公務員川柳 (再)

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/// 会社主義の終わり 26 ////////////

法の番人が居眠りしていて、すべてが裏のルールで動いているような社会なら犯罪も
表面に出てこないだろうが、それでは困るのである。とはいうものの、トラブルや
犯罪が異常に多発するようなら、それはそれで現行ルールに不備があってうまく
機能していないということも考えられる。それならルールを「整備」しなければならない。
日本の官は、道路・新幹線や補助金ばらまきのための制度を「整備」することには
目を見張るほど熱心であるが、本当に「整備」すべきものは、時代の急速な変化に
立ち遅れているさまざまなルールの方ではないか。ルールの整備が間に合わない
インターネット上では、国際的な「電脳ねずみ講」のような詐欺商法や私設ギャンブル、
「仮想店舗」による税金回避まで登場しており、無法地帯が出現しはじめているという。

/////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 27 /////////

    「企業倫理」とは何か

 それでは企業に「性善なる主体」であることを求めるのはどうだろうか。
これも実は意味のないことである。
 かつて「企業の社会的責任」ということがさかんに問題にされたことがある。
その時の議論では、企業は利潤を追求するだけではなくて地域社会に貢献し、
文化活動を支援し、環境問題の解決に取り組むなど、社会に対して貢献しなければ
ならないといった「きれいごと」が大勢を占めていた。「企業の社会的責任とは
儲けることで、それ以外に社会的責任などない」というフリードマン流の正論などは、
たちの悪い毒舌のように見られたのである。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 28 ///////////

その後さらに、フィランソロピーとかメセナといった「美しい」言葉が流行した。
しかしバブルの崩壊とともにこうした美辞麗句はあまり聞かれなくなった。
巨大な組織に人を抱えて社会に貢献するつもりの企業も、儲からないようでは
資本主義の敗者であり、市場で淘汰される運命に直面する。日本ではたまたま
企業同士が株式を持ち合っているので、利潤の上がらない劣等生企業の
経営者も、株主からフリードマンのいう「社会的責任」を問われることがないのは
幸いであるが、しかしこのような劣等生企業は、最後は市場によって罰せられる。

///////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 29 /////////

 バブル崩壊以後、厳しい状況におかれた企業は、社会的貢献どころか、さまざまな
不祥事を引き起こし、企業犯罪といわれるルール違反を連発し、社会に迷惑をかける
ようになった。まさに「貧すれば鈍する」有様である。中でもバブルの崩壊で膨大な
返済不能債務をつくった企業、それによって膨大な不良債権を抱えてしまった
金融機関が社会にかけた迷惑ははかりしれない。にもかかわらず、その経営責任と
社会的責任はどうなったのか、いっこうにはっきりしない。

///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 30 /////////

金融破綻に関違して逮捕された人はごくわずかである。S&L(貯蓄金融機関)の
破綻で数千人の経営責任者が逮捕されたアメリカにくらべると、日本は個人の
責任追及に関してはいかにも甘い国であり、その意味では個人を何より大事に
する国であるといえる。 それはともかく、企業倫理という特別のものはない。
ルールを守ること、つまり「法に適っていること」(ノミモン)、これがアリストテレス
以来の正義の一般的な定義であり、企業はこの正義さえ守っていれば、
何をしようと自由である。ただし、違法でなくてもこれをすれば世間の非難を
浴びると思われることを、あえてするか、自制するかは自らの損得勘定に従って
決めればよい。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 31 /////////

    原則は「ルール功利主義」

 利益・不利益を考えて「よい」と思うように行動することを功利主義という。個人にも
企業にも、功利主義を離れた絶対的な倫理を要求すること、ことに「全体の利益」の
ために自己犠牲を要求するようなことは、所詮無理な注文である。
 ただ、損得勘定の仕方にも二つのレベルがあることに注意しておく必要がある。
その場その場で損得を計算して、たとえばここは嘘をついた方が得だと思えば嘘をつく、
という次元の功利主義は「行為功利主義」(act-utilitarianism)と呼ばれる。しかし
これでは人のいうことはまるで信用できなくなり、人間関係そのものが成り立たなくなる。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 32 /////////

これに対して、「嘘をついてはいけない」というルールを立ててこれに従う
方が、そうでない場合にくらべて社会全体としてうまくいくし、自分にとっても
得になる、という計算にもとづいて、そのようなルールを守る立場を
「ルール功利主義」(rule-utilitarianism)と呼ぶ。嘘をついた方がその場では
得でも、そうやってルールを破ることは長い目で見れば得にならないと判断し、
だから嘘はつかないようにしよう、というわけである。

/// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 33 /////////

 たとえば賄賂を贈って便宜をはかってもらった方が得だと思われても、それは
その場限りの低次元の計算にすぎない。ルール功利主義の立場は、それが
結局はより大きな不利益を招く「愚行」であると判断するのである。何しろ罰則つきで
禁止されたことをするのだから、賄賂が発覚した時の不利益は歴然としている。
にもかかわらず、目先の利益のためには「背に腹はかえられぬ」といって賄賂を
贈るのは愚行というほかない。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 34 /////////

 では贈収賄や談合や損失補填などを禁止するルールそのものはなぜ必要なのか。
関係者双方は贈収賄によって利益を得ており、第三者はこのこととは関係ないのに、
なぜそれを禁止しなければならないのか。
 実はルールというものの存在理由もまた、ルール功利主義の立場で説明する
ほかないのである。たとえば独禁法は、消費者の利益を保護するために独占や
カルテル行為を禁止しているわけではない。たとえば、メー力ーが「再販売価格」を
指定してそれより高く売らせない行為は、消費者にどってはそれだけ安く買えるので
利益になるからいいではないか、と思うのは行為功利主義の立場である。

/////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 35 /////////

この場合は、たとえば山頂の売店などで飲物などを指定価格より高く売ることが
できないために、参入が制限される結果になる。正常な競争が行われるためには、
安い価格でも高い価格でも、小売業者が自由に価格を設定することができる、
という原則が成り立たなければならない。要するに、ルールの目的は、個々の
ケースで誰かの利益を保護することにあるのではなく、「販売者が自由に競争した
結果、需要と供給の関係を反映するように価格が決まるようなゲームのあり方」を
維持することにある。公正な競争の状態を維持することが、そうでないやり方に
くらべてよい結果を生むだろうという、ルール功利主義の立場が独禁法という
ルールを支えている。

////////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 36 /////////

    談合型ゲームの終わり

 談合は独禁法でいうカルテル行為の一つであり、反則であることはよく知られて
いる。しかしそれはなぜ反則とされなければならないのか。これはかならずしも
正確に理解されているとはいえない、談合の結果入札価格は高くなり、それが
納税者に不利益をもたらすということならわかりやすいが、そのことが談合が
禁止されるべき真の理由なのではない。
 たとえば、談合に加わらずに競争しようとするアウトサイダーが出現したとする。
この時、談合グループは、損失を全員で負担することにして、自分たちの代表に
異常な低価格で落札させ、このアウトサイダーを排除するといった行動をとる。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 37 /////////

すると納税者はその時に限っては利益を得ることになるが、だからといって「談合は
自由でよい」ということをルールとするわけにはいかない。万人を拘束すべきルール
としては、正常な競争を阻害し、納税者にも参入希望者にも不利益を又ぼす
可能性のあるような行為は、やはり禁止しなければならないのである。
 ところが談合のある世界では、ルールの方は敬して遠ざけられ、実際には別のこと
が行われる。たとえば、発注者側(官庁・地方自治体など)、受注者側の双方にとって、
技術・実績などから見て妥当な結論は最初からわかっていることも少なくないであろうが、
その場合も競争入札の形を整える必要上、複数の指定業者が入札に参加するように
要請される。こういう形だけの入札も含めて、実際には談合によって事前に結論が
出ている方がむしろ常態であろう。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 38 /////////

蓋を開けてみなければ結果がわからないような本来の競争入札はむしろ例外
なのである。談合グループに属さないアウトサイダーが登場した場合でも、
談合グループの「チャンピオン」とこのアウトサイダーの間で、まずは事前の
調整が試みられる。それが不調に終わった時には、談合グループは結束して
このアウトサイダーを排除する行動をとることになる。
 しかし形だけの競争入札をして、いかにもルールを遵守しているかのように
見せかけながらルール破りをするのが普通だというのでは、それこそ異常である。
それよりは、むしろ発注者が理由を公開して、最適と思われる特定業者を
選定する方がまだしも筋が通っている。この場合、発注者は納税者から監視を
受けるので、その選定が不明朗、不適切で納税者に損失をもたらした場合は、
発注者が訴えられることになる。

/// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 39 /////////

 いずれにしても、ルールとは別の「関係者(インサイダー)だけのシステム」で
物事が動いているのでは、外国を含むアウトサイダーから不公正、不透明である
という非難を受けることは免れない。談合を正当化するようにルールの方を変更
するわけにはいかないとすれば、可能な対応は三つしかない。@あらゆる非難を
無視するか、Aアウトサイダーも引っぱりこんで仲間にすることで談合システムを
続けるか、B実態の方を改めてルールに合わせるか、である。最終的にどれを
とるべきかはいうまでもない。日本人が自画自賛したくなるほど見事に完成された
談合システムにも、やがて終わるべき時が来るはずである。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 40 /////////

    会社という封建集団

 ところで、一口に企業の犯罪といっても、法人である企業そのものが懲役に
服するといった形で責任をとることはありえない。横領のような犯罪なら本人が
逮捕されるし、損失補填、総会屋への利益供与、談合、贈賄その他の反則行為の
場合も、ペナルティを科されるのは、最終的にはその企業の中の特定の個人
である。
 ここにはきわめて厄介な問題が残る。その個人にしてみれば、会社として、
あるいは「会社ぐるみで」決めたことを実行しただけなのに、なぜ自分の責任に
なるのか、なぜ自分が犯罪者として罰せられなければならないのか、納得
しがたいものがあるにちがいない。こうした問題に対しては、法律家も明快な
答えを出すことができないでいる。

/////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 41 /////////

 かりに法人の犯罪に対しては、高額の罰金や営業停止処分という形で処理した
としても、その反則を犯したために罰金や営業停止処分を科されるという損失を
会社(株主)にもたらした責任は誰にあるのか、というわけで、最終的にはやはり
個人の責任が追及されることは免れない。取締役たちは、株主代表訴訟でその
責任を追及され、敗訴すれば自分たちがその損失を補償しなければならなくなる。
また、現場の責任者にかなりの裁量権が与えられている場合、事故や災害の
過失責任はこの従業員にかかってくることもある。いずれにしても、「組織の中での
個人の責任」をどう考えるかは、個人にとって重大な問題である。

///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 42 /////////

 サラリーマンと会社との関係は本来「ギブ・アンド・テイク」であり、利益の
やりとりを基本としているはずであるが、圧倒的に強い立場にあるのは
会社の方である。したがって、会社は、会社のためにならないことをすれば
その何倍もの不利益を用意する(たとえば完全追放)、といった脅迫まがいの
圧力を加えることもできるし、会社のいうことを聞くなら大きな利益を約束する
(たとえば一生面倒を見る)といった利益による誘惑もできる。こうして
サラリーマンを意のままにコントロールができるのは会社の方である。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 43 /////////

 このような状況におかれている個人にとっては、組織内の特殊ルール(会社の掟)や
社内の行動文法が、世間一般のルールや行動文法よりも断然優先する。つまり
ここには「国法を破ってでも自分の親を守るのが正しい」という儒教型倫理が形を
変えて生きつづけているのである。もちろん、自分が直接所属している集団との
関係を最優先するという行動は、儒教文化圏以外のどこにでも見られるもので、
日本だけが特別なのではない。ただ、日本の会社という集団が、そのメンバーとの
間に「利益還元ループ」をつくってメンバーから忠誠心や貢献を引き出すことに
成功しすぎたために、個人の側にも露骨な会社最優先主義、会社依存主義が
根を下ろしてしまったのである。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 44 ////////////

会社のためならば、あらゆる工夫をこらして総会屋にカネを渡すことも、政治家に
賄賂を届けることも「悪いことではない」のであり、外に出れば法律違反で犯罪
とされることでも、会社から強制されればやらざるをえない。それを拒否し、
会社に背いて法律を守った時の不利益は、法律を犯して会社に忠誠を尽くした
時の不利益よりもはるかに大きい。会社人間はそう思いこんでしまう。実際には
それは錯覚にすぎないのであるが。

