石原慎太郎は日本経済に対する国賊ではないのか?

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東京への過集中が防災を不可能にしている
         片山善博       鳥取県知事 
 「東京」がこのような街になってしまったのはいつのころからだろう。 
故金丸信・自民党元副総裁が民活担当大臣を務めた中曽根康弘内閣の時代からだろうか、
再開発という名で都市の土地の「有効利用」が行われるようになり、国土の均衡ある発展や
分散といった政策は鳴りをひそめた。
 東京にはそれまで、まだまだ「土地や空間」があった。規制で使用出来なかった土地や汐留のように
たまたま不効率使用で空いていた土地、採算が悪く使われなくなった工場の土地だ。
これら「土地の再利用」に加え、容積率の緩和で「空間の有効利用」も進み、
狭い土地に建ち並ぶビルやマンションは、見る間に高層化していった。
地下利用もどんどん進められた。
 私の年代は、埼玉・千葉・神奈川といった東京周辺に家を求めた世代だ。
しかし、東京で土地や空間の「有効利用」が進められた結果、再び都心部に住居を求める
「都心回帰」の時代になったといわれる。
 狭い空き地ですら、その上下の空間と地下がみっちり利用された「東京」は、
集積の結果として、機能的でかつ効率的な都市になった。
 だが、それは危険性とセットだった。「高度利用」が進めば進むほど、
余裕のない都市になってしまったのだ。かつてリザーブされていた土地は、
防災などの拠点になり得たが、そのような場所はもはやほとんどない。
 「ここで大地震が起き、火事が発生したら、生き延びるのは無理だろう」
 私は旧自治省に勤めていたときに、目黒区に住んでいたのだが、いつもこう感じていた。
まず、逃げ場がない。水もない。昔なら防火水槽を使えもしただろうが、
それが無くなってから長い年月が経る。「そのとき」のことを考えると…、
悲惨な想像が頭をよぎる。
     「外部不経済」がしめす東京の限界
 発災時に、まず頼りになるのは消防や警察、そして自衛隊だ。
だが、都市が広域的なダメージを受けた場合、これらが当てになるとは思えない。
一斉にすべての地区に駆け付けることはできないからだ。 
 2000年10月、鳥取・島根県境付近を震源とする鳥取県西部地震が起きた。
マグニチュード7.3、震度6強。被害の大きい地域は山間部が多かったり、
市部の倒壊した建物でも集会が直前に終わっていたりなどの幸運が重なり、奇跡的に死者はゼロだった。
だが、消防の出動は、こうした地方の地震ですら、投入先を選択・集中させるしかなかった。
ましてや東京のような都市においてやである。 
 鳥取県の地震では、アスファルトに穴が開くほどの岩石が落ち、道路が遮断されて孤立した地区も出た。
そうした地区では、地域の防災力が第一次的には重要になった。誰がどこにいるか分かっているので、
「傾いた家におばあちゃんがいるぞ」「あの奥には、もっと大ばあちゃんがいる」と、
住民同士で救助活動を行った。介抱や炊き出しなどで役割分担をし、組織的に動いた地区もある。
だが東京では、いざというときに我先に逃げる算段をする人は多いだろうが、
周りに人への気配りまでは期待出来そうにない。
 さて、直接の被害を免れたとしても、避難する場所はどうだろう。
東京に人口が集中する昼間帯は、逃げてきた人を収容出来るかどうか覚束ない。
それに、避難所の食料や電気、ガス、水はどうやって供給するのか。
 

