾や予備校に通えるかどうかも関係ありません。
日本は受験産業がさかんなおかげで優秀な参考書や問題集はいっぱいあります。
塾や予備校に通っている人も、ほとんど市販の受験本で合格しております。
収入の少ない家庭から東大に合格した人も山ほどおります。
結局は学力問題なんて親と子供の意識の問題にすぎません。
半分は親次第だと思いますし、半分は子供の責任です。
のんだっくれの親父の家で育った子供と、教育熱心な両親の家で育った子供では
環境が全然違い、機会の平等とは言えません。
もし機会の平等などというのなら、子供を一つの機関に預け、成人するまでみんな同じ環境と教育の
場を与えるぐらいのことをして、初めて機会の平等と言えるでしょう。
しょせん機会の平等なんて幻想に過ぎないのです。
金子や森永といった馬鹿達は、株の税金は安すぎると言う。ディトレーダーから税金で絞りとれとさえ言う。
なぜ彼らがそう言うかといえば、汗水垂らして働いている人の最高税率は50%だからなのだそうだ。
汗水垂らして働くという言い方事態が馬鹿丸出しなのだが、それはおいておくとして、じゃあ株は汗水垂ら
さずに簡単に稼げるとでも思っているのだろうか?
森永の馬鹿は、彼らは遊んで収入を得て、しかも税金は安い!と文句を言っている。確かに税金は表面上は
安く感じるだろう。ただしそれは永遠に儲けられるという前提の話である。森永の馬鹿は、株で損しても今ま
で払った税金が戻ってこないという、株税制の不利な部分には絶対に触れない卑怯者である。そして自分に
都合が良くなるようにアメリカを持ち出して、アメリカは総合課税だと言い放つ!だがおかしいではないか。
アメリカでは、損失を出した場合、過去に支払った税金が戻ってくる制度である。
だが、奴ら社会主義者はこの制度のことには絶対に触れないのである。
日本の場合、10%の税金であるが、損を出しても過去に支払った税金は戻ってこない制度になっている。
あいつらは馬鹿だから株で勝ち続ける難しさを何も知らない。日本の税制では、勝ち続けることでしか分
離課税の恩恵は受けられないのである。しかも10%は期間限定でいずれ20%に戻ってしまう。
彼らは知っててこれらのことに触れないのか、あるいは本当に知らないただの馬鹿なのかはわからない。
ただ一つ言えることは、いつまでも社会主義思想を撒き散らして、嫉妬心を燃やして金持ちいじめやるのは
もう時代遅れだということだ。
都市化が起こったときの一番大きな影響は、本来、十台半ばで職業につくはずだった
若者たちが、職業につかないで大学に行って遊ぶ暇ができたことです。これが大学紛争
の根本の原因です。この時、初めて人類の若い人に余暇ができた。
つまりそれまでは働かなきゃ食えないという状態が前提だったのに、働かなくても食え
るという状態が発生してきた。
ホームレスというのは典型的なそういう存在です。ホームレスを生み出すのは必ず都
会です。ホームレスは否定的に見られるし、妬まれたりもします。
しかしよく考えてると、実は、それは私たちが子供だった頃には理想の状態だったは
ずなのです。何せかれらは「働かなくても食える」身分なわけですから。
なぜ戦後の日本人が必死で働いたかというと、この「働かなくても食える」という状
態になりたかったからです。ところが戦後五十年以上経った今、今度はテレビで「失業
問題が深刻だ」とか何とかやっている。誰も飢え死にしないで食っているにもかかわら
ず、です。
一歩引いて考えてみると、漫画みたいではないでしょうか。要するに、「働かなくても
食える」というのが理想の状態だと思って、一生懸命働いてきた。実際、働いた分、経
済は成長し、社会はどんどん効率化していった。
ホームレスでも飢え死にしないような豊かな社会が実現した。ところが、いざそうな
ると今度は失業率が高くなったと言って怒っている。もうまったく訳がわからない。
失業した人が飢え死にしているというのなら問題です。でも、ホームレスはピンピン
して生きている。下手をすれば糖尿病になっている人もいると聞きました。
人間はコロッと忘れるものです。戦前の人が見たら、何と羨ましい人たちがそこかし
こ、公園や橋の下に寝ていることか、という状態なのです。働かなくても食えるという
のが暗黙の理想の状況だった頃を私はまだ憶えています。「あの人は働かなくても食える」
と素封家を羨ましがっていた時代が嘘のようです。
様々な「あべこべ」によって生まれた現象のおかしさが、ホームレスについての認識
に顕著にあらわれている気がします。
世田谷区ではあちこちから悲鳴が聞こえてきます。東京都区部でも唯一自然の豊かだっ
た世田谷区。しかし、土地の値段が上昇したことによって、大地主達は相続税が支払えず
に売るしかなくなってしまいました。
切り売りされた土地は都市化の波に揉まれます。庭のないミニ戸開発、マンション開発、
最悪なのはワンルームマンションです。屋敷林に住んでいた小動物の姿もどんどん消えて
いきました。相続税という存在は、不動産会社の自然破壊乱開発を生み出す土壌になって
います。相続税の影響で、喧騒な街となってしまった麻布みたいにしたいのでしょうか?