/////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 45 ///////////

 会社のためには犯罪も犯さなければならないという会社人間のあり方は、組長の
命令があれば殺人でも何でもやってのける暴力団組員のあり方とどこが違うだろうか。
あるいは、自分が罪をかぶって会社の利益を守れば、そのお返しに一生面倒を
見てもらえるという話も、組員が罪をかぶって自首し、「おつとめ」を果たせば、その間
組が妻子の生活を保障してくれるという話とどこが違うのか。強いてその違いを探せば、
会社の場合は、犯罪といっても主として商法など経済のルールにふれる反則行為
であり、暴カ団の場合は殺人その他の刑法にふれる犯罪であるという点だけである。
それにしても、会社という狭い世界の掟のために社会のルールを犯さなければならない
人間が健全な精神状態でいられるはずがない。それを「板ばさみ」状況と見て同情
するのもよいが、本当はこの「自己決定不能の奴隷状態」がもたらす精神の荒廃こそ
重大なのである。

////////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 46 /////////

 組織や集団の中では多かれ少なかれその外の世間とは別の掟や行動文法に
従わなければならないが、しかし内部のルールの方が優先するようでは困るのである。
個人はまず国のルールに従うべき人間であり、その個人が集まり、結合して組織を
つくっている以上、組織の中でも国のルールが最優先して通用するのでなければならない。
国のルールと背反しない限りで組織のルールにも従うのが個人の正常なあり方
なのである。これを逆転して、家族のルールが最優先するとしたのが儒教であり、
教団の教義や戒律が最優先すると公言するのがある種の宗教団体であり、暗黙の
うちに集団の利益と集団の専用ルールを優先させているのが日本的な集団、とくに
官僚機構と企業である。個人は自分が直接所属する集団やその支配者に忠誠を
尽くせばよく、国家や法律など眼中にないというのは、封建制度に特有の行動文法に
ほかならない。会社主義とは極度に洗練された現代版封建主義の一つなのである。

/////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 47 /////////

    会社の「法則」

 会社という不思議な集団には面白い「法則」が数え切れないほどある。
その一部を掲げておく。
◇会社の目的は、成長し、大きくなり、人を増やすことである。これに対して
企業の目的は、最大の利潤をあげることである。
◇会社では人が増えることは経営者の勲章になる。企業では人を減らすことに
成功した経営者が成功する。
◇会社は儲からなくてもシェアを拡大すること、それができなければ去年より
売り上げを伸ばすこと、それができなければ売り上げを減らさないこと、
それができなければ倒産しないで生き延びること、を目標とする。

///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 48 /////////

◇会社をニワトリにたとえると、アメリカでは体が小さくて卵をたくさん産む
ニワトリが高く評価される。日本では、卵を産んでも産まなくても、体が大きくて、
たくさん食べて、長生きをして、たくさん糞を出すニワトリが高く評価される。
また鳴き声(有名度)や羽の美しさ(立派な本社ビル)も評価される。
◇会社は他のどの集団よりも軍隊に似ている。戦国大名の軍団の生まれ変わり
であるともいえる。
◇会社は市場を戦場として戦っている。その目的は領土、つまりシェアを拡大
することである。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 49 /////////

◇会社は市場で戦う軍隊であるから、基本的に男性の集団であり、女性を必要
としていない。ただし、社内で兵士たちにさまざまなサービスを提供する要員
として女性を使うことはある。
◇会社は商人として行動するが、サラリーマンは商人ではなく、「武士の後裔」
(エズラ・ヴォーゲル)である。
◇終身雇用の会社は半閉鎖集団である。出ることは自由であるが、途中から
入ることは不可能に近い。いいかえれば、会社は船であり、いったん船から海に
飛びこんだ人は他の船に乗りこむことができない。自分で海を泳ぐしかない。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 50 /////////

◇会社では、すべての新入社員に社長になれる可能性がある。その可能性は
昇進するにつれて急速に小さくなり、ゼロに落ち着く。
◇年功序列で上に進むにつれて、他人のカネ(会社のカネ)が使えるようになる。
◇年功序列とは勤続年数に応じて地位と給料が上がっていく制度であるが、
「年」は平等主義をあらわし、「功」は貢献度や能力についての競争原理を
あらわしている。
◇年功序列型の給料は、若くてよく働いている間は安く、年をとってあまり
働けなくなった時に高い。
◇若に薄く、老に厚い報酬は「従業員主権」の産物である。株主のために
利潤をあげようとする企業はこんなことをしない。

/// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 51 /////////

◇年功序列で増えていく給料は、過去に対する報奨金の意味をもっている。
退職金はその好例である。しかしこれは若い頃の働きに対する後払いの
報酬とも受け取れる。
◇サラリーマンの給料は、労働サービスや仕事の対価ではなく、「身柄拘束料」
であり、「いやなことをさせられる苦痛の慰謝料」である。
◇サラリーマンは会社と契約して労働を売っているのではなく、サムライとして
会社に仕えて俸禄をもらい、さまざまな任務を果たしている。
◇接待は会社の重要な業務の一つである。
◇会社のエラさは、接待という物差しで決まる。接待されることが多く、接待する
ことが少ない会社ほどエライ会社である。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 52 ////////////

