1 :
名無しさん@公演中:
観てきた舞台の批評・感想を書いてね・・・
フォーマットは・・?
■公演名?
■スタッフ、キャスト?
■劇場名、期間
(■URL)?
■批評・感想
■かもめ
■原作:アントン・チェーホフ、演出:松本修、出演:MODE
■池袋・あうるすぽっと、2010.10.27−31
■
http://www.owlspot.jp/performance/101027.html ■幕が開くと旅芸人一座の姿で全出演者が登場します。 借り舞台が作られていて雰囲気を盛りたてます。 上演中、広すぎてガランとした寂しさが漂っている舞台の周辺に、役者が座って舞台を見つめ出番を待つ姿はこの劇にとてもよく似あいました。
そして終幕、再び旅芸人のように去っていきます。 印象深い構成でした。 しかし観た後の爽快感がありません。 チェーホフはいつもこんな感じに陥ります。 「どうしてまた、チェーホフなんですか?」。 距離感を持ってみる芝居はどうも苦手です。
一体になり芝居のリズムを共有したい・・、これってコドモの観方ですかね。
■DANCE PLATFORM 2010
■新国立劇場・小劇場、2010.10.22−31
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000353.pdf ■8作品が上演されたが良かったのは以下の2作品。 子供の観客が多かったがC/OMPANYを観るために来ていたようだ。 どの劇場も子供イベントが盛況だし・・、多分この流れの一環かな? 将来の観劇ファンは大切にしなきゃいけない。
しかし場内に響いていた子供たちの笑い声が耳に残ってしまった。
・高瀬譜希子振付「AUTUMN HUNCH」。 剛性の中に柔軟さがあり、細部の振付も面白い。 音楽は出娑張らず引っ込まず、そして照明がなんといってもすばらしい。 質の良いデテールたちが全体をうまくまとめている。 よかったなあと心からおもう作品である。
・原田みのる振付「果てに・・・」。 舞台は凛としていて緊張感が伝わってくる。 テーマはフィルムノワールだが振付も動きに溶け込んで奇異を感じさせない。 筋書きは不明だが映画ファンは素晴らしかった場面の思い出に浸れるだろう。
■こうしておまえは消え去る
■演出:ジゼル・ヴィエンヌ
■にしすがも創造舎、2010.10.30−11.3
■
http://www.festival-tokyo.jp/program/vienne/ ■林の中で男女の体操選手が床上練習をしているところから始まります。 異様な光景です。 固唾をのんで舞台を見てましたが、ロック演奏者らしき人が血を流し倒れるところで終了します。 劇的という表現がありますが、これはヨーロッパ的な劇的とでもいうのでしょうか。
俳優の身体性などから論じるこの言葉ですが、少ないセリフの中に降臨が述べられていたので宗教が絡んでいるとみました。 大量の霧と光を放出した舞台のため、スピルバーグの「未知との遭遇」や古いところではドライヤー「奇跡」を思いだしてしまいました。
観劇後チラシを読んだら権威と秩序の象徴がテーマだと書いてあり予想は外れてしまったようです。 しかし感動に宗教的な感覚が入り混じっていたことは確かです。
■いつかの森へ
■作:しゅう史奈、演出:小松幸作、出演:海市−工房
■下北沢「劇」小劇場、2010.10.27−11.4
■父の違う姉妹弟が過去の誘拐殺人事件や直近の放火事件、家族・恋人・近隣の問題を抱えて日々の生活を演じていく物語のようね。 結構大きな問題に直面しているので表現表情はそれなりに出ているけど、それが大事だということが伝わってこないわ。
そして最後は何と無くハピーエンドで終了してしまったのよ。 出口の無い森の中で彷徨っているセリフが何回か出てくるけどそのまま森に留まってしまったようね。 観終わった後は無味乾燥な夢を見ていた感じだわ。 細部はそれなりよかったけど・・。
観客側が美容室の鏡になっている演出も面白かったわ。
■さようなら
■演出:平田オリザ、テクニカルアドバイザー:石黒浩、出演:ジェミノイドF、ブライアリー・ロング
■池袋・あうるすぽっと、2010.11.10−11
■
http://www.is.sys.es.osaka-u.ac.jp/research/0007/index.ja.html#androidappearance ■出演者であるアンドロイドのジェミノイドFはついに「不気味の谷」を越えたのか? しかし芝居が始まって直ぐに落胆する。 原因は声だ。 口が音源ではないこと、そして明らかにスピーカから聞こえた声だ。
もう一つは顔を横に動かす時に力が入り過ぎている。 この二点が「不気味の谷」さえも到達していない理由である。 観客へ3度ほど顔を向けたが正面から見た表情は横から見るより出来が良い。 そして笑顔が一番いい。
そして「さよなら」を言うにはまだ早すぎる。 アンドロイドが電気羊の夢を見るのはこれからだ。
7 :
名無しさん@公演中:2010/11/15(月) 04:36:23 ID:rNMfNjPL
アンドロイド演劇じゃなくて
ロボット演劇だけど
今月の末に科学未来館でやるよ
■ありきたりな生活
■作・演出:伊藤拓、出演:FRANCE_PAN
■池袋・シアターグリーンBOXシアター、2010.11.11−14
■
http://arborstep.system.cx/france/ ■劇場に入ると出演者と観客が組みになり舞台上でお互いに自己紹介をします。 名前は? 生まれはいつ? 好きな有名人は? 今一番の興味は? ・・・。 そして観客は靴を脱ぎそれを舞台に置いて席に座ります。
途中俳優自身の紹介が続いたり、いきなり演出家が登場して自己紹介をする場面があります。 このように芝居の途中で現実への戻しが何度もあります。 観客が自己紹介をしたことで芝居の構成がより複雑に感じます。 ここで観客の靴が舞台上にある理由が分かります。
「俳優」と俳優の「私」と「観客」と観客の「私」の境界があやふやになります。 観終わって池袋の繁華街を歩きなが自己紹介をした「私」とは誰なのか考えてしまいました。 ひさしぶりの刺激的な芝居でした。
■現代能楽集「春独丸」「俊寛さん」「愛の鼓動」
■作:川村毅、演出:倉持裕
■三軒茶屋・シアタートラム、2010.11.16−28
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2010/11/post_190.html ■能「弱法師」「俊寛」「綾鼓」が原作よ。 「俊寛さん」は狂言風に仕立ててあるわ。 「春独丸」は母子の愛情、「愛の鼓動」は刑務官と死刑囚との愛の物語ね。 愛がテーマでしかも死刑場面もあるけれど観劇後はサラッとした感じが残ったわ。
「春独丸」の結末は重たいし「愛の鼓動」の刑務官娘の登場は余分に見えるの。 それでも能の良き軽さを引き継いでいるのは物語に固執しなかった為ね。 映画ファンならば「賞は取れないが納得できるB級映画だ」と賛辞を送るはずよ。
■−ところでアルトーさん、
■演出:三浦基、出演:地点
■東京芸術劇場・小ホール、2010.11.19−23
■
http://www.festival-tokyo.jp/program/chiten/ ■朗読劇に近い芝居のためセリフに集中して観ていたがそれだけでは終わらなかった。 「たましい」と声に出すときの俳優の動作で言葉が身体そのものからの分身のように見えた。 手紙の中の「ボク」を手信号の動きと声を強調して読むところもそうだ。
アルトーのおもいが伝わるようだ。 キリスト教の話しはよくわからなかった。 残酷演劇とは肉を切るとか血を出すことではなくむしろ制度に関係しているようだ。 一部のセリフで自分なりの解釈と納得を同時におこなった為、観終わった後はカタルシスを伴った疲れがでた。
■中庭にリング
■作・演出:矢内文章、出演:アトリエ・センターフォワード
■シアター風姿花伝、2010.11.17−24
■
http://www.centerfw.net/4-nakaniwa/nakaniwa-top.html ■アパートの住人が老後を支えあうコミュニティを作ろうとするが資産運用で破産する物語である。 カネでのドロドロした人間関係や政治も絡めた共同体などの問題は一度は参加しないとわからないということだ。
アパートの各部屋が舞台周辺に透視設定されている構成なので全体の動きがよく見え中庭も強調できて全体に安定感が出ていた。 セリフや場面切替に粗さがあったが逆にこれが芝居の流れを生き生きとさせていた。 爆弾で誰も逃げなかった後に居候の言うセリフがよかった。
しかし観終わった後に芝居の感動はすぐ消え失せてしまった。 それは日常生活を誇張し過ぎている面白さだけだから・・。 次は中庭から飛び出てまずは1ラウンド3分間から戦うしかない。
■巨大なるブッツバッハ村
■演出:クリストフ・マルターラ、美術:アンナ・フィーブロック
■東京芸術劇場・中ホール、2010.11.19−21
■
http://www.festival-tokyo.jp/program/marthaler/ ■会場はガランとしています。 舞台の前面とA〜E座席は使用していないからです。 このため役者との距離があり覚めた雰囲気の上演でした。 舞台はヨーロッパのどこかの待合室です。 特に壁紙のデザインが日常生活そのままを持ってきた感じに強めています。
音楽劇ですが舞台の倦怠感と曲がよく似合います。 金融危機以後のヨーロッパの人々の心の持ち様が出ていました。
この芝居のように物語性や劇的さが無い芝居は、観客と舞台のリズムの同期を取るのに長い時間が必要です。 上演時間は長かったのですがリズムを得るタイミングがありませんでした。 観客は飽きてしまったはずです。
また壁に映し出された日本語訳ですが、「クソ野郎」は漫画ならともかく実生活では聞いたことがありません。 「くおん」は仏教語ですがたぶんキリスト教のある言葉を翻訳したのでしょう。
それ以外でも状況が掴みとれない箇所が多々ありました。 翻訳の不味さも飽きてしまった理由の一つです。
■令嬢ジュリー
■原作:ストリンドベリ、演出:毬谷友子
■赤坂レッドシアター、2010.11.27−12.2
■
http://www.red-theater.net/image/reijyou.jpg ■奥行きがありそうでないような、正面に階段と小さな窓があり先が見えない舞台構成。 芝居によく合っているわ。 ・・伯爵令嬢って何なのか観ていて考えてしまったの。
ジュリー役が毬谷友子だからよけいにそうだわ。 かわいいくて時には姉御のような令嬢で独特な声調の日本的な感じのジュリーを演ずる。 まさしく彼女にぴったね。 このため当時の社会情勢などを抜きにした閉じられた舞台のように見える。
逆にジャンは出世欲が言葉にでているのでぶれていない。 ジュリーの感情の流れは楽しめたけど感動は少なかったわ。 何かが足りない・・、それより何かが多過ぎるのよ、、きっとね。 友子、これからどうするの?
■測量
■作・演出:横田修、出演:タテヨコ企画劇団
■笹塚ファクトリー、2010.12.1−12.5
■
http://tateyoko.com/next/sokuryo/index.html ■温泉旅館と言えば会社の慰安旅行だ。 そのためか旅館ロビーの舞台は親近感がある。 そこには測量器具らしきものが幾つかぶら下がっている。 タイトルも謎だ。
幕が開いてすぐ、俳優の話し方に日常世界から少しずれた聞こえ方を感じた。 リアルさが出ていない。 意識的な演出かと思って観ていたがどうもそうではないらしい。 これが日常のしゃべり方だと思って喋っているようだ。 会話の位置づけがしっかりしていないのだろう。
ストーリはありきたりな内容である。 個々の事件も付け足しに見える。 そしてこのままズルズルと終わってしまった。 謎も解けない。 どうもよくわからないが、ひどい芝居を観たということだけは確かなようだ。
■肉体の迷宮
■原作:谷川渥、振付:和栗由紀夫・関典子、出演:好善社
■日暮里サニーホール、2010.12.3−12.4
■
http://www.otsukimi.net/koz/j_index.html ■舞踏では珍しい、何も無い空間での公演です。 開幕後、映像を使う為だと知りました。 衣装替えをしながら和栗と女性ダンサーたちが1920年代のメカニカルな雰囲気の舞から、赤と黒服の宗教的な舞迄の6章?の構成で飽きさせない流れでした。
和栗がゆったりとした白の夏スーツで踊るところ、大野一雄の再現が印象に残りました。 女性たちの艶めかしさが、和栗の肉体が迷宮で彷徨っている原因に見えました。 そして終章の関典子の凛とした振付が全体を引き締めたようにおもいます。
映像は生身の身体が薄くなり成功とは言えないでしょう。 もっと厳選すべきです。
■ストラヴィンスキー・イブニング
■演出・振付:平山素子
■新国立劇場・中劇場、2010.12.4−12.5
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000354.pdf ■平山素子の振付は肩腕を大きく速く動かしてとてもシャープに見える。 このため観ていてもついていくのが大変だ。 脳と身体がひとつになる喜びを楽しむダンスではない。 第二部「春の祭典」はこの傾向が強いので、観たままをそのまま楽しんでしまった。
途中の衣装交換は時間がかかり過ぎて事故が起きたのではないかと一瞬思ってしまった。 終幕、カーペットが奈落へ落ちていくところはとても面白い。
物語性の強い第一部「兵士の物語」は振付に言葉が付着してスローになった分、ダンサーひとりひとりの動きがハッキリと見え総合力の面白さが出ていた。 チラシを真似ると、素晴らしい生演奏が物語を補強し過ぎたので<物語 X 身体>かな。 ・・ありきたりだけど。
■田園に死す
■演出:高野美由紀、出演:劇団A・P・B−TOKYO
■ザムザ阿佐谷、2010.11.26−12.5
■
http://www.h3.dion.ne.jp/~apbtokyo/index.html ■寺山修司のエッセンスが一杯詰まっていたから2時間半だけどアッというまに観てしまったわ。 舞台は荒っぽいところが多々あるけど良く練れてるしね。 再々演だからかな。 そして舞台はとても懐かしい感じがした。
途中、演出とは知らず客席から駄目押しが出たのはビックリしたわ。 蝋燭や燐寸の火を多用することで舞台に深みが出てたけど、東北の寺山修司のネットリとした肉体から言葉を紡ぎ出すには火が一番よ。
でも青年の寺山役は立派過ぎるわ。 もっとオドオドしなくっちゃ。 ジェニファー松井もエイリアンね。
■砂町の王
■作・演出:赤堀雅秋、出演:THE SHAMPOO HAT
■下北沢ザ・スズナリ、2010.12.1−12
■
http://www.shampoohat.com/ ■東京下町の鉄工所やスナック店の従業員、ヤクザが登場し保険金目当てで二人も殺されるストーリーである。 工業地帯の汚い空をボケーッと見上げるシーンが多い。
この場面があるお陰で、激しい声高のセリフが多いにもかかわらず静けさのある芝居になっている。 そして純心な青年が騙され死んでいく悲哀もその静けさに加担する。
漫画に出てくるような殺人方法やセリフが多々あったが、零細工場の経営や下町の生活など描き方に力強さが出ている。 この強さと空を見つめる場面が、あるリズムを醸し出していて映画的手法の感動があった。 ひさしぶりに演劇の感動とは何か?を考えてしまった。
■リア王
■演出:鈴木忠志、出演:SCOT
■吉祥寺シアター、2010.12.15−21
■
http://www.scot-suzukicompany.com/season6/ ■英独韓日本語の4ヶ国語の上演である。 以前英語版を観た時は痛く感動してしまった。 今回はそれほどでもない。 何故か? 上演言語が日本語→○、英語→○、露語→○、英語日本語→×、英独韓日本語→×である。
○は感動大、×は感動小の意味である。 つまり多言語に日本語が入ると何故か劇的感動が弱められる。 その理由がよくわからないが、一つは字幕に問題があるのではないか?
日本語でセリフを喋るときは字幕が出ない。 観客はそれを聞く。 他言語では字幕がでる。 そこで観客はそれを読む。 芝居を観ていてこの動作が微妙だが不自然に感じた。
観客の脳味噌内の処理が舞台で演じられている俳優の身体とほんの少しだが同期がずれてしまうような感じである。 いっそのこと日本語のセリフの場面でも字幕を入れてしまったらどうだろう。
但しこの場合は外国人が読む日本語訳で表示すべきである。 これで良くなるかどうかはわからないが・・。
■日韓アートリレー2010
■日暮里D−倉庫、2010.12.17−27
■
http://www.geocities.jp/kagurara2000/artrelay2010 ■毎日違った出演者が登場します。 ダンスカンパニーアンジュ「その島に行きたい」、ユ・ジンギュ「韓紙」、鶴山欣也&雫境DUO「ずるだけい」、宮下省死「ほわいと・です」を観ました。
最初の韓国2グループは古臭さのある舞台です。 共産主義国と強く対峙していた為か、20世紀後半の凍結されていた生活文化が今になって解凍しているような内容でした。 アンジュにはもう少し踊って欲しかった。
鶴山欣也は身体の動きも滑らかでエレキベース系の生演奏に合っていました。 しかし変化に乏しいつまらない舞台でした。 落とし所を付けるべきです。 ところで宮下省死はついに本物の鼠になってしまったのでしょうか?
一日しか観ていないのでなんとも言えませんが、どれも即興的または一部分を抜きだしたような作品でいまいちでした。
■ガラパコスパコス
■作・演出:ノゾエ征爾、出演:はえぎわ
■こまばアゴラ劇場、2010.12.17−29
■
http://haegiwa.net/next/22/ ■老人ホームから逃げ出した老女が大道芸人をしている主人公と生活するストーリのようね。
チラシを見るとこの劇団は老人ホームで実際に芝居をしているらしい。 それで主人公とその兄に辛抱強さが出ているのね。 それと必要な小道具類は舞台の壁にチョークで描くことで間に合わせていて経済的にもうるさいようね。
でも老女や主人公の家族も社会的にズレているし、老人ホーム社員の行動も変わってるわ。 その場限りの面白さはあるけど芝居として生きていないようにみえる。 結局は老人の進化をガラパゴス的に表現したいがまとまりきれなかった。
逆にこのような家族関係や職業観がガラパゴスに見えてしまった。 今の日本はガラパゴスで一杯ね。
■ブラボーO氏へ
■出演:上杉満代・大森政秀・武内靖彦
■中野・テルプシコール、2010.12.22−23
■
http://www.bigakko.jp/files/u1/butou_2010.pdf ■O氏とは大野一雄のこと、多分ね。 大森の手足の動きは安定していてエスプリもあり観ていて気持ちがいいわ。
武内は登場後のゆっくりとした動きは素晴らしかったけど、その後は動きが大胆で白塗りで無いから肉体が前面に出過ぎてた感じよ。 このため都会と田舎がぶつかっているような舞台だった。
途中上杉と大森は衣装を替えたけど、どれもとても似合っていた。 そしてこの二人は音楽との相性も良かった。
結局は武内が浮き上がってしまったのよ。 それなりのダンサーが3人登場するのは難しいことなのね。 でもこれで変化を出せたから消極的に良しとすべきかな。
■ディオニュソス
■演出:鈴木忠志、出演:SCOT
■吉祥寺シアター、2010.12.24−26
■
http://www.scot-suzukicompany.com/ ■衣装は歌舞伎、動作は能、セリフは能・狂言の舞台ね。 そして照明も音楽も言葉も全て俳優の身体に入り込み、一つにまとまってから再び身体から発散しているようにみえる。 その逆に俳優やセリフや照明や音楽などに分けて観るということはしない。
つまり不可逆性の舞台なの。 この全てを吸収している俳優の身体と観客との共振が感動を呼び起こすのね。
途中、スピーカから発する神の言葉がこの芝居の流れを台無しにしているようにみえるわ。 白石加代子の声だったようだけど生身の俳優が喋れば緊張感が持続するはず。 そして全体が様式にこだわり過ぎて固すぎる感じもしたわ。 ギリシャ劇だからしょうがないっか・・
■嫌な世界
■演出:喜安浩平、出演:ブルドッキングヘッドロック
■新宿・サンモールスタジオ、2010.12.17−31
■
http://www.bull-japan.com/stage/iyanasekai/ ■最初の火星旅行の夢を見る場面はとてもいい。 多くの俳優がここで登場し後場面を関係付けるので再帰的な構成に出来上がり物語に深みが出る。 そしてひさしぶりに観客席で笑ってしまった。 日常生活での相手を揶揄するセリフが核心をついている場面が多かったからだ。
また東京の下町工場地帯の庶民生活も面白く描かれていた。 上演時間が3時間弱もあったが気にならない。 後半で現実になる火星旅行は遣り過ぎである。 無いほうが面白いストーリになるとおもう。 夢だけで十分である。
SFの導入は苦しい時の神頼みだが、まだその時期ではないだろう。
■大きな豚はあとから来る
■演出:工藤千夏、出演:渡辺源四郎商店工藤支店
■こまばアゴラ劇場、2011.1.2−3
■
http://www.nabegen.com/ ■朝、玄関で妻が会社へ行く夫に「いってらっしゃい」と言う場面が何回も登場します。 女性が精神的安定を得るための目指す光景だと言いたいようです。 これを得たい気持ちと「外交官」の社会的権威が結びついて女性主人公は容易に騙されていきます。
・・偽外交官に「中東の王様の妃にしてあげる」と騙されてしまう結婚詐欺の話しでした。 観ていても「リアル」さには少し欠けてましたが、騙されていく楽しさがある芝居でした。 そして別女性を登場させ強引に終幕に持っていく流れも違和感はありませんでした。
「警察官」「銀行員」「弁護士」でコロッと騙されてしまうオレオレ詐欺。 どこも芝居で一杯ですね。
27 :
名無しさん@公演中:2011/01/12(水) 14:48:02 ID:tN0LiIU3
今年はあまり書かなくなったね?
■ウル、森に眠る記憶
■演出:水野大輔、出演:トランジスタONE
■せんがわ劇場、2011.1.12−16
■
http://www.sengawa-gekijo.jp/_event/05031/image1L.jpg ■考古学者が南の島を調査中に、巫女でまとまっている古代住民の過去の気配を感じとる物語・・。 素直さがあるお芝居よ。 そして「信じる」というセリフがとても多いの。
この言葉は日常を豊かにする力を持っているわ。 でも舞台での呪術や考古学の対立や議論の結論は、この言葉と付随する演出で超越への判断を停止をしてしまうの。 古代祖先を含めた人間関係の満足は得られるけれど劇の深みには行けない。
全体としては質の良い高校生演劇を観たようだわ。
■メタファンタジア[眠りの森の・・・]
■演出:長堀博士、出演:楽園王
■新宿タイニイアリス、2011.1.13−16
■
http://www.rakuenoh20.net/Metafan6.html ■チラシの「鑑賞の手引き」を読まないで観たからストーリが混線してしまった。 小泉君の恋人葵ちゃんの仮死体を冷凍睡眠室に
保存して葵ちゃんの過去の夢を語る芝居だとみていた。
しかし小泉君が冷凍睡眠室に入れられて未来の夢を見ていたということが終幕で明かされ、この二つが演じられていたということを知った。 多くの女性出演者のセリフや行動がとてもナイーブで中学・高校時代を思いだしてしまった。
教室での授業迄はとても面白かったがその後の家庭での出来事がつまらない。 この原因は対話モードから会話モードに入ってしまったからだと思う。 これで白けてしまった。 後半は再び盛り返したが2時間半の上演は長過ぎる。
途中の会話モードを取捨選択して2時間に短縮すればハリのある芝居に変わったずだ。 財前教授の「死んだら意味など無い!」という台詞は人間が背負う覚悟のようなものだ。
しかし生きている者にとってはそうはいかない。 この兼ね合いをどうするかだが、夢はこの触媒になれるのか?
■白石加代子「百物語」第二十八夜
■演出:鴨下信一
■岩波ホール
■
http://www.doudou.co.jp/shiraishikayoko/schd/2010/28ya/28yaomote.pdf ■池波正太郎「剣客商売天魔」、幸田露伴「幻談」の二題。 物語に引き込まれると舞台上の白石加代子を見ているけれど見ていない状態になります。 そして物語風景が脳の中で現前します。 ここが演劇と朗読の違いです。
演劇は舞台の物語風景と脳で想像した像の二つが舞台上で重なり合います。 像の焦点が舞台か脳かの違いです。 「幻談」で釣舟の浮かんだ海を青い照明で効果を出す場面がありましたが、いきなり脳内風景の焦点が舞台に移り困惑しました。
ところでこの二題、「天魔」のほうがリズムがあり読み手も生き生きしていました。 「幻談」は活字を追うほうが合うのではないでしょうか? 白金、麻布、湯島、本所、そして磯の香り・・・。 どちらも江戸時代の風景が心地良くみえる物語でした。
もうすぐ百になるんじゃないの?