古代の律令制のもとに行われた、公地公民によって6歳より口分田を与えられ、死亡し
たら土地を返納する班田収授法がありました。つまり、実質的に相続税100%というこ
とです。しかし、人々はいずれ返納する土地を、真面目に開墾などしませんでした。その
ため、723年の三世一身法で3代に限って開墾地の私有を認めましたが、それでも土地
の開墾が進みませんでした。結局、743年の墾田永年私財法という実質相続税ゼロの社
会を作り、公地公民制を崩すことによって、結果、大幅に生産力が伸びていきました。
相続税というのは、人々の欲が築くパワーを殺す制度にすぎないことがよくわかるはず
です。平等という理想を追いかけていくことにより、人々の欲を殺し、人間が本来持って
るはずの能力を打ち消す悪法にすぎません。
日本もかつては大資産家が沢山おりましたが、相続税の影響もあって都内に500坪以
上の土地を持つ資産家はごくわずかになっています。山手線の内側にどれほどの屋敷が残
っているでしょうか?
最近格差が広がったなどと言う方が増えましたが、50年前と比べれば大幅に格差は縮
まっております。そして、その間に起きたことは、官僚の権力が強くなっていったという
事実です。今や彼らは天下りし放題です。
民間の人に財力という力が無くなったら官僚支配が強くなるということを見事に証明し
ました。更に相続税を強化しようなどというのは、官僚支配を強める結果になるでしょう。
世田谷区ではあちこちから悲鳴が聞こえてきます。東京都区部でも唯一自然の豊かだっ
た世田谷区。しかし、土地の値段が上昇したことによって、大地主達は相続税が支払えず
に売るしかなくなってしまいました。
切り売りされた土地は都市化の波に揉まれます。庭のないミニ戸開発、マンション開発、
最悪なのはワンルームマンションです。屋敷林に住んでいた小動物の姿もどんどん消えて
いきました。相続税という存在は、不動産会社の自然破壊乱開発を生み出す土壌になって
います。相続税の影響で、喧騒な街となってしまった麻布みたいにしたいのでしょうか?
古代の律令制のもとに行われた、公地公民によって6歳より口分田を与えられ、死亡し
たら土地を返納する班田収授法がありました。つまり、実質的に相続税100%というこ
とです。しかし、人々はいずれ返納する土地を、真面目に開墾などしませんでした。その
ため、723年の三世一身法で3代に限って開墾地の私有を認めましたが、それでも土地
の開墾が進みませんでした。結局、743年の墾田永年私財法という実質相続税ゼロの社
会を作り、公地公民制を崩すことによって、結果、大幅に生産力が伸びていきました。
相続税というのは、人々の欲が築くパワーを殺す制度にすぎないことがよくわかるはず
です。平等という理想を追いかけていくことにより、人々の欲を殺し、人間が本来持って
るはずの能力を打ち消す悪法にすぎません。
日本もかつては大資産家が沢山おりましたが、相続税の影響もあって都内に500坪以
上の土地を持つ資産家はごくわずかになっています。山手線の内側にどれほどの屋敷が残
っているでしょうか?
最近格差が広がったなどと言う方が増えましたが、50年前と比べれば大幅に格差は縮
まっております。そして、その間に起きたことは、官僚の権力が強くなっていったという
事実です。今や彼らは天下りし放題です。
民間の人に財力という力が無くなったら官僚支配が強くなるということを見事に証明し
ました。更に相続税を強化しようなどというのは、官僚支配を強める結果になるでしょう。
「格差社会」という言葉が小泉政権のキーワードとなり、次期総裁選も絡んで話題とな
っている。「行き過ぎた市場原理主義の弊害」という表現が使われることもある。
時代の変化に適応した成長企業や一部の成功者の話を聞いて、自分の身の回りと比べ、
また人口の高齢化による介護の増大などを考え併せて、格差は拡大しているかもしれない
と思う人が多いのは自然である。
しかし、日本の所得配分の不公平が拡大しているという確たるデータは存在しない。「格
差社会」や「市場原理主義」の「行き過ぎ」などは、定義や具体的内容になるとあいまい
で、単なる政治的スローガンである。世界的に見て、日本が世界で最も格差の少ない平等
な社会を実現していることはよく知られている。
日本の課題の多くは、過去十年以上に及ぶ経済成長率の長期停滞と高齢化に由来してい
る。税収の低下と誤った景気政策による財政危機を背景に、小さな政府を目指す財政支出
の削減や規制緩和などが、既得権を持つ側からの批判対象となる。
課題の解決には、成長率の回復しかないし、そのためにはより一層の規制緩和とリスク
への挑戦を促す経済の活性化策が必要である。
成長が加速すると、常にその波に乗れた人とそうでない人との格差は拡大し、その後、
時間を経て成長の恩恵が全経済に及ぶ。格差の解決は成長に貢献する意欲と能力を持った
人材をいかに組織的に育成するかにかかっている。
要は、成功者を見て、自分にもチャンスがあると考えるか、自分には真似ができないと
あきらめるか、どちらの人が多いかである。その意味で、IT(情報技術)教育の充実や、
高齢者の労働市場確保などを通じて、可能性に挑戦するための機会を拡大することは重要
な課題である。また、高齢者は資産を有効に活用して、若者の起業・成長を支援し、その
配当を得ることができる。千五百兆円に及ぶ個人資産を有効に活用できない、金融システ