 地方での地震ならば、都市が打撃を受けても、周囲からアクセスしやすく、
援助の手を差し伸べることができる。
だが、繁華街と市街地が延々と広がる「東京」には、どこまで近付けるだろう。
公共交通機関は遮断され、道路はビルの倒壊などで通れないかもしれない。
東京都は発災三日後には被災していない地区から救援物資が届くと想定している。
もちろん鳥取からも救援物資を出す。しかし届く保証はあるのか。
備蓄が足りなくなることはないのか。 
 最近ブームの高層マンションは、水道が止まれば機能がストップしてしまう。
トイレは使えず、炊事や洗濯もできない。
停電すれば何十階の階段を昇り降りしなければならない。
 また、食料などを備蓄している家庭はどれくらいあるだろう。
コンビニエンスストアに行けばいいと考えている人が多いかもしれないが、
みんなが買えばすぐに底をつく。しかも、最近は売れ筋の商品を随時配達して
貯め置かないシステムになっているので、店鋪自体の在庫はそれほどないはずだ。
食料やエネルギーの供給など都市を維持するシステムはITが管理している部分があるものの、
それでも多くの部分が人の手に頼っている。しかし被災すれば人の行き来ができなくなる。
通勤がままならなくなれば、システムに支障が出ることは免れない。
 都市は発展し、拡大すると水が無くなって衰退するのが世界史の常だ。インダス文明しかり、
黄河文明しかりである。それは、都市が肥大化するためには緑を切るにもかかわらず、
緑の生み出す水を求めるという相反する行動を起こすからだ。そう考えると、
今のところ東京都水道局は通常時でさえこれ程の巨大都市に、よく休むことなく水を供給できていると思う。
驚きだ。だが、延々と張り巡らされた給水網や大本となる構造物が破壊された時はどうなるか。
 水をはじめとした都市のシステムが崩壊した時に、東京という都市もまた一気に崩壊するだろう。
不気味な暗示である。
かつて大都市問題と言えば、交通渋滞や公害だった。
経済発展の代償として生じる「外部不経済」といわれるものだ。
これらは様々な努力により、かなり克服できたと思う。
ところが、これとは少し違ったタイプの外部不経済が発生し始めている。
それは「過集中」による潜在的危険性と言うべきものだ。
 しかし、そうした過集中はなぜ進むばかりで、解消されないのだろう。
日本の政治や行政が、都市のグランドデザインを描けなかったことが一因ではなかったかと思う。
端的に言えば本来の都市計画がなかったのだ。これは東京ばかりではないのだが
現在都市再生は局所的に容積率を緩和するなどして地区内のビル群を高層化する手法をとっている。
だが、そもそも容積率は局所的対応にはなじまない。
 都市計画の原点に戻って考えると、よく分かる。
都市計画とは、もともと城砦都市国家を維持させるためのものだった。
ヨーロッパでは他国からの防衛のために城砦の内側に住んだ歴史がある。
狭い中で住むので、どうしても都市の容量を考えなければできなかった。
どういうものが配置できるかを、都市全体のキャパシティーから考えるのが都市計画だったのである
ところが、いまの日本では都市全体を考えず一部分だけの緩和が行われている。
つまり、木を見て森を見ない都市計画だ。
その結果、実は目に見えるところでも、容量のオーバーが顕在化し始めた。
工場跡に高層マンションを林立させた江東区では、地下鉄の駅が大混雑し、
保育所不足も心配されている。汐留の高層ビル群の開発では、
周辺道路に渋滞を引き起こしている。こうなると、もう防災以前の問題である。
 こうした巨大な「空中・地下都市」を被災前とおなじ容量で復元することは、
私には不可能に見える。「東京」は経済効率性と集積のメリットを求めるあまりに
過集中による外部不経済を引き起こしているのだ。
 こうした断面は他にもある。その一つは少子化だ。
特に女性が仕事をするようになった昨今、夫婦とも遠距離通勤の場合には、
余裕を持った子育てなど無縁になってしまった。
 人の誠意や職業倫理を奪っているのもその一つだろう。典型がマンションの耐震偽装だ。
うわべの市場原理を最大限に追求した人の心の帰結である。
 「東京」はもう限界ではないのか。
私は東京に出張するたびに、巨大都市を飛行機から眺めてそう思う。
地方分権こそが首都を救う
 「東京」が被災して被害を受けるのは何も都民だけではない。
日本全体、いや世界がダメージを受けるだろう。
だが今の日本では、代替機能を整備することもなく中枢機能だけ集中させている。
これでは保険をかけずに投資を続けるようなものだ。
 鳥取県では、米子市などの西部が被災したときには、
東部の鳥取市にある県庁がコントロールし、東部が被災した場合は、
米子市からコントロールする想定にしている。前回の地震では、
この遠隔操作がおおいに力を発揮した。
阪神淡路大震災で兵庫県の機能がマヒしたのは、
県庁と神戸市の機能が被災地に集中していたからだった。 
 アメリカの地方自治で優れているのは、大都市に中枢をおいていないことだろう。
ニューヨーク州の州都はオールバニーというハドソン川を230キロも遡った
人口十万人の都市である。シュワルツェネッガー知事のいるカリフォルニア州の州都は
ロサンゼルスでもサンフランシスコでもなく、サクラメントという約四六万人の街だ。
だからロサンゼルス地震のときも州都はダメージを受けることがなく、
キーステーションとして復興作業をコントロールできた。