■僕を愛ちて、燃える湿原と音楽
■作:丸尾丸一郎、演出:菜月チョビ、出演:劇団鹿殺し
■本多劇場、2011.1.15−23
■
http://shika564.com/bokuai/ ■僕を愛ちての式です。
(釧路名物芸能丹頂鶴舞+北海歌舞伎妖狐伝+湿原ロックフェスティバル)/3+札幌テレビホームドラマ+高校ブラスバンド北海道地区決勝大会=僕を愛ちて
■投げられやすい石
■作・演出:岩井秀人、出演:ハイバイ
■こまばアゴラ劇場、2011.1.19−2.20
■
http://hi-bye.net/2010/11/03/1036 ■言葉が少なく長続きしない、末尾が未完成のようなセリフが多い。 このためクライマックスで途切れの無いカラオケを歌うことでここに全てが集中して来る。 そしてカラオケ場面で突然のように幕が閉じてしまう。 これは劇的とも言える。
この劇的の発生は事前の対話にリアルさがあったからだと思う。 そしてこのリアルさが出演者への気持ちを思う感情を芽生えさせる。 なぜ変わった石の投げ方をするのか?なぜカラオケが好きなのか?わかるような気がする。
このように一つ一つわかっていく気持ちを探し求めることができる芝居である。
リアル感度の低い部分もあった。 それは佐藤が病気つまり肉体の崩れで一気に崖っぷちに立たされてしまうところである。 現代ではよくある事実であるがそれがリアルにはならないのが芝居である。 でもこれは些細なことだが。
■わが町
■作:ソーントン・ワイルダ、演出:宮田慶子
■新国立劇場・中劇場、2011.1.13−29
■
http://www.atre.jp/wagamachi/message/index.html ■牛蒡はアメリカでも食べるのでしょうか? 小さな町にこんなにも宗派の違った教会があるとは驚きです。 舞台は数組の机と椅子しかありません。 あとはパントマイムで補います。 エミリーの動きは心と一体化していてとても軽やかで素晴らしかったです。
緩やかに進んでいくので20世紀初頭の古き良きアメリカを想像できます。 しかし舞台監督の状況説明だけで前半は終わってしまいます。 盛り上がりはエミリーとジョージの結婚式くらいです。 不満が残りました。
休息時間に気を取り直して期待しますがなんと後半は、いきなり死後の世界です。 驚きの展開です。 難産で死んだエミリーを含め死者達が登場します。 葬式シーンは広い舞台をとても有効に使っていて見栄えがありました。
「神」という言葉が出てこないので日本人でもとっつき易い場面が続きます。 ここでエミリーは生きることの素晴らしさを再発見しますが、最後に死は忘れ去られていくものだと悟ります。
人と時間をたっぷり使って広い舞台で作り上げているのでしょうか、アメリカらしさが出ていました。 観客もゆとりを持って観ることが必須のように感じました。 国立劇場らしい芝居でした。
■チェーホフ
■作・演出:タニノクロウ
■東京芸術劇場・小ホール、2011.1.25−2.13
■
http://www.geigeki.jp/saiji/025/index.html ■幕が開き舞台の中に舞台、そしてその中にまた小さな舞台・・・。 切絵のような風景に原色の照明。 俳優の動きも歌も衣装も人形のようでとても素晴らしいわ。 でも直ぐに飽きてしまったの。
舞台は物でとても豊かなのに、それが持っている存在の不思議や感動が出現しないの。 友子の良さも含めて役者も同じね。 タニノクロウが医者だと今回のチラシで初めて知ったわ。 これで前回観たアンダーグラウンドの謎が解けた。
そして通底にアリストテレスがいるようね。 このチエーホフのよさは、あのチェーホフをアリストテレスからみてみようと言っているようだわ。 でもこれがいつも失敗してるようにみえるけど? 舞台は絵画や医学そして文学とは違うようね。
■明るい表通りで
■作・演出:三谷智子、出演:文月堂
■三軒茶屋・シアタートラム、2011.1.27−30
■
http://www5.ocn.ne.jp/~masa69/news1.html ■若人発掘目的の「ネクストジェネレーション」で入場料も半額なので観に行ったのですが思った以上に質の良い芝居でした。 三姉妹の長女と不動産社員の結婚が物語の中心のようです。
チラシに丁寧な作りと書いてある通り、男女間の感情の遣り取りはとても現実的に面白く描かれています。 ところで若い女性演出家の作品の多くはこの芝居のようなホームドラマ系です。
この主の作品は次のセリフがキーワードになっています。 「しあわせとはなんでしょうか?」がそれです。 これがあると観ないでも中身がわかります。 この芝居でも長女が安易に使っていました。
戦略を立ててこのセリフを越える芝居をこれからは上演しないと、同じような他劇団と共に埋もれてしまいますね。 ところで以前、とある劇団の「ガラスの動物園」で母も姉も亡くなり弟のトムが旅立つ時にこのセリフがありましたが、最高でした。
■風のほこり
■作:唐十郎、演出:金守珍、出演:新宿梁山泊
■芝居砦・満天星、2011.1.21−30
■
http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/kazehoko11/kazehoko11.htm ■とある芝居小屋の舞台下、そこが劇団の文芸部室。 水が流れ落ち、まるで大きな下水道の中の溜まり場に作られているような舞台だ。
幕があがってすぐに義眼女田口加代と文芸部水守三郎が遠い思い出の甦るようなセリフを早口で喋り、観る者は昭和5年の浅草に引きこまれていく。
水が目薬になり、水の鍵を探そうとしたり、水は芝居の流れに寄り添いドロッとした空気のように感じられた。 そして目玉の不思議さも加わり妖しい雰囲気が漂う。
これに過剰な言葉が役者の身体から紬ぎ出されると観客も未知の過去世界に落ちていく。 ひさしぶりに唐の水の世界に浸った。 しかし寒い冬に水の舞台は身にしみる。 題名に風をつけるのは合わない。
■ゾウガメのソニックライフ
■作:演出:岡田利規、出演:チェルフイッチュ
■神奈川芸術劇場・大スタジオ、2011.2.2−15
■
http://www.kaat.jp/pf/zougame.html ■仕事上の講演会に出席しているようでした。 役者の動きや喋り方が下手なプレゼンテーション時のしぐさのようです。 その説明がうまくいったかどうかを確認するような役者の視線が観客に降り注ぎます。 これは説明会型演劇または講演会型演劇です。
日常生活でよく意識にのぼる想いや感情そのものを話題にしています。 「残りの40年という人生は短い・・」。 ですから日常の先にある死も同時に考えることになります。 旅行の話しはもちろん出てきます。 何故なら旅行は死の予行演習ですから。
夢の話しもします。 夢は生活の大部分を占めている無意識世界の出入口ですから。
質を向上するのは悪くはないがしかし、日常生活に質の良し悪しなど無いだろうということです。 パフォーマンスのある、モノローグ構成が面白い、下手なプレゼンテーションの、感動は無いが刺激的で、とても為になった、講演会のような芝居でした。
>>38「人生の幸せとはなんでしょう?」を追う芝居が多い中
このようにメタ日常生活を論じてるのは貴重だね
■アライブ・フロム・パレスチナ、占領下の物語
■芸術監督:ジョージ・イブラヒム
■川崎アートセンター・アルテリオ小劇場、2011.2.11−13
■
http://kawasaki-ac.jp/img/alivefrom_palestina_omote11.pdf ■ベトベトした昔のトマト、あまーい西瓜、林檎、サクランボ、タマネギの匂い、黒オリーブ、・・・、ゴム爆弾、戦車、ロケット弾、ヘリコプターの音・・、日常生活の言葉は極端へ跳ぶようね。
舞台は丸めた新聞紙で一杯。 メディアでは伝わっていないパレスチナ人の日常生活を描きたいと監督の言葉がチラシに載っているわ。 しかし俳優の動きもセリフも無駄が無く滑らかで、しかもブラック・ジョークが多くてその生活がよくみえない。
上演回数や受賞の多さが芝居の持っていた牙を丸めてしまったのよ。 パレスチナ問題が深く潜行してしまった今、次なる作品を早急に作るべきね。
■沼袋十人斬り・改訂版
■作・演出:赤堀雅秋、出演:THE SHAMPOO HAT
■シアタートラム、2011.2.10−20
■
http://www.shampoohat.com/numabukuro/index.html ■しがない三人の中年男の友情物語である。 セリフは漫才のように面白いところがある。 しかし殺人も盗難もどこか中途半端だ。 道路工事や蕎麦屋のアルバイト、気晴らしのパチンコやスナックバー、親の介護など生活の匂いはするが断片しかみえてこない。
いつまでたっても芝居は煮つまってこない。 これがわかっているから歌舞伎調でカムフラージュせざるを得ないのではないか? 過去のモジュールを寄せ集めたようで、息抜きをしている作品だ。
「・・いよいよ15年目になる。 しかし同じ場所でひたすらぐるぐる回っている・・」と書いてあったが、次はぐるぐる回らず真っすぐにすっ飛ばしてくれ。
■焼肉ドラゴン
■作・演出:鄭義信
■新国立劇場・小劇場、2011.2.7−20
■
http://www.nntt.jac.go.jp/release/pdf/1011_yakiniku_dragon.pdf ■1970年頃の在日コリアンの生活の力強さ、戦争の傷跡をそのまま舞台に乗せて直球で勝負している芝居です。 加えて経済成長期の明暗の強さが一体となった激しさがある面白さを持っています。
三姉妹と息子の別れでひさしぶりに涙が止まりませんでした。 兄弟がたくさんいた時代の家族の繋がりや別れが懐かしく見えました。
戦争終結の時、日本人は「敗戦」ではなく「終戦」だと受け止めていることが芝居から見えてきます。 この差異の言葉である「責任」が時々顔を出します。 日本人は「責任」を忘れてはいませんが他人事のように想像してしまいます。
これが息子の死の原因にも繋がっています。 そして生活の苦楽が集約している息子の語りが芝居に一層深みを与えていました。
■品潮記−品川宿物語−
■作・演出:市村直孝、出演:BOTTOM−9
■新宿・サンモールスタジオ、2011.2.9−20
■
http://bottom-9.com/next.html ■舞台は障子が幕のように立っている。 この旅籠屋の障子の開け閉めで物語が一つ一つ進んでいく。 開け閉めのリズムが心地良い。 景色は見えないが品川の磯の香りが海風に乗ってくるような舞台構成だ。
黒船来航、桜田門外の変、水戸浪士の東禅寺事件(?)、箱館戦争・・を絡めるので流れが緩やかだ。 上演時間はなんと3時間。 旅籠の丁稚だった主人公が20年前の物語の進行を務める。 そこで演じられる人間関係や事件は素直であり礼儀もある。
このような古さのある芝居好きは多いかもしれない。 精神的浄化が作用し至福の時間に浸れるからだ。 観客の年齢層が分かれていたのも興味深い。 この種の芝居はあまり観ないがたまにはいいなあ、と思える出来えであった。
■ダイダラザウルス
■作・演出:深津篤史、出演:桃園会
■下北沢・スズナリ、2011.2.16−20
■
http://www.honda-geki.com/suzunari.html ■オデッサの階段を切り取ったようなのがドカーンと置いてある舞台。 「銀河鉄道の夜」のオマージュのようね。 主人公は列車に乗りながら過去の出来事を想起しているみたい。 海辺、ドライブ、遊園地、祭り、京都、夕飯・・。
でも個々の出来事はプライベートに包まれているようで話しの繋がりが見えない。 そして「関西弁で・・・」というセリフが数か所あり関東弁?との二つを切り分けながら喋るので余計に観客を遠ざけてしまう。 切り分けの理由はわからないけど・・。
このような舞台構造と芝居構造を持っていればいくらでも感動を呼び寄せられるのにそれができていない原因がこの二つね。 通りすがりの客には冷たいのね。 これは勿体無い! でもこの閉鎖的な感じがいいと言う観客も多くいたようだけど。
ところで大阪万博の跡地に遊園地がありここのジェトコースターの名前がダイダラザウルスなんだ。 いいタイトルだわ。
■TPAMショーケース
■出演:@スサンナ・レイノネン・カンパニー(フィンランド)Aラバーバンダンス・グループ(ケベック)Bカハーウィ・ダンスシアター(カナダ)Cペリーヌ・ヴァッリ(フランス)Dコンセントラート(ポーランド)
■神奈川芸術劇場他、2011.2.17−20
■
http://www.tpam.or.jp/2011/j/international/index.html ■国際舞台芸術ミーティング(TPAM)での海外5グループのダンス公演。
@寒くて暗い大草原にいるような舞台。 足はいつも地面から離さないで腕を大きく振りまわし、鉛の靴を履いているような歩き方をするの。 大地のリズムが伝わってくるようなダンスね。 身体・体重のある北欧人だと様になるわ。
Aストリートダンスの変形型ね。 音楽が合ってないので展開にまとまりがでないのよ。 そして手足が縮こまるってるわ。 街中で踊るならいいかも。
B北アメリカ先住民族的舞踊と樺太アイヌ弦楽器演奏のコラボ。 横浜ランドマークホールは舞台が狭すぎるわ。 これで過去から現在迄のごった煮のような踊りになってしまったのよ。 緊張していたダンサーが終幕に疲れがでてきてからは良くなったわ。
C「夫婦」を上演。 男と女二人のダンサーの心理的な静かな舞台。 短かい上演でうまく入り込めなかった。 多分面白いダンスだと感じるけど・・。
Dダンサーは一人。 振付の理由や経緯を説明してから踊る手順は面白いわ。 ソビエト崩壊をまだ引きずっているような感じも憎めない。
グループの多くは振付も音楽も古い感じがする。 20世紀に戻ってしまったようね。 いつも観ているTOKYOの舞台を見直してしまったわ。
■美しきものの伝説
■演出:西川信廣、出演:文学座
■紀伊国屋サザンシアター、2011.2.13−22
■
http://www.bungakuza.com/utukusiki/index.html ■劇場に入ると三味線が迎えてくれていい気分になりました。 大正元年、伊藤野枝とその周辺の話しです。 芝居の話しも出てきます。 しかし少し観て席を立ちたくなりました。 歴史や人物の解説をしているような芝居です。 人間関係がとても表面的です。
いかにもセリフを喋っているという感じの対話が続きます。 感動など湧いてもきません。 三味線弾きの突然坊が「・・芝居の結末は歴史書を見ればわかる」と言ってましたがまったくその通りになってしまいました。 義務感で上演をしているような芝居でした。
■苦悩
■作:マルグリット・デュラス、演出:パトリス・シェロー、出演:ドミニク・ブラン
■両国・シアターカイ、2011.2.21−22
■
http://www.theaterx.jp/11/110221-110222t.php ■以前観たデュラスの「インディア・ソング」「愛人」が素的だったことを思い出して両国へ急いだの。 強制収容所の夫ロベールを待つデュラスの日記の芝居化よ。 オルセー駅、今の美術館?、へ毎日通って収容所からの帰還者を確認するデュラス。
そこは帰還者ばかりか捕虜や兵隊がいっぱいの喧騒な世界。 アフリカ戦線、ド・ゴールとド・ゴール派批判、ルーズベルト、ベルリン陥落、収容所解放、赤痢、チフス検査と話しが続いていくの。 結局はドイツも同じヨーロッパだと認識し直すデュラス。
そして驚くべき夫の帰還。 しかし姿は無残にも体重が38kg。 41度の高熱と緑色の泡のような大便。 なんとか持ちこたえて、夫の台詞「おなかがすいた」で幕が閉じる芝居。
途中アンリ・コルピの「かくも長き不在」を思い出してしまったの。 劇的だった映画と違ってこの芝居は淡々としているわ。 だから想像力が必要なのよ、1945年の帰還者を待つ芝居を今観るにはね。
■TABLEMIND
■演出:川口隆夫
■川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場、2011.2.23−27
■
http://kawasaki-ac.jp/img/110223_TM.pdf ■特設舞台両側に客席が60席。 手紙を小声で書くところから始まる。 そして青白い光の帯が身体の脆さを浮き出させながら舞台の世界に入っていく。 バス停で見失った友、入院したことなどが日記のように読まれるがしかし話しは徐々に薄くなっていく。
映像の他人に同化して「冬の散歩道」をバックに激しく踊るクライマックスはとてもいい。 曲目も合っている。 終幕に再び手紙を読むがノイズ音で聞き取れなくなり声は粒子のように分散していく・・。
小道具や映像・光はダンサーから付きず離れず他者のような関係を保っているように動き回る。 舞台、振付、ストーリすべてがコンパクトにパーソナルにまとめられている。
日常生活から少しばかりズラした身体を意識させてくれた。 休息ができる短編小説を読んだようなパフォーマンスであった。
■カゲロウの黒犬
■作:李大京右、演出:寺十吾、出演:TSUMAZUKI
■下北沢・スズナリ、2011.2.23−3.2
■
http://tsumazuki.com/image/kuroinu_omote.jpg ■場内に入ったら、住みたくない家の典型が舞台に作られていて不吉な予感がしました。 チラシには「現代社会の一番嫌な、出来れば見たくないようなものみせつけられた・・」と過去の感想が載っています。 幕が開くとチラシどおりの世界が展開されます。
祖母と父親の死、後に残された引き籠り兄弟とこれに群がる貧困ビジネスの人々の話しです。 日常生活を営んでいる船底を開けるとこのような地獄があることを薄々気づいているから余計に見たくないのです。
でもこの地獄は人類が登場してからずっと存在しているものではないでしょうか。 登場する人間関係は直ぐにでも分解しそうですが、舞台は非常に濃い負の対話が続きます。 ここが芝居の面白さですかね。
老人介護職員が通帳を預かっている場面があります。 自立支援ボランテアと祖母の年金を分ける話しもでてきます。 ここで長男が何も言わないのは前後の筋からいっても理解できません。 このようなストーリだとお金の処理はやはり気になります。
この芝居は出口がありません。 永遠に続く現実の一部を誇張だけしてそのまま舞台にのせているからです。 次も観たいか?と問われれば今回で十分だと答えます。 なぜなら劇場をでれば現実が待っていますからね。 これが売れない理由です。
■公演名 アントンとチェーホフの桜の園
■スタッフ、キャスト 大窪寧々 高.ok.a.崎拓郎
■劇場名、期間 2011.02.25〜28
(■URL)
http://www.kaimakup.com/anton/ ■批評・感想
ビックリするくらいつまんなかったです。途中で寝そうになりました。
他の観客もつまらなそうで、あまり笑ってませんでした。
たまに笑ってましたが、少しだけ。
最初の出オチだけ、自分も笑えました。
ストーリーはほぼ無くて、ほぼ勢いだけです。
■花札伝綺
■作:寺山修司、演出:青木砂織、出演:流山児★事務所
■SPACE早稲田、2011.2.25−3.6
■
http://www.ryuzanji.com/r-hanafuda11.html ■歌が多いのでこれは歌劇ですね。 狭い舞台に同時に10人以上が登場するので身動きができません。 これで役者は日常生活の動きに戻ってしまいます。 これが顔にも伝わり締まりの無い表情になってしまいます。 とうてい物語の深みには入れません。
オペラのようなものだと初めからみればよかったのです。 そうすれば歌う時の無条件に明るい表情や、紙で作ったハリボテの衣装も納得できたかもしれません。 ところでチラシに「「三文オペラ」の本歌取り・・」とありましたがどこが本歌かわかりませんでした。
■私たちは眠らない
■演出:東野祥子、出演:BABY−Q
■三軒茶屋・シアタートラム、2011.3.4−6
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/03/post_219.html ■前作の「ヴァキュームゾーン」で、特に照明に踊りが追いついていけなかったところはクリアしたようね。 理由は照明のコヒーレントが増したため踊りと対等になったからよ。 音楽も一層よくなったけど同じ理由が言えるわ。 そしてダンサーには切れがあった。
結果、東野の持ち味のドロドロさがなくなったの。 このドロリの原因はアニミズムに通ずるようなものだと思うの。 東野は恐山のイタコだったのよ。 しかし今回これが別なものに変化した。 それは宗教よ。
こんかいの音楽はイスラム教を思い出させるの。 そしてマイクを持った女性の演説がグローバリズムを語るの。 これは宗教と兄弟よ。 最後に箱を繋ぎ合せて十字架を作りコヒーレンスな照明で精神を高揚させる。 こんなにも宗教的な舞台は珍しいわ。
しかし最後に藁と骸骨が登場したの! どういう意味だか理解できないわ。 でも二つの方向が考えられる。 東野は再び恐山のイタコに戻る、あるいは本格的な宗教へ突き進む。 どちらへ行くかは次の作品を観ればわかるはずよ。
■グリム童話−少女と悪魔と風車小屋−
■作:オリヴィエ・ビィ、演出:宮城聰、出演:SPAC
■静岡芸術劇場、2011.3.5−13
■
http://www.spac.or.jp/11_spring/grimm ■父が悪魔に娘を与える契約をしてしまうが、娘は両手を切り落とし旅に出る。 娘は王と一緒になり子供を産むが再び悪魔の謀で娘は子供と森へ逃げる。 しかしさいごに父や王と喜びの再開をする。 そして両手も再び甦る・・。 感動ある死と再生の物語ね。
舞台は白一色。 悪魔だけが黒よ。 木々や動物はもちろん衣装の一部も紙でできているの。 打楽器のシンプルな演奏は物語にマッチしている。 人形のような動きとセリフの、動かないダンスをみているような役者。 舞台は玩具箱をひっくり返したようね。
細かいところにも気を使っているのが伝わってくるわ。 照明のメリハリも良かった。 天使と悪魔はセリフも動きも切れがあった。 舞台全体の総合力で勝負していてそれに勝っている芝居ね。 そして奇跡の芝居は格別よ。
■人形の家・解体
■作:エヴァルド・フリザール、演出:高取英、出演:月蝕歌劇団
■ザムザ阿佐谷、2011.3.15−17
■
http://page.freett.com/gessyoku/ ■二組のノラとヘルメルが登場して頭の中は混乱しました。 どのように解体したのかわかりませんでした。 パラレルワールドは面白い構想ですが、物語に深みがみえない、それに加えて歌が多過ぎてストーリーを潰してしまったことが原因です。
このためか和服姿や演歌、狐の仮面や光線もどことなく白々しくみえました。 煙もモクモクし過ぎですね。 舞台全体のリズムが乱れてしまったのです。
役者が不可思議なリズムと感情を奏でている舞台を楽しみたいと観に来る観客が多いのですから、ここは緻密な計算をしてほしいところです。
■ホフマン物語
■振付:金森穣、出演:NOISM
■静岡芸術劇場、2011.3.19−20
■
http://www.spac.or.jp/11_spring/hoffmann ■操り人形オランピア、男装娼婦ジュリエッタ、病弱な娘アントニアの三幕もの。 とても切れ味の良い振付だ。 これに比して照明の緩やかさ、床の肌色、沢山のブロックの木で作られた温かさ、衣装の中間色の多い細かい柄。 振付とは対照的な構成だ。
この為なんともいえない雰囲気がある。 恋の破たん劇に合っているようにみえるが、まとまりが無く混乱している舞台にもみえる。
人形の踊りや舞踏会など楽しめる場面もあったが、演者の視線が鋭く拒絶のしぐさが多いため緊張感が過ぎたようだ。 三幕のうち一幕を毛色の違う振付で臨んだらより面白くなったのでは?
■バルカン動物園
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■こまばアゴラ劇場、2011.3.18−28
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/03/seinendan/ ■役者は動きが少なく椅子に座っている時間が多い。 結果舞台は満員の状態が続く。 セリフが重なって聞きづらいところが多々ある。 そして流れがよく見えない。 しかも奥行きの無い舞台で役者と観客の距離を縮めている。 このため息苦しい。
プロジェクターを利用した解説は強すぎる。 これで役者全てが凍りつく。 もちろん観客も。 科学史、免疫、生物実験、コンピュータ、確率などの説明が物語に溶け込んでいかない。 脳波がでている脳味噌だけの研究も異様だ。
自閉症の話題はまだしも、研究員の結婚話も動物実験材料の是非も突飛な感じだ。 科学シリーズ前二作と比較してギクシャクしていて練れていない。 今は理工学専門家と机を並べているとチラシに書いてあったがまだ演出は手がけているのかな?
■冬の旅
■作:松田正隆、演出:高瀬久男、出演:アル☆カンパニー
■新宿SPACE雑遊、2011.3.17−27
■
http://www.zatsuyu.com/performance_info.html#pafo03 ■俳優の夫婦がイスラエル?旅行をしてきた話です。 ですから平田満と井上加奈子は二重の意味で夫婦ということですね。 日常会話とモノローグから構成されています。 機上やホテル、レストランのこと。 パレスチナ?や死海のこと。
マクベス夫人の科白を舞台上で忘れてしまったこと。 何故忘れたのか?とか。 ベティ・デイヴィスや題名がわからない映画のことなどなど、お互いの生活や性格を軽蔑や柔らかな非難をしながらすすみます。
芝居ですから現実の会話より知的になっているので眠くはなりません。 かといって身をのりだすほどでもありません。 演出や俳優に興味が無い場合、この種の芝居はチケットを購入する時に躊躇します。 先日ハンマースホイ展を観たので決めました。
しかし観てしまったからにはやっぱ良かったなあと想うところがあれば得した気分になりますが、はたしてこの芝居には有りました。 もちろん口にする程のことではありませんが。 チラシはもちろんハンマースホイですがこの絵よりもっと雑音のある芝居でした。
■カスケード 〜やがて時がくれば〜
■作・演出:岩松了
■下北沢・駅前劇場、2011.3.16−27
■
http://www.dongyu.co.jp/cascade/ ■青春群像劇よ。 学園ではなく既に社会に出た話だから、甘酸っぱい香りが漂っているとは言えないけど。 青春も歳をとったのね。 カモメを上演する演劇関係者の話し。 前半人物関係がみえなかったけど、チラシを見たら役名と本名が同じだった!
舞台はトレープレフ役の青年が自殺をしたところから始り、時間を逆に進ませるから余計混乱した。 台詞は切れが良くテンポがあるし役者もキビキビしていてスピード感がある舞台よ。 いつも観客だから芝居の作成過程が現実にこうなのかわからない。
企業と同じにトップが確固たるヴィジョンを持ちそれを役員レベルが組織に具体的におとすことが要だということはわかったわ。 でもこれが出来ないから芝居になるのね。 感動というより切ない想いが押し寄せてくればこの種の芝居は成功だとおもうけど。
抑えの効いた演出だったし観た後も雑音を残さない良い舞台だわ。 ところでここは客席が少ない劇場だけど今回は倍の席に模様替えしていたの。 しかも観にいった日は立ち見もいたし・・。 芝居をみてもわかるわ。
■材料アリストパネース
■演出:杉浦千鶴子、出演:ラドママプロデュース
■お茶の水・FREESPACEカンバス、2011.3.24−31
■
http://www.geocities.jp/radomama/ ■「アカルナイの人々」「女の平和」「雲」を題材にしています。 時々演出家が登場してギリシア地図の説明や用語の解説をします。
演目の切れ目に映像が入ります。 米軍厚木基地で日米安保条約強化反対について、宮下公園でナイキ移管の公共施設利用規制反対について、過去の公演「バッコスの信女」でのギリシャ古典劇議論などです。
舞台とこれらの映像から他ポリスやペルシアとの政治状況、主人公の行動などが現代と結びついてくるのがわかります。 そしてギリシア劇とはポリスを考えることだ、に到達します。
神田界隈の通行人をそのまま連れてきたたような役者、しかも配役名を首にぶら下げて登場します。 平和、喜劇そして下ネタの話で盛り上がりそうですが、観る楽しさや歓びからは遠い舞台です。 ギリシアが近くなったり遠くなったりする芝居でした。
■交換
■原作:ポール・クローデル、演出:フランク・ディメック
■こまばアゴラ劇場、2011.4.6−11
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/04/franck/ ■幕が開き、女優レキの劇中劇や資本家トマの登場をふくめて4人の役者が出揃う前半はひさしぶりの感動に出会えました。 役者の身体と言葉がとても生き生きしていたからです。 しかし以後は萎んでいきます。 後半再び盛り上がりますが既に終幕です。
それはルイがインディアンに戻った少しの間だけ、マルトはもちろんですがレキもトマもそれを感じとるからです。 その時のルイは素っ裸ですが筋肉や肌から発する言葉は想像以上のチカラを持っています。 ギリシャ時代のオリンピックもこうだったのでしょう。
マルトは旧ヨーロッパというよりインディアンの血が流れている演技をしました。 これでヨーロッパ対アメリカから旧アメリカ対新アメリカへと比重が傾いてしまい芝居の集点が定まらなくなったように思えます。
そしてインディアンから何故かパリのアフリカ人を思い出してしまいました。 このためか、ギリシャ、アメリカに加えてアフリカ植民地の影のあるフランス的のなんとも言えないテンポのある舞台に浸れました。 しかし2時間半はやはり長く感じた芝居でした。
■わが星
■作・演出:柴幸男、出演:ままごと
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2011.4.15−5.1
■
http://www.wagahoshi.com/ ■人生は宇宙と同じように壮大なんだ!という感覚が押し寄せてくる家庭劇?でした。 星として家族の一員として役者はコロスのように円周を飛び回ります。 このリズムに共鳴して観客も子供の遊びのように疲れも飽きもしない舞台をみることができます。
実際子供の遊びの名前や初めて自転車に乗った時のことなどが話題になり観客を過去の時間に戻します。 祖母がいつ亡くなるかの話題もよくのぼります。 しかし湿っぽさはありません。 理由はこの芝居が宇宙とうまく繋がっているからです。
10のマイナス30乗のプランク世界に関しての本を読んだのですが、この世界の住人からみると人の身長1mは宇宙の大きさと同じ比になるとありました。 137億光年が人の身長だって!?この芝居はプランク世界をも取り込んでいる面白い感動を持っています。
■サブロ・フラグメンツ
■振付:勅使川原三郎
■アルテリオ小劇場、2011.4.30−5.8
■
http://kawasaki-ac.jp/img/SF-press0329 karas-2.pdf
■等加速度の動きが冴えていたけど、ヴァイオリンの音色が粘りついたような感じだった。 しかも運動エネルギーを外に出さず蓄えたまま踊り続けているようにみえる。 発散しないダンスは心が踊らないわ。 後半はもがき苦しんでいるようね。
途中のピアノは合わせ難かった、だから直にヴァイオリンに戻してしまったのかしら? 若いダンサーたちは三郎からフィードバック機能を取ってしまったように動き回っている。 もっと制御を効かせて逆にスローにしたほうが変化がでて面白かったはずでは?