ムの変化も必要である。
長期不況後の成長は始まったばかりである。格差社会への批判が出ることは成長が始ま
った証しでもある。より多くの人が成長の実感と、将来の明るい期待を持つようになれば
単なるスローガンは力を失う。時期総裁選ではこのような政策論争が望まれる。
人間は、自分の欲求不満が合理的な方法で解消されない場合に、非合理的な適応の仕方
をして、自分を守ろうとします。これは、フロイトが打ち出した防御規制という概念です。
このうちで、「合理化」というものがあります。これは、自分の本当の欲求を自己欺瞞で
偽り、自分が今置かれている状況を正当化しようとすることです。
イソップ物語で「酸っぱいブドウ」という話があります。キツネが、高いところにあっ
て、手が届かないブドウを見つけたのだけど、食べることができません、それで、どうし
たかというと、「あれは、酸っぱくておいしくないんだ」と言ったわけです。
ブドウの価値を相対的に引き下げることによって、自分自身の欲求不満を処理している
のです。その本質は、「負け惜しみ」だということができます。
本当は彼らだってお金儲けはしたいだろうし、頑張っていた時期もあったと思います。
ですが、いろいろやってみて、自分には金儲けの能力がないとはっきりわかった結果、欲
求不満が生じたわけです。その結果、自分の金儲けに対する欲求と、自分が今置かれた状
況である稼ぐ能力がないという現実のギャップを解消しようとして、「世の中金だけじゃな
い」という発言をするわけです。ですから、そういう人に限って、金に汚かったりします。
これが行き過ぎると、ニーチェの言うところのルサンチマンとなり、遂には、「金持ちは
悪いことをして儲けているから金持ちなんだ。だから貧しく生きることのほうが正しい」
などと捻じ曲がった価値観になってしまいます。
「世の中金だけじゃない」と言う人たちは、儲けられないことを合理化するために、そ
のように主張しているのです。
富を軽蔑する人間をあまり信ずるな。
富を得ることに絶望した人間が富を軽蔑するのだ。
こういう人間がたまたま富を得ると、一番始末が悪い人間になる。
ベーコン(英・哲学者)
人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めることである。
つまり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。
ドストエフスキー(露・作家)
「貧困は恥ではない」というのは、すべての人間が口にしながら
誰一人、心では納得していない諺である。
コッツェブー(独・劇作家)
所有している金銭は自由への手段であるが、追い求める金銭は隷属への手段である。
ルソー(仏・思想家)
金がないから何もできないという人間は、金があっても何も出来ない人間である。
小林一三(日・実業家)
若いときの自分は、金こそ人生でもっとも大切なものだと思っていた。
今、歳をとってみると、まったくその通りだと知った。
オスカー・ワイルド(英・作家)
人々はお金で貴いものは買えないという。
そういう決り文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりの証拠だ。
ギッシング(英・小説家)
人間よりは金のほうがはるかに頼りになりますよ。頼りにならんのは人の心です。
尾崎紅葉(日・作家)
身代をつぶす相続税
東京都千代田区麹町のある八百屋さんは近所の5軒の店とともに52坪の土地に
9階建ての共同ビルを建てていた。平成3(1991)年1月に店主が亡くなり、
店舗部分に課せられた相続税1億数千万円が息子夫婦にふりかかってきた。
共同ビルなので売ろうにも売れずに、やむなく税務署には延納を申請した。
息子は「自分の残りの人生は20年間税金を払い続けることなのか」と悔やんでいたが、
同年12月、くも膜下出血で突然、他界した。まだ58歳だったが、医者には
「心労が重なったからでしょう」と言われた。
新たに1億8千万円の相続税が未亡人にかかってきた。第一回分の1800万円は保険金や
預貯金を取り崩して、なんとか支払ったが、第2回分の支払いの目処は立っていない。
未亡人はこう嘆く。
『義父は優良納税者で税務署から表彰された人です。八百屋という商売は、引っ越しして
できるものじゃないんです。税務署には同情してくれる人もいますが、
「制度は制度だから」というばかり。生活させていただいた残りで、
相続税を払うということではいけないのでしょうか。』
現代の相続税は、優良納税者が一生かかって築き上げた店を一代で取りつぶし、
息子の命を奪い、残された未亡人の住む家まで取り上げようとしている。
江戸時代のいかな悪代官でもなしえなかった悪行である。
悪知恵のある人なら、会社組織でも作って所得税も相続税も逃れたろう。
この八百屋さん一家のようなまじめな納税者は身代をつぶしてしまい、
悪知恵のある人は栄える。そういう国家で国民は幸せになれるだろうか。
そもそもそういう国家が栄えるのだろうか。
金持ってる奴は、自分より金持ってる奴をみて
さらに頑張ろうと思っているんだよ
ところが貧乏人は、自分と同じか下を見て安心感を得て満足してるんだ
苦しいのはオレだけじゃない! みんな苦しいんだ、と
両者の相反するこの態度が、格差社会を助長させているんだ
ということを貧乏人は早く気づいた方がいいよ
日本を駄目にしている税金や税制を晒し挙げよう!