なぜ、そうした州都の分散が可能になるのか。
それは、アメリカでは地方分権が極めて進んでいるからだ。
一生に一度も州政府に行かないで済む行政構造になっており、
どこに州政府を置こうが住民には関係ない。
逆に日本では都道府県レベルも集権体制で、県庁所在地への集中が進んでいるから、
国・県・市のそれぞれの段階でぜい弱な要素を抱えている。
東京への集中は、ニューヨークのように経済的な面ではメリットがあるだろう。
だが、政治や行政の中心はリスクへッジのためにも移すべきだ。
いわゆる首都機能移転は、防災上の観点からも必要なのである。
ところが、議論が下火になってしまったのは、経済が近視眼的になって効率性偏重に陥り
官僚も日常の便利さにかまけて緊張感を失ったからだろう。
本来は政治が将来の事を考えなければならないのだが、これも国会議員は何か課題があるたびに
霞ヶ関の官僚からレクチャーを受けているような状態で、お寒い限りだ。
 巨大になり、危険や不安そして外部不経済が大きくなり過ぎた大都市。
なのにリスク分散がされておらず、それに向けた思考も停止しているとあっては、
日本のポートフォリオ(安全性や収益性を考えた分散投資)は悪化するばかりだ。

では、問題解決にはどうすればよいのか。古典的かもしれないが、
やはり機能の分散しかないと、私は思う。そしてもうこれ以上の人口や
機能の集積は抑制基調にすべきだろう。
 そう考えると、道州制がうまくいけば日本の国土構造を変えるチャンスになる。
ただ、いまのままの議論では最悪の道をたどるしかない。
 政府が道州制の議論を進めているのは、市町村合併が一段落したため、
「次は都道府県の合併」という発想だ。
要するに規模を大きくして、運営コストを下げることしか考えていない。
だが、市町村合併は実態として自治能力を著しく低下させてしまった。
地方の衰退に輪をかけたのである。その延長線上の道州制ならば、
地方の状態を悪化させるだけで終わるだろう。 

中央政府は、道州制を地方分権の受け皿としている。
だが、政府自身はほとんど変わらないのが前提だ。
せいぜい地方の支分部局の権限を幾つか渡す程度だろう。
しかし、私はこの際、中央政府は解体再編し、国レベルでしかできない外交、防衛、
マクロ経済、司法などに特化すべきである。後は全部、地方政府が行うのだ。
そこまでやるうえで、都道府県が47のユニットでは無理というならば、
確かに道州制の再編も有効だろう。 
 中央政府を解体再編し、その結果として道州制が実施されると、
例えば大阪には大阪の集積ができる。九州にも、東北にもできる。
日本の国土構造は安定するだろう。防災一つとっても、
どこかが災害やテロでダメージを受けたとしても、
ダメージを受けていないほかの地方が手助け出来る。
 その意味では三位一体改革も非常に残念な結果に終わってしまった。
補助金は、箇所付けや交付決定で中央政府が大きな影響力を振るっている。
そのため、地方が補助金獲得競争に奔走し、国会議員も動員される。
また、補助金は全国一律の基準なので無駄が生じやすい。
そういう矛盾を全部まとめて解消しようという国家構造の改革が目的のはずだった。
ところが、それらはほとんど廃止されないで残り、数字合わせに終わってしまった。
   都市・地方の分断が不幸を生む
 かつて戦争があったとき、都市の住民は田舎に疎開した。
双方の人的なつながりはまだ濃かったのだ。だが、東京生まれの人口が増えて、
田舎に親類がすくなくなり、都市と田舎の関係はしだいに薄れてきている。
 それどころか、昨今、政策や言動による地方バッシングが激化しており、
地方の人は本能的に「東京からやっかい者扱いされている」と感じている。
そんな時に地方からの「東京」支援がうまくできるだろうか。 
「食料危機になって、東京からジャガイモを買いにきても売ってやらないようにしよう」
という、まことしやかな冗談が北海道では受けていると知人に聞いた。
豪雪によるキャベツの高値騒動では
「たまには田舎のありがたさをおもいしればいい」という声まできく。
 都市は単立できないということを、都市の人は自覚しなければならない。
一方では、地方も都市なしでは経済、雇用、財政の面で単立できない。
意図的にそうした敵対関係を煽って何かを進めようとしている人もいるが、
それはやめたほうがいい。互いに認めあい繁栄を助け合わなければ、
防災の上からも大いに問題があるからだ。、
 地方が活力を持つことは、都市にとっては一種の保険だ。地方が疲弊してしまい、
高齢者ばかりになってしまっては、いざというときの受け入れも無理になる。 
 そう考えると、国民が価値観を変える時代になったのだと思う。
今の社会で立身出世型といわれるライフスタイルはこうだ。
地方から上京し、いいとされる企業に就職して、毎日つり革にぶら下がって遠距離通勤する。
職場では方々に気を遣い、家庭ではろくに子育てもできない。
ようやくローンでマンションを買い、
それが耐震偽装で、借金だけが残ったというのであれば目も当てられない。
これが生活モデルとして本当に幸福だろうか。
 人の集まるところにはビジネスチャンスがあり、活気もある。
しかし、人が出て行った後にはそれらがなく、
ないことがさらに出て行く人をふやしてゆくという悪循環である。
 ある時代のアイルランドがこのような状態であった。
ケネディ大統領のようなアメリカ移民を生み、ヨーロッパの過疎高齢地帯になっていた。
ところが今、そのアイルランドが人口を引き付けている。
これは国民がこの地方で生き、人生を全うしようと発想を変えたからだ。