終幕の照明と踊りは付け加えた感じで馴染まない。 省いた方が自然な流れになるとおもうけど・・。 3.11を意識し過ぎたのね。 100年後の人類が人造の肉体を持った時の苦しみがどういうものかを想像してしまう、ようなダンスだったわ。
■走りながら眠れ
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■こまばアゴラ劇場、2011.4.29−5.16
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/04/engekiten/ ■題名がとてもいいわ。 でも芝居は眠るほうに比重がかかっていたようね。 走っているのがみえなかったわ。 それは船旅やファーブルの話しが面白過ぎて二人の日常生活の対話に深みがでなかったからよ。 多分リアルさだけでは不足なの。
チラシに「明るい、おおらかなサヨク、大杉栄・・」とあって「革命日記」を思い出してしまった。 雑誌「テアトロ」の2010年度ベストワンで「革命日記」をワーストワンに掲げていた批評家がいたことも。
「こんなことでは革命などできない・・」とか言っていたようだけど。 ソビエトは崩壊しちゃったんだからこんなことでも御破算よね。 でもどちらの芝居も革命家でなくても成り立つかもしれない。 おおらかさだけでも不足なのよ。
走っているのがみえるにはどうすればいいのかしら?
■マッチ売りの少女たち
■作:別役実、演出:平田オリザ、出演:青年団
■こまばアゴラ劇場、2011.4.28−5.17
■ストーリに細かい非連続があって観ていても躓いているばかり。 80年代生まれの会話とくすんだ戦後風景が同時にやってきたり、少女たちの主張がかけ離れていることだとか、・・いろいろあるわね。 これが流れを澱ませて芝居をつまらなくしたのよ。
この非連続を不条理にまで昇華させると少しはみられるようになるわ。 でも不条理ではなくて不合理で止まってしまった。 しかも別役実の不条理劇はあまり面白くないし。 これをコラージュしたのが原因かな。 特に初期作品をね。
ところで5日に緊急対談があったのね。 知らなかった。 緊急というからには重要なことよね。 しかも子供の日に。 是非内容をHPに載せて欲しいー。
67 :
名無しさん@公演中:2011/05/11(水) 09:00:34.13 ID:9/xgqGE6
■鳥瞰図
■作:早船聡、演出:松本裕子
■新国立劇場・小劇場、2011.5.10−5.22
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000327.pdf ■老女将と息子が経営している釣船の店が舞台。 作者は磯の香りを観客に届けたかったのでは? でもカサゴ・あなご・白キスの大文字看板や部屋に飾ってある海岸や釣船の額縁写真は最後まで知らん顔のままだ。
浮気や離婚など複雑にみえる人間関係は中途半端で女性週刊誌を読んでいるようだ。 食べる場面も多過ぎる。 玉蜀黍・西瓜・煮物・アイス・オムレツ。 これが噂話と絡み合いテレビドラマのようだ。
そして時間が経っても登場人物の過去の結びつきが結晶化していかない。 だからミオによそよそしかった佐和子が親しみの態度に急変した心理も頷けない。 孤独死峯島の葬儀で終幕にするのも東京湾の死に、掛けているようだが感動は小さい。
残念ながら磯の香りは届かなかった。 細部が分散と停滞のまま俯瞰したので毒にも薬にもならない舞台になってしまったようだ。
■デビルマン
■作:永井豪、脚本:じんのひろあき、演出:高瀬久男
■プルヌスホール、2011.5.13−5.20
■
http://www8.obirin.ac.jp/opai/opap_item.php?no=73 ■漫画とは知っていたが読んだことはない。 観劇後ウィキペディアで調べたところ面白そうなストーリーだ。 演出家も笑顔になるだろう。 原作はゴシックホラーだが後半は人間同士の信頼の話しになっていくらしい。 芝居もここが中心になっている。
生きるために他人を殺せるか? 悪魔狩に包囲された最悪の状況で全登場者は決断を迫られる。 「人殺しなんかできない。 しかし殺されそうならば状況による。 やはり生きたいから・・」。 これが普通の答えかもしれない。
だがこの答えこそ悪魔の証だと聞こえてしまった。 そして不動は待っても来ない・・。 興味が消えないので近々にレンタル店で「デビルマン」を借りてこようとおもう。 ところで舞台は役者の動きもセリフも簡潔明瞭でとても観やすかった。
■ロマン
■作・演出:高井浩子、出演:東京タンバリン
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2011.5.13−22
■
http://tanbarin.sunnyday.jp/roman/index.html ■階段が部屋にもなるシンプルな舞台、雑踏での役者・照明・音楽の協調ある動き、要点を押さえた日常対話、メリハリある場面切替、リズミカルな時の流れ・・、とても洗練されている芝居ね。 計算され尽くしているのを観客にみえるのが弱点くらいかな。
帰り道では、今観て来た舞台を何度も思いだしてみたわ。 織物の地から最初は見えなかった柄が浮き出てくるような芝居だった。 でもその素晴らしい柄に感動する手前で止まっているような後味ね。 原因はただ一つ、それは身体が見えないから。
このように身体性を抑えている芝居は時々観るけど多くは失敗しているわ。 でもこれは成功している、ようにみえる。 チラシに「劇的でなくててもいい」とあったけど近いところでウロウロしているみたい。
小津安二郎は計算尽くしで身体性を抑えて静かな劇的さを出している、・・もちろん映画的劇的と演劇的劇的は違いがあるけど、 きっと新しい劇的さを出せるとおもうわ。
文章が下手で何を言っているのかわからないから
次回より評価を★数で表示、文章最後に追加して・・
★★★最高
★ 最低
★★ 上記以外・並
■散歩する侵略者
■作・演出:前川知大、出演:イキウメ
■シアタートラム、2011.5.13−29
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/05/post_232.html ■ヒトが持っている概念たとえば所有・家族・・を盗み取る「宇宙人」が登場する。 取られた人はその対象概念が無くなり別人のようになってしまう。 脳科学の言語機能主義が背景にあるSFストーリーである。 そして神や愛の概念になると一筋縄ではいかない。
神は逃げてしまうし、真治が鳴海の愛の概念を盗む肝心な場面の二人の行動は不可解にしかみえない。 要の「侵略」という概念もボヤケているし古すぎる意味で使っている。 もっと深く突っ込んだら面白い展開にできるはずだ。
舞台の小道具や背景はすべてが灰色系で物語とマッチしていた。 役者が一瞬で別の場所と時間に跳んでセリフが続いて行く切替方法は面白い。
SFは何でも有りで空想力豊だが制約が無いぶん観客の想像力は減少する。 SFを採用した時のデメリットが目につく芝居であった。 ★★。
■戦争にはいきたくない
■作・演出:石曽根有也、出演:らくだ工務店
■下北沢駅前劇場、2011.5.20−29
■
http://www.rakuda-komuten.com/s-ura.htm ■東京下町のネジ工場の、社長の自宅でもある事務室が舞台です。 テーマが見えてきません。 別に見えなくてもいいのですが、話がいっこうに進まないので気懸かりになりました。
犬の世話やジャニーズやパンダ、デズニーランドのことなど日常の会話に終始していきます。 結婚話やヤクザそして認知症で少しばかり盛り上がるのですがこれも付け足しにみえます。 付け足しだけでできている芝居です。
「具体的な物語の断片を・・」積み重ねるだけではリアルは現れません。 普遍とリアルのどちらが先か?・・、ここではリアルが先だと思います。 リアルは舞台と観客の間で存在や関係性の本質が立ち現れることですから。
その結果「普遍的な物語の断片を・・」描けたと言えたのではないでしょうか。
■どん底
■原作:M・ゴーリキ、演出:鐘下辰男、出演:THE・ガジラ
■笹塚ファクトリー、2011.5.20−29
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage20819_1.jpg?1306060274 ■上手を観客席にしているので下手は奥のある舞台にみえる。 前半は愛憎劇。 セリフは短いが男女間の複雑な背景が凝縮しているので理解しようとすると動きについていけない。 幸いにもセリフに間があったので言葉を一度噛みしめることはできた。
後半は自由を絡めてくる。 観客自身がこの二つに苦い経験を持っていないとすんなり舞台に溶け込めない雰囲気がある。
若い観客が多いなか拍手も無かったのは、武骨な愛憎と自由、酒での連帯強化は馴染まなかったのでは? パンフレットの「私たちの自由と社会を再考」するのにゴーリキは遠い人のように感じてしまった。
演劇博物館「伊藤憙朔と舞台美術」展にモスクワ芸術座「どん底」(1950年)の写真が数枚展示されていた。 俳優の顔かたちや表情がガジラの役者と瓜二つだったので笑ってしまった。 「どん底」を経験すると似てくるようだ。 ★★。
■黒い十人の女
■作:和田夏十、演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、出演:ナイロン100℃
■青山円形劇場、2011.5.20−6.12
■
http://www.sillywalk.com/nylon/info.html ■風松吉のような男は現実にいるのかね? たまに似ている奴がいるけど多くは仕事も出来ないニセモノなんだ。 前半は面白かつた。 理由は男と女の綱引きが精神的に対等で緊張感があったからだとおもう。
しかし松吉を殺す話が持ちあがってからは急に面白さは萎んできたな。 そして終幕まで退屈が充満していた。 「殺人遊び」は古過ぎるし、「檻遊び」の場面は目を背けたよ。 男女間の汚らしいところが表出し舞台を現実に戻してしまったんだ。
しかし10人もの女性のキャラクターをここまで出せたのは素晴らしい。 そして役者や小道具の動きに見覚えがあったけど、振付が小野寺修二と聞いて納得。 この映画は観ていないが監督が市川崑だからつまらないかな?
■ビタースイート
■作・演出:椎名泉水、出演:スタジオソルト
■SPACE早稲田、2011.5.25−29
■
http://www.studiosalt.net/btsw/201105_cu.html ■北朝鮮の兄妹が空港で捕まり、出された菓子の旨さに国家観が心揺れてしまう一話。 二話は死が近い父に20年ぶりに再会して言葉から情へ移っていく子の心模様。 三話は顔が崩れている女性が好きになり告白をするが振られる男の独白。
放射能汚染5km圏内で無断生活している人へインタヴィユする四話。 ・・放射能は人間生活圏では理解不可能な異物にみえました。 以上のオムニバス四話で構成されています。
タイトル通りに少しばかり非日常的な行動をビターとスイートで包みこんでいます。 どれも涙と笑いを誘います。 バカバカしさのある話でしたが人生の納得が積み重なっていく芝居でした。 ★★。
■DANCE TO THE FUTURE 2011
■振付:キミホ・ハルバート、石山雄三、上島雪夫
■新国立劇場、2011.5.28−29
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/ ■3作のどれも低調な感じですね。 でも「ナット・キング・コール組曲」は楽しめました。 この中劇場はどうしても集中できないもどかしさがあります。 なにもない空間どころか、雑念が漂っている空き地で上演しているようです。
最初の「ALMOND BLOSSOMS」はダンサーが舞台中央まで来るのに10M近くもあるから、観ていても繋がりが切れてリズムが狂ってしまいました。 舞台袖も廃れた街角のようで出番を待つダンサーの演出も台無しです。
2作目「QWERTY」 はデジタルメディアとの関係がみえませんでした。 情報処理をした映像や音楽を使用することでしょうか?キーボードの映像上をダンサーが動き回るなど30年前のイメージです。 映像に遊ばれていたようにもみえました。 ★。
■泥リア
■作:林周一、演出:笠原真志、出演:風煉ダンス
■調布市せんがわ劇場、2011.5.27−6.5
■
http://www.sengawa-gekijo.jp/_event/05657/image1L.jpg ■嵐の中のリア王→リアの妻の葬儀→三人娘や夫の登場→壁の模様替え→泥人間登場・三人娘がギドラに変身・エドマンドの謀略・・→壁の模様を戻す→嵐中のリア王→リアの妻の葬儀、こんな流れだったかしら?
ギドラや泥人間の楽しい登場は、暗い場面の嵐のリア王や葬儀に一層の深みを届けている。 リア王の二人は舞台慣れしていてそこだけ違う芝居のようね。 これで→が進むごとに時空を超えていくような舞台にみえた。 一種の劇中劇かな。
そしてあらゆる観客層を取り込もうと努力しているようね。 ギドラや泥人間が登場の理由はこれかも。 賑やかさと楽しさのある荒っぽい芝居だったわ。 ★★。
■真夏の夜の夢
■潤色:野田秀樹、演出:宮城聡、出演:SPAC
■静岡芸術劇場、2011.6.4−5
■
http://www.spac.or.jp/11_fujinokuni/nightsdream ■木々と梯子で奥行と縦の立体感を出しグレー系の落ち着きのある舞台美術。 衣装も料理屋従業員の白から、妖精達の灰色、メフィストフェレスの黒までの無色、そしてそぼろだけワイン色なのは彼女の夢だったから?
野田の言葉優先から来る緊張感ある舞台と違って宮城の言葉と身体を対等に置く表現は落ち着きのある宇宙を作り出している。 メフィストの登場で善悪・恋愛・人生などを反芻する余裕ができて、観客は物語に深く分け入りながら進んでいくことができるの。
最後に恋愛の行き違いから森を失ってしまうのをみて人間の些細な出来事の積み重ねが歴史だと見えてくる。 グリム童話はシンプルだったけど今回は肉が付き過ぎね。 だから観劇後の帰り道に舞台を思い出すごとに充実感が増していくのね。
■天守物語
■原作:泉鏡花、演出:毛利亘宏、出演:少年社中
■吉祥寺シアター、2011.6.3−12
■
http://www.shachu.com/tenshu/ ■妖怪の住む天守閣と人の道が深い自然で分かれている舞台、父親に戻る時間の展開方法、妖怪と人の相違を説明している多くのセリフ、「妖怪も人も死ぬのは怖い」。 具体性を持っているにもかかわらずシンプルで分かり易い舞台です。
そして中国風の華麗な衣装と日本の祭りの踊りがこれを包み込んで少年らしい世界を提示しています。 そのぶん深い精神の襞は描けていません。 しかしそれは観客が想像すればよいのですから。
もう少し抽象性を進めたらまた少し夢幻世界へ近づけたかもしれません。 ところで黒衣の鷹の動きは、右腕だけで羽を表現し身体とその位置を分離して面白い存在感を持っていました。 楽しい一時を過ごせた芝居でした。
■光ふる廃園
■振付:工藤丈輝・若林淳
■座・高円寺1、2011.6.10−12
■
http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=455 ■発行態での若林淳のダイナミックなソロでは照明が前後左右から点滅を繰り返しユックリみることができなかった。 観る楽しさを壊している。 この場面の照明はどっしり構えていて欲しい。
工藤丈輝は鋼鉄の肌黒い肉体を持った河原乞食だ。 若林と対照的な体を持っている。 この二人なら面白い舞台が作れるはずだ。 しかしそのように進行しない。 なぜかつまらない。
女性が登場しても展開に硬い感じが続いた。 ダンサーは汗をたくさんかいていて緊張しているようだ。 チラシの解説は数行だが重たく難しい言葉で綴られている。 この言葉を身体迄に落とすのに精神を使い果たしてしまったのではないだろうか。
■椿姫
■原作:A・D・フィス、演出:鈴木忠志、出演:SCOT他
■静岡芸術劇場、2011.6.11−12
■
http://www.spac.or.jp/11_fujinokuni/camellias ■主演を固めるのは台湾俳優たち。 歌われる14曲の多くは1900年前半の中国流行歌謡曲。 初めて聞く曲ばかりだわ。
背景の客人達=コロスはニューヨークのウォリアーズ感のある衣装で場所がどこだか見当がつかない。 多分上海ね。
アルマンの父がマルグリットに息子から手を退くように懇願する、物語の高揚場面で北京語から台湾語に替わったらしい。 日本の観客は見過ごすけど、台湾の観客には身体と歴史が塗れている言語変換でとても感動したと聞いたの。 これはわかる気がする。
最後の「緑島小夜曲」がよかったかな。 でももっと歌にけだるさがあってもいいかも。 上海の雰囲気ももっと欲しかった。 そうすればS・メソッドの重みのある身体動作と一層マッチしたはず。 テレサ・テンの「何日君再来」を聞きながらこれを書いたのよ。 ★★。
■四番倉庫
■作:宮森さつき、演出:多田淳之介、出演:二騎の会
■こまばアゴラ劇場、2011.6.4−15
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/06/nikinokai/ ■「友だちがいない」というセリフが決定場面で必ずでてきます。
これが「ダメ男たち」の条件のように聞こえました。
でもこれは十分条件にみえます。
必要条件は会社や家族などなどの組織から外れていることです。
ところで、この芝居は変形版ボケとツッコミですね、
そして客席の二人が時々ストーリーを延ばす為の野次を飛ばす感じ。
ツッコミの内田や野次を飛ばすことができるのは必要条件を持っていない人、
つまり曲がりなりにも会社や家族という組織に居る人です。
速水にはそれがない。 「ダメ男」はボケをやるしかない。 昔なら速水は仙人です。 ★★。
■雨
■作:井上ひさし、演出:栗山民也
■新国立劇場・中劇場、2011.6.9−29
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000328.pdf ■前半途中から平畠弁?になり戸惑ったが、後半は少しずつ耳に馴染むようになった。 いつもと違って歌舞伎を観ているような場面が多々ある。 声がよく届き、歩き方も他役者とは違う、主演である市川亀治郎の影響力に驚く。 他役者も張り切るしかない。
成りすましの徳が紅花問屋に藩に幕府に騙されていたことが終幕近くでまでわからない。 他の井上作品と比べて物語の流れに複雑さが無い。 これも歌舞伎的演出を活かせた一つの理由のようだ。
そして中劇場の締まりのない広さが気にならないのも、この不要を捨てた抽象性が効いている。 「観るまで読むな、観てから読め」は井上ひさしの芝居の観方である。 今回もチラシだけしか読まないで劇場に向かったのは正解だった。
■モリー・スウィーニー
■作:ブライアン・フリール、演出:谷賢一
■シアタートラム、2011.6.10−19
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/06/post_229.html ■盲目モリーの目の手術の前後まではヘレン・ケラーを思い描きながら観ました。 触覚優先の別世界へ想像力が働く舞台です。 しかし後半は再び目が見えなくなってしまいますが、真の原因が伝わってきません。 モリーは何かを失ったことはわかりますが。
夫フランクはコント?を演じたり、時にはケーシー高峰のようにホワイトボードで医学論を展開したり、セリフは叫び、観客にも愛想をふりまきます。 ライス医師も手紙を読んでるような棒読み、フランクに釣られてか時には叫び調子になります。
モリーとフランク、ライス医師の三人は別々の芝居の役者のようです。 そして舞台にある机や椅子や本棚のある、つまらない日常風景が、後半は黒の基調で赤いコート黄色い傘水色の服、波を打っている黒銀色の床への抽象的風景へ再編成されます。
この舞台移行の理由も不明です。 SFのような物語でしたら気にしませんが、以上の三点が観劇後に残った芝居の不可解さです。
■オイディプス神話
■演出:笛田宇一郎、出演:笛田宇一郎演劇事務所
■シアターイワト、2011.6.15−19
■
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/u1fueda/oedipus01.pdf ■セリフが連続しかも早口で物語の繋がりを追っていくことが出来ない。 登場人物関係も混乱してしまった。 しかしセリフは体から発する特異なリズムがあるので心地良い。 途中から詩を観ている感覚になる。
若い役者も硬さがあるけど離されないで付いてきている。 武内靖彦のダンスは動きが少なくて良かった。 でも他役者はもう少し動いたほうが舞台に興味がより生じたはず。
パンフレット「・・人間が宗教や悲劇を必要としているのは、・・混乱や無秩序に巻き込まれ身体的に一体化することが秩序なのだ・・」とあったが、大震災と芝居を結びつけていて目が止まってしまった。
観終わって、充実感はあったが感動が少ないことに気付く。 役者間の身体からの返信が弱かったからだとおもう。
■人涙
■作・演出:鈴木アツト、出演:劇団印象
■タイニイアリス、2011.6.9−26
■
http://www.inzou.com/jinrui/jinrui-omote.jpg ■レーシック手術で見えなかったものが見えてくるお話。 主人公が見えるようになった妖精は、衣装も大好きな涙を食べる仕草もとても素的ね。 今日子の母とその愛人その姉の4人が登場し、対話の中から日常の襞が見えてくる。
それは些細なことだけど生活を意味あるものにしていく事柄なの。 でも結局はどうでもいいことね。 観終わったら妖精の楽しさと登場人物の社会的関係しか覚えていないわ。 しかし塞ぎこんでいる時に観にいきたくなるような芝居ね。 妖精に会えるから。
■一輪の華をはなむけ手向けることも赦されず
■作・演出:ラディー、出演:劇団ING進行形
■タイニイアリス、2011.6.9−26
■
http://ing.nobody.jp/ ■キリスト教が絡むとそこはSFの世界ね。 ジャンヌ・ダルクの霊を呼び出す場面で始まる神の啓示と使命の物語のようねだけど・・。 演舞と言われるダンスは悪魔的イメージで今回のテーマにマッチしているわ。 にもかかわらず踊りへの必然性が弱かった。
物語を高揚させてダンスに行かなければならないのに、観客は物語を自身のものにできず置いてきぼりにされてしまったからよ。 公演時間が短いとダンスとセリフが同時進行するから観客は容易に受け取れるの。 荒くてもあまり気にしなかった。
展開が粗雑なのかな? 長時間になるとこれが分離する。 すると物語とダンスの結合を緻密に計算しないと感動が届かない。 ということでいまからドラマツルギ2012が楽しみだわ。
■ソコハカ
■原作:鴨長明、作・演出:岩渕幸弘
■プルヌスホール、2011.6.23−26
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage21364_1.jpg?1309044466 ■舞台中央に塔婆が立っている。 背景には大きな「夢」文字。 盆踊りの櫓のような舞台が前に進み出て幕は開く。
しかし最初は役者がセリフを叫んでいるようで何を言っているのかよく聞き取れない。 咽が潰れている役者もいるようだ。 2,3の女性役者を除きこの状況が最後まで続いてしまった。 何回も耳を塞ぎたくなった。
物語の流れもよくわからない。 あらすじでも書いてあれば有難かったが。 科白も否定的な言葉が多く、耳に障る。 途中で監督・音響・照明・カメラが登場するが複雑な構造は面白みが遠ざかる。 もっと直球で勝負してほしい。
スタッフ、キャスト共に学生が多いようだが、まずはわかり易い芝居を心がけてもらいたい。 セリフもだ。 「全力プレー」は結構だが、これでは鴨長明も仰天しているだろう。
>>91 耳を塞ぎたくなった、なんてめったに無いこと、最高だネ
■EVERY DAY
■脚本:冨士原直也、演出:津田拓哉、出演:津田記念日
■下北沢OFFOFFシアター、2011.6.23−27
■
http://tsudakinenbi.net/next_files/%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%E8%A3%8F.jpg ■ストーリに戸惑ったがすぐにゴースト系物語だとわかる。 妻が事故で意識不明だがゴーストとして日常生活を営むという設定だ。 舞台は板や箱が置いてあり、そこに折りたたみ机や椅子や小道具を出したりしまったりできる。 小劇場用デザインにできている。
夫はゴーストに戸惑い仕事も捗らない。 毎日が過ぎていき一週間後の日曜日、お互いに「ただいま、おかえり・・」を繰り返して妻は行ってしまう。 チラシに「甘えた幻想からこの物語はできた」とあるが一週間があるから甘えではない。 逆にとても辛いことだ。
もし死ぬ時期が事前にわかってしまったら、その間は覚悟を持って死に向かうしかない。 しかし日常生活を淡々と過ごす流れになっている。 芝居はこれを肯定してくれるので観客は癒される。
ところで部長が詳細を知らないで部下が始末書を書くことなどありえない。 仕事には少し甘い。
■THIS IS WEATHER NEWS
■演出:ニブロール
■シアタートラム、2011.6.24−7.3
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_t_nibrollweather_rl_pm_poster_3.jpg ■赤いハイヒールを投げあう場面からやっと見られるようになる。 ダンサーに疲れがみえ角が取れて身心の統一できてきたようだ。 それまでは意識過剰で肉体がピリピリしていた。 続く服を投げ合ったり、床に白シーツを敷いた場面も楽しかった。
前半は最悪だ。 意味ある映像だと解釈したくなるが、これがいけない。 そして舞台右半分に映写するのでダンスと混じり合わない。 しかもダンスも映像もつまらないので一方を集中して見る気にもならない。
振付は直感を繋げている感じだ。 これだけでは発作的な動きになり硬直感が漂ってくる。 別系統の動きも加えたほうがいい。 開幕直後数分の動きはとてもよかったが。
インタビューは使い古した感があるが面白かった。 このようなブリコラージュ的な要素を繋ぎ合せたほうが下手な映像より観る者の身体をはるかに解放してくれる。
■おどくみ
■作:青木豪、演出:宮田慶子
■新国立劇場・小劇場、2011.6.27−7.18
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000329.pdf ■時は80年代後半ですが畑中家は60年代前半の家族にみえます。 軽井沢でテニスをしたとか皇族の話題も古すぎるし、背景のバブル景気もそのように見えません。 ところで戦後から続いた時代がここ80年代で変化したことも事実です。
この一つとして?天皇に焦点をあて、畑中家の長と重ね合わせて物語は進みます。 息子の天皇暗殺映画も話題に上ります。 でも終幕までになんとなく中庸に納まってしまいます。 次の一歩を躊躇する見えない流れがあります。
変化できたのに全てを引き延ばして現在に至っているのが日本人である。 その原因は天皇制だ、と芝居は言っているようにみえました。 この時期に昭和の終わりはありましたが、しかしここまで皇族を話題にする畑中家やその周辺も特殊な感じがします。
それは構わないのですが、翌日には観たことなど忘れてしまう部類の芝居でした。
■ゲヘナにて
■作・演出:松井周、出演:サンプル
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2011.7.1−10
■
http://www.samplenet.org/08/sample08_flyer.jpg ■劇場に入ると、夕焼けのような照明の中に土手のような急斜面の舞台があり資源ゴミがそこらじゅうに散在している。 すぐに作者の頭の中を舞台一面にばら撒いたのだとわかる。 それは物や人、太宰治やニジンスキーの生まれ変わり、母親、恋人・・。
これは男の意識の流れだ。 なぜなら一体化した女神そしてセックスが底流にあるからだ。 そしてモノローグのような雰囲気を持った対話は青年団俳優独特のリアルさから抜けだしている。 というよりリアルさが壊されている感じだ。
このため観ているとシラケが時々襲ってくる。 これを避けるには弛みないリズムが必要だ。 一流の映画のように。 そうすれば新しさのある劇的感動が生まれるに違いない。
■ペタルとフーガル
■作・演出:黒川麻衣、出演:熱帯
■下北沢駅前劇場、2011.7.7−11
■
http://www.nettai.jp/petal_and_fugal/index.html ■バンコク三星ホテルと添乗員の話と聞いて行く気になったの。 旅行好きにはたまらないわ。 舞台はホテルラウンジ。 行き交う人が絶え間なく、歩く流れのリズムがいい気持ちになって旅行へ行った気分ね。
でも物語に入っていくのがずいぶん鈍い感じね。 添乗員も旅行者も表面だけをなぞっていて深入りしていかない。 空港封鎖時に別会社添乗員の行動を見たいと言っていたのにどうなったのか?日本にいる夫と子供もどうなったのか?もね。
観劇後、題名を調べたら家具の配置方法だと知って再び最初から思い出してみたの。 椅子を中心としてまとまっていたことを再認識したわ。 こぢんまりとした芝居だった。 ぁあーぁあ、芝居なんてどーでもいーや、旅行へ行きたぁぁぁい・・
■1999年の夏休み
■作:岸田理生、演出:野口和彦、出演:青蛾館
■こまばアゴラ劇場、2011.7.10−13
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/06/RioFes/#a_04 ■遠くに聞こえるひぐらしの声、湖からの不気味な風、誰もいない夏休みの学寮、別世界からの言葉・・転校生。 思春期の秘密を思い出し舞台と重ね合わせながら観てしまったの。 科白は率直で想像力を広げられるし役者はとても初々しくて素敵だったわ。
悠が和彦に無視されていたことは言葉に深く刻み込まれていて身体的に納得できるけど、薫の和彦への復讐は曖昧に終わってしまった。 だから終幕の悠と和彦の再愛も弱く感じるの。 残念なのはここだけね。
そして点滅に会えてうれしいわ。 悠が乗り移っている湖の精は涼しさがあり暑い夏に最高よ。 でも日本的表情を消し去れば尚よかったと思う。 だってヨーロッパが舞台ですもの。
「男の子は何で出来てるの? 卵から生まれて・・、蛙に蝸牛、仔犬の尻尾で」できているのが見えるような舞台だった。 久しぶりに時空を自由に飛べたわ。
■PROJECT POINT BLANK 2011
■演出:小尻健太、山田勇気、児玉北斗&ステファン・ラクス
■アルテリオ小劇場、2011.7.15−17
■
http://www.projectpointblank.com/2011/entrance.html ■@のちのおもひにABEATBGO−MAの三作品を上演。 @立原道造の詩が読まれたが複雑すぎてついていけなかった。 ダンスと調和したとは思えない。 後半仮面で変化をだしたのは面白い。 全体の動きと流れは素晴らしい。
A女性ダンサーははじめから舞台に登場せずに、いきなり途中から入場したほうが驚きがあるとおもう。 パンツの色は白より青にしたらどうだろう。 ついでに男性ダンサーのシャツを黄色に。 真面目すぎる感があるのでこれにより躍動感がでるとおもうが。
タブラのリズムに乗った面白い振り付けだった。 Bレンガを積んだり、投げ合ったりして重みが伝わってくる踊りというよりパフォーマンスだ。 テーマの時間など無関係に見える。 物質の存在を無視できないでいる人間を表現しているようだ。
その存在と重みを軽々と踊ろうとしているところが面白い。 ・・三作品共によく練られていて誠実さのある作品だった。
■目覚めよ、闇の種子たち
■演出:大森政秀、出演:天狼星堂
■テルプシコール、2011.7.16−17
■
http://mayakoookura.com/kouen11_07.html ■前半の舞台は不調和の連続のようで緊張してしまいました。 ナナは精神的に余裕のある踊りで今一番脂がのっている時期にみえます。 ワタルの強すぎるギラギラの目は観客を現実に戻してしまいます。
ピアノの曲になってやっと落ち着いて観られるようになりました。 やはり天狼星堂はヨーロッパの深淵を目指すべきです。 浴衣は似合いません。 終幕迄になんとかまとめあげた作品といってよいでしょう。
演後の暑い夜、ホットした気分で中野駅へ向かいました。
101 :
名無しさん@公演中:2011/07/19(火) 08:00:54.29 ID:FEZ+bnJ/
百オメ
102 :
名無しさん@公演中:2011/07/19(火) 08:09:53.55 ID:sM0xZ3Sg
ダンスの公演もここで批評してるけど有りなの?
