【対決】インフレターゲットの実行手段は?

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■大手町の常識と経済学者の常識

日本のデフレを中国の工業化と関連づけて理解しようとする考えは確か
に存在する。ところが、そうした立場に立つ人達はどうも勢いがない。
勢いがないという意味はこうである。筆者の印象では、大手町で働くビ
ジネスマンにとっては、「中国要因で日本の物価が下がっている」とい
うのは改めて考えるまでもないほどに自明である。ビジネスの現場では
友人の見方は広く支持されている。

しかしビジネスの現場を一歩離れると、そうした見方は自明でなくなって
しまう。自明でないどころか、「実務家の誤解」というレッテルを貼られ
てしまうようである。その傾向は霞ヶ関界隈で特に強いように見えるが、
レッテルを貼っている張本人は誰かというと、経済学者である。実務家は
自分の考えを文章に起こすことは稀であるのに対して一方の経済学者は主
張を書き物にするのが商売である。かくして、「デフレは中国要因とは無
関係」という主張が書店では幅を利かせることになる。

経済学者の主張はこうである。中国の工業化に伴って大量に生産されてい
る商品の価格が下がっているのは事実である。しかしこれは、それらの商
品の価格がそれ以外の商品の価格に比べて相対的に低下することの説明に
はなっているが、物価下落の説明にはなっていない。相対的な価格、つま
り「ソウタイカカク」(相対価格)と物価は別物だというのがその主張で
ある。

これだけ聞いて、なるほどねと納得できる読者がいるとすれば、よっぽど
の天才か、経済学オタクか、あるいは単なる早とちりかのいずれかである。
ごく普通の常識人には何のことやらわからない。書店の経済コーナーで頭
をかかえたのは筆者だけではないはずだ。
■風が吹けば桶屋が・・・

この点についてわかりやすい議論を展開しているのはマネタリストとして
名高いミルトン・フリードマン教授である。フリードマン教授は、第1次石
油危機後の原油関連の輸入品の価格上昇が物価を押し上げたという主張を
否定するために1975年のニューズウィーク誌上で次のような説明を展開し
ている。

原油関連の輸入品の価格上昇それ自体は確かに物価を押し上げる。しかし、
これは物事の一面しかみていない。輸入品の価格が上がるということは、
消費者がその他の商品に振り向けることのできる資金が少なくなるという
ことだから、その他の商品に対する需要は減少し、その結果、その他の商
品の価格は下落するはずである。その他商品の価格下落は石油関連商品の
価格上昇を相殺するので、両者の合計である消費者物価は下落しない。最
初と最後をつなげると、原油関連の価格上昇が物価を動かすことはあり得
ないということになる。「原油関連」を「中国関連」に、「上昇」を「下
落」と読み替えれば、「デフレは中国要因とは無関係」という日本の経済
学者の主張が即席で出来上がる。

フリードマン的な見方の重要な帰結のひとつは、「インフレもデフレも貨
幣的現象」という主張である。フリードマン教授の議論によれば、モノの
稀少性が物価に影響を与えることはない。したがって、物価を変動させる
要因はただひとつ、カネの稀少性だけである。ここから、全ての物価変動
はカネの稀少性の変化によって惹き起こされるという主張が生まれる。最
近のデフレ論議では「インフレもデフレも貨幣的現象」というフレーズが
頻繁に登場する。また、「デフレは通貨の供給量が少なすぎるために発生
している」という主張もしばしば聞かれる。これらの主張は大本を辿れば
全てフリードマンに行き着くのである。
■デフレの非貨幣的要因

フリードマン教授の説明を聞いて読者はどんな感想を持つだろうか。
「高名な経済学者は先の先まで考え抜くものだなあ」と感心する人もいる
だろう。確かに、多くの人の関心が原油関連商品の価格上昇に向いている
ときに、それ以外の価格の下落に注目するセンスは流石といえよう。経済
学の「イッパンキンコウ」(一般均衡)の発想には、日常の観察では気づ
きにくいところに気づかせてくれるというメリットがある。

しかしその逆に、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の議論の展開に胡散臭さ
を感じる人もいるのではないか。確かに理屈で言えば、風が吹けば桶屋は
儲かるのかもしれないが、現実には物事は机上の計算どおりに進まないこ
とが多い。