 
 日本での変革には、メディアの影響力が大きいのではないかと思う。
現在のマスメディアは東京一極集中になっている。
このため、いい情報は東京から出ても、地方からは悪い情報しかでない。
例えば、きらびやかなトレンディドラマは東京の新興住宅地や繁華街が舞台だが、
地方は自殺する場所などとして登場させられる。
ニュースも悪い情報が当然大きくなるので地方は大雪で亡くなったとか交通事故とか、
犯罪とかばかりだ。地方は暗いという固定観念や偏見が定着してしまう。
 対抗軸として私が注目しているのはケーブルテレビだ。デジタル化の深行で多チャンネル化し、
地方ではケーブルテレビが盛んになっている。各局とも徹底してローカルな番組を作っており、
しだいにいい映像が撮れるようになっている。内容も洗練されてきた。
地域の魅力を斬新な切り口で描いた番組も目立ち始めている。
 ただ、そうはいっても今の日本では、地方で全うする人生に欠乏感があるのが事実だ。
都会に出て行った人に取り残された感じである。
私は文化や芸術分野の施策に力を入れている。
どの地域も実は豊かで、人を魅了するような固有の文化がある。
それを本当に実感でき、誇れるような地域にしたいと考えているのだ。
他にも田舎には、自然の豊かさ、食料の新鮮さ、安さなど、素晴らしい物が多い。
そうした魅力に気付き、生かし、伸ばして行くには、
子供たちの教育も考えなければいけないと感じている。




また、地方が自身で魅力を創出していける構造にしなければならない。
これらは同じ地方分散でも、従来の「国土の均衡ある発展」とは逆のベクトルを持つ政策だ。
中央政府が地方にあてがいぶちを与えコントロールするようなやりかたではなく、
地方の自主性に基づく分散だからだ。
 「東京」はいまのままでは瀕死の重傷を負っているのと同じだろう。
「そのとき」まで見えないだけだ。もし、私が東京の防災を
「あなたの責任でやれ」といわれても、それは絶対にできないだろう。
既に集中が過ぎ、もう運を天に任せるしかない状態だからだ。
奈良時代には、為政者が大きな寺を建てて天災がないことを願ったが、
笑い事ではなく現代の東京でもそんなことしかできないのかもしれない。
私は、東京の抜本的な防災対策は、
機能も人も集中し過ぎた部分を拡散させることだと考えている。
 これには2つの要素が必要だ。中央政府の解体再編と、
地方が独自の価値を創造し発信することである。こうした双方の改革により、
物理的、精神的な東京集中が緩和されれば、国土の構造は確実に変わる。
おのずと「東京」への過集中は解消されるだろう。すなわち防災力が上がる。
つまるところ、地方が力をつけることが、
遠回りのようだが首都圏直下大地震の対策になるのである。