103 :
名無しさん@公演中:2011/07/20(水) 00:19:58.34 ID:dhGCenAo
良スレにつきアゲ。
■再/生
■演出:多田淳之介、出演:東京デスロック
■STスポット、2011.7.16−24
■
https://picasaweb.google.com/lh/photo/RTBbbdEdZHJvNz5bpHZz1Q ■上演時間70分で台詞は二箇所の数分間しかない。 この為セリフが観客の身体に深く刻み込まれる。 あとは役者の肉体の疲れきっていく踊りを終幕まで見続ける。 観客は芝居だと考えているのでダンスの上手下手は関係無い。
そして醒めたトランス状態が舞台に出現する。 これを背景に場内はダンスが持っている根源力に近づいていく。 この力が身体を解放して、最後に観客は芝居に戻り「再生」を実感することができる。
2006年初演は観ていない。 当時の写真を見ると宴会を催しているようだ。 今回はより抽象化がなされ良い形でダンス領域の純粋性に近づいたのではないか? フランケンズ版も観たいが前期試験が迫っていて行けない、試験のせいにして恥ずかしいが。
■荒野に立つ
■作・演出:長塚圭史、出演:阿佐ヶ谷スパイダーズ
■シアタートラム、2011.7.14−31
■
http://www.spiders.jp/kouyanitatsu/index.html ■シアタートラムの欠点を隠している舞台構造、そして簡素で素敵な舞台美術ね。 中身はシュルレアリスム映画とカフカの小説を混ぜあわせて現代に持ってきた感じがするの。
個々の場面は事件が浮き出てくるような面白さがあったわ。 抑えの中に時々きついセリフもあったし。 でも芝居の全体にこの良さが伝わっていかない。 ストーリーとの愛想が悪いのよ。 しかも乾いたような無機質さが微かに覆っているような舞台だから。
個別は面白いけど全体はシラケている。 これは現代社会と同じね。 ・・ひょっとしたら最初からこの雰囲気を出そうとしたんじゃないかしら? 現代人が荒野で彷徨っている姿が浮かんでくる芝居だったわ。 だから、荒野に立つ!しかない。
■眠っちゃいけない子守歌
■作:別役実、演出:富永由美、出演:二瓶鮫一、別府康子
■旧眞空鑑アトリエ、2011.7.25−31
■
http://www.youtube.com/watch?v=GQqjMcx4yBA ■旧眞空鑑第31回公演の葉書の端に・・
女1 もしかしたら、ものすごく論理的なタイプなんですよ、あなたは・・
男1 私はただ知りたいだけだよ、この世界が私に何をしようとしているのか・・
女1 この世界が・・?
男1 そうだよ・・
女1 と言いますと、この・・
■アンネの日記
■演出:丹野郁弓、出演:劇団民藝
■アルテリオ小劇場、2011.7.21−31
■
http://www.gekidanmingei.co.jp/2011anne.html ■「じゃりん子チエ」にそっくりなアンネ。 「借りぐらしのアリエッティ」のよう3家族の生活。 閉じられた屋根裏でのアンネの成長は「魔の山」のサナトリウム。 そして最後は「夜と霧」。 舞台を観ながら次々とこのような作品を思い出してしまったわ。
しかしアンネの成長は深く伝わってこなかった。 母親との関係、ペーターとの関係が。 サナトリウムのようにはいかない。 でもこれで良いのかも。
全体は程良くまとまっていたし、若い役者は簡素で素直な演技でとてもよかった。 アンネと同じ年齢の中・高校生にピッタリの芝居ね。 でも観客は小学生が多かったみたい。 中・高校生は難しい年頃だから観に来ないのかな?
■無重力チルドレン
■作・演出:はせひろいち、出演:劇団ジャブジャブサーキット
■ザ・スズナリ、2011.7.29−8.1
■
http://www.jjcoffice.com/next.html ■2085年、知的流動体生物が月面コロニーの研究者の記憶をもとに昔の妻に変身して登場する、「ソラリス」もどきのストーリである。 しかし地球上で起こった災害を月から眺めた時の距離感をテーマにしているようだ。
ところで今、東京写真美術館では去年のハイチ地震で31万人が亡くなり、パキスタンの大洪水で2000万人が避難した写真展が開催されている。 例え東日本大震災が無くても「すっかり忘れていた」世界で起きた大災害である。 この距離感である。
月から情報だけを通す空間を介して地球を眺めた時の醒めた感覚である。 地球への思い出は妻や学生時代しかない。 役者間の対話は少しヒネっていて面白いが日常生活の雑音のように聞こえてきて眠くなってくる。
この無重力感が一層距離感を出している。 パンフレットに無責任な作品と書いてあったが現代社会の一面を描いていることは確かだ。
■キャッチ・マイ・ビーム
■演出:古家優里、出演:プロジェクト大山
■シアタートラム、2011.8.5−6
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/08/post_241.html ■みんな強力なボディを持っているからもっと暴れてもいいんじゃない? 特におしりやももが素敵よ。 でも意表をついた床に這い蹲る振り付けが一番面白かった。 意味あるスローな場面はつまらないわ。 煙草やスーツ姿そして手招きの仕草も不要よ。
これらの部分はアクロバットに替えたらどう? 真っ盛りの10人が動き回るからトラムの凸型舞台の短所が前面に出てしまった。 ぶつかりそうで観ていてハラハラしたわ。 もっと広い舞台が必要ね。 そしてもっとダイナミックにしたらもっと伸びるわ。
■ストリート・ダンス・フェスティバル
■出演:@ラスト・フォ・ワン&ギャンブラ・クルAカンパニ・カフィグ
■KAAT、2011.7.30−8.7
■
http://www.kaat.jp/pf/ksdf.html ■バトルもあったらしけどこれしか観に行けなかった。 残念だわ。 @はチャンピオン歴を持つ韓国の二グループのコラボ。 特にクルのテクニックは凄い! パワーブレイキングね。 でも個人戦のところに時間を取って流れを省かないで演じて欲しかった。
仏+ブラジルのAは「CORRERIA」を観る。 走る行為が抽象的すぎてつまらなかったわ。 もっと生の身体でリズムブレイキングに集中してほしい。 義足などいらない。
どちらも感動は少ない。 理由は舞台で上演する起承転結の流れが欠けているからよ。 @はストリートをそのまま持ってきて、Aは逆に舞台を意識し過ぎて自滅ね。 やっぱ、ストリートで見るダンスということね。
■マッチ・アップ・ポンブ
■演出:登米裕一、出演:キリンバズウカ
■アルテリオ小劇場、2011.8.6−14
■
http://kawasaki-ac.jp/img/kirinbauzuka.pdf ■セリフは意味がはっきりしていて意識の立ち上がりを明確にし且つ少しズラしたテンポを持っています。 普通にはありえない家族関係や何度も出てくるカネの話や田舎の生活で、乾いた漫画のような現実が舞台に作られます。
このような背景と具体的な事象とが結びついてお互いの想いの差異を増幅させて笑いを誘っていきます。 例えば情事後のすれ違い、ありえない殴り合い、こなつと慎太郎の恋人差、教師夫婦間などなど。
しかし「愛ってなんだろう?」のセリフが有る限り今の芝居を超えることはできないと思います。 ここまで来たならもっと抽象化を考えてみたらどうでしょうか? 身体を伴うもっと深い感動が出現するかもしれません。
■かみさまの匂い
■作・演出:矢島弘一、出演:東京マハロ
■下北沢駅前劇場、2011.8.11−17
■
http://www.tokyomahalo.com/info.html ■喪服に始まって喪服で終わるのですがが笑いの多い舞台でした。 長男の葬儀とわかるのは終幕です。 義妹に長男の子供が出来てしまったことが原因です。 しかし長男の心の中まではわかりません。 この芝居には肝心要の決定場面がありません。
「優秀な弟・妹に先を越され・・、(ボランティアで)優越感を噛み締める。 大事な人を傷つけて・・」とチラシにあります。 これに対応するセリフは数カ所ありましたが、長男も次男も義妹もっと別なことを考えていたように見えました。
義妹に子供を産ませる事やボランティアへの意思、自殺する理由がぼやけ過ぎています。 人生理由など無い、と言えばそれまでですが。
でも多くの観客はこのような日本的兄弟喧嘩家族劇が好きなのでしょう。 父が、ここに長男がいる匂いがする!と、義妹の腹にいる子を暗に指して幕が降りるところなどは100年前の日本の小説を読んでいるようです。
■伯爵令嬢小鷹狩鞠子の七つの大罪
■作:寺山修司、演出:金守珍、出演:プロジェクトNyx
■ザ・スズナリ、2011.8.11−21
■
http://www.project-nyx.com/pinfo/index.html ■最初はリズムが遅くて欠伸がでたけど少しずつ面白くなっていったわ。 一番の盛り上がりは劇中劇について語るところだけど、しかしいつのまにか萎れていって終わってしまった感じね。 つまらなくした原因が幾つかあるようね。
例えば小さな人形を登場させたこと。 人形遣いの人形なら大きくて表情が見えるからいいけど・・。 やはり人形は俳優と同じ位置付けよ。 そして三輪車や犬の陶器も。 これらのままごと遊びや小道具は舞台を現実へ引き戻すことになるわ。
でも鰐婦人がゴンドラに乗って登場する場面は素敵だった。 カモメが飛んでいてヴェネチアの館で観ているようだった。 嵐が強すぎたけどね。 舞台の縦の使い方が効果的だったということかな。
そしてジェニーの歌は寺山の芝居だと思い出させてくれた。 この舞台に便器はちょっと場違いな感じだけどね。 最後の水も含めて、欲張っていろいろ盛り込んだけど消化不良になっちゃった。 再演にはよくあることよ。
■奇ッ怪
■作・演出:前川知大
■世田谷パブリックシアター、2011.8.19−9.1
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_p_110819_kikkai2_l_pm_poster_2.jpg ■死者への心配りが日常生活迄に行き届いている舞台で日本の8月によく似合う。 それにしても臓器移植や殺人場面の目撃、妻の自殺などの話は芝居にする必要もない。 しかも細かすぎて印象が薄いストーリだ。 これで終わりの拍手に勢いがなかった。
背景の壁が舞台中央奥へ狭まっていくので科白が響く。 まるで役者の身体から声が離れてしまっているように聞こえた。 死者のためこの構造にしたのならよいが観客から舞台が遠のいてしまう。 最後の祭りの話も盛り上がらなかった。
手や足の変わった動作をする理由も生きていない。 最後の大事な場面で矢口が痒いのか左腕を掻いていたがこれは演技で無いのでは? ともかく良質の緊張感が続かない舞台だった。 役者もこの芝居は失敗作だったとおもっているのが顔に表れていた。
>>115 プログラムの対談で、
萬斎が自身のことを「中世の演劇出身」者と言ってたけど、
他の劇場や芸術監督と違った面白さが出ていますね。
この「奇ッ怪」も過去の能楽集に入れて全体をみると、
「中世の演劇出身」監督の大きな宇宙に収まって豊かにしているとおもいます。
■超コンデンス
■作・演出:天野天街、出演:少年王者館
■ザ・スズナリ、2011.8.25−30
■
http://www.oujakan.jp/_images/condense1.jpg ■これが名古屋弁なの? だとしたら、これで素敵な別世界が見えたのね。 加えて1960年頃の建物や衣装そして歌で不思議な舞台を作っている。 役者は子供のように機敏で劇団名そのものね。 そしてついに少年王者館がココに現れる!
「おれはここにいるの?」「今はいつ?」・・、自分探しのストーリーのようだけど、セリフは対位法を使って繰り返すから流れがよく分からない。 少女たちの金切りホモフォニーが聞き難かったことも理由の一つよ。 でもこの騒がしさも古い時代の匂いがする。
練習の成果が見えるようなシンプルなダンスは流れにマッチしているわ。 全体を詩のようにまとめたい? たぶんそうね。 発声を良くして聞き易くするのが一番よ。 そうするとセリフのリズムが見えてくる。 リズムが生きてくると自ずと詩が現前する。
ダンスがこれと共鳴する。 そして感動が訪れてくるわ。 もう一歩ね。
■愛こそすべて
■振付:佐藤浩希、出演:アルテイソレラ
■世田谷パブリックシアタ、2011.9.3−9.4
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_p_110903_arteysolera_rl_pm_poster_3.jpg ■フラメンコを舞台で初めて見ましたが・・・
@木の床ではサバテアードの響きが日本的ですね。 やはり舞台に石または石に近いものを敷き詰めたほうが良いのでは。
A舞台が高すぎました。 低くして地面で踊る感じを出すべきでは。
Bカンテのマイクが響きすぎます。 もっと肉声を聞かせるべきでは。
ところでカンテとトケは素晴らしかった。 特にカンタオールの動きにはまいりました。 帽子を取る時にもそれぞれの指が演技をしている。 親指・人差し指・中指・薬指・小指、それぞれが意識を超えた動です。 腰の振り・大腿・膝・すねの動きも完璧です。
これを見て評価基準が決まってしまいバイレの見劣りが少し目立ちました。 日本人の踊り子らしく忙しさから抜け出ていない。 そしてもっとスローな踊りもほしかった。
楽しめればそれでよいと言う意見もありますが、指の一本一本が緊張感輝く踊りを観たいものです。 カンタオーラが不機嫌な顔をずっとしていたのも以上のような不満を同じく持っていたように観客席から見えましたが如何か?
■世捨庵奇譚
■演出:大堀光威 、出演:温泉きのこ
■下北沢劇小劇場、2011.8.31−9.4
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage21611_1.jpg?1315200152 ■喪服の場面で始まりそして喪服で終わる、近頃よく見る芝居の形です。 葬儀や祖母や親戚などの言葉を並べると自ずと深層にある物語が見えてきます。 前半はよくわからないツマラナサで進みますが、後半殺人事件が舞台を引っ張り少し盛り上がります。
チラシに「・・演劇ってムダなものだと思ってやっています」と書いています。 芝居の奥に横たわっている近代世界、これをどうにかすることがムダと言っているようです。
たとえば風呂に入る順序の場面があります。 風呂は田舎では客への最大のサービスであり、入る順序は秩序を守るべきものです。 他に結婚観や親族の呼び方などにもポロッとこの世界が表れます。 刑事が妖しい者を外国人として尋問するところもです。
そして終幕には決定的なお墓も登場します。 結局は古い制度にドップリ漬かったまま終わってしまいます。 だからムダと言っているのでしょう。 二人の刑事が歯切れの良いロックの乗りで舞台を引き締めていたのが印象に残りました。
■薔薇とダイヤモンド
■演出:小野寺邦彦 、出演:架空畳
■座高円寺2、2011.9.7−8
■
http://kaku-jyo.com/stage/st_next.html ■物語に拘っているチラシを見て劇場へ行く気になったの。 うーん、フランツは野田秀樹の若い頃に少しだけ似ている! そしてセリフはまるでmRNAのようだわ。 リボソーム=観客がこれを翻訳してタンパク質=物語が舞台に出現するのね。
科白が沢山押し寄せて来て観客側も翻訳開始の失敗が多かったはず。 物語が迫ってきて舞台に感動が訪れた場面も数箇所あった。 でも多くの場面ではmRNAの翻訳で終わってしまったのね。
何故なら役者の頭は科白で一杯のため身体が疎かになっていたからよ。 だから幕が降りた途端芝居の感動も消え去ってしまった。 いっそのことドラマリーディング形式でおこなったらどうかしら? まっ、ともかく中途半端な身体をちゃんとするのが優先ね。
■おしまいのとき
■演出:三浦大輔 、出演:ポツドール
■ザ・スズナリ、2011.9.8−25
■
http://www.potudo-ru.com/ ■妻がなぜ「おしまいのとき」に向かったのかついに理解できませんでした。 子供がいた頃の生活が描かれていなかつたからです。 そして舞台は偽善的な生活で満ちあふれています。 たとえば菅原夫婦を除き、いつも心に無い慰めの言葉を口にします。
「ほんとうは違うんだ・・」と。 これらから推測すると、橋本夫妻の過去と舞台以降の生活は内容は同じだったのでは? しかしこれでは芝居が面白くありません。 妻のト書き心理説明も白々しく聞こえました。 ダイニングやリビングの本物らしさもです。
この中で妻が菅原に強姦されたり、ディルドで自慰をする場面はとても現実的に見えました。 しかしリアルとは現実に近づくことでは無いとおもいます。 現実を超えるものです。 途中で右往左往していて現実を超えるリアルさを得られなかった芝居です。
■エリザベス・ラストスタンド
■作・演出・出演:ノーラ・レイ
■アルテリオ小劇場、2011.9.9−11
■
http://kawasaki-ac.jp/img/elizabeth_f.pdf ■初来日と聞いたけど、20年遅かったようね。 ベティにエリザベス女王が乗り移る時は歳の差が大きければ大きいほど舞台は盛り上がるはず。 でもノーラはベティやエリザベスと同じ歳になってしまっていた。
三者の歳差がなくてベティとエリザベスは打ち消し合ってしまった感じね。 道化のダイナミックなところが見えない。 でもイギリスのクラウンとして深みがでたのかもしれない。 日常の些細な事柄をユーモアに、チャームに、風刺を入れて演ずるとするならね。
帰ってきて早速シュカル・カプールの「エリザベス」のビデオを借りてきたのよ。 淡白な映画だったけど見終わって芝居の場面を反復して解釈し直したの。 芝居でも映画でも場内で配られた石井美樹子監修「エリザベス1世」履歴のチラシがとても役にたったわ。
■花筐
■作:世阿弥、演出:喜多流
■国立能楽堂、2011.9.16
■
http://www.ntj.jac.go.jp/assets/images/nou/event/2011_09_nnt_001.JPG ■武帝の話が後半に挿入されているけど、テキストを読んでいる時はあまり気にかけなかった。 でも照日宮の舞狂うクライマックスでこの話を持ちだされてとても違和感があったの。 過去の物語に精通しておくことは必要なのはわかるけど少しシラケたわ。
そして継体天皇が10歳くらいの子供で驚いた。 これだけの手紙を書くには少なくても16歳以上でないと合わない。 子役がいなかったのかしら? そして深井の照日宮から二人の年齢に差が有り過ぎる。 世阿弥に聞きたいところね。
でも芝居の中ではこの深井がとても似合っていた。 最後に契が結ばれるには深井の年頃が一番心ときめくからよ。 それにしても何かチグハグさの多い作品にみえるわ。
■じめん
■演出:飴屋法水
■わたくしという現象
■演出:ロメオ・カステルッチ
■夢の島公園・多目的コロシアム、2011.9.16-17
■
http://festival-tokyo.jp/program/Yumenoshima/ ■入場すると白旗が配られる。 星空の下、観客は旗を靡かせて草地を歩きまわる。 まるで中世時代に遡り戦争に向かうようだ。
中央に白い椅子が500個くらい整列してある。 そして津波が来たようにこの机が流されていく。 光や煙が立ち上る。 セリフはあったようだが覚えていない。 周りの木々と星と雲を見ていたら全てが許せる気分になった。
ガムラン?用意される。 猿の惑星か! 馬鹿でかいモノリスも出てくる。 あたかもB29から原子爆弾が落ちてきたような風船が棚引いている。 ロメオも登場してわめいているが最後にモノリスの下敷きになってしまう。 星と雲をみていたらどうでもよくなった。
■川上音二郎・貞奴展
■茅ヶ崎美術館、2011.9.10−11.27
■
http://www.chigasaki-arts.jp/museum/fl_exhi.html ■自由民権運動での逮捕歴が180回! そして音二郎の体当たりパフォーマンスを観て一目惚れした貞奴。 しかも手漕きボートで東京から神戸まで4ヶ月かけて二人で出かけるなんて驚きだわ。 途中アシカの群れに襲われるなんて想像を絶する光景ね。
でも欧州への上演前に事前視察をしていたんだから緻密な性格も持ち合わせていたみたい。 パリ万博を含め数回の海外日程が展示されていたけど有名な都市は全て回っている。 凄い行動力ね。
会場には歌川国貞や豊原国周の錦絵が舞台に彩りを添えてるし、伊藤博文や市川團十郎とのつきあい、そして晩年の生き方もありとても面白かった。 明治という時代のパワーを最大限に吸収・発揮した二人ね。
■庭みたいなもの
■演出:山下残
■神奈川芸術劇場・大スタジオ、2011.9.22-25
■
http://www.kaat.jp/pf/zan.html ■入ると寄板で作った大きな箱のような舞台の下を通り抜けてから客席に座ります。 下は物置小屋です。 出し物の道具が並んでいます。 ダンスよりもパフォーマンスですね。 以前観たこの演出者の作品はダンスの記憶があったのですが。
舞台下からフライパン・灰皿・辞書・自転車・算盤・帽子などを持ってきて役者が他役者や観客に向かってセリフを吐きます。 物の名前や機能をうまく説明できません。 言語障害のような、ほとんど会話です。 最後にはオルガンや7mもある廃船も登場します。
こういう舞台は時々観ますが、演出家の頭はフル回転しているのでしょう。 観客も緊張感を持って対応する必要がありそうですが、しかし途中眠くなってしまいました。
帰りの車内で、配られたチラシを読んで演出の考えが少しわかりました。 ・・「モノを身体と言葉で梱包し伝達したい」「記憶された言葉を送信する身体」・・。 舞台とのコミュニケーションに失敗した観客の一人になってしまったようです。
■家電のように解り合えない
■作・演出:岡田利規、出演:森山開次、チェルフィッチュ
■あうるすぽっと、2011.9.24-10.20
■
http://www.owlspot.jp/special/kaden/index.html ■「解り合うとは・・」をテーマにしている。 メタシアター系の芝居にのせるには勇気のいるテーマである。 これこそが日常生活そのものだから。 いつもの異化が生きない。 答えは日常生活で嫌というほど経験していることだから。
ところで今回はもう一つの驚きがある。 ダンサーの登場である。 開次のダンスはよく観に行くのでここで会えて嬉しい。 これを一石二鳥と言っていいのか? 舞台美術がカラフルだったのはNHK番組を意識してるようにみえてしまった。
思っていた以上に開次のセリフが多くあって面白い。 でも後半の役者とのダンスは長すぎる。 しかも全体を通して二人の役者とダンスの関係に驚きはなかった。
開次からの動作をチャンスオペレーションとして二人の役者の身体動作を即興レベルで決めていったら面白いかもしれない。 もちろんセリフはそのままにして。 無意識レベルでの解り合えるかの具体例になる。
■無防備都市映画
■作・演出:ルネ・ポレシュ
■豊洲公園・特設会場、2011.9.21-25
■
http://festival-tokyo.jp/program/CinecittaAperta/ ■外はフェリーニの内はロッセリーニのオマージュだわ。 「ドイツ零年」はイタリア語だったけどこの映画をドイツ人はどのように観たのかしら? でもその回答が今、到着したのね。 ゲーテもそうだけどイタリアの<気候>には弱いのよ、ドイツ人は。
映画を作っている過程を映画で観ている感じね。 でも俳優は目の前で演技をしている。 この差が面白い! 車の中は映画で広場は芝居で、って感じかしら。 スピード感もあったしセリフも元気だしドイツも捨てたもんじゃないわ。
フーコーの歴史概念がわからないからなんとも言えないけど、終幕近くの兄のセリフ「・・」が演出家の言いたいことだとわかった。 このセリフははっきり覚えていないけど、生き生きとしている身体の優位性でドイツ零年を書き換えようとしているのよ。
ところで日本語訳がよくわからなかった。 これは訳者が悪いの、絶対に。 ところで以前はユニシス本社ビルしかなかった豊洲もずいぶんと開けたのね。 公園は子供で一杯だったけど、もっと木々と公園が必要ね。 このままだと無防備都市になってしまう。
帰りは豊洲からの夜景を見ながらフェリーニの映画を思い出してしまった。 終幕の科白に8 1/2もあったし。 楽しかったわ。
■白石加代子「百物語」第二十九夜
■演出:鴨下信一
■岩波ホール
■
http://www.majorleague.co.jp/images/image_omote.jpg ■宮部みゆき作「お文の影」、「ばんば憑き」の二題。 どちらも江戸怪談であるが闇の深さは無い。 前者はお結がお文を虐める理由、後者はお由が八重を殺す理由は、どちらも想像はつくけれど省きすぎていて心の襞まで見えてこない。