筆者もどちらかといえば胡散臭さを感じた方である。原油関連以外の商品
の価格は本当に下落するのだろうか――筆者が学習院大学の細野薫氏と一
緒にこの問題を考え始めたのはこんな素朴な疑問がきっかけだった。

日本、米国、英国、韓国、香港、台湾の6カ国についてデータを慎重に吟味
した上で筆者達が得た結論は、一部商品に価格変化が生じた時、その他の
商品に反対方向の価格変化が生じるということはない、というものである。
もう少し正確に言うと、「技術や人々の嗜好の変化などに伴って相対価格が
変化すると、少なくとも短期的には物価に影響が出る」ということである。
中国の工業化もIT(情報通信)技術の進歩も、ともに物価に影響を及ぼす
のである。

筆者の手元にある経済学の入門書には「マネーが過剰に供給されるとイン
フレになり、供給が足りないとデフレが起きる」と書いてある。筆者達の
分析結果はこれと矛盾するものである。

当然のことではあるが、教科書と矛盾する現象が観察されたときには現象
を疑うのではなく教科書を疑うべきである。
政権幹部などの発言を聞くと、「デフレを克服」して「構造改革を
断行する」と、両者を別の問題のように捉えている者が多い。
このデフレと構造改革が別々のもの、という認識が間違いの元である。
デフレは結果であって原因ではない。
日本が大不況に陥った原因は、構造改革が必要なほど、日本が根深い
問題を抱えていることに尽きる。つまり、国内で供給過剰と需要不足が
恒常的に続いていることが問題の本質だ。
例えば、従来型の陳腐化した産業では企業数が多すぎるから供給過剰になる。
中国からの輸入増加で価格下落になっているというが、高賃金の日本の企業が
、中国でも作れる低い付加価値のものを国内で割高な値段で作り続けることが
問題なのだ。日本国内の産業構造調整のスピードが、世界の変化に追いついて
いないことが核心である。
同じように、ダメな銀行を退場させるのは結構だが、同時に三十代、四十代の
経営者が率いる新しい金融機関をどんどん創設すべきである。また何よりも
、個人の株式課税をゼロにするとともに、日本版SECを創設して、証券市場に
信頼を取り戻し、個人資金の奔流を築き上げることも急務だ。さらに、積極的
な国有財産売却も重要だ。売却益による歳入増加だけでなく都市再生に資する
建設投資も増加する一石二鳥の政策である。
もちろん、経済学の教えるとおり、皆が一時間早く起きるよう努力するのは
確かにつらいことで、時計を一時間戻す方がはるかに楽だ。つまり、モノと
サービスの世界での構造改革の手綱を緩め、為替の世界での調整を図る誘因は
常に存在するし、私も必ずしも否定しない。だが、官民が過剰債務を抱え、
経営スタイルが非効率なままの今の日本企業では、時計を戻してせっかく
一時間「早起き」しても、また一時間居眠りする可能性の方が高い。
ましてや、自国の利益のために、多国間で貴重な「一時間」を奪い合うのが
国際通貨交渉である。日本が得た「一時間」のために、何を相手国に代償として
差し出すのか、そこまでを考え抜いた戦略が要る。国内産業の競争力強化に
努力を傾注することなく、為替や通貨供給量に頼ろう、などという
「逃げの政治」を国民は求めていない。
いまや、韓国のサムスングループの時価総額は、日本の大手電機五社の合計
(日立、東芝、NEC、富士通、三菱電)と、ほぼ同額になったそうだ。
また、同グループでは役員の三人に二人が四十歳代以下に若返ったという。
危機意識さえあれば、わずかの間にここまで変わることができる。
円を安くして、通貨供給量を増やして、これ以上日本企業の価値を下げること
が正しいことなのか、正常な社会人であれば、答えは分かる。
日産自動車が再生したのは日銀が通貨供給量を増やしたからではない。
ゴーンさんが陣頭に立ち、シビアな再生計画を実行し、皆が努力をして、
売れる車を効率的に生産できるようになったからである
この国はいつから「デフレ克服が最重要目標だ」などという「素人国家」に
成り下がったのか。重病人を前に病巣を探り当てることなく医者が
「熱を下げることが目標だ」というに等しい。対症療法に終始し根本的治療を
怠る。これでは「ヤブ医者」どころか「ニセ医者」だ。
わが祖国を「医療過誤」で見殺しにするわけにはいかない