◇官はすべての会社よりもエライ。なぜなら、官は会社に接待されるが、官が
会社を接待することは皆無だからである。
◇会社では他人と違ったことをしてはいけない。他人よりもよいことをすれば
足を引っ張られる。見劣りするようなことをすればもちろん評価を下げられる。
他人のしないような失策をすれば会社にいられなくなる。
◇会社の株主は他の会社か銀行である。個人の株主は存在しないものと
仮定してよい。
◇会社の株主は他の会社であるから、互いに配当は少なくしておいた方がよい。
自分だけが頑張って高配当を出すと、他の会社は迷惑する。
◇株主総会は国の議会と同じで、議論するところではなく、儀式を行うところである。

/////////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 53 /////////

◇株主総会は主として総会屋のために開かれる。
◇株主総会は十分で終わるのが最高であり、時間がかかることは失態
である。半日もかかれば異常事態である。
◇家庭には生ゴミが発生してしばしば臭気を放つが、会社にも同じような
ゴミが発生する。それはかならず総会屋に嗅ぎつけられる。
◇税金を取られるくらいなら、そのカネを使って自分たちが飲食した方がよい。
会社のカネは株主のカネではなく、自分たちのカネである。
◇厳密にいえば、異性の上役の言動はすべてセクハラである。セクハラの
被害者が自分でセクハラと思わなければ、それは情事となる。

///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 54 /////////

◇異性の同僚との関係は無視、無関心から情事、結婚まで多岐にわたる。
そしていずれの関係も社内に知れわたる。
◇サラリーマンは会社で暮らし、夜、それも多くは深夜に家庭に出張する。
その出張先での仕事は、翌日働く体力と気力を回復することである。
◇休暇は会社の外に出る出張にあたるから、勝手に長期休暇をとることはできない。
◇会社における人間関係とは、いやな人間、困った人間の間でどうやって
我慢するかという問題に帰着する。
◇会社には、左遷、窓際勤務、肩叩きなどのいじめがある。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 55 /////////

◇会社の中ではカネを使う取引はない。つまり会社の中に市場はない。
しかし「贈答の経済」は存在する。
◇成功した会社の創業者は神様であり、その息子は神様の子であり、
三代目はただの人であり、それ以降の子孫は変な人、邪魔な人となる。
◇官庁ではカネは各セクションで限度(予算)いっぱいまで使わなければ
ならない。会社では、カネは各個人で限度いっばいまで使える。
◇官庁ではカラ出張があるが、会社では原則としてない。やれば背任罪になる。
◇会社では上役のおごりという「強制残業」が行われる。下の者にとっては、
酒食という現物給与と引き換えに時間を没収される。
◇会社は儲ければ儲けるほど税金というペナルティを科される。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 56 ///////////

◇世間の常識は会社ではしばしば非常識となる。あるいは、世間の常識は
会社の細胞膜を浸透しない。
◇外の世界で通用する法律は、会社の中では存在しないものと見なされる。
◇終身雇用とは、定年まで会社にいられるという保障ではなく、定年を限度とする
「無期雇用」のことである。それは、死ぬまで刑務所にいられる終身懲役では
なくて、いつ刑務所から追い出されるかわからない無期懲役にあたる。つまり、
これは会社が辞めさせたい時にいつでも辞めさせられる制度にほかならない。
◇大学ではレポートを提出せよといわれれば提出しなければならない。会社
でもアイディアを出せといわれれば出さなければならない。出せといわれない
のに出すのは「奇行」と見なされる。


////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 57 /////////

◇会社では、個性が強いことは体臭が強いことと同じに扱われる。その会社の
においが身につくのはいいが、それ以外のにおいがあってはならない。
◇一度社長や会長、すなわち殿様を経験した人は、その後も秘書・個室・
車つきの生活から離れることができない。
◇会社でも官庁の真似をして(逆かもしれない)頻繁に会議が行われる。
◇会議に費やす時間、成果、会議の数などについては、パーキンソンの
法則があてはまる。
◇サラリーマンは、囚人に次いで、自分で使える現金を少ししか持たない
人間である。