このため身体と影の分離、肉体を移動する精神という題材が前面に出てしまい唸るような人生の深淵が出現しない。 しかし後半は白石も力が入ってきて面白くなる。 お松が生い立ちを語る場面は二十九夜のクライマックスであった。
■シィエイクスピア「ソネット」
■演出:中村恩恵、出演:中村恩恵、首藤康之
■新国立劇場・中劇場
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000458.pdf ■「やってくる」「去っていく」がとても立体的に見える劇場でですね。 舞台に奥行きがあるからです。 首藤の独特の歩きでやって来て去っていく場面がとても印象的でした。 そして舞台がハッキリとした暗さで覆われていて独特な雰囲気があっていいですね。
首藤の肉体はギリシャ彫刻を見ているようです。 素晴らしいですね。 しかし徐々に壊れていくのが一瞬感じられます。 中村は肩幅が広くバストが小さいので女性型ロボットにみえます。 無性的ですので首藤も迷いがなく踊れるはずです。
ソネット集は読んでいないのでストーリーがまったくわかりません。 シェイクスピアの戯曲とは相容れない舞台にみえました。 もっと高尚な感じです。 これも中村の無性的からきているのだとおもいます。 音楽もこれに加担しています。
■赤い靴
■監督:マイケル・パウエル
■
http://www.red-shoes.jpn.com/index.html ■トップのレルモントフが全てを引っ張っていく企業の業務活動を見ているようだ。 この総合力からくる充実感で2時間超を一気にみせてくれた。 バレエ場面もそれなりに楽しんだが、それよりも舞台裏の動きのほうが面白かったのも先の理由から来る。
レルモントフの仕事=バレエかクラスターの家庭=愛かで悩む場面はいくらでも解決方法は有る。 そして列車に飛び込み自殺を図るペイジは予想外の行動だった。 この2点をもっとうまく物語的な処理をしていればもう一段上の映画になったかもしれない。
しかし原作自体があまりにも童話的な結末だから悩ましいところだ。 レオニード・マシーンに会えたのはおまけ以上だ。
■六月のクリスマス
■作:イザベル・ドゥ・トレド、演出:中村まり子、田村連
■下北沢「劇」小劇場、2011.10.5−10
■
http://www.k-kikaku1996.com/work/panic/flier/1110flier_1a.gif ■女性演出家のホームドラマ系芝居はウンザリしていたので心配でした。 しかし別系統なので少しホットしました。 大切な庭はちょっと物足りないのですが背景のグレー一色が物語に集中させてくれます。 予算の関係もあるのでしょう。
ソフィーの夫やジュリー、ソランジュの話題が山をなしますが、四姉妹の心のありようを覗いているようで申し訳なさを含んだ楽しさがありました。 しかし観終わったあと思い出すのに力のいる芝居です。 つまり記憶に残らない芝居です。
チラシ「他者と異なる価値観や考え方を受け入れる」のテーマに沿った内容です。 残らない理由はテーマをそのまま肯定しているだけの舞台だからです。 現実の家族と向き合っている観客にはもう一段深い「家族のあり方」が欲しいところです。
■ダム・タイプ「S/N」と90年代京都
■早稲田大学演劇博物館、2011.9.21−2012.2.4
■
http://www.waseda.jp/enpaku/special/2011/dumptype_omote.jpg ■博物館2階廊下でのヴィデオや資料だけの小さな展示ね。 なぜ京都にダム・タイプのような特異なパフォーマンスグループが発生したのか?を論じているの。 会場は同時開催の市川團十郎展が混んでいたせいかいつもと違って落ち着けなかったわ。
@大学に囲まれている河原町近辺の特異性Aゲイ文化の影響B90年代バブル崩壊のダメージが少なかった。 これらが混ざり合ってグループが発展したのが背景にあるようね。 多分東京でいうと60年代前半の神田周辺に近いイメージかも。
そして組織としての進め方に核心的秘密があるのかもしれない。 フラットな組織でのコミニュニケーションや意思決定方法にね。 ダム・タイプに興味を持っている人はよいとしても、持っていない人には最悪の展示会よ。
■トータル・リビング1986−2011
■作・演出:宮沢章夫、出演:遊園地再生事業団
■にしすがも創造舎、2011.10.14−24
■
http://www.festival-tokyo.jp/program/TotalLiving/ ■役者や小道具をカメラで撮影しながらそれをスクリーンに写す今流行りの方法を取っている。 ストーリーが映画作成というのも「無防備映画都市」と同じだ。 これも流行りなのか? ともかく映画作成自体が劇中劇になるため構造が容易く複雑に深くできる。
テーマは商品や記憶の欠落をテーマにしているようだ。 欠落を埋めるため?に1986年に飛び、チェルノブイリ原発事故を再考する。 そして福島原発事故と結びつけることによって事故全体が初めて見えるようになってくる。
欠落とは何か? 補うことで本質へ近づくことができるようだ。 では何をどのように補うのか? などなどを考えてしまった。
ところでこの種の芝居ではセリフが棒読みに聞こえてしまう場合がよくある。 今回は役者や小道具の動きや位置等とても神経質だから余計目立ってしまった。 バランス重視の芝居が少しズレてしまうと何かが欠落しているような芝居になってしまう。
■少女椿
■原作・丸尾末広、演出:石井飛鳥、出演:廻天百眼
■ザムザ阿佐谷、2011.10.13−17
■
http://www.kaitenhyakume.com/09stage/stage10/stage10.html ■原作を超えていないようね、残念だけど。 血肉の破片が物そのもので留まっているし、舞台背景は懐かしい思い出を呼び寄せてくれない。 漫画の科白をそのまま舞台に載せたから舞台上の物と言葉が分離してしまった。 これが超えていない原因よ。
漫画の絵や文字は読者の脳で声や音まで想像するけど、これを舞台上でおこなうには科白と身体や小道具を結びつける総合力が必要になってくる。
でも後半いろいろなみどりがでてきてから盛り上がってきた。 そしてみどり達が未来を切り開いていく。 これは原作に付け加えたのかしら? シンプルだけど希望がハッキリしていて元気がでるわ。
観客の年齢は今年見た芝居で一番若いかも、だから彼らにピッタリの終幕だった。 会場が全日満員な理由もわかる気がするわね。 ところでチャンバラ場面がたくさん出てきたけど20%づつカットすればダラダラ感がなくなるわ。
■ユーリンタウン
■脚本:グレッグ・コティス、演出:流山児祥、出演:流山児★事務所
■座・高円寺1、2011.10.14−30
■
http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=502 ■入場すると警備員が観客に挑発的な言葉を浴びせます。 これで演出は流山児だったことを思い出させます。 ストーリーは読まないで行ったので驚きでした。 なんと公衆便所の話です。 衣装も現実的で正に貧民街そのものが舞台に出現しています。
最初はオシッコの匂いが舞台に充満していますが徐々に気にかけなくなります。 それは搾取する者とされる者の争いに集約していくからです。 帝王学やカネの話は嫌になるほどオジサン趣味が充満しています。 これが舞台を濃くしています。
昨日、ギリシャ緊縮策抗議デモをニュースで見ました。 アフリカの人口爆発と水不足はいつも話題にのっています。 舞台がそのまま現実と直結しているようで緊張感を持って観ました。 歌もダンスも物語に混ざり合って違和感がありません。
そして正しい判断と行動が伴わない夢と希望だけでは社会はよくならないという結論で幕が閉じます。 しっかりした終幕です。
■松風
■作:世阿弥、出演:武田尚浩(観世流)他
■国立能楽堂、2011.10.21
■
http://www.ntj.jac.go.jp/assets/images/nou/event/2011_10_nnt_001.JPG ■松風村雨二人並んだ存在感が面白い。 動きの少ない舞台ね。 唯一松風が物狂いになり舞を舞う場面のみ。 たくさんの言でできている作品だから家で謡本でもっと声を出さないとだめね。
というのはこの劇場は前にディスプレイがあるでしょ。 それをチラッと見てしまうのよ。 これが劇的感動を阻害する要因かも。 文字は魔物だわ。 動きが少ないと尚更ね。 加えて正面上手側の席のため正面先の松が邪魔をして役者がよくみえなかった。
この作品を世阿弥は「・・・これよし」と言っているのに、残念ながらよくなかった。 もう一度挑戦するしかない。 ところでこの演目は中正面に座るべきね。
■あなた自身のためのレッスン
■作:清水邦夫、演出:多田淳之介
■富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ、2011.10.18−23
■
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/99kirari/02infomation/2010-0524-1402-137.html ■舞台上に観客席があります。 いろいろな照明や幕を利用したり、なんとテッカンに洗濯物を干すのは初めてみました。 舞台裏から芝居を観ている感じです。 舞台構成以上に内容も複雑でした。 観客と芝居の位置や距離を考える芝居です。
おおよそのストーリーはわかります。 随所でメタシアター性が顔を出しますが、これを優先してはいません。 大部分が劇中劇にもみえます。 章単位より段落単位で事や科白が飛躍します。 そして記憶喪失の人が徐々に家族としてまとまっていきます。
場内で配られた10頁の演出家・館長対談のプログラムを帰ってから読んだのですが今日観た舞台をあれこれ思い浮かべてしまう興味ある内容でした。 感動は少なかったのですが、ひさしぶりに芝居そのものを考えさせてくれる芝居でした。
■イロアセル
■作:倉持裕、演出:鵜山仁
■新国立劇場・小劇場、2011.10.18−11.5
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000436.pdf ■その島民の言葉には色があり、この固有色から誰の言葉かわかってしまう。 だから島民は真実を言えない。 外から来た囚人と看守には色がない。 この二人を介して島民の噂が流れてしまう物語だ。 現代ネットワーク社会を批判しているようだが・・?
プルプラン社の町長や審査委員への賄賂、アズルとライや町長と議員の人間関係、すべてが三行広告レベルの話で終わっている。 囚人が守秘義務があるといいながら島民のことをバラすのも、看守への敬語の使い過ぎも、島民への上から目線もなにか変だ。
チラシに「・・支持を得ていた機能が社会システムで不要になってしまう・・」とある。 しかし機能やシステムの意味を取り違えている。 しかもこれらと「滅びゆくものに託した美意識」に結びつけているから余計わからなくなる。
言葉に色がついたところが新しいだけの他人の言葉≒心を読めるという使い古したSF劇である。 サエナイ芝居だ。 何度も席を立ちたくなった。 観落としがあったのか?誤った観方をしたのか? 心配になり帰りにプログラムを購入してしまった。 ・・・。
■出会頭
■振付:井出茂太、出演:イデビアン・クルー
■アルテリオ小劇場、2011.10.25−30
■
http://kawasaki-ac.jp/theater-archive/111025/ ■なんと音楽は初めから終わりまで平均律クラヴィーア?
イデビアンには似合いの曲ね。 似合いすぎてるのよ。
だから面白いけどそれ以上にも以下にもならないわ。 安全パイね。
出合頭だと目力がより必要ね。 ウィンクが不足してたわよ。
井出の脂肪の乗った小刻みでスピードのある動きは素晴らしい。
モハメド・アリの「蝶のように舞い、蜂のように刺す」みたい。
おもしろかったわ。
■知られざる歌舞伎座の名画
■山種美術館、2011.9.17−11.6
■
http://www.yamatane-museum.jp/exh/exh/doc/110917jp.pdf ■(株)歌舞伎座や(株)松竹が所有している作品の展示会である。 劇場はもちろん会長室、貴賓室、楽屋などに飾られている絵、それに松竹大谷図書館の資料が展示されている。
芝居の切り口以外からも集めているのでテーマがバラけていて楽しい。 しかし楽しい理由は別にある。 画家は歌舞伎大好き、役者は絵が大好きという大好き同士の人間関係が表れているからだ。 だから会場は和やかで賑やかな雰囲気がある。
気に入った作品は鏑木清方の「さじき」。 この作品は芝居が好きになっていく途中の絵である。 画中の二人はまだ芝居の不思議さをどうしてよいのかわからない。
そして小林古径の「犬」はイヌ好きならひと目見てわかるはずだ。 速水御舟「花の傍」のイヌはオッパイが三つあるが古径のより劣る。 川合玉堂「早春漁村」の海の色は冷たくてブルッと来る。 歌舞伎ファンならいろいろ発見がある展示会だろう。
■実盛
■作:世阿弥、出演:観世銕之丞
■国立能楽堂、2011.10.29
■
http://www.ntj.jac.go.jp/assets/images/nou/event/2011_10_nnt_001.JPG ■どうしても武士の死に方を望んでいた舞台の実盛はとても力強い。 いくつかの時系並列な語りが最後の戦いの場面に集約していくから尚更ね。 しかも実盛や篠原の民の仏教を信じる力もこれにスーパーポーズしているから豊かさを含んでいる強さだわ。
でもこの力は今の時代からすると諄すぎる感じ。 例えば仲入をもっと柔らかくすると後場がより生きるはずよ。 仲入まで強くしてどうするの? 有名な話だから世阿弥も直球しか投げられなかったようね。
逆に大鼓はもっとキレが出せたら戦いの場面は一層盛り上がる。 そして舞台が混み合うから従僧は一人で十分ね。 舞台のゴタゴタを一掃する世阿弥の直球って凄いわ。
■静物画
■振付:白井剛
■自由学園明日館・講堂、2011.10.27−30
■
http://festival-tokyo.jp/program/StillLife/ ■木の柱梁と白壁、形ある窓枠、隅に石を配置した、フランク・ロイド・ライト風の遠藤新設計の講堂は心地よい緊張がありキリッと落ち着きます。 白井剛は名のとおり硬さと強さの中に繊細さがある踊りだと記憶していました。 今回は少し違いますね。
繊細を維持しながら物と空間を取り入れ身体をコミカルに変化させようとしています。 幕開けからしばらくは、舞台はまさしく静物画のようです。 それも15世紀ヨーロッパのを。 しかし徐々に静物画から離れていきます。
ダンサーと果物・食器が一つになり舞台を踊るというより動き回ります。 「「在ること」を優位に・・」とチラシにありましたがそこに向かって行きません。 ダンサーは物との関係に近づこうとしていますがどちらも無関心です。 これは存在より関係の踊りです。
静物画の面白さは物が存在する不思議さに驚くことです。 そこに物の本質が現れるからです。 何故ある種の舞踏や芝居では人間の存在に驚くことができるのでしょうか? 「在ること」の驚きはありませんでしたが、それを考えさせられるダンスでした。
■レッドと黒の膨張する半球体
■作・演出:神里雄大、出演:岡崎藝術座
■にしすがも創造舎、2011.10.28−11.6
■
http://festival-tokyo.jp/program/HemisphericalRedandBlac/ ■初めて観る劇団である。 観客への作り笑いの連続、鼻くそいじり、オナラ、セックス、・・、どぎつさや名前から大阪の劇団か? 観劇後HPを見たらなんと違っていた。
最初は動きの激しい漫才というかコントを観ているようだ。 中学校体育館をそのまま使い、舞台に負けない日常の裏側にへばりついた言葉と動きで徐々にリズムに乗ってくる。 コントのような芝居は最後まで続く。 慣れてくるとどうでもいいことだが。
よくみると背景に大きな半円の黒幕、中央に一頭の牛肉?がぶら下がっている。 2032年、日本への移民は60%を超えてしまい家族の中にも国が混ざり合っている物語である。 世界人口70億突破のニュースを聞いたあとの現実味のある話だ。
この不安が芝居の根底にある。 英国でのオノ・ヨーコへの人種差別、食料難としての米国牛肉問題の登場も肯ける。 しかし芝居では解決できない。 だから宙ぶらりん状態の未来の生活をそのまま出すしかない。 迫力のある現実的なSF生活劇であった。
■ソウル市民
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■吉祥寺シアター、2011.10.29−12.4
■
http://www.seinendan.org/seoul5/ ■「東京ノート」の感動を再び期待したけどちょっと違ったわね。 それは1909年の歴史を登場させたからよ。 チラシに「悪意なき市民たちの罪」とあるけどその通り。 しかしダイニングルームでの会話は1909年の歴史をオブラートで包んだ感じがする。
でも歴史で計算されつくしている会話は面白かった。 同時にオリザ型劇的感動は遠のいてしまった。 面白さと感動を交換した結果よ。 ロボット好きなオリザは過去から現在へ、よりも現在から未来へが合うのね。
チラシに人物関係図があったのをみてスイッチを切替えるべきだと悟った。 観ていてヴィスコンティの「家族の肖像」を思い出してしまったの。 あの歴史的且つ劇的なダイニングルームでの対話よ。 このダイニングルームに迫れるかが今後の話題になりそうね。
■ソウル市民1919
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■吉祥寺シアター、2011.10.29−12.4
■
http://www.seinendan.org/seoul5/ ■客や家族の出入りがとても激しかったけどそれをまったく感じさせない舞台って素晴らしいわ。 三一運動の最中にオルガンと相撲取りが明るい雰囲気を持ってくる。 これらが混ざり合うと「滑稽な孤独」が現れるということね。
内地へ、満州へ、そして南方へ、京城からの選択は多岐にわたり日本人の不安と希望の心模様がよくみえる。 でも前作より感動は少ない。 うまく言えないけれど「滑稽な孤独」の孤独が深まらなかったからよ。
昔、ソウル旅行でパゴダ公園へ行ったけど日本人はここに入ってはいけない雰囲気を感じたのを覚えているわ。 今はどうかしらないけれど。 そして舞台のダイニングルームからあのパゴダ公園はみえなかった。 だから歴史としての孤独が深まらなかったの。
芝居を観たイ・ユンテクの言葉を聞いて「肩の荷が下りたように感じた」とオリザは書いている。 得意分野の科学シリーズとは違ってしまったということね。 場内で配られたチラシの短い文章はこの芝居の表裏すべてを語っているようにみえるわね。
■ソウル市民昭和望郷編
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■吉祥寺シアター、2011.10.29−12.4
■
http://www.seinendan.org/seoul5/ ■3作の中で一番面白かった。 それは国性文芸界や関東大震災、大恐慌前の株式市場など政治・経済の話で時代を盛り上げていたから。 そしてこの語りに性格の強い米国帰りの袴田、京城大学出身の書生、精神疾患の長男真一が加わったから。
でも3作とも舞台の机の位置まで同じだから観終わったあとは混乱してきたわ。 オリザの芝居は物語が弱いし、舞台での言葉の微妙な調和と差異を身体化する感動だからこの混乱はしょうがないかも。
前2作と比べて日本人の切迫感が鈍くなっているのは歴史の激しい動きで判断処理がオーバーフローしてしまったのね。 もはや京城から出ていく時はスッカラカンになってからということ。 現代世界の姿と重ねあわせしまいそうだわ。
■ソウル市民1939恋愛二重奏
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■吉祥寺シアター、2011.10.29−12.4
■
http://www.seinendan.org/seoul5/ ■たくさんの事件や流行歌、ナッなんとヒトラーユーゲント行進曲まで、盛りだくさんの話題と歌でまるで色とりどりのイルミネーションが点滅しているような芝居ね。 そんな中、寿美子と明夫の気まずい結婚生活が歴史に流されていく様子がよくあらわれている。
チラシでも議論しているけど、志願兵を見送る場面で店員が日本軍歌を歌ったのは戸惑ってしまったわ。 植民地支配下のどうしようもない現実から逃げるための笑顔の志願も「強制的」なのよ、たとえその時に植民地支配の憎しみを持っていなくても。
軍歌を歌い続ける店員に「もうやめろよ」と志願兵が止める場面での二人の演技は緻密で正確さがもっと必要ね。 全体として、場面切替に誰かの恋愛を持ち出す方法はちょっとギクシャクしていたけど4作中一番まとまっていたかな。
そして前3作の思い出も舞台に堆積していて厚みが加わっているから観ていてジワッときたし、食卓で観客に背を向いて座る場面が多かったけど良い意味で印象深かったわ。
ついでだけど、役者が軽い拒否をする場面に両手を前に出してチャカチャカ振る動作があるでしょ。 この劇団の特技かもしれないけどこのような劇には合わないわ。 前後の礼儀や敬語の流れからもね。
■サンパウロ市民
■作・演出:平田オリザ、出演:青年団
■吉祥寺シアター、2011.10.29−12.4
■
http://www.seinendan.org/seoul5/ ■幕が開いて驚いたわ、誤ってソウルの1919年を二度観てしまったのかと。 でもチラシをみて主旨はわかった。 こちらのほうがスッキリしてるけど終幕に近づくほどだめね。 宗一郎が一方的に喋りすぎたからよ。 これで全体の調子が崩れたの。
しかしブラジルは遠すぎるわ。 移民の話は「蒼氓」しか知らないし、土人の話で「悲しき熱帯」を思い出すだけ。 吹き矢は笑っちゃった。 チラシには新しい方法論とあるけどウーン、よくわからなかった。 ウーン、やっぱ二度観てしまった感じね。
■天守物語
■作:泉鏡花、演出:白井晃
■新国立劇場・中劇場、2011.11.5−20
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/tenshu/ ■亀姫が帰るまでの舞台はとてもよかった。 ゆっくりなセリフはだだっ広い中劇場にピタリと一致していて不思議な共感が迫ってきた。 秋草の釣りなど役者の動きも踊りもこれに同調していて申し分がない。 もちろん衣装も、舞台奥に道があることも。
しかし図書之助が登場してから様子が変わった。 全体が歌舞伎調で形重視かもしれないが、図書之助が硬すぎて恋をしている感じがしない。 富姫との恋も深まらない。
前半に時間を使いすぎたのも一因である。 後半の展開が速すぎて、チャンバラにはこの速さが合っていたが、終幕は桃六が少しだけ登場し失明を簡単に直してしまうし、大事な心模様をじっくり表現できないで幕が下りてしまった。
■盲人書簡
■作:寺山修司、演出:高野由美子、出演:A・P・B−TOKYO
■ザムザ阿佐谷、2011.11.11−15
■
http://www.h3.dion.ne.jp/~apbtokyo/ ■時代は上海事変あたりが舞台?で明智小五郎や小林少年も登場し賑やかです。 しかし物語が断片の繋ぎ合わせのため舞台も以前どこかで観たような場面が次々と現れます。
でも暗闇だらけの芝居と聞いていましたがいつもとあまり変わりません。 長いセリフを暗闇で聞く場面が一箇所ありました。 ここはいつもと違った緊張が訪れました。 もっと「もっと闇を・・」です。 闇の芝居は劇団にとってチャンスだったはずです。
後半はストーリーも集約してきて盛り上がりましたが、なぜ終幕に小林少年は身近の人明智小五郎や母親を刀で切ってしまったのでしょうか? もう一つの闇との関係を断ち切るためでしょうか? 観た後もカタルシスのある芝居でした。
この文章をかきながらチラシを見たらなんと小林少年が高野由美子だったと知りました。 演出家がどんな人か興味があったのですが、役者としても雑音を出さないピュアな演技で上手かったですね。 そして学生帽をもっと深く被ればまさに小林少年です。
■エゴイズム
■振付:加賀谷香
■新国立劇場・小劇場、2011.11.25−27
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000535.pdf ■怪しげな振付で加賀谷が柳本と踊る場面が一番見ごたえがあった。 バイオリンもオドロオドロしていてよかった。 近松世界の全体をみせる為か、周りで近藤と篠井がはしゃいで舞台を厚くしていたが同時に散漫になり薄くもしていた。