まず相続税。
子孫のために一生懸命働こうという意欲をなくす。
遺産を減らし相続争いを激化させる
(遺産は多いほうがゆとりがあるから揉め事が起き難い)
相続税は廃止しよう!
累進課税も向上心を失わせるから緩やかにすべき。
逆に消費税はみんなが払うから平等。
払いたくなければ自給自足すればいい。
自給自足に近い暮らしは環境にもいい。
いまこそ努力した者・能力のある者が報われる社会をつくろう!
貧乏人の僻みが大きな政府を作り官僚組織を肥大させ、国力を低下させた。
今こそ僻みや妬みではなく実力主義・能力主義による国家を建設しよう!!
/// 社会主義が消えた 1 //////////////////////////////////////////////////
堺屋太一著 "「次」はこうなる" 1997年 講談社刊 より
1 社会主義が消えた − 失われた二十世紀の前提
確定論思想は敗退した
・・・・・いま、時代が決定的に変わろうとしている。それを象徴するのが、一世紀
にわたって人類の思想と政治に大きな比重を占めてきた社会主義の消滅である。
日本においても、一九九六年の総選挙で、社会民主主義、民主社会主義を含めて、
およそ社会主義系統と見られる政党は激減、消滅寸前になった。
/////////////////////////////////////////////////////// 堺屋 太一 著 ///
/// 社会主義が消えた 2 //////////////////////////////////////////////////
しかも、社会思想としての社会主義の衰退は、政治勢力としてのそれよりも
著しい。日本共産党ですら社会主義または社会主義革命の文字を一切表に
出さなくなった。旧ソ連や東欧でも、旧共産党の人脈人材が甦ることはあっても、
社会主義の思想と文化が再び支持を得ることは考え難い。世界的にみても、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などいまだに社会主義を唱えている国も
あるが、その実態は家族支配の二十世紀型絶対王政に過ぎない。「社会主義
市場経済」を標榜する中国の軸足は、完全に「市場経済」に移っている。
////////////////////////////////////////////////////// 「次」はこうなる ///
/// 社会主義が消えた 3 //////////////////////////////////////////////////
社会主義が滅んだのは、政治闘争による敗北の結果ではない。社会主義の
前提にあった二つの根本原理が崩れた結果である。実は、このことこそ、
社会主義そのものの崩壊以上に重要な問題なのだ。
その二つの根本原理の第一は、確定論的な社会科学理論である。
社会主義の前提となっていた確定論的な理論とは何か。それは、この世の中は
唯物論的に動くのであり、正確なデータと理論(数式)を発見すれば、何事も
確実に予測できるはずだ、という考え方である。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 4 //////////////////////////////////////////////////
この考えの根底にあるのが唯物論的人間観、つまり人間はみな経済的な最大
利益を求める「経済人」だ、という見方である。もし、人間がそのような賢明な存在
だとすれば、それぞれの地域の自然環境やその時代の技術条件などから見て、
人民のすべてに最適の商品、サービス、制度が存在するはずである。したがって、
世の中の情報を正確に把握できたとすれば、有能にして善良なる専門家、いわゆる
「人民の官僚」ならば、あらゆるものの最適規格を発見できるに違いない。つまり、
それぞれの社会それぞれの時代にふさわしい最適の規格品がつくれる、というわけだ。
自動車なら国民車、男子の服装なら国民服、レジャーや旅行なら国民休暇村の
ような施設が、善良にして有能な官僚によって発明されるだろう。これを大量生産
すれば、最も安価に最良の商品やサービスを全国民に与えることができるはず
である。
///////////////////////////////////////////////////////// 1997年刊 ///
/// 社会主義が消えた 5 //////////////////////////////////////////////////
しかし、実際の社会主義国家では、そうはうまくはいかなかった。それを社会主義
の信奉者たちは、まだ情報が足りず、官僚も不慣れで、技術が不足しているから
だ、いずれ情報収集が進み理論が精緻になり、技術が進歩すれば、最適の規格が
発見されるに違いない、といい続けてきた。
これは自然科学におけるライプニッツ的確定論思想を、社会と政治に代入した
ものである。天文学者は、条件さえ示されれば、未来を正確に予測できる。次に
いつハレー彗星が現れるか、いつ日食が起るか、きわめて正確にいい当てること
ができる。これは条件が単純で、理論が明確だからだ。
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
/// 社会主義が消えた 6 //////////////////////////////////////////////////
社会現象は条件が複雑で変わりやすいが、それでもやがては、情報収集が進み
理論が明確になれば、未来の姿は確実に予測でき、それぞれの社会の最適の
規格を発見できるはずだ。それを私利私欲のない「人民の官僚」が指導して大量
生産すれば、最も安価にして効率的な生産ができ、すべての人々がより多くの商品
やサービスを享受する幸せな世の中になる − 社会主義の根底にある思想は、
