サプライサイド派はジャーナリズムの世界以外ではおおかた無視され続けてきた
サプライ・サイド経済学を信奉するような経済学部は有力な大学にはないだけではなく、
有力な学部にはサプライ・サイダーと呼ばれるような経済学者は一人もいない
それでは一体、サプライ・サイダーはどこから来たのだろうか。
彼らは、ジャーナリズム、議会スタッフ、コンサルティング会社といった
経済学の周辺部分から出てきたのである。
こうした人々は、学術雑誌に論文を発表するのではなく、新聞の論説欄や
パブリック・インタレスト誌のようなやや大衆向け雑誌の特集記事で自分の考えを述べている。
1970年代、バートレーとワニスキー(引用者注:サプライサイダー)は、
ミルトン・フリードマンやロバート・ルーカスといった保守派を含む経済学の
主流派が見つけられなかった経済学の基本的な真理を発見したと確信し、
大勢の政治家たちにもそう信じ込ませたのである。
サプライ・サイド経済学の主要な論点をまとめると、以下のようになるだろう。
第一に、需要サイド政策、とくに金融政策は、全くの無効であるというもの。
第二に、減税のインセンティヴ効果は大変大きく、税率を下げることで経済活動が
急激に活発になり、減税幅を上回る税の増収が期待できるというもの。
サプライ・サイダーは、自分たちの考えは論理的に非の打ち所がないと信じていたので、
基本的に実証分析に頼る必要がなく、学界の主流派は実証結果だけでなく、
経済原理も間違っていると考えていたのである。
言い方を変えれば、サプライ・サイダーは奇人なのである。
ロバート・バートレーは、その自己満足的な著書である『ザ・セブン・ファット・イヤーズ』の中で、
サプライ・サイド経済学は、ウォール街のレストラン「マイケル1」で何度か夕食をとっているうちに生まれた、
と述べている。そこでバートレーとラッファーは、ケインズ経済学が論理的に一貫していないという、
何百回もの学会が行なわれながらもポール・サミュエルソンを含む多くの人々が見過ごしていた事実を発見した。
また、金融政策は経済に重要な影響を与えうるというミルトン・フリードマンの考え方は間違っているという、
辛辣で率直なシカゴ・セミナーが約30年にわたって綿々と続く間にもフリードマン、ルーカス、
そして他のシカゴ大学の教授陣が見過ごしていた事実をも発見した。
そして、夕食をとりながらたどり着いたこうした深遠なる結論は、驚いたことにほとんどがウォールストリート
・ジャーナル紙の論説欄やクリストルが編集していたパブリック・インタレスト誌に掲載されたのである。
バートレーが集めて売り込んだサプライ・サイダーは、単なる保守派経済学者の集まりというには、
いくぶん風変わりで無謀であり、単なる一学派というよりは、むしろ特異な宗教集団のように見えるのである。
しかし、「マイケル1」でディナーをとっていたバートレーとラッファーは、
総需要の問題をうまく回避できると思ったのである。
ケインズからルーカスに至る多くの経済学者が、中央銀行の金融調節が経済に大きな影響を与える理由を説明しようと
多くの時間を費やしてきた努力が、またしてもこの夕食の席で間違っていたことになったのである。
竹中平蔵の経歴は、
一橋大学経済学部卒業後、日本開発銀行入行→同設備投資研究所
→ハーバード大学、ペンシルバニア大学客員研究員→大蔵省財政金融研究所主任研究官
→大阪大学経済学部助教授→ハーバード大学客員准教授、国際経済研究所(IIE)客員フェロー
→慶應義塾大学総合政策学部助教授→同教授→経済学博士。
というものであるが、これも日本の大学の官界、産業界、思想界、政界からの
独立性の低さを如実に物語っている。
まず、彼は国立大学卒業し、エリートコース(といっても学歴と
“育ち”だけで測られたものだが)の開発銀行に就職している。
さらに、そこの研究所から、英語力にものを言わせてアメリカの大学の
客員研究員にジャンプする。そこから官庁の研究所(内実は下請け)へ行き、
これらの経歴を合わせて阪大の経済学部の助教授に納まる。
しかし、ここまでの内容からは、アメリカの大学で研究を手伝った(客員研究員とは
そういうものである)ことと下請けの情報整理をしたことを除いて、経済学の研究者
としての業績を見つけることはできない。
その後も海外では「客員(手伝い)〜」のポジションのみをマスターし、
この手のキャリアとコネと年功序列制との組み合わせから、慶応で博士号を得ている。
要約すると、竹中は、日本によくいる「アメリカとの距離を媒介する」タイプのエリートであり、
こういった学歴・経歴をうまく運んで経済学者のふりをしているにすぎない。
竹中平蔵は経済学者ではないのだ
それはちょうど、竹中の所属しているサプライサイド派が経済学ではないように。
彼は単に、メディアや学歴、地位、名声を駆使して必死に八百長を演じている男にすぎないのだ。
そういうところは今回日銀総裁に就任する、ノーパンこと福井と変わらない、
典型的な日本の似非エリートだ。
さて、そんな似非経済学者である竹中平蔵が、ニューエコノミー論というインチキジャンルに寄生し、
はたまた先端の思考実験の意味合いが強いモデルに便乗し、自身の専攻分野としてマクロ経済学に取り組んでいる。
ここで、竹中平蔵とこのサプライサイド派の始祖たちとの間にいくつかの共通点があることが確認できる。
一つは、総需要後退局面(不況)を、「経済にとって大した問題ではない」と位置付けているところ。
さらに、金融政策は経済の根幹部分を握っているという正統派経済学の結論をかなり限定的にしか採用しておらず、
政策観としてはこれを軽視しているところ。
まだある。
メディアやロビイスト、政治家、コンサルタントを用いて、学界で正当な意見だとは認められていない
自説を売り込んでいくところ。経済政策という国民の命に関わる重大問題を、ファッション感覚で語り、
また実務において処理しようとするところ。
左翼学生運動の例が挙げられていたが、これと類似して団塊・全共闘世代やその意気地なしのご子息たちに
喝采を浴びて受け入れられるところ。正統派経済学者や正統派経済学に基づいて政策立案する実務家の主張を
驚くほど採用していないところ。特に、<自分の考えは論理的に非の打ち所がないと信じていたので、
基本的に実証分析に頼る必要がなく、学界の主流派は実証結果だけでなく、経済原理も間違っていると考えていた>
あたりは竹中はクルーグマンが揶揄しているサプライサイダーそのままの姿である。
もちろん、一橋の経済学部をいい成績で卒業しているし、実務をこなしてきているし、
教職に立って経験を積んでもいるから、ある程度は自説を有力に主張することもでき、
また経済学の教養もある程度は身についているのだろう。
だが、所詮そんなちょっと詳しいアマチュア君に過ぎない彼が、いっぱしのマクロ経済学者
という名目で担当大臣にまでなっているとは、はっきり言って狂気の沙汰だ。
しかも、彼のベースとしているのは経済学界でも有名なインチキ似非経済学=サプライサイド理論
なのである。こんな男を、「経済財政担当」「金融担当」という国の柱ともいうべき重要なポストに
いつまでものさばらせていておいていいものだろうか?
すでに失政は明らかになっており、竹中はそれについてろくに意味のある説明ができていない。
ノーパン福井もそうだが、有識者は竹中平蔵を更迭する方向にまとまってほしい。
これは昨今の日本の政治的・経済的な苦境を考えたうえでの私の切なる願いである。