進むに連れて3人の男性ダンサーが登場したが加賀谷との関係がよくみえない。 幕開きでは近藤が加賀谷を人形として相手をしていたが以降の浄瑠璃との関係もあやふやだ。 どうでもよいことだが観客としてこのようなことを考えてしまう流れが良くない。
他分野の有名作品を題材とするダンスは何を求めて何を取捨するかが最初から明確になっていないと、できた作品は詰め込み過ぎ消化不良になってしまう。 結局テーマに縛られてしまったようだ。 やはりダンスは頭の中を空にして観るのが一番である。
■あゝ荒野
■ポスターハリスギャラリー、2011.11.17−30
■
http://www.terayamaworld.com/museumnews/kouya_misawa_a4_11.2_02.jpg ■今回戯曲本が出版され上演もされている。 その関連?の森山大道の写真展である。 展示会の原本も2005年に発売されているのを知った。 寺山修司の短歌とともに場内にその作品が並べられている。
会場はマンションの一室で作品をジックリみるには息苦しい。 森山の60年代の写真は寺山の世界によく似合う。 というより誰を持ってきても合いそうだ。 理由として森山の若き年齢が60年代と共に走れたから。 時代と走れることは滅多に来ない。
「公園まで嘔吐せしもの捨てに来てその洗面器しばらく見つむ」
公園の雰囲気、色、匂い、そして洗面器の重みまで筋肉に伝わってくる。 読者の肉体が総動員してしまう歌だ。 言葉が身体化するこの感覚と、森山の写真が持つ確かな存在感とが共鳴するのがコラボの面白さかもしれない。 汚かったからもう一句・・
「わが切りし二十の爪がしんしんとピースの罐に冷えてゆくなり」
■ボート ヒア、ボート
■演出:桑折現
■アルテリオ小劇場、2011.12.3−5
■
http://kawasaki-ac.jp/img/bhb_f_fin.pdf ■舞台にはアルミの梯子、背景は鏡のような反射シート幕が張られていて金属的な舞台でカッコイイっす。 ダンスだとおもいきや詩のようなセリフ、小道具との動きが多くて一種のパフォーマンスですね。
「あなたの国のことを教えて・・」、「国民は健康で政治・経済は安定、楽しい労働・・」。 ユートピアのような話が進みます。 「ロボットになりたい」、「タイムマシンにのりたい」。 交易や交通を肯定しているようですがハッキリしません。 未来もよく見えません。
詩は童話の世界のようでメッセージが弱く感じられます。 ダンスや小道具を使ったパフォーマンスがひとつにまとまっていないのも弱さを助長しています。 ボートはあるのですが動いていません。 「新たな決断をして」船出をしたいところです。
■百合懐胎す
■出演:吉本大輔、主催:天空揺籃
■東生田会館、2011.12.1−7
■白塗りに赤の口紅、赤のマニキュア、綺羅びやかな黒の衣装と赤のショール、そして赤のローヒール。 これは老いについて踊っているようにみえるわ。 舞台に敷き詰められた枯葉と鉢植えの常用樹林のズレも老人の肉体と意識のズレそのものね。
すぐに服を着てゆっくりと舞台を歩きまわり便器に座って衣服を脱ぎ再び裸で転げまわる。 方向はあるけど空虚な視線、口をパクパクするしぐさ、仰向けに横たわった姿はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた素描画の老人がそのまま舞台に現れた感じね。
幕が閉じて一言挨拶があったの。 「皆さんが私の年齢になったときこの踊りを思い出してくれたら・・」。 大輔も踊っていて同じことを感じていたのね。 だからガブリエルの抱える百合はこれからも無関心に咲き続けるの。
■その妹
■作:武者小路実篤、演出:河原雅彦、出演:シス・カンパニー他
■シアタートラム、2011.12.2−26
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/12/post_254.html ■力強い妹が印象に残った。 久保田万太郎は「妹の身売りの芝居と見てはいけない」と言っているようだが、妹は資本主義さえもこえていく超商品の凄さがある。 それに比して兄や西島はカネがなければ何も出来ない。 彼らはニートの祖先だ。
セリフの速さ、兄の小刻みな動き、椅子取りゲームのように対話を進める役者たち。 とてもリズミカルな舞台である。 良し悪しは別として、心の有り様をセリフで反復する方法をとるので流れがブレない。 八畳に廊下を巻いた三方向通路も形がいい。
相川はそんなに悪い奴なのか? もはや善悪区別のつかない時代に入ってしまった。 後半は少し混乱したが、市川亀治郎は役以上に押さえているようにみえた。 妹と蒼井を庇うためもあったが、このでしゃばらないおかげで大正と現代が豊かに結びついた。
■わたしのアイドル
■作・演出:千葉雅子、出演:猫のホテル
■ザ・スズナリ、2011.12.2−11
■
http://www.nekohote.com/next_top.html ■舞台の周辺に男優が4名座っている。 女優二人が親しみのある対話を始める。 小話をつなげていくようなストーリである。 5話くらい進んだところで二人の関係がわかる。 作詞家&マネージャとその歌手のようだ。 その後は流れが見えてきた。
全部で12話くらい続いたが照明や音楽の使い方、男優の登場タイミングなどどれも考え抜かれている。
これは大人の芝居である。 芸能界の内輪は知らないが、しぐさや言葉や些細な出来事が現実社会で経験してきた慣れを含んでいるのがみえる。 だからとてもリアルである。 この種のリアルさに出会う劇団は今はとても少ない。 充実の舞台だった。
■誤/娯楽
■作・演出:赤澤ムック、出演:黒色綺譚カナリア派
■こまばアゴラ劇場、2011.12.8−18
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage24417_1.jpg?1323558871 ■チラシはとてもよくできています。 観に行きたくなる写真や文章です。 しかし裏切られます。 芝居がツマラナイからです。
ただセリフを喚きちらしているだけです。 言葉が紡いでいかないでセリフそのものが観客に届きます。 役者の肉体も過激にしただけで日常をそのまま見せているだけです。 言葉と身体を統合して劇的にする仕方をこの劇団は持っていないようです。
今回で活動停止と聞いています。 休息と充電が必要です。 そして次への新しい舞台を期待したい。
■帰ってきた日本
■原作:長谷川伸、演出:鈴木忠志、出演:SCOT
■吉祥寺シアター、2011.12.9−25
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage24767_1.jpg?1323558786 ■漫画劇なんて初めて観たわ。 チャンバラのスローな動きや小刻みな歩きがコマを動かすようにみえるから漫画劇と呼んだのかしら? 後半は前半の続きと観ていたけど日本の母以外が違ってしまい戸惑ってしまった。 これは母と子、特に男子と、の物語ね。
任侠道は少しは聞いているけど後半はこれに国家がかぶさったので分かり難かったわ。 義理や仁義が世間をそして最後は国家を形成すると、北朝鮮渡世人とモンローのセリフにあったけど、これが創作途中で鈴木が意表を突かれた所ね。
ところで看護婦モンローの存在感は素晴らしいわ。 白く化粧した少しセクシーな歩き方や細かい動作、歌舞伎のようなセリフの喋りかたは役者の身体からひとつの塊のようになって観客へ迫ってくる。 これが鈴木メソッドの化身なのかしら。
そして一部とニ部は分けたほうがいいわ。 同じような場面があり後半は飽きてしまったの。 SCOTの芝居はとても緊張するから1時間くらいが限度ね。
■三月の五日間
■演出:岡田利規、出演:チェルフィッチュ
■神奈川劇術劇場・中劇場、2011.12.16−23
■
http://www.kaat.jp/pf/chel35.html ■7年前の作品ですが、舞台に無駄がなく何もない空間から爽やかに湧き出てきたような素晴らしい作品です。
見知らぬ相手とのセックスや反戦デモへの参加、ラブホテルでの泊まり、繁華街やライブでの屯など、これらは容易に日常に転化しますが非日常の一歩手前で止まっている緊張感があります。
同時に役者は観客の位置にいる眼差しをして、行動を他人に語らせ対話を時々混ぜる変わったセリフで舞台を異化していきます。 とても新しさのある舞台です。 しかし何故新しいのか説明し難い舞台です。
反戦デモの場面は全体からみて劣化しています。 観客への視線やセリフが全体から外れている役者もいます。 このダメな部分が逆に舞台の持っている新しさを炙り出しています。 多くの微妙な関係が安定しないと成り立たないような舞台のようです。
近年は雑多で太り気味な作品が多くてこの良さが弱められているのが残念でなりません。
■別冊谷崎潤一郎
■原作:谷崎潤一郎、演出:鈴木忠志、出演:SCOT
■吉祥寺シアター、2011.12.9−25
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage24768_1.jpg?1324204684 ■「お國と五平」の三角関係、「或る調書の一節」の夫婦関係が役者の身体を通してずっしりと伝わってきたわ。 同時に役者の動きがとても少ないから隙がなくて舞台の緊張がまったく緩まない一時間だった。
前半は広島弁かしら? このセリフが独特のリズムと雰囲気を醸しだし緊張感を豊かにしていたようね。 また浄土宗派の仏教観も悪人物語に一層の深みをあたえていた。 この宗教思想を取り入れたことが観た後のカタルシスをより増幅したとおもうの。
ひさしぶりに芝居の醍醐味を味わったわ。 この数年間での鈴木忠志のベストに入る作品ね。
今年のベストとワーストを選ぶから作品名を送ってちょうだい
■三人姉妹
■演出:小池博史、出演:パパ・タラフマラ
■北沢タウンホール、2011.12.20−22
■
http://pappa-tara.com/fes/threesisters.html ■「1900年初頭と2004年を重ねた1960年代の日本の地方の物語である」とのプレトークに影響されてか、役者の服装や動き・表情が60年代の雰囲気を持っているように見えた。 このレトロな入れ物に豊かな現実を詰め込んだ混沌のパフォーマンスである。
ショーステエジ用?衣装での踊りや女子プロレスまがいのパフォーマンス、マイクを持っての発声練習?なども混乱しそうだが、これらを積み重ねてコクのある舞台となって現れる。 音楽もこの流れに沿っている。 総合力で勝負しているパフォーマンスだ。
三姉妹の「生きていかなければ」のセリフで幕が閉じる。 劇団解散理由を日本社会の過度の混乱が運営に支障をきたしている為とアフタトークで答えていた。 舞台芸術の社会的影響力の低下を食い止められない業界への批判も含まれているのだろう。
■エレクトラ−オレステスを待ちつつ−
■原作:エウリピデス他、演出:鈴木忠志、出演:SCOT他
■吉祥寺シアター、2011.12.9−25
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage24770_1.jpg?1324595117 ■「お前はこの胸からお乳をすって大きくなったんだ・・」。 子が母親を殺すストーリーに多くの観客は戸惑ってしまうはずだわ。 母との決別がテーマの一つかもしれないけれど、これでは悲劇としてのカタルシスがやって来ないからよ。
車椅子に乗ったコロスの円と直線の幾何学的な動きはまるで鋼鉄の硬さと強さがある。 しかも打楽器がこれに追い打ちをかける。
激しい近未来の世界を観ているようだわ。 この芝居は缶コーヒーでいうならUCCのブラックを飲んだ後味に似ている。 結果として甘みも苦味も無く精神は高揚するけど静寂が訪れるような感じね。
>>>>> 2011年舞台ベスト・テン <<<<<
・田園に死す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>18(2010年度分)
・砂町の王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>19(2010年度分)
・投げられやすい石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>33 ・風のほこり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>37 ・品潮記−品川宿物語-・・・・・・・・・・・・・・・
>>43 ・グリム童話−少女と悪魔と風車小屋−・・
>>53 ・わが星・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>62 ・ゴドーをまちながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000326.pdf ・1999年の夏休み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>98 ・あなた自身のレッスン・・・・・・・・・・・・・・・・
>>143 ・ソウル市民1939恋愛二重奏・・・・・・・・・・
>>153 ・その妹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>161 ・わたしのアイドル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>162 ・別冊谷崎潤一郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>166 ・三人姉妹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>168 *並びは上演日順
*選出範囲はこのスレに書かれた作品から、
但し「ゴドーをまちながら」は「したらば掲示板」に投稿
*今年は+3作品がオマケ、最初の2作は去年分
■ゆめみたい
■演出:中野成樹、出演:フランケンズ
■アルテリオ小劇場、2011.12.23−27
■
http://kawasaki-ac.jp/img/yumemitai.pdf ■場内に入ると舞台真ん中で仕切られています。 上手は下手の舞台が見えないあるいはその逆の場合はそれを受け入れ従うのが礼儀です。 ということで空いてる上手前席を取りました。 上手は白、下手は青系です。 これは昼と夜に分けたと感じました。
幕が開くと、この仕切りは使い方に規則がないようです。 室内と室外、鏡のような使い方、同時セリフ発声などもありましたが少しがっかりです。 このため下手の演技は役者の声を聞いて想像するなどの変わった観方があまりできませんでした。
チラシに「ハムレットを90分で上演」とあります。 その通りに途中までダイジェスト版を観ているようです。 しかし少しずつ過去に観たハムレットが混ざり合ってきます。 これは無意識に近いものですがこれで舞台が想像で膨らんできます。
つまり観客が持っている過去のハムレットの累積を利用した舞台です。 終幕に近い五幕の墓地あたりからはリズムに乗れました。 観終わったあとはいつものハムレットのようでした。 全体のシンプルさが観客の想像力を刺激したのが良かったのでしょう。
あけましてオメ
■星の結び目
■作:吉田小夏、演出:黒澤世莉、出演:時間堂
■こまばアゴラ劇場、2011.12.22−2012.1.2
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage_reverse24441_1.jpg?1325499723 ■「ストレートプレイの醍醐味を」と書いてあるチラシの通りであった。 細かな物語が散りばめられていて登場した人々を結びつけていくので 「星の結び目」と言うのだろう。 ストーリーは逆で戦争に翻弄されバラバラになっていく人々の様子が描かれている。
氷問屋の主人と丁稚、海外起業、帝大出の番頭、大陸花嫁、代議士とのお見合いなど興味ある話が続く。 着物の柄、蝋梅や枝垂れ梅の良し悪し、お花見・蛍狩りの行事、ドロップや金平糖の菓子が当時の生活の想像を助けてくれる。
しかし幕開きの3人を残して多くの人の物語は額に飾られてたまま幕が降りてしまった。 それだけ戦争の傷跡が大きかった。 でも生きている者は死んだ者にも星と同じに結べることができる。 新年早々このような芝居を楽しめてとても良い気分だ。
>>173追記
途中から数回にわたり梅子が解説をというか心情を話し始めたがこれは不要だ。
■ロデリンダ
■指揮:H・ピケット、演出:S・ワズワース、出演:R・フレミング、A・ショル
■新宿ピカデリー・スクリーン2、2012.1.7−13
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_05 ■「大劇場には合わない作品だ」と言っているのがわかるわ。 舞台は締りがなくて小道具は過剰だからよ。 映画だからアップが多くてこの欠点が見えにくかっただけ。 でもバロック・オペラって観ていても心が丸くなっていく感じがして素敵ね。
歌詞の繰り返しが多いから歌手のあらゆる面での力量が発揮できるはず。 特にグリモアルドのJ・カイザーは安定感ある職人のようで彼を中心として歌唱が進んでいるようにみえたわ。 後半になるほど演技も冴えてきたしね。
カウンターテナーはヘンデルそしてバロックを飛び越える異形の力があると思っていたけどサプライズ不足だわ。 でも清くて高貴な声質だから怒りや裏切りの歌には似合わない。 終幕に歌う「寛大な心がお前を救った・・」も残念だけどだめね。
ところでシェン・ヤンに「独裁政治が、残酷な行為が王国を保たせる・・・」を歌わせるなんて皮肉かしら。
■今日と明日の間で
■監督:小林潤子、出演:首藤康之、中村恩恵、小野寺修二、斎藤友佳理
■東京都写真美術館、2012.1.7−29
■
http://kyo-asu.com/ ■観ながら熊川哲也を思い出してしまいました。 両人の差異は他人とのコミュニケーションの質の違いです。 資本主義の時代を生きていく限り、他人とのコミュニケーションを通して職業上特に戦略上重要な決定をする必要があります。
大分文化会館で「舞台から客への、客から舞台へのコミュニケーションが・・」と言っていますが今一番求めるものとは違うはずです。 だから「空白に落ちた男」で小野寺修二と「アポクリフ」でシェルカウイと本当の話し合いは無かったのではないでしょうか?
「時の庭」や「今日と明日の間で」は首藤の長所を生かした踊りです。 新作は素晴らしいです。 振付が中村恩恵ですが新作の話などが彼女から聞けなくて残念でした。 前回の「ソネット」でも首藤を引き立てていましたから良き相棒のようです。
しかし今の首藤には戦略の構築が必要です。 中村恩恵とは違った世界の相棒も増やす必要があります。 「夢中になって打ち込んでいけば」でも良いのですがまだ十分に間に合います。
■島
■作・演出:小池博史、出演:パパ・タラフマラ
■森下スタジオ・Cスタジオ、2012.1.13−15
■
http://pappa-tara.com/fes/shima.html ■登場は二人だけで60年代の海のある地方のようだ。 プレトークで故郷の風景を描いたものだと説明があった。 タイトルの島、鳥や姪は抽象の世界で、鶏や猫の鳴き声、食事の具体と対をなしているように見える。 セリフを繋ぎあわせても物語は朧気だ。
前回観た三人姉妹
>>168と同じように身体の暖かみを感じさせる舞台である。 しかしダンス、セリフ、発声、小道具はバラバラだ。 統一できた楽しさは見えてこない。
他作品との繋がりを考えたり回顧する観客には重要な位置づけかもしれないが、一回限りの観客からみると物足りない。
■ファウスト
■指揮:Y・N・セガン、演出:D・マッカナフ、出演:J・カウフマン、M・ポプラフスカヤ、R・パーペ
■新宿ピカデリー、2012.1.14−20
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_06 ■グノーのオペラよ。 場面の切替や物語の進み方は滑らかで終幕まで一気通貫の舞台だったわ。 メフィストフェレス「金の子牛」、ファウスト「この清らかな住まい」など知られている歌は舞台の雰囲気とピタリと一致していたしね。
カウフマンは「よく知っている」とゲーテへの共感を言ってたけどパーペも同じだとおもう。 マッカナフは「オペラもミュージカルも同じだ」の考えが面白さを倍増したのかもしれない。 でも群衆は多過ぎて固まってしまい躍動感が無かったのが残念ね。
カメラの動きは舞台全体を撮影する回数も増えていてロデリンダ
>>175よりよくなっていた。 登場人物の多少に係わらず「映画芸術」を前面に出さず記録として撮影して欲しいわね。 もっと舞台を想像したいからよ。
幕開きの広島ドームや原爆研究員の白衣の人物達の煩雑な登場も3.11など昨年の出来事に絡めて印象深かったわ。 ワルブルギスの夜の原爆には驚いたけど。 時代に過敏で賛否はあるかもしれないけどとても面白い演出だった。
■ある女
■作・演出:岩井秀人、出演:ハイバイ
■こまばアゴラ劇場、2012.1.18−2.1
■
http://hi-bye.net/2011/10/29/1781 ■主人公タカコの男遍歴が物語です。 映像が都度上映されて男たちと出会った経緯や思想的背景などを説明します。 そして舞台はタカコと男たちとの性的なストーリーが展開します。
映像は外向けの話で舞台はウチ向けのようです。 脳味噌でいうと映像は前頭連合野で作り、舞台は大脳基底核や間脳に直結する内容です。 しかし舞台が進行してもこの映像と舞台は出会いの経緯以外の繋がりが見えてきません。
セクリ小林との対話は面白かったのですが、セックスはすぐに日常生活に組み込まれ慣れてしまうものです。 ですから鮮度が重要です。 舞台が盛り上がらないのはこの映像との分断、セックスの日常的慢性化が原因です。
これを打破するには映像と舞台つまり連合野と基底核の劇的融合、または第二第三のセクリ小林を登場させるしかありません。 もちろんハイバイとしては前者を選択し劇的感動の舞台を提示すべきでした。
■ジークフリート
■指揮:F・ルイージ、演出:R・ルパージュ、出演:J・H・モリス、D・ヴォイド
■109シネマズMM横浜、2012.1.21−27
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_03 ■まるで対話を歌っているようだわ。 これがワーグナーなの? しかも全幕が暗い色調だから歌に集中できた。 父母は誰か? さすらい人とミーメの三つの質問のやり取りなど一幕から流れの良さで物語にすんなり入っていける。
でも第二幕もこの調子でいったから飽きてしまった。 大蛇を倒した後の一時はもっと明るい舞台にしたら気分が変わったのに。 ルパージュの独特な湿度と粘着ある舞台が続くと気が重いわね。
しかし全編にわたり「どこからきたのか?どこへ行くのか?そして自分は誰なのか?」が漂っている舞台と意味深のセリフは他のオペラと違った面白さがある。 ブリュンヒルデとのやり取りは複雑過ぎるけど。
モリスは感情をセーブしているようで力強さがイマイチね。 静かさのあるジークフリートだわ。 ヴォイドとのキスシーンでは口を拭きすぎね。 顔を汚したくないのはわかるけど。 それに恐れを知った表現もぎこちない。 だから若モリスと言われるのね。
>>180 4時間出突張りだからセーブも必要だろうな
■SHIP IN A VIEW
■作・演出:小池博史、出演:パパ・タラフマラ
■シアター1010、2012.1.27−29
■
http://pappa-tara.com/fes/ship.html ■漁船が走っていく幕開けで目の前が突然港になる。 舞台中央の柱は煙突のようにも見える。 次にはこの柱のお陰で霧のサン・マルコ広場にいるようだ。 柱は灯台になり、帆船のマストに変化していった。 この柱で時空を飛びまわれた。
ダンサーの柱への集中、グレー系で統一した衣装や舞台の色彩、ホーミー(?)の音色、これらが混ざり合い舞台をゆっくりとした流れにして観ていて心地よい。 ダンスにキレの悪さがあったが気にならない。
終幕近くに包丁や靴などの倒錯表現があったがよく理解できなかった。 一人が天井へ上昇するところもだ。 チラシに「・・(これは)1960年代の地方の人々の脱出願望である・・」とある。 60年代は遠くなってしまったということか?
ところで舞台を観ながら「松任谷由実モンゴルをゆく」を思い出してしまった。 インタネットで調べると1996年にNHKで放送されていた。 モンゴル伝統音楽ホーミーを紹介している。 小池博史もNHK番組を見てこの作品(1997年)に採用したのかな?