 このような会社の「法則」や会社人間の行動文法のうち、どれが「永遠」で、
どれが遠からず滅びるものだろうか。大ざっぱにいって、ほとんどが
滅びる運命にあるのではないか。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 58 /////////

    サラリーマンあるいは「会社人間」の終わり

 日本人は自分本位の生き方を追求して、会社という集団に献身することが
得であることを知り、会社主義の行動文法を完成させたが、その結果は集団の
カの前に肝心の自分を失うことになってしまった。とすれば、ここから抜け出す道は
一つしかない。会社という集団をあてにせず、会社とは本来の「ギブ・アンド・テイク」
で利用し合う関係を保ちながら、自分本位、個人本位の生き方を探すべきである。
これまで、会社がない時代にはイエ、ムラ、藩、ヤクザといった集団に身をあずける
ことで自分の利益を追求してきた日本人にとって、脱会社は最後の「寄るべき大樹」
を放棄することであり、これが簡単に実現するとは思えない。

/////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 59 //////////

会社がダメなら「親方日の丸」のお役所があるというわけで、封建集団志向は
いまだに根強く残っている。しかし、個人の自立よりも会社主義をとる、という
生き方は、肝心の損得勘定が成り立たなくなれば放棄せざるをえなくなる。
会社が与えてくれるものは自分が会社に捧げるものに果たして見合っている
のだろうか。会社に埋没することはけっして得にはならないのではないか。
得にならないという計算になれば、これまでの会社主義は崩れはじめる。

/////////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 60 /////////

 サラリーマンがこうして会社主義から離れていくようになる時は意外に
早いかもしれない。そうなればそれはサラリーマンという「武士の後裔」
(エズラ・ヴォーゲル)の消滅を意味する。その時に企業と契約してさまざまな
サービスまたは能力の提供と引き換えに報酬を得る個人がビジネスマン、
ビジネスウーマンなどと呼ばれるかどうかは別として、とにかくそれは
サラリーマンとは違った新しい種族なのである。
 「サラリーマンの終わり」をもたらすのは、年功序列の終わりである。
年功序列が崩れると終身雇用も放棄される。この変化は、プロ野球の
世界を観察することから簡単に類推することができる。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 61 /////////

 現在のプロ野球選手の報酬決定方式は、能力主義を基本としながら、年功
(在籍年数)をかなり重視している。たとえば、ある投手が十五勝して一億円の
年俸を獲得したとする。この投手がその後も毎年同じ十五勝をあげていったとすると、
年俸はたとえば一億五千万円、二憶円、二億五千万円……と上がっていく。
そして三十歳を過ぎた頃には三億五千万円に達する、といった具合である。
打者の場合でも、毎年三割前後、ホームランニ十本前後を打っていれば、
成績がそれほど上昇していなくても、年俸は年々上がりつづけていつのまにか
三憶円以上ももらうようになる。これは年ごとの成績が評価されているというよりも、
年功、すなわち在籍年数、あるいは過去の累積貢献度(?)という、わけの
わからないものが評価されて、年功型の年俸引き上げが行われることを
示している。

//////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 62 /////////////

 その結果、三十歳の選手が三億円もらっている時に、入団一年目でそれと同じ成績
(たとえば十五勝)をあげた選手はせいぜい一億円しかもらえない。純粋な能力主義
によって年俸を決めるとすれば、十五勝をあげた選手は、年齢や在籍年数に関係なく、
二十歳の選手でも一億五千万円、二十勝なら二億円、そして十勝しかできなかった
選手は、三十五歳のベテランでも一億円、というふうになるはずである。これが本来の
能力主義である。もちろん、年功序列の要素を加味してもよいが、その場合は、同じ
十五勝して二十歳の選手が一億五千万円の時に、三十歳の投手が一億七千万円、
といった程度の差をつけるようにすればよい。
 このような能力主義を企業のサラリーマンにも適用すると、次のようなことになる。