ざっとこんなものだった。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 7 //////////////////////////////////////////////////
しかし、いまでは人間の世は確定論的に動くものではないことが認められている。
物理学や数学の世界でさえ、カオスとかフラクタルといった非確定論的な理論が
一般化しているほどだ。この世の中の条件をすべて感知することはできないし、
感知したとしても、必ずしもただ一つの結論が出るわけではない。何よりも、人間
社会では、個々人の好き嫌いこそが大事だ。好みや感情は本質的な価値の一つだ、
といい出されるようになった。
/////////////////////////////////////////////////////// 堺屋 太一 著 ///
/// 社会主義が消えた 8 //////////////////////////////////////////////////
社会主義の発想によれば、個人的な好みや感情によって求める規格が異なるのは、
誰かが誤った情報を教えた結果か、古い伝統のマインド・コントロールを受けてい
るためか、本人の無知または誤解などから生じる誤謬だ、とされていた。したがっ
て、人間が理性的になり、マルクスのいう「経済人」になれば、同じものを与えら
れれば、みな同じように喜ぶはずだと考えていた。
////////////////////////////////////////////////////// 「次」はこうなる ///
/// 社会主義が消えた 9 //////////////////////////////////////////////////
だが、非確定論的なカオス理論が物理学の世界でさえ認められるようになった
いまでは、個人の感情や主観がまちまちなのは当然であり、個人が自分の主観を
満足させることこそ意義がある、とされている。
宗教についてもマルクスは「精神の麻薬」といったが、本来の人間性が求める
心の安らぎではないか、という発想になってきた。
要するに、条件(情報)を入れれば、確定した理論によって唯一の正しい結論が
出るという確定論の崩壊が、社会主義の第一の前提を取り崩したのである。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 10 /////////////////////////////////////////////////
資本と労働力が分離するとは限らない
社会主義を支えたもうひとつの前提は、十九世紀の初めから産業革命が起きた
ことによって現れた、「資本と労働力の分離」という現象の絶対化である。
それより以前は、農業も手工業も商業も、労働と資本は一致していた。農民は
自ら所有する農機具で自らが耕作権を持つ土地を耕した。こうした農民たちが集まる
ことで中世的な村落共同体が生まれた。つまり生産共同体としての地域社会および
家族社会というものが存在したのである。
///////////////////////////////////////////////////////// 1997年刊 ///
/// 社会主義が消えた 11 /////////////////////////////////////////////////
ところが、産業革命の結果、生産手段である機械、工場、鉄道、汽船、商店など、
すべてが巨大化し、一人の労働者が所有することも、一つの家族が運営することもで
きなくなった。
したがって、生産手段を持っている人間、いわゆる資本家やそれを抽象化した法人
と、労働力を持っている労働者とは分離されて行く。これが限りなく進み、双方を持
つ中産階級はいずれ消減する運命にある、と社会主義者は考えた。
社会主義のこの理論は、広く資本主義国の行政官や技術者にも受け入れられていた。
たとえば都市計画の分野では、一方に労働力再生産の住宅地があり、他方に生産手段
集積地である工業地帯や商業地区が存在する。そしてこの間を鉄道や高速道路で結ぶ
のを理想とする考えが持ち込まれた。
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
/// 社会主義が消えた 12 /////////////////////////////////////////////////
産業経済だけではなく、教育や街づくりに至るあらゆる分野で、資本と労働は
限りなく分離する方向に進んでおり、そうなることが近代的な社会の仕組みだ、
と信じられていたのである。
資本と労働の一致が残っている零細企業や個人商店は、前時代の残滓の
ようなもので、近代化が進むと、個人商店よりもスーパーマーケットであり、手工業
よりも大規模工場となるのが当然とされた。下町のように生活の場と生産の場が
混在して、住宅のそばに町工場があったり、商店の二階に住んだりするのは
悪しき古い状態で、コンビナートとニュータウンのように生産の場と住宅地は
遠く離れているのが理想である。将来はそうなるだろうし、そうしなければならない、
と考えられていた。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 13 /////////////////////////////////////////////////
戦後の日本では、都市計画も労働基準法も財政資金の投融資も、労働力と
生産手段とが分離した状態をつくるべく企画され、実施されてきた。
社会主義のこの理論は、産業革命当時の主流産業である大規模製造業を
前提として考えれば当っている。しかし、一九八〇年頃からは製造業は経済の
主流ではなくなったし、製造業の中身も社会主義誕生当時に想定したものとは
異なって来た。いまや最も就業者の多い職業はデザイナーや医師、会計士などを
含む「その他サービス業」であり、どこまでが資本家でどこからが労働力か
分けられない業務である。