■浅草版・くるみ割り人形
■作:寺山修司、演出:水嶋jカンナ、出演:PROJECT NYX
■吉祥寺シアター、2012.1.19−30
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage24850_1.jpg?1328000945 ■人形が登場する芝居は不思議な楽しさがあって素敵だわ。 夢と現実、大人と子供、母と子・・、セリフはとても難しいことを言っているけど、それを気にしないでセリフの表層だけを摘み取っていくような舞台ね。 このギャップが面白い。
そして闇への入り口はたくさんあって覗いてはみたけど深入りしなかった。 これで感動は分散してしまったかもよ。 観客とのやり取りもあって楽しかったけど。 演出家の言っている通りアングラ版宝塚だったわ。
砂男と少女は寺山修司の世界からやって来たようにみえた。 この世界はプラスチックのような感じを持った役者が似合うから。 だから毬谷友子は残念だけど似合わない。 泣きそうな笑顔が良すぎるのよ。 唐十郎の世界の方がピッタリかも。
■天守物語
■演出:成井市郎・坂東玉三郎、出演:坂東玉三郎、市川海老蔵
■109シネマズMM横浜、2012.1.21−2.10
■
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/17/flier.html ■とてもピュアな舞台です。 役者たちの背後に泉鏡花が隠れているようです。 玉三郎を初めてジックリみましたが、鼻の先が少し丸まっているのがいいですね。 これで女形が生きるのだと知りました。 図書之助の海老蔵は抑えて抑えていて最高です。
声が劇場空間を伝わって来るようで言葉の一つ一つが脳に響きます。 わらべうたのとおりゃんせもとても効いています。
このスレにもMETの感想が載っていますが、歌舞伎シネマを観るとMETの音響の悪さに気がつきます。 役者の声で劇場の大きさが分かるようでなければ良い音とは言えません。 METはオペラですからもっと技術をつぎ込んで欲しいですね。
数カ所編集しているようでしたが省かないで幕が開くところから上映して欲しい。 残念ながら舞台を映画に撮ったものは劇的感動はやってきません。 むしろ映画的感動というものかもしれません。 でもこの感動が有るのでしたら下手な芝居より楽しいです。
映画のカキコが多いな
オレも今週見に行くか、アラン・レネでも、・・89歳だから期待してないけど
ところで今月末からのヴェンダースの「ピナ」は必見かな
■揮発性身体論
■振付:鈴木ユキオ、出演:金魚
■シアタートラム、2012.2.3−5
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2012/02/post_266.html ■速度を意識する特に手足の動かし方がとても素晴らしかったわ。 速度は時間を微分したものだから身体と時間の関係が表現されていた。 これで前半は舞台に釘付けになってしまったの。 関節の動かし方も速度のズレがあり面白かった。
電球の使い方は明暗の差がイマイチだったわ。 少し明る過ぎよ。 技術がよくなっているから光との格闘がもっと必要ね。
後半も緊張感が持続したけど三人目のダンサーが登場してそれを壊してしまった。 この後は転げ落ちるように並のダンスになってしまったわ。 チラシを見たら2本立てだったのね。
後半のダンスのツマラナイ理由はいくつかあるけど、ダンサーの髪が顔を覆ってしまうのが一つの理由。 特に白服の二名はだめね。 視線の方向や目の輝き、息遣い、口の歪みなど顔は身体の一部だから。 これが観客から見えなくなるのは最悪。
緑衣装のダンサーのように髪を結うべきね。 だから4人のなかで緑服のダンサーが一番観客とコミュニケーションが取れたの。 ユキオはダンサーに髪についての指示をしなかったのかしら? 貞子が井戸から這い上がってくるのとは違うんだから。
これでは身体論をテーマにするのが恥ずかしわ。
>>185 「風にそよぐ草」を観てきたが不思議で面白い作品だった レネは真面目に元気に歳を積み重ねているようだね
■カラマーゾフの兄弟
■振付:小野寺修二、出演:カンパニーデラシネラ
■新国立劇場、2012.2.8−12
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000460.pdf ■舞台上に床と背景だけの小さな部屋を作り7人のダンサーを配置している。 狭いので混み合っている。 ダンサー同志を近づけないと物語を進める身体的対話が生きないからだとおもう。 実際言葉での対話や感情をそのまま身体に置き換えた動きだ。
だから父と3兄弟の関係をダンスで表現したような無言劇である。 小説を読んでいないと動きの楽しさだけを追うようになってしまう。 これでは物足りない。
チラシに「マイムは他者に操られる」と書いてあるのを見て、演出家がマイム出身だとあらためて思い出してしまった。 操る・操られることを取り入れることによりダンス=身体を小説=言葉に近づけることが可能だと考えたに違いない。
これで言葉より感情面で効果が多少あったようにみえる。 しかし小説を思い出しながらダンス観るのは面白いとは言えない。 ダンスは言葉を捨てて身体だけで観たいものだ。
■エンチャンテッド・アイランド
■指揮:W・クリスティ、演出:P・マクダーモット、出演:D・ダニエルズ、J・ディドナード、D・ドゥ・ニース
■新宿ピカデリー、2012.2.11−17
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_07 ■華麗な割には感動が少なかったわね。 詰め込み過ぎかも。 シエィクスピアの採用は無難だけど使いこなせなかった。 歌の選択はマアマアだし出演者は最高だから勿体無かったの一言よ。 個々の歌には魅せられてしまった。
大きな門?のある舞台は外から来る人々の紹介でウキウキしたわ。 一幕はこれで時間をかけすぎてしまって、二幕をまとめ切れなかったのが感動のない原因ね。
ネプチューンやダンスの場面は目だけが嬉しいだけの感じだった。 母子の慰めも浮いていた。 恋人同士の繋ぎ替えも急ぎすぎてしまった。 欲望がすべての人物に強く出過ぎていた。 ・・・。 これで詰め込み過ぎね。 結果として愛もかすんでしまった。
門の回りにある小道具類もアップの時は目障りだった。 もっとすっきりしてネ。 この舞台は人間関係だけをもっと深く集中して他は全て映像にしてもいいくらいよ。 でもバロックって合わせやすい音楽ね。 エンチャンテッドにはピッタリだったわ。
■奴婢訓
■作:寺山修司、演出:J・A・シーザ、出演:万有引力
■シアタートラム、2012.2.15−19
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_t_120212_banyuinryoku_l_pm_poster_2.jpg ■若手俳優を起用と書いてあったけど公演数が多い作品の為か熟れていてとてもよかった。 体操器具のような道具が沢山でるから場面の切替に間延びが生じて思考が中断する問題も今回はクリアしていたしね。
この作品は寺山特有のネットリ感が少ないしセリフも機械的な喋り方があるから肉体と言葉が融け合わないの。 これはJ・スウィフトと宮沢賢治の関係にも言えるわ。 この差異をなんとかして劇的感動にまで持っていけるかがこの芝居の醍醐味かもね。
これも今回は持っていけたと思う。 多分劇場の大きさも絡んでるからよ。 前回の新国立劇場の時よりずっと冴えていた。
「神が人の前に現れないのは顔が醜いからだ・・・・・」。 ダリア?の最後のセリフは主人の不在をグローバルに拡張していてとても興味深かった。 続いて舞台床に転げ跳ね回り、そして静寂のあと光り輝く背景へ歩いていく終幕は最高よ。
■作:寺山修司、演出:天野天街
■ザ・スズナリ、2012.2.9−19
■
http://www.ryuzanji.com/ ■計算され尽くした細かな場面展開が表層を滑っていくようね。 歯切れが良過ぎて寺山の深さが出てなかったけどとても面白く観たわ。 そして個の記憶=自分探しは少年王者館が得意としているからピッタリかも。
でも記憶の修正の失敗=自分探しのループで終わってしまった。 それは寺山修司が上演中の芝居を観るためスズナリの階段をあがって行くところで幕が閉じるからよ。 ところで繰り返しの多い細かな舞台リズムのためか後半最後の方は疲れてしまった。
これはミニマル・ミュージックと同系列のミニマル演劇だわ。 少年王者館を観ていてもそれを感じていたの。 寺山への新しい適用かもね。 これも面白かった理由の一つね。
>>192 このリズムの中には大阪がある・・、だから東京人は観ていて疲れるんだ
■海神別荘
■作:泉鏡花、演出:成井市郎・坂東玉三郎、出演:坂東玉三郎、市川海老蔵
■東劇、2012.2.18−31
■
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/18/flier.html ■來世へ行った者は現世を忘れなければいけない。 竹取物語の昔からの決まりです。 でもそれができない。 しかし公子は愛が本物になると確信したので許す。 愛は未来へのベクトルだから。 公子と美女や側近との対話には多くを考えさせられました。
天守物語
>>184でもそうだったのですが、海老蔵は舞台では日常性を持ち込まないからとてもクールですね。 玉三郎は顎が老けた感じかな。 「これは歌舞伎か?」と玉三郎が言っていましたが鏡花本来の良さが出ていてとても面白く観ました。
たくさんの魚や花の名前が出てきて具体と抽象の入り混じったセリフは楽しいですね。 そして空間の広さと時間の流れがゆったりとしていて心地良かったです。 今回は音声がイマイチでした。
■お伽草子
■作:太宰治、戯曲:永山智行、演出:三浦基、出演:劇団うりんこ
■KAAT他、2012.1.13−3.18
■
http://www.urinko.jp/otogi2012.html ■ドラゴンズファンのお爺さんが出迎えてくれたのよ。 さすが名古屋の劇団ね。 舌切雀、こぶ取り爺さん、カチカチ山、浦島太郎・・が戦時の空襲下で演じられていくの。 でも物語は時空が飛々で混沌としていてどこか異様さが漂っていているわ。
個々のお伽話は完結していないけど、観終わった時に一つにまとまっていくような感慨のある芝居になっているようね。 あとになって面白さが滲みでてくる感じだわ。 そして全国ツアー作品だけあって力強い舞台だった。
アフタートークで子供演劇が話題になったの。 「大人と子供を分ける演劇など無い・・」「子供は大人の観方を真似て芝居の良し悪しを鍛えていく・・」と三浦基が言っていたけどその通りね。
そして「太宰の待つ生き方が表れている作品である。 待って待って待ったまま死んでいくのが人間である・・」、・・なるほどね。
■女王の器
■作・演出:松井周、出演:サンプル
■アルテリオ小劇場、2012.1.17−26
■
http://kawasaki-ac.jp/img/sample2011.pdf ■女王や性転換?の登場やセックスの話題の多さから、半年前に読んだ「恋するオスが進化する」という本について考えてしまった。 異性間選択・性的対立・繁殖コスト・性転換など、この10年間の生物学の成果を当てはめると芝居の動きがよく見える。
でもこの劇の面白さは、舞台脇にいて舞台を見つめ登場を待つ役者と、意識して少し力んで台詞を喋っている役者の差異の面白さを背景に、舞台の構成やそこに散らばった小道具が言葉と同じ位置を占め、科白の間に挟まって観客に届くところにある。
それは方向性の無いもどかしさが含まれているので観客の脳味噌で炭酸のように発散して軽い倦怠ある快感がやってくるから。
ところで役者たちの顔を観ていて前回作品
>>96を思い出した。 舞台の土手や夕焼けがとても印象深かったことなどを。 この作品も舞台構成が面白いので印象に残るだろう。 布の下で這いずり回ったことなども。
■PINA
■監督:W・ヴェンダース、出演:ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団
■新宿バルト9、2012.2.25−
■
http://pina.gaga.ne.jp/ ■鉄でできた都会の風景とダンスに違和感がないのはヴェンダースとピナの相性の良さだわ。 森や鉱山での撮影もロードムービの成果がでている。 さすがヴェンダースね。 全体はインタビューや過去の映像を繋ぎあわせて記録映画のように出来ている。
でも映画用舞台?の春の祭典、カフェ・ミュラ、コンタクトホーフはどれも寂しさがあるの。 それはピナはもういないのが隅々に漂っているからよ。 そしてピナが登場する場面だけがとても遠くに感じるから。
ダンサーを近くから撮影するからタンツよりテアトルに比重が傾いているようね。 3D映像の影響もあるのかしら? ダンサーが時々人形のようにみえる。 ピナの新作を見ているようだわ。 ピナの最後の激しさをヴェンダースは優しく包み込んだのね。
■ピーター・ブルックとシェイクスピア
■早稲田大学演劇博物館
■
http://www.waseda.jp/enpaku/special/2011peter_brook.html ■企画展と聞いて行ったのですがガッカリです。 シェイクスピア常設展に数十枚の写真とパンフレットそして過去の新聞評を飾っただけですから。 3月に埼玉で上演する「魔笛」の一部をビデオ上映していました。 いつもながらのシンプルな舞台です。
「つかこうへいの70年代展」「日活向島と新派映画の時代展」も同時開催です。 つかこうへいは「蒲田行進曲」しか観ていないのでどうも興味がわきません。 大掛かりな企画展と言えるのは日活だけです。 この展示で日活の知識がだいぶ増えました。
松竹より8年も早く1912年(大正元年)に創立して新派の俳優で映画を撮ったのは驚きです。 新派や新劇との関係が深いのでこの館での開催になったようです。 きょうはピーター・ブルックが日活映画に替わってしまいました。
■神々の黄昏
■指揮:F・ルイージ、演出:R・ルパージュ、出演:D・ヴォイド、J・H・モリス
■東劇、2012.3.3−9
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_08 ■カメラの位置が大きく変わったのね。 ジークフリート
>>180では背景の柱の束は刑務所の壁のようで酷かった。 舞台床を斜め上下から撮ることによって立体感がでてきたわ。 そして柱の束に写す映像に明るさがでたのも良くなった理由よ。
上演時間が5時間以上もある理由は一幕での回顧が多過ぎるのよ、ストーリーを思い出すのにはいいけど。 これで物語の流れがゆっくりになったのか長時間でも疲れなかったのね。 一幕の終わりから終幕までは物語を引っ張っていく面白さはあったわ。
ヴォイドもモリスも安定感がでてきた。 高音域が少ないからよ。 ルイージがドイツ的な音を消すようにしていると言っていたけど、これは演出全体にいえることだわ。 火と水の世界の中でもジークフリートとブリュンヒルデは人間の大きさで死んでいったから。
■サド公爵夫人
■演出:野村萬斎、出演:蒼井優
■世田谷パブリックシアター、2012.3.6−20
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_120306_sado6_l_pm_poster_2.jpg ■一幕から二幕の間が6年、三幕では7年の歳月が流れる。 言葉だけで表現しなければならないこの歳月が、迫ってこない。 それはルネが歳を取らないためである。 ルネの歳は言葉の表面を滑っていくだけである。
終幕サドが訪ねてきた場面で時間が一気に進んだ、しかしサドだけの時間が。 力を持っているセリフを役者達が制御できないので身体を飛び出してしまい時間が舞台に淀んでしまっているからだ。
白石は日本の母さんだ。 だから違う世界にいる。 パリやヴェネツィアの母さんになって欲しかった。 白石と麻実が漫才のボケとツッコミにみえたのはこれが原因である。
若い4役者たちは身体の存在感が希薄だった。 セリフと身体の関係性をもっと突っ込む必要がある。 演出家の得意なところだし。
円形床と壁はセリフに集中できた。 セリフとの照明の明暗同期も面白い。 音響は馬の蹄以外にもメリハリがあってもいいのでは?
■うれしい悲鳴
■作・演出:広田淳一、出演:ひょっとこ乱舞
■吉祥寺シアター、2012.3.3−11
■
http://hyottoko.sub.jp/ureshii_himei/ ■舞台には階段が三つ延びています。 全員で踊るには狭いのですが、これが制限となりセリフとダンスが空間的に緊密になり集中ある芝居が現前します。 20名強の役者が飛び回りますが整然としています。 照明もこの整然さを助長する切れ味です。
「感度」に着目してるようですがまったく気がつきませんでした。 量は少ないのですが活きのよいセリフはどれも感度十分です。 テロでエレベータに閉じ込められた新郎の身体感覚、緑帽新婦の友達訪問感情(最後は暴走!)は語りと対話の面白さです。
感度の話ではありませんが小劇場が苦手としている政治や職業観を取り込んでいるのも新鮮です。 移植用臓器での天皇と母親の違いも家族からみれば同じです。 組織とルールの関係も目的達成の為に他人の死を手段とするところが誤っています。
盛りだくさんの内容が腐敗分解せずにまとまっていくのも「全員で動く」結果にみえました。 ビールでいうと辛口で切れ味がよいアサヒスーパードライの芝居でした。
■春と修羅
■演出:岡本章、出演:?肉工房
■赤坂レッドシアター、2012.3.7−11
■
http://www.renniku.com/ ■幕が開き真っ暗な舞台に微かな役者の姿を感じながらオノマトペを発するのを聞いていると、言語の創造の瞬間にまさに出会ったような感覚がおそってくる。 ・・しかし直ぐに七人のリズムある科白と動きでなんだか眠くなってしまった。
最後まで薄暗かったこともある。 途中ウツラウツラしてしまったようだ。 だからこれ以上感想が書けない。 「まさに万物全てが消失した廃墟に不思議に浮遊する」感じで劇場を後にした。
錬肉工房・・ 錬の旧漢字がでない
■オルフェゴッコ
■作・演出:小池竹見、出演:双数姉妹
■吉祥寺シアター、2012.3.15−20
■
http://www.duelsisters.com/post/796.html ■竪琴ではなくて大相撲歴代優勝力士名をどれだけ暗記できたかで死んだ妻を取り戻すなんて凄い! いつの時代でも生と死の境界は人間にとって興味ある場所ね。
境界の半死者は意識が「立ち現れる」練習をして最後は主体と客体が分離できなくなり真の死者になっていく。 ある種の哲学的議論のようだけど? でも現代ではこれもゴッコになってしまうということね。
秘書が社長を突き落とす理由がよくわからない。 彼女はマイナスなの? 量は多くないけど色々な言葉が漂っているだけの舞台に見えた。 観客が言葉をこねくり回して方向性を与えないと感動に辿りつけない芝居ね。
しばらく休むとチラシにあったけど英気を養ってまた登場して欲しいわ。
■耳のトンネル
■作・演出・音楽:糸井幸之介、出演:FUKAIPRODUCE羽衣
■こまばアゴラ劇場、2012.3.9−19
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2012/03/hagoromo/ ■オッパイオッパイと役者が叫んでいるのをみてNHKの子供番組かと思った。 人生のコンセプトアルバムを作成するらしい。 12人もの役者の歌と踊り(というか歌の振付)で小さな劇場ははち切れそうだ。 そしてとても楽しい舞台だ。
母との関係・異性への関心・ラジオドラマの宿題・海外旅行・初体験など人生の前半はリアルに描かれている。 物語は断片的だが歌や踊りと同期がとれていて心地よい。
しかし結婚後の後半は舞台の調和が崩れる。 夫婦生活や子供の誕生などに現実感がなくなってくる。 これを補うためか歌が多くなる。 終幕の旅行、そして山での遭難と死は別物語を取って付けたようなストーリである。
海外旅行へ行っても友達ができたかできないかの話をする。 初体験をしていること、オッパイよりお尻のほうがいいと言えること。 経験をとても重要視している台詞だ。 経験がなければ人生のコンセプトアルバムは作れないらしい。
なんとこれが現実舞台のリアルさに影響しているのだ! 後半がツマラナイのは経験の病にかかっているからだ。 それは自由より経験が大事だと思っているから。 芝居にツマラナさが有るとすればこの保守性にある。
■エルナーニ
■指揮:M・アルミリアート、演出:P・L・サマリターニ、出演:A・ミード
■東劇、2012.3.17−23
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_09 ■エルナーニの登場はいつも突飛ね。 だから4幕すべてが起承が無くて転結だけのストーリーにみえるの。
4人の歌唱力は素晴らしいわ。 でも国王カルロとシルヴァの存在感が出過ぎてエルナーニが目立たない。 気弱な性格のせいかも。 エルヴィーラも声を除いてウドの大木のようだし、終幕二人が自死するのも理解できない。 これらが感動の少ない理由ね。
でも30歳ヴェルディの才能、特に老人の描き方など、はたいしたものだと感じる作品だわ。 一人の女に男三人が張りあって、しかも一人は国王だし、初演当時にヒットするのはわかる気がする。 当時の生活の中で観れば最高の娯楽作品ね。
■高野聖
■演出:石川耕士・阪東玉三郎、出演:阪東玉三郎・中村獅童
■109シネマズMM横浜、2012.3.17−31
■
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/19/flier.html ■映画手法が良い方向に動いてくれないようです。 舞台が細かい描写に弱いのはわかりますが、山道の行脚はハイキングのようでシラケますし、夜更けの動物は想像力を萎れさせます。 なぜ舞台上演をそのままにしなかったのでしょうか?
そして女が僧を畜生にしなかった本当の理由が見えてきません。 難しいところですが玉三郎の微かな笑顔が、獅童の言葉が停止したような無関心さが原因かもしれません。 いい線までいってるのですが。
翌朝に男の説明で僧は女の正体を知るのですが、この重要な語りの場面に深みがありません。 ここが全体から剥離しているようにみえるからです。 この正体の雰囲気が物語全体に広がっていなかったためです。 女と動物の関係がペットのような感じですし。
玉三郎は「観終わった後に小説を読んだ時と同じ感想が現れればそれでよい」と言ってましたが、やはり小説とは違った感動を追わないと舞台の良さがでないのではないでしょうか。 これら問題点をどう解決したらよいか考えてしまうような芝居でした。
>>201 舞台に写した3D映像を2Dで撮ってこれを観たからだだめになったんだな
■疫病流行記
■演出:高取英、出演:月蝕歌劇団
■ザムザ阿佐谷、2012.3.21−26
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage27235_1.jpg?1332633417 ■ずいぶんスローなテンポね。 スローだから物語の隙間がよくみえる。 物語と歌の間にも。 しかしその隙間から寺山ワールドへ飛び出せない。 劇団が疲れているようにみえる。 遠くへ行く力が無い。
だから舞台で解説も多すぎる。 寺山の大事なメッセージをマイクを使って役者が演説のように喋るのもシラケルし。 この国がペストに罹っていることを知らないことは問題、でも福島原発の話は現実に引き戻されてしまった。
疫病は面白いテーマだからいくらでも時空を飛ぶことができるのに。 北の無い羅針盤は南へ向かっても結局は元に位置に戻ってしまう。 舞台も同じ。 こんなのいやよ。 もっと遠くへ行きたい!
■IDIOT
■演出:レオニード・アニシモフ、出演:東京ノーヴイ・レパートリシアター
■東京ノーヴイ・レパートリーシアター、2012.2.3−5.27
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage26340_1.jpg?1332633585 ■列車内の青白い光の中の二人を凝視してしまった。 集中できる幕開けである。 そして赤い炎の暖炉に投げ込まれた札束をガーニャが拾えないで失神する場面も息を呑んだ。 観客席が2列で奥行きのない舞台は斑のある暗い光で深さを出している。
小説を知らないとムイシュキンがラゴージンやリザヴェータ、アグラーヤから何故に信頼を得られるのかが不可解なはずである。 しかもセリフをつっかえるムイシュキンを見てセリフも覚えていないのか!とみてしまうだろう。 本当にセリフを閊えたのか?
感動した小説の映画化・舞台化を観るのはとても注意が必要だ。 過去に読んだ小説を思い出し舞台と重ね合わせて一層の感慨に浸ることも可能である、がしかし多くは最悪である。 読んで感動したら観ない、観て感動したら読まないのが原則である。
一部科白の喋り方が面白い。 心の思いをセリフに出す時、急に舞台から降りてしまったような日常的な喋り方になる。 これで観客も舞台から遠ざかってしまい緊張を戻すのに苦労する。 コンパクトにまとまっていてリズムのあるいい芝居だった。
■満ちる
■作:竹内銃一郎、演出:松本修、出演:すまけい、MODE
■座・高円寺1、2012.3.22−31
■
http://www.mode1989.com/archives/chirashi/2012michiru_a.jpg ■前景に枠が掛かっていて映画を見ている感じね。 舞台上の机や椅子が規則正しく並んでいる。 老監督と娘の軸の周りに細かい話を集め過ぎてテレビのホームドラマのようね。 これらの理由で舞台に躍動感が無いのよ。 3.11の影響も。
でも老監督は生き生きしていてとてもいいわ。 キサイと呼ばれていたけど鬼才はパゾリーニよ! 小津や溝口の伝記を読むと強い拘りがあったようだから、この老監督の気持ちもわかる気がする。 B級の拘りだけどね。
老監督が死んだあとから舞台の澱みが消えてきた。 これはチラシにもあったけど演出家は作家を気遣っていたのよ。 終幕には気にしなくなってきた、でも時すでに遅し。
■魚のいない水槽
■作・演出:中村匡克、出演:スポンジ
■サンモールスタジオ、2012.3.23−27
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage_reverse26353_1.jpg?1332889998 ■仕事上で嘘をついていなくても結果として嘘をついたことになる場合が少なからずある。 これを言い訳すると泥沼に落ち込む。 時が解決するまで待つしかない。 これは芝居だから最悪の方向に進み最悪の場面を迎えるが。
役者たちのセリフや動き、服装もしっくりしている。 喋り方に親しみもある。 芝居好きにもみえる。 青年団は理論的だがこの舞台は経験的なリアルさがある。 職業としてのヘアースタイリストや同僚や業者との対話、バイトの話にもそれが滲みでている。
劇的な感動は無いが充実感の有る芝居だった。 ところで席についたらビデオが上映されていた。 茂木健一郎のアハ体験のような映像なので一所懸命見ていたがなにも起らないで幕が開いてしまった。 アハ!
■白雪姫
■作・演出:小池博史、出演:パパ・タラフマラ
■北沢タウンホール、2012.3.29−31
■
http://pappa-tara.com/fes/snow.html ■プレトークで「感じるまま楽しんでもらいたい」と言っていたがその通りの作品である。 日常の雑多な物や事で豊かに装飾している童話劇だ。 コミカルさがとても自然だ。 白に赤や金の衣装も素敵だ。 白雪姫の媚びない動きも親しみが持てる。
身体の拡張を欲張ると無機質性がでてしまう。 だから欲張らない。 このため飛躍できない。 しかしコミカルな道化的世界を進めたため身体の再拡張ができた。 結果として野生の思考に近づいた作品である。 解散公演の中で当作品が一番気に入った。
場内で配られたチラシにもあるようにこの野生への接近をした途端解散することになってしまいとても残念である。 パパ・タラフマラが探していたものがここにあるから。 なぜなら舞台は野生の思考が故郷だから。
■深夜の市長
■作・演出:徳尾浩司、出演:とくお組
■シアタートラム、2012.3.29−4.1
■
http://www.tokuo-gumi.com/midnight.html ■「深夜の市長」と聞けばコクのある物語が期待できます。 チラシも寺に黒服です。 早速行ったのですが、この劇場の席が埋まっていませn。 そんなに不人気なんでしょうか? 芝居はなんとSFでした。
バスに乗ったら数十年前?に戻ってしまった。 そこでは30世紀からやってきた「市長」と言われる人がヤクザどうしを取り仕切っている。 そのあとを主人公が引き継ぐ話です。 過去と未来一人二役で、今流行りのパラレルワールドです。
しかしストーリーは盛り上がりません。 両世界の差異が、特に事や人を、描ききれなかったようです。 両世界のズレが実は核心的なことではなかったかもしれません。 原因は幾つか考えられますが、席を一杯にするには課題がありそうです。
■まほろば
■作:蓬莱竜太、演出:栗山民也
■新国立劇場・小劇場、2012.4.2−4.15
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000440_2.pdf ■雌と女の間のオンナの話である。 オンナはオトコと出会い、性交し、産み、育てる。 哺乳類からの歴史があるから強い。 社会のしきたりが崩れてもへっちゃらである。 このような芝居を観ると元気がでる。
借金1000兆円も少子高齢化も問題ではない。 いくらでも解決案はある。 ハイパーインフレをおこす、大量の移民を受け入れる。 そして新しい関係、新しい国を作ればいいだけのことである。 これがオンナとオトコの歴史というものだ。
政治・経済は直接には触れていないが、観客が上記のように想像していける芝居である。 このような過激さを内蔵している芝居を上演した新国劇を少し見直してしまった。 もちろんヒロコの家族観に戻る可能性があるのもこの芝居が持っている曖昧さだが。
マオは関係性を調整していて舞台にアクセントを与えていた。 タマエは本筋から離れない短いセリフで十分効果がでていたからハバネロやゲームは行き過ぎの感がある。
■夢の教室
■監督:アン・リンセル、出演:P・バウシュ
■ヒューマントラストシネマ有楽町、2012.4.2−4.15
■
http://www.pina-yume.com/ ■観ていながら、いま話題の灘中学校国語の授業「銀の匙」を思い出しちゃった。 一つの作品をよみきると全体がみえる。 若者たちが練習後「話すのが楽になった」と言っていたけど、「コンタクトホーフ」だと特に他者への接し方が変わるはず。
この作品は「自分を解放する」力がぎっしり詰まっているから余計にね。 終幕の本番場面はぎこちなかったけれど卒直な踊りでとても新鮮だった。 ピナの中で一番好きな作品だからこれを題材にしていると知った時はちょっと心配だったけどね。
ところでアンは風景の撮り方がヴェンダース
>>199とは違うわね。 走っているモノレールが写実そのもの。 ヴッパダール市内を旅行で歩いている感じよ。 ヴェンダースのモノレールは意識の作り物だから。
■騙り
■作:P・P・パゾリーニ、演出:川村毅、ティーファクトリー
■座高円寺、2012.4.18−22
■
http://www.tfactory.jp/data/katari.shtml ■父と息子の関係にパゾリーニ色が上手く重なっているから舞台に厚みがでているわ。 これで背景に湿度のあるイタリアの夏がもっと表現できていれば最高よ。
舞台の父親、手塚とおるは「レオン」のG・オールドマンにみえたり、画家に転身した時の横尾忠則であったり、神経症を演じる俳優や著名人たちを思い起こさせてくれてるわね。 とても似合っていた。
川村毅はパゾリーニに一番ピッタリする気がしてきたの。 それはパゾリーニに欠けている蒸し暑いユーモアがあるからよ。 これを持って生き返ったパゾリーニって素敵だと思うわ。 でも高橋由一の「鮭」では洒落にならない!
チラシを見たら「次は「ソドムの市」をやってくれ・・」って。 これはパゾリーニの最高傑作。 なぜなら父が「次の戦争のことを考える」その先のことが語られるからよ。 だから彼は殺されてしまったの。 この作品は大事にしまっておきたいから上演しないでネ。
■DANCE TO THE FUTURE 2012
■振付:平山素子、出演:新国立劇場バレエ団
■新国立劇場・中劇場、2012.4.21−22
■
http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/pdf/20000461.pdf ■題名の「Ag +G」は原曲から来ているようだ。 ヴァイオリンはダンサーと物語をあからさまに選ぶ。 金属的衣装が錆ついてしまうような音楽だ。 重たい雰囲気も感じられるが、男性ダンサーの体格の良さや頭巾を被ったのも一因かもしれない。
倒れ方や彷徨い歩く姿など、日常よくみる振付で構成されている。 「Butterfly」はこれに青春が加わり音楽は軽くなっている。 しかしニ作品とも非日常へ向かわない。 このため観ていて肉体を解放できない。
最後の「兵士の物語」は生演奏がとてもいい。 しかし「ストランヴィンスキ・イブニング」のような物語に感動する強さがみられない。 三作とも疲労感のある後味だった。 演出家の言っているコンセプトが霞んでしまっている。
平山素子の演出はとても複雑だから、この疲労感が誰がどこから出しているか分からない。 ひょっとして観客のオレ!?
■負傷者16人
■作:エリアム・クライエム、演出:宮田慶子
■新国立劇場・小劇場、2012.4.23−5・20
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000441.pdf ■過程が見えないで結論だけで成り立っている芝居ね。 マフムードがパン屋で働いている、ノラがマフムードを愛している、・・・、あらゆる行動がいつのまにか完了しているの。 彼らの心の推移を省いているからまるで事務作業を見ているようだわ。
そして多くの場面に対話が無いのよ。 独り言のようにも聞こえたしオリザ風に言えばこれは会話ね。 ハンスがセリフを忘れているような箇所があったようだけどこれは演出なのかしら?
但しソーニャにナチスに協力したことを話す箇所、マフムードに爆弾テロの指摘をした箇所、この二場面は過程も不要だから少し緊張したけど。 でもこのためだけに2時間以上も演じたようにみえる。
舞台ではパン屋がパン屋に見えない。 職人の働く場所には見えないわ。 映像を被せた場面は冴えていたけど。 全体を通して4人の生活の匂いがまったく感じられない。 パレスチナ問題は一年ぶり
>>40だけど、より過激により遠くに行ってしまった感じよ。
■自慢の息子
■作・演出:松井周、出演:サンプル
■こまばアゴラ劇場、2012.4.20−5・6
■
http://www.samplenet.org/07/jiman03.jpg ■いつもと比べるとちょっと狭い劇場ですね。 今回は関係を重視しているので狭くしたのでしょうか? 他の作品は存在にも傾いていたから広い舞台でも様になっていたようです。
息子が母から、その逆もあり、逃げられない関係です。 兄と妹の関係も同じです。 隣の女も多分死んだ息子から離れられないのでしょう。 昔からよくあることですが、現代はこれに介入する他者がいないので致命的になってしまうので厄介です。
「誰かの物語に組み込まれたり、自分の物語をかすめ取られる」ことを受け入れてもよいとおもいます。 この為にもっと気軽に人間関係を創りあげても、例えば家族は別に血の繋がりがなくても、よいのではないか?