/////// 「日本型社会主義」との決別 ///
/// 会社主義の終わり 63 /////////

@第一種の人=能力主義で報酬をもらう契約を結ぶ(複数年契約もありうる)。
報酬に上限はない。他のライバル企業との競争があれば、高い報酬を提示
しなければならなくなるし、契約金を支払うこともありうる。
A第二種の人=年功給を加味した能力給で、長期の契約を結ぶ。第一種の人
とは違った仕事をするので、給料には上限があり、比較的低い水準に抑えられる。
B第三種の人=そのつど市場の相場の時間給で短期の契約を結ぶ。仕事は
事務処理の「ルーティンワーク」で、賃金はAの人よりもさらに低い。
C第四種の人=デザイナー、イラストレーター、カメラマン、編集者など、企業の
外部の専門的な能力、資格をもつ人やグループで、企業から特定の仕事の
注文を受け、一定の価格または出来高払いなどで契約してその仕事をする。

//////////// 日本経済新聞社 ///
/// 会社主義の終わり 64 /////////

 @は企業の従業員ではなくて経営者である。資本主義(金儲け)というゲームの
プレーヤーであり、A、B、Cの入々を使ってゲームをする。Bはパートタイマーで、
従来の「会社の従業員」ではなく、サラリーマンとはいえない。Cは企業と市場を
通して製品やサービスを取引する人々である。この立場にある人もサラリーマン
ではない。現在のサラリーマンに近いのはAの第二種の人だけである。この人たちは、
長期契約で、若干年功型を加味した給料をもらうとしても、これは従来の終身雇用・
年功序列とは大きく違っている。終身雇用に近くなる場合は、加齢とともに低下する
能力に見合って給料を引き下げられることになるだろうし、ポストの面でも報酬の
面でも、昇進して@の仲間入りをすることはありえない。

/////////// 2001年発行 \780 ///
/// 会社主義の終わり 65 /////////

 企業にとってもっとも「合理的な」人の使い方は以上のような形になり、ここには
いやでもアメリカ型の階級制が出現する。@、A、Bはそれぞれ別の階級に所属する
という扱いになり、企業と契約する時からその区別は確定tているのである。特別の
能力や資格をもつ人だけが第一種の人になれるのであり、そうでない人は、第二種、
第三種に甘んじなければならない。これが「大きな意味での能力主義」にほかならな
い。そしてそれぞれの階級の中で、「小さな意味での能力主義」も貫徹する。すなわ
ちつねにその働きが評価され、それが次の契約に反映するのである。
 このような時代がやってくるのもそう遠いことではない。これが「サラリーマンの
終わり」の具体的な姿である。

///////// 日経ビジネス人文庫 ///
/// 会社主義の終わり 66 /////////

    「会社」から「企業」へ

 会社と個人の関係をもっと合理的でわかりやすいものにするには、次のような
契約関係を取り入れることが必要であろう。
◇個人がなすべき仕事の内容、権限(意思決定をなしうる範囲)などは契約
によって明確にされていること。これによって、自分の裁量で行ったことか、
上からの命令で行ったことかが明確になり、個人の責任の取り方も明確になる。
◇違法行為の遂行を要求するような命令は、契約上拒否することができる。
◇仕事にはランクがあり、高度な仕事をなしうる能カ・資格・学歴などに対しては、
契約時(入社時)から高い報酬が用意される(これがアメリカ型の能力主義)。

/////////////// 竹内 靖雄著 ///
/// 会社主義の終わり 67 ///////////

◇その仕事のパフォーマンスについて評価が行われ、それが次の契約に
反映する(業績主義)。
◇年功序列は同一階層のグループ内で限定的に適用される(これも
アメリカ型。日本でも官庁はこのような「階級制」になっている)。
◇年功序列なしの終身雇用制は可能な限り維持される。

 以上は従来の日本の会社のあり方とは大いに違っている。要するに、
日本の企業はこれまでの「会社」であることをやめて、多少ともアメリカ型の
「企業」に近づいていくほかないだろう、ということである。

/////////////// 「日本」の終わり ///
/// 会社主義の終わり 68 /////////

「会社」はサラリーマンの生活を保障しながら成長する組織から、個人の
さまざまな能力を調達し、結合して利潤を追求する資本主義というゲームの
プレーヤー、つまり本来の「企業」へと変わっていく。
 会社は会社という社会主義集団であることをやめ、資本主義をやって
成功する以外にもはや生き延びる道はないのではないか。そして個人は
個人で、会社という集団を拠り所にして社会主義のスタイルで生きることをやめ、
資本主義をやる企業と契約し、能力に応じて報酬を稼ぐか、さもなければ
自ら企業をつくって資本主義のプレーヤーになるか、いずれかの生き方をする
以外にないのではないか。これが脱会社主義のすすめである。・・・・・

/// 「日本型社会主義」との決別 ///
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