もちろん、デザイナーには机や鉛筆が必要だし、医者には医療機具が必要だ。
しかし、そういったものは個人住宅よりも安価で、個人でも所有し運用しうる
規模である。彼らの最大の生産手段は、本人の知識と経験と感性だろう。
/////////////////////////////////////////////////////// 堺屋 太一 著 ///
/// 社会主義が消えた 14 /////////////////////////////////////////////////
いまや資本と労働が分離している分野はどんどん収縮し、社会的な一般性を
失った。だから、「万国の労働者よ団結せよ」といっても、組合に入る労働者の率は
減る一方だ。組合に入ることにメリットを感じない勤労者が多くなったのである。
こうした社会的条件からいっても、社会主義の前提が崩れた。このことはまた、
社会主義の前提を信じてきた戦後の日本的アカデミズムの衰退にも通じている。
日本的アカデミズムは、十九世紀末、まさに社会主義の勃興時代に欧米から
知識を入れ、それにふさわしい組織をつくった。だから、本人が社会主義者で
あるか否かを問わず、自然科学から社会科学まで、あらゆる分野が確定論的な
発想と労資分断の前提に立っている。
////////////////////////////////////////////////////// 「次」はこうなる ///
/// 社会主義が消えた 15 /////////////////////////////////////////////////
たとえば都市工学では、工場地域、商業地域、住宅専用地域を分ける「線引き」
が必要であり、オフィスやデザインルームやスタジオのある住宅は「古いタイプ」
という発想が容易に解けない。
医学においても、地域医療は緊急時または保健的なもので、眼科は眼科、
皮膚科は皮膚科、循環器科、消化器科など、できるだけ専門に分かれた大病院
があるべき姿だ、というのが「常識」であった。社会主義を信じるか否かにかかわり
なく、二十世紀人のほとんどは社会主義を生み出した十九世紀的枠組みを信じて
いたわけである。
いま起ろうとしている大変化は、ルネッサンス以来、主として西洋文明が積み上げて
きた近代工業社会の前提が崩壊する現象である。その中で、最も近代工業社会的な
思想と理論を備えた社会主義が、最も惨めな敗亡を見たのは、当然のことである。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 16 /////////////////////////////////////////////////
「知価社会」がはじまった
二十世紀は何度かの大変化を経験した。第一次世界大戦の前後でも、第二次
世界大戦のあとでも、大変化があった。しかし、これまでの変化は、近代工業社会が
高度化する過程で起った変化だった。ところが、いまわれわれが直面しているのは、
近代工業社会そのものが終焉しようとする大変革である。
これからはじまる社会は、これまでの状況が一段と進む高度社会ではなく、新しい
発展段階の初期の状況である。
///////////////////////////////////////////////////////// 1997年刊 ///
/// 社会主義が消えた 17 /////////////////////////////////////////////////
これからの時代を、高度産業社会とか高度情報社会とかいう人がいるが、これは
正しい認識ではない。高度社会論者は、「いままでは中程度の産業社会または
情報社会であったが、これからは従来の社会がより高度化した社会になる」と
いっている。だから、「現在の枠組みの延長上に未来はある」、としか考えていない
わけだ。
いま、われわれが直面している変化は、そんなものではない。産業革命以来の
近代工業社会が終わり、「次」の新しい社会、私の言葉でいう「知価社会」が
はじまろうとしている歴史的瞬間なのだ。
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
/// 社会主義が消えた 18 /////////////////////////////////////////////////
したがって、あらゆる概念が、これまでのアカデミズムの言葉では処理できなく
なってきている。たとえば経済分野でいうと、「生産性」という言葉がよく使われる。
労働生産性は、近代工業社会では明確にはかることができた。農業や素材産業や
規格大量生産の商品ならば、生産量と生産額が比例すると考え得たからである。
ところが、これがブランド品ならどうだろう。あるネクタイ会社が、百人の従業員
を使って一本一万円のネクタイを月に一万本生産していた。それが百人の中の
五十人をデザイナーに替えて、三万円のネクタイを五千本つくりだした。
///////////////////////////////////////////////////////// 講談社発行 //
/// 社会主義が消えた 19 /////////////////////////////////////////////////
この工場の生産性は増えたのか、減ったのか。数量でいえば、一万本が五千本に
なったのだから、半減したことになる。売上でいうと、一億円が一億五千万円に
なったのだから、五割増えたことになる。
ところが、従来の考え方であれば、金額にはデフレーター(国民所得の名目額を
実質額に換算するのに用いる国民経済計算上の物価指数)を掛ける、つまり価格
上昇率を打ち消す数値を掛ける。したがって、この会社の生産性は低下したという
ことになりかねない。もっとも、デフレーターは国民経済全体の物価指数なので、
ひとつのネクタイ会社では左右されることはない。
/////////////////////////////////////////////////////// 堺屋 太一 著 ///
/// 社会主義が消えた 20 /////////////////////////////////////////////////
いまや国民総生産の七割を占めるに至ったサービス業には、右の例に類似
したことがあるから、この問題(量でははかれない質)は無視できない。
さらに、コンピュータ・ソフトやビデオ・コンテンツとなると、まったく違った視点が
必要だろう。
このように、「生産性」という概念一つをとっても、従来のアカデミズムが規定
していた言葉が使えなくなっている。そしてそのことは、社会の新しい概念が
求められていることを象徴している、といえるだろう。・・・・・
////////////////////////////////////////////////////// 「次」はこうなる ///
/// 脱社会主義のすすめ・資本主義のすすめ 1 ///
竹内 靖雄著 「日本」の終わり―「日本型社会主義」との決別
日本経済新聞社 日経ビジネス人文庫 2001年発行 税込価格:\780 より
・・・・・
10章 脱社会主義のすすめ・資本主義のすすめ
◇ただいま社会主義者の高名な紳士がいわれたのは、要するに、利潤をあげる
ことは罪だということである。私は損失を生むことこそ真の罪だと信じている。
◇社会主義はすべてを所有し、すべてを計画し、すべてを分配し、かくてその
政治家と官吏が個人の日常生活を決定する全能国家に基礎をもつ思想である。
― チャーチル
/////////////////////// 「日本」の終わり ///
/// 脱社会主義のすすめ 2 /////////////
◇社会主義がうまくいくのは天国か地獄くらいのものだ。しかし
天国にはその必要がないし、地獄にはすでに導入されている。
― セシル・パーマー
◇社会主義とは何か。それは資本主義から資本主義へのもっとも
苦しい道程である。
― 旧ソ連の小話
◇金持ちを責めてはいけない。貧乏人がいつ君に仕事をくれた?
― ローレンス・J・ピーター
/////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 資本主義のすすめ 3 /////////////
日本は社会主義の国である
日本は戦後、資本主義をやってきたのではなく、実は社会主義をやってきた、と
見るべきではないか。ほとんどの人がここのところを錯覚している。たしかに、日本も
アメリカ、イギリス、ドイツその他の欧米諸国や韓国などとともに資本主義の国であり、
米ソ対立の冷戦時代には西側の資本主義陣営に属し、東側の社会主義と対立してきた。
自由主義と民主主義は、日本が自由世界の一員として掲げてきた大義の旗であった。
しかし見かけはそうであっても、そのホンネ、その精神の深層構造を見れば、日本の
正体は資本主義ではなくて社会主義ではないか。コウモリは鳥と同じように空を
飛び回っているので鳥の仲間のように見えるが、実は哺乳類である。日本も実は
鳥の姿をした哺乳類、資本主義の形をした社会主義の国ではないだろうか。
/////////////// 日本経済新聞社 ///
/// 脱社会主義のすすめ 4 /////////
海外の日本研究者、とりわけアメリカで「リヴィジョニスト」(日本見直し論者)
と呼ばれた人々は、日本のコウモリぶりを観察して、「鳥にしてはかなり変だ」
という結論に達した。「アメリカ鳥」にくらべて「日本鳥」はいかにも鳥らしくない。
これは鳥とは別のものとして扱うのが正解ではないか、というわけである。
こうしたリヴィジョニストの言い分は、アメリカ型の資本主義以外のものを
「標準外」と見て拒否する偏狭な見方であり、資本主義にはアメリカ型
(アングロサクソン型)もあればドイツ型、フランス型、北欧型もあり、
アジア型もある。
/////////////// 2001年発行 \780 ///
/// 資本主義のすすめ 5 /////////
そして日本型もあっていい、という反論が当然出てくる。その場合、資本主義にも
いろいろあって日本だけが特殊なのではない、アメリカ型も一つの特殊なタイプに
すぎず、それを標準とするのはおかしい、という相対主義をとるか、さらに一歩進めて、
「いろいろあっても日本型こそ普遍性のある優れたものである」といったネオ
ナショナリストの立場をとるか、いずれかになる。日本の社会主義の中枢にいる
官僚たちには、こうした形での「理論武装」が必要であった。
///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 脱社会主義のすすめ 6 /////////
何をもって標準型の鳥とするか。ツルかカラスかコンドルか。しかし議論を
この次元に持ちこんでも仕方がない。標準となる鳥は、もっともよく繁殖して
多数派となった鳥である。英語が事実上世界の標準語になっているのも同じ
理由による。問題は「日本鳥」が標準か、「アメリカ鳥」が標準かということ
ではなく、そもそも日本は鳥ではなくてコウモリではないか、ということにある。
資本主義のふりをしているが資本主義ではなく、本当は社会主義ではないか。
///////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 資本主義のすすめ 7 /////////
日本のエリート官僚や保守主義者、ネオナショナリストたちが理論武装して堂々と
自己主張をするなら、「アイデンティティ」を曖昧にすることをやめて、自分が本当は
何であるかを堂々と主張すべきである。それはこういうことになる。
「日本は社会主義の国である。日本人は資本主義が嫌いで、本当は社会主義で
やりたいのである。日本は戦後五十年、日本流の社会主義がうまくいくことを実証
してきた。それを外から見て、変な資本主義だ、あれは資本主義ではない、などと
批判するのはナンセンスである。日本には日本に適した社会主義というものがある
のだから、放っておいていただきたい」と。
//////////// 「日本」の終わり ///
/// 脱社会主義のすすめ 8 ///////////
社会主義の伝統
資本主義といえば、戦前の貧富の差のはなはだしかった時代、貧しい農村を抱え、
不況に苦しんでいた時代の日本は、今日よりも資本主義らしい資本主義だった。
マルクスの非難がよくあてはまりそうな、若くて荒っぽい資本主義をやっていた。
つまりそれは、少数の金持ちをつくりだしたけれども、農村を中心に貧困層が存在し、
企業は人々に十分な雇用を与えることができなかったのである。そのために、
アナーキズム、マルクス主義から国家社会主義まで、各種の社会主義が台頭した。
/////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 資本主義のすすめ 9 //////////
その中で弾圧を受けることなく、政・官・軍の内部に影響カを浸透させたのは、
クレムリンのコントロールを受ける日本共産党の正統派マルクス主義ではなくて、
国産の国家社会主義であった。北一輝の思想はその代表格であり、それに感化
された青年将校グループ(革新派)が、北一輝の理論と革命プログラム奉じて
二・二六事件という「国家奪取計画」を実行に移したのである。天皇を上に戴き、
天皇直属の権力機構を自分たちが握って、資本家、金持ちを抑え、平等化を実現し、
自由な金儲けのできない社会をつくること、これが彼らの目的だったのである。
//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 脱社会主義のすすめ 10 /////////
この日本型社会主義の特徴は、資本主義や市場経済を一掃して私有財産も
階級も国家もない社会を実現する、というマルクス主義とは違って、「国家によって
コントロールされる資本主義」を認めていることにある。資本主義は制限つきで
やらせるが、貧富の格差が生じることは許さない。私有財産にも上限を設ける、
というわけで、これはソ連に登場したスターリン型社会主義とは明らかに別物である。
////////////// 2001年発行 \780 ///
/// 資本主義のすすめ 11 ////////////
軍の中の「革新派」は挫折したものの、軍は全体として反資本主義・
社会主義志向の集団だった。同時に軍は国家(政府)のコントロールの
及ばない利益集団であり、戦争へと暴走し、結局政府も軍自身も自らを
コントロールできなくなって敗戦を招き、壊滅した。しかし社会主義の
「大義」は、生き残った官僚によって引き継がれたと見ることができる。
そしてこの日本型社会主義の理想は、戦後になって、官主導の下に
着々と実現されていった。
//////////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 脱社会主義のすすめ 12 /////////////
戦後、政・官・財は協力して資本主義という「金の卵を生む鶏」を育て、その
肥育に成功し、金の卵、つまり経済成長の成果を取り上げては再分配する
ことで日本型の社会主義を実現した。めざましい成長と繁栄のエンジンに
なったのは資本主義であるが、その成果の大半は社会主義のために使われた
のである。日本の社会主義は資本主義が成長すればするほど自らも肥大して
いった。そして「政・官・財のトライアングル」構造による支配、官の規制と保護
による成長成果の再分配に加えて、他の先進諸国のあとを追って立派な
福祉国家もつくりあげた。こうして日本の社会主義は完成を見たことになる。
//////////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 資本主義のすすめ 13 ///////////
日本型社会主義
日本はかつてのソ連と同じタイプの社会主義をやっているわけではない。
社会主義といってもいろいろあって、ソ連型社会主義はその標準型でも
何でもない。
冷戦時代の欧米では「社会主義」という言葉を「共産主義」とは区別して
使っていた。それによると、ソ連や東欧諸国や中国などの共産党独裁体制を
「共産主義」と呼び(たとえば「コミュニスト・チャイナ」といえば毛沢東の中国のこと)、
西欧で社会民主主義政党が政権を握って産業の国有化や福祉国家を推進
しているところを「社会主義」と呼んでいた。
/////////////// 「日本」の終わり ///
/// 脱社会主義のすすめ 14 /////////
ところが日本では「共産主義」という言葉が忌避され(この言葉を終始愛用
して党名に掲げているのは日本共産党だけである)、ソ連や中国のことを
「社会主義」と呼んでいた。このために、日本では社会主義といえば、ソ連や
中国型の社会主義しかないかのように思われている。「スカンディナヴィアン・
ソーシャリズム」という言葉も使われていたように、欧米流の定義では北欧諸国も
社会主義の国だったのである。
///// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 資本主義のすすめ 15 ////////////
かつての労働党政権下のイギリスも社会主義をやっていた。それをやめて
脱社会主義路線に切り替えたのが保守党のサッチャー政権であった。日本でも
同じ時期の中曽根政権の時に、脱社会主義的改革が行われた。その後も
看板だけは掲げられている規制緩和、民営化、行政改革、財政改革、税制改革、
金融ビッグバンなどの改革路線は、方向としては脱社会主義をめざすものである。
ただし、それがはかばかしく実行されないでいるということは、日本がいまだに
社会主義をやめる気がないことを示している。
//////////////// 日本経済新聞社 ///
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