終幕に三組の新カップルが生まれたのは他者への感度を上げて気軽さを受け入れた結果とみました。 少しばかり安堵しました。 今回は人間関係の境界線を彷徨っている舞台のため久しぶりにいろいろ考えてしまいました。
■へちま
■作・演出:三谷智子、出演:文月堂
■下北沢OFFOFFシアター、2012.4.24−30
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage26206_1.jpg?1335612591 ■喪服での幕開きは去年の流行である。 人物関係が見えない。 配られたチラシを後で覗いたらやはり相関図が出ていた。 それだけ複雑である。 これはオカズにするためである。 そして舞台はチェーホフの末生りのような三人姉妹が登場する。
三女の結婚の話である。 長女と次女の別れ話がオマケで付いている。 複雑家系をオカズにして男と女の日常に毛の生えた話がこれでもか!コレデモカ!と続く。 しかも面白い。 テレビのホームドラマの半年分を1時間半に凝縮した感じだ。
三女の婚約者が長女に許しを請うセリフ、ハッキリ覚えていないが、「生まれては死んでいく生き物だからこそ、生きている短い間は愛を大事にしたい」が演出家の一番言いたい場面である。 なぜなら長女であり演出家である三谷が反論しないからだ。
婚約者は海星の研究をしているせいか背景には輪廻転生もみえる。 観終わった後は、良い意味でも悪い意味でも、脳味噌が軽くなってしまう芝居であった。 文月堂は二回目
>>36の登場になる。
それにしても「猿の惑星・創世記」は酷い出来だな
スターウォーズのような綺麗な輪廻転生を描けないところが猿の弱点だね
■マノン
■指揮:F・ルイージ、演出:L・ペリー、出演:A・ネトレプコ、P・ベチャワ
■東劇、2012.5.5−11
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_10 ■マノンの艶めかしさは地で行く演技のようだったわ。 感情を表に出さない娼婦のようで凄みが出ていた。 これ以上太ったら惨めになる肉体をあらわにして男を虜にしていく姿は頼もしいくらいよ。 いつもベット付だしね。
目尻を下げ過ぎたサッカー選手三浦知良のような神経質のデ・グリュー、スケベ老人ギョー、賭博好きなレスコー、皆個性があるから歌がかすんでしまったわ。 ルイージが重たくないオケにしたいと言ってたから余計そうね。
そしてこの舞台の欠点はマノンやデ・グリューに同等の敵がいないことよ。 だからドキドキはしないの。 多分原作が悪いのよ。 マノンは六回着替えたけどサン・シュルビス教会の白そしてホテル・トランシルバニアの賭博場での桃のドレスが最高。
舞台背景は壁や鉄の階段、傾斜した廊下、遠近のある波止場など凝っているけどニューヨーク的な風景で物語にしっくり来なかったわ。 観終わったあとは出演者の姿形や性格しか覚えていないのもニューヨーク的なオペラね。
■市川亀治郎大博覧会
■ヒカリエホール、2012.4.28−5.9
■
http://www.kamehaku.jp/ ■俳優の顔と名前は覚えたことがない。 しかし亀治郎と萬斎の二人は名前で芝居を、現代劇が多いが、観に行くことがよくある。 なぜならこの二人の舞台は身体というものをいつも新しく感じ考えさせてくれるから。
6月に猿之助を襲名するようである。 これで歌舞伎が忙しくなると他ジャンルへの出演が少なくなるかな? 「前例がなければ、つくればいい」をこれ以上の銘として新しい分野を切り開いていって欲しいな。
大博覧会はヒカリエの見学のついでに寄ったのだが、このヒカリエで大人の渋谷を取り戻したいということらしい。 地下3階から9階まで隈なく歩いたが30代をターゲットにしているようだ。 しかし劇場やレストランを増やしただけでは大人は集まらない。
東横文化に始まり、セゾン文化、次に東急文化、そして若者文化の渋谷だが、一つの思想を持った広がりが地域として定着しなければ新しい渋谷文化になれない。 ヒカリエだけではまだ何も見えない。
■軍鶏307
■演出:東憲司、出演:劇団桟敷童子
■すみだパークスタジオ、2012.5.11−28
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage27140_1.jpg?1336866084 ■戦後50年代から60年前半の日本映画から幾つかの場面を拾いだして繋げたような芝居です。 街に流れ着いたヤクザや闇医者、女の生き方を描いています。 当時の映画のダイジェスト版を観ている感じです。 だからリアルさや深みが中途半端です。
メンドリが息子の徴兵に抵抗しますがその理由が語られません。 ヤクザが逃げるのを手伝う場面もそうです。 この時代の逃げる行為は重たいテーマですが、逃げろや逃げろと言っているだけです。 戯曲賞候補が受賞できなかった理由はここにあります。
この芝居で戦後が時代劇になったことを確認しました。 チャンバラ映画の延長ですが戦後を扱うとこうなるのでしょう。 舞台は建物の壁や窓で平面的ですが、時々照明だけにして深みを与え単調化を防いでいます。 役者の熱演が清々しかったですね。
■ミッション
■作:前川知大、演出:小川絵梨子、出演:イキウメ
■シアタートラム、2012.5.11−27
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage27252_1.jpg?1336866245 ■舞台は宗教の始原を扱っているようにみえるわ。 同時に「ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスでトルネードが起こる」を思い出したの。 宗教の始原と物理学のカオス理論は連続よ。 だから不思議な緊張感がでて芝居が成り立つのね。
この感じの舞台はイキウメでは初めてだわ。 前川知大の原作の面白さが伝わってきたわよ。 演出が違う人になったから? それなら今回のように演出を他者に任せるのが劇団の新しいミッションかもしれない。
ところで鉄の棒を舞台上で移動した意味がよくわからなかったわ。 建屋や家具が変化したことなの? 床が坂のように起伏があったのは素敵な形だったけど、役者の動きはこれを上手に利用していなかったようにみえる。
■椿姫
■指揮:F・ルイージ、演出:W・デッカ、出演:N・デセイ、M・ポレンザーニ、D・ホヴォロストフスキ
■新宿ピカデリ、2012.5.12−18
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/1112/#program_11 ■ナタリ・デセイは声・顔・体・演技の総てが枯れてきている感じね。 声を外してしまいインタビューで謝っていたけど緊張感を持って歌っていた。 でも最後まで皺を寄せて表情が真剣過ぎるわ。 もっと体力をつけなきゃ。 そうすれば皺が取れるわよ。
オペラってキャストでガラリと変わるから大変ね。 アルフレードは坊ちゃん過ぎるし、父親は自信が有り過ぎるし・・。 ヴィオレッタ一人では泣けるオペラに到達できない。 少しばかりズレていたけど、個性のぶつかり合いはそれなりに楽しかった。
舞台は楕円を基本とした宇宙観が表現されヴィオレッタの苦悩を無にするような感じね。 大きな時計も印象的だし。 でもコロスの仮面がダメ。 これは漫画ね。 あと主治医の存在が意味深過ぎる。 この二点は突飛すぎて観客の集中度を弱くしてしまう。
これで2011年度のMET は総て終了。 映画だと気軽に観られるのがいいわね。 P・グラスの「サティアグラハ」を見逃したのは痛かったけど。 ・・来年も期待しましょ。
■歌旅
■出演:中島みゆき
■ワーナー・マイカル・シネマズ、2012.5.12−25
■
http://utatabi-movie.jp/top.php ■2007年コンサートツアーでのライブ作品。 歌の場面しか無くて少しガッカリね。 でも20曲近くも歌っているの。
衣装は最初に赤のドレス、次に白のブラウスと黒タイツ黒ベスト、そして白のドレス、最後はジーパンに白のカバーオール、終曲近くにはカバーオールを脱いで黒のタンクトップよ。
舞台は寂びれて何も無い工場の中、汚くなったガラス窓を背景にしているようでみゆきに正にピッタリね。 楽器は7名から15名、コーラスは3名よ。 途中、歌う横で犬が寝ていたようだけど??
最初は真面目で年季の入った歌手、女学生を成長させたような歌手だったけど、白のドレス以降は化粧も薄くしてノッてきた感じね。 振付も自然体になって動きもよくなったわ。
このツアーのテーマは聞いていないけど、舞台で彼女が観客に向かって「同じ時代に生まれてありがとう」の言葉にすべてが凝縮されているわね。 楽しかったわ。
■燕のいる駅
■作・演出:土田英生
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2012.5.18−27
■
http://image.corich.jp/stage/img_stage/l/stage26500_1.jpg?1337469032 ■開幕からつまらない科白が続く。 しかしどうも変だ。 ・・なんと世界の終わりの話だとわかった! タイトルからでは想像がつかない。 後半SFを導入した理由もわかった。 死が近づいた時になにをなすべきか? この問いを提出する手段としてである。
多くは老衰や病気で肉体的精神的にマイッテしまった後に死が来る。 だから死の直前には死と対話ができない。 だからシラフで死を向かえる場合は芝居の題材になる。 これがそれだ。 身近な男と女が想いを打ち明けて行動を取るというのが答えである。
水口が真田を、有本が高島を、好きだったことを打ち明けて死に向かっていく。 終幕では前半のつまらない科白場面がとても懐かしく感じた。
■パリ・オペラ座のすべて
■監督:F・ワイズマン
■
http://www.youtube.com/watch?v=p4VI4F8UHIc ■「アメリカン・バレエ・シアターの世界」は長すぎる感じだったけど、これも同じだわ。 飽きてきたら遠くのモンマルトルでも見てくれ、そしてダンスに興味があれば3時間くらいは許してくれ、ということね。
コーチとダンサーの練習時の対話と芸術監督まわりの会議しか音声が入っていないの。 監督のコンテンポラリの位置づけやダンサーの年金制度のことなど断片的な言葉だけ。 だから余計強く残るのね。
ワイズマンは偉大なドキュメンタリー作家と言われているけどわかる気がする。 素材を大事にして編集も巧いけど記録映画の域を出ていないのが残念ね。 「コメディ・フランセーズ演じられた愛」を観たいけれどレンタルでは取り扱っていないのかしら?
■婦獄百景
■作・演出:高井浩子、出演:東京タンバリン
■吉祥寺シアター、2012.5.18−27
■
http://tanbarin.sunnyday.jp/fugaku100/index.html ■舞台や役者の動きはシンプルだけど目まぐるしく動くため複雑にみえます。 ストーリーも時間的な繰り返しがあります。 四方の席を平等にみせるため回転舞台を作り、役者も四方へ満遍なくポーズを取ります。 とても技工を凝らした計算尽くの舞台です。
会社員と画家の兄弟とその家族や知人の日常生活を描いています。 親戚間の借金や母の介護、仕事での出来事や交際などです。 とても現実的で観ている方も身につまされる場面が多くあります。
しかしこのような芝居は数回観れば飽きるのではないでしょうか? 最後には芝居を観に行く理由まで計算尽くになってしまいそうです。 芝居に期待する決定的なものが避けられているからです。
■プッチーニに挑む
■監督:飯塚俊男
■東劇、2012.5.19−
■
http://pandoraez.exblog.jp/17417872 ■オペラ「蝶々夫人」で舞台上の誤った日本文化を正すため岡村喬生が奔走する記録映画。 目標は2011年のプッチーニ・フェスティバルでの上演よ。
でも作品の改訂が著作権法にひっかかる、日本人歌手が労働協約違反で歌えない、等々難題が降りかかるの。 前者は芸術家なら必修の知識だし、後者はイタリア留学もしているのに分からないとは情けないわ。 それと彼が芸大出身でないこともね。
たぶん業界の支援がなかったはず。 新国立劇場を批判していたけど彼の心情がわかるわ。 そして岡村喬生のオッチョコチョイの性格も起因しているようね。 慎重な運転の市バスとの接触事故がそれを証明しているわ。
最後のフェスティバルでの公演が無事に終了した時は観ていてもホッとした。 でも一番の問題は100年前の作品をその国の文化が正しく反映されていないといって変更することが良いのか?ということね。
■洗い清められ
■作:サラ・ケイン、演出:川口智子
■SPACE EDGE、2012.5.26−27
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27927_1.jpg?1338074075 ■幅が狭く奥行きのある倉庫での公演です。 土が撒かれていて小さな水溜まりもある舞台、そして背景が半透明のトタンで陽の光が眩しいくらいです。 マチネですから。 予備知識がないのでストーリーもわかりません。
舞台との距離が3,4mのため役者の肉体が、土や水・火そして食物まで付着して、そのまま伝わってきます。 厳しさのあるセリフや動きばかりか歌や踊りもあり、ピナ・バウシュの「春の祭典」をコンパクトに芝居化したようです。
これは芝居なのかダンスなのかそれとも儀式なのか? このような舞台はとても衝撃力があります。 舞台を細かくジャンル分けする以前の始原力が発生するからでしょう。 観終わってからも身体が満足していることがわかります。
しかし包丁が入っていない素材の日本料理を食べた時のような違和感もあります。 これを昇華する何かが欲しいところです。 能や歌舞伎が発生した時もこのような舞台ではないかと想像してしまいました。
■PHU顆粒
■作・演出:宮川賢、出演:劇団ビタミン大使「ABC」
■スペース107、2012.5.22−27
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27297_1.jpg?1338074217 ■PHU顆粒とはヒト用冬眠薬である。 主人公がこれを服用し1年、20年、300年と冬眠する話だ。 手塚治虫「火の鳥」の劣化版のような物語である。 冬眠は時間を飛び越えて長生きできる、つまりは不死とほぼ同義語として使っているからだ。
舞台は安っぽい畳の居間に卓袱台。 冬眠から目が覚めた時点での家族や妻、世間との関係を面白おかしく描いていく。 そして覚めるごとに知っている人が減っていく。 300年後に妻が書いた日記を読んだ妻に似ている人と主人公が結ばれる話である。
よくあるストーリであるが笑いが多く流れのよい舞台なので楽しく観られた。 しかし終幕直前にPHU顆粒の効用の話がとても長く続いた。 何故このような寄り道をしたのか理解できない。 演出家自身の宣伝か? これを省いて90分以内にまとめてくれ。
■キツネの嫁入
■作・演出:吉田小夏、出演:青☆組
■こまばアゴラ劇場、2012.5.25−6.3
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage26650_1.jpg?1338159156 ■ツマラナイ芝居でした。 それは舞台の流れが場面単位ごとで途切れてしまうからです。 大きな流れとなって繋がっていかない。 場面場面で詩的効果を狙い過ぎたことが裏目に出たのではないでしょうか。
そして役者達が気遣い過ぎています。 かつ皆がオドオドし過ぎです。 なにか裏に隠しごとがあるのでは?と考えながら見ていました。 もっと素直に演じたほうが気持ちがよいとおもいます。 ストーリーは面白いのですから。
■どうしても地味
■演出:古川貴義、出演:箱庭円舞曲
■下北沢・駅前劇場、2012.5.16−27
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27419_1.jpg?1338159327 ■舞台は畳の居間に卓袱台。 またチャブダイである。 どの劇団も同じ舞台構成だ。 自宅で畳と卓袱台を使っている客ならこの舞台を見てゲンナリするかもしれない。 これで役者が喪服で登場したらどうしようか?など緊張場面を考えながら席についた。
線香花火の製造を話に添えて家族と親戚・町内の人間模様が描かれている。 寺の住職が登場するので仏教用語がセリフに多いので舞台に深みがでているようだ。 各場面のフェードアウトは味があったがもっと研究すれば一層良くなるはずだ。
はたして終幕に喪服姿が・・
>>240 今の小劇団の特徴ですね。 これには3点あります。
1.舞台は畳の居間に卓袱台
2.喪服姿が登場
3.SFを手段として利用
貧しい経験と少ない費用を考えると「1」から逃げられません。 ですから「2」の冠婚葬祭が唯一の劇的場面になります。 しかも物語作成能力不足から「3」を利用して誤魔化すことが多々あります。 女性演出家の7割はこの構成でしょう。
でも日常生活を真面目にそして面白く描くので緊張や笑いがあります。 もちろん別れや死があるので寂しさや悲しさもです。 たまに素晴らしい作品にも出会えます。 そして「幸せとはなんでしょうか?」という科白がオマケで付いてくることもよくあります。
漫画やテレビドラマでも出来ることを舞台にのせています。 もはや社会や家族構成が根底から変わらないと芝居も変われないでしょう。 芝居は身体や社会の変革を現前させるのではなく、現状を維持するために舞台で今を再現しているだけですから。
■リリオム
■作:モルナール・フェレンツ、演出:松居大悟
■青山円形劇場、2012.5.25−6.3
■
http://www.nelke.co.jp/stage/liliom/ ■原作は読んだことがないの。 芝居向きのストーリーね。 でもリリオムの激しいセリフが流れていくだけの舞台。 彼のぶっきらぼうな性格が心の有り様を隠している。 性格が違うけどユリの心も見えないの。
ユリは「夫は優しかった」と死者リリオムに話す場面があるけど真意がわからない。 子供が側にいたから? もっと沢山の理由があるはずなのに見えてこない。 それは観客がここまでの二人の心の思いを積み重ねることができなかったからよ。
叩かれても痛くないことは人生の不思議を感じた時にはよくあるはず。 でもリリオムは二人に大事なことを教えたのに死者の国へ戻ってジャッジに説明ができない。 ジャッジも観客と同じ位置にいるの。
リリオムとユリの心の奥底を隠し続けた舞台だった。 このように感じたのは原作にあるのか?演出なのか?俳優の限界なのか?わからない。 だから素直で出来の良い高校演劇をみているようだったわ。
■サロメ
■作:O・ワイルド、演出:宮本亜門
■新国立劇場・中劇場、2012.5.31−6.17
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/salome/ ■地下に牢獄、地上が居間、そして観客が居間を見下ろせるように天上に鏡が掛かっている。 三層構造の舞台だ。 周りは堀で観客席近くは城壁である。 城壁でも役者が動きまわる。 中劇場のツマラナイ広さを解消している面白い構造である。
サロメとヨカナーンの対話場面は見応えがあった。 リズムがあり耳に卒直に入る台詞がいい。 ヨカナーンは不思議感がでていた。 預言もきっちりと聞き取れた。
しかしヨカナーンの首をめぐってのヘロデとサロメの対話は物足りない。 ヘロデが真珠やトパーズ、鳥や土地など贈与の言葉に満ちているのに、サロメは首が欲しいの一言だけだから。 これから深淵に向かうサロメにとっては休み過ぎだ。
サロメは子供のように可愛くて素敵だ。 しかしイノセンスから発散する感動は残念ながら無い。 それは無邪気の中にある残酷が機械的だからである。 この種の無邪気さは芝居として成立し難い。 並の演出では乗り越えられない。
■南部高速道路
■作:フリオ・コルタサル、演出:長塚圭史
■シアタートラム、2012.6.4−24
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_t_120604_nanbukousokudouro_l_pm_poster_2.jpg ■高速道路で渋滞に巻き込まれた人たちの話です。 なんと言ったらよいのか? 途中何回も席を立ちたくなりました。 役者の会話にのれない。 被災地の人々に重ね合わせることはできましたが。
このような芝居を見るととても不安になります。 なにか重大な見落としがあってツマラナイのか? ということでプログラムを買ってしまいました。 稽古中の面白い話が載っています。 そしてなんと非日常から日常への移行を舞台化しているようです。
この芝居は<全てが日常>または<全てが非日常>のどちらか一方のためツマラナイのでは? 動き出した車が再び出会わないところで終幕になりますが、これも切り替わらないで次なる日常(又は非日常)がやってきたようにみえました。
ところでプログラムはペーパーナイフを使うように綴じられていたので思いがけないプレゼントを貰った気分でした。
■毒猿
■作:大沢在昌、演出:鴨下信一、出演:白石加代子
■岩波ホール他、2012.5.26−
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27350_1.jpg?1339198543 ■上演が2時間半もあるので白石は最初から飛ばしている。 これでも作者は今回のために原作を1/4に縮めたそうである。 言葉の量が多くて息もつかせないが、物語が深まって行かないのは縮めたためかな?
語りは銃撃戦や手榴弾のアクション場面に弱い。 警察やヤクザの職業としての死は物語になり難い。 ハードボイルドもよいがミステリーやサスペンスの濃いものが似合うはずだ。 観客席が半分しか埋まっていなかったのはこれが不足していたからである。
■ロミオとジュリエット
■作:W・シェイクスピア、演出:オリヴィエ・ピィ、出演:パリ・オデオン座
■静岡芸術劇場、2012.6.9−10
■
http://www.spac.or.jp/f12romeo.html ■ジュリエット役が替わったのは残念ね。 やっぱピチピチしてないと。 字幕は単語を並べただけ、フランス語はわからない、しかも衣装は現代的、だから最初は芝居の周りをウロウロしてしまった。 でも少しずつ舞台が近づいてきたわ。
観ていてハムレットと同じリズムのある芝居だとわかったの。 シェイクスピアが持っているリズムね。 字幕にもかかわらず疲れたような快感を舞台からもらえるの。 そして猥雑さがあるから仏語がわかったら新しい身体感覚に出会えたかも。
この芝居を日本語で上演して欲しいわ、シェイクスピアのリズムでね。 ここでのオデオン座は二度目。 「小市民の結婚式」は目眩のする素晴らしい舞台だったのを覚えている。 ピィになってからより密になってるからこれからもオデオンは期待できそうね。
■藪原検校
■作:井上ひさし、演出:栗山民也、出演:野村萬斎、秋山菜津子、
■世田谷パブリックシアター、2012.6.12−7.1
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_p_120612_yabuhara_l_pm_poster_2.jpg ■太夫語りの劇中劇。 しかし構造は悪漢出世物語でいたって単純。 これも井上ひさしの初期作品ということで取り敢えず納得。 この単純構造を萬斎の盲の身体力で跳ね返す! 検校のことはこの芝居で初めて知りました。
盲太夫の語りは物語背景を知る上では必要ですが芝居の面白さがちょっと減りました。 解説的過ぎるからです。 しかし一番は杉の市が聞いた日本橋周辺の声や音の解説の部分です。 これで杉の市の聴覚がカラダで理解できました。
いつもの歌は少し寂しいですね。 ギターはよかった。 多分これは舞台が天上高く寸胴だからです。 しかも囲いがある。 このため声が拡散したのが理由です。 この劇場は舞台上の声や音が発散する欠点を初めから持っているから余計です。
しかし藪原検校になった杉の市が神社でお市に見つかり死刑になる終幕はあっけないですね。 これだけ悪さを積み上げてきたのにもったいない。 ところで萬斎は日本近世時代の舞台では水を得た魚のようでした。 やはり西洋が背景とは違いがでます。
カーテンコールでも萬斎だけ杉の市顔で挨拶をしたので笑っちゃいました。 他役者は通夜の席での顔で挨拶していましたが自信がなかったのでしょうか? 井上劇の役者はもっと笑顔で幕を下ろしてほしいですね。
■宮本武蔵
■作・演出:前田司郎、出演:五反田団
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2012.6.8−17
■
http://mitaka.jpn.org/ticket/1206080/flyer.pdf ■子供の性格の一部をそのまま引きずってしまったような武蔵だわ。 他人と付合う距離が分からないの。 正規の剣術なんて関係無い。 だから背後から切る、寝ているところを石で殺す、なんでも有りね。 太宰治の小説に登場させても様になる武蔵よ。
しかもすべての役者が同類なの。 セリフも途切れ途切れで指示代名詞も多く文章の体をなしていない。 今の人間関係をいい線で誇張しているから観客がくすくす笑うわけね。 でもこの独特なセリフでは1シーンが長すぎる感じがする。
だから続けてみていると飽きてしまうの。 場面を短くして切り替えを早くするとずっと良くなるわ。 前半は今の展開速度でいいけど少しずつ早めていくと面白い舞台になるはず。 そして上演時間を1時間半までに縮めることね。
■月の岬
■作:松田正隆、演出:平田オリザ、出演:青年団
■座高円寺、2012.6.8−17
■
http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=647 ■小さな事件が一杯の物語ですね。 先生と生徒、学生時代と結婚、姉の存在、地域の噂、流産、駈落ち、このスレでも話題の卓袱台に喪服の舞台、・・。 でもこれらの出来事に古さが漂っています。 古さを感じるのはオリザ調と合わないせいです。
ストーリーに人生の迷いや生活の匂いが強すぎるからです。 水と油ですね。 この差異が特異のリアルを遠ざけてしまった。 終幕の清川の妻と娘の登場は突飛でしたが、喪服姿で行方不明の二人をセリフも少なくやり過ごした所は面目を保ちました。
21世紀になってまだ10年しか過ぎていない。 でも世界はとても速く進んでいます。 これにもついていけなかった。 1997年に観たら違った感想を持ったかしれません。 2012年の今、演出家もこの作品をどうしてよいのかわからなかったんでしょう。
「新しい古典になれ」とチラシに書いてあったけど上の二つの古さが邪魔をしています。 作者が演出をやるしかない。
■フラメンコ・フラメンコ
■監督:カルロス・サウラ
■BUNKAMURAル・シネマ他、2012.2.11−
■
http://www.flamenco-flamenco.com/ ■20曲以上を寄せ集めた映像です。 どこかのスタジオで録音録画したようです。 1曲毎に出演者や背景が変わります。 余所
行きの顔で演奏し歌い踊ります。 全体が中途半端な感じで、作品の目的がよくみえません。
1曲ごとが丁寧に撮れていません。 初めと終わりが途切れている、カンテやトケの構成がわからないで始まる、顔や手・足のアップが多く全体を映す場面が少ない、背景の絵画・ポスター・写真などが強すぎて踊りや歌に集中できない、などなど。
これは素晴らしいという場面が数カ所あります。 多分役者は一流なのでしょう。 どうしようもない監督ですね。 もったいないことです。 結局は仲間内だけで楽しむことができるローカルな作品です。
■唖女
■作:岸田理生、演出:千賀ゆう子
■こまばアゴラ劇場、2012.6.22−24
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2012/06/RioFes/#a_01 ■役者の切れのある身体や声は観客にきっちり届きます。 チェロの即興的リズムも加わり、忙しさがありますが淡々とした舞台です。 これに唖女の俯瞰の位置が加わります。 しかし散らばっている感動の破片を上手く集められないような舞台です。
セリフ自身に強さが無いのも原因の一つかもしれません。 しかも保守的に感じます。 多分女性が持っている生物的な保守性です。 このセリフが役者の心を挑発しなかったのです。
余談ですが芝居を観る前日にラジオで「よだかの星」の朗読をやっていました。 たった2分間の、よだかが甲虫を食べる部分だけでしたが身震いがするほどの感動が押し寄せてきたのです。
朗読は経験に裏打ちされた緻密な方法論を持っていないと真の感動が伝わりません。 舞台を観ながらラジオの事を思い出していました。 秋の「平家物語」は楽しみにしています。
■忘れな草
■作:岸田理生、演出:柴崎正道
■こまばアゴラ劇場、2012.6.26−29
■
http://www.kirino.net/wasurenagusa.html ■背景の明治時代がとても面白く描かれている。 どこかで見たことのある東京の風景、いつもの料理や驚きの料理、聞いたことのある変な歌。 そして役者たちの身体は安定感が有り豊かさを持っている。 密度の濃いしかも計算された舞台ね。
でもこの演技の巧さとルルの若さの差が大きすぎて男殺しの理由を隠してしまったの。 なぜ男が死んでいったのかが見えない。 ルルはもっと妖しさが欲しかった。 でも理由や希望は不要ね。 舞台をそのまま受入れて楽しめる芝居だから。
■温室
■作:ハロルド・ピンター、演出:深津篤史
■新国立劇場・小劇場、2012.6.26−7.16
■
http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000443.pdf ■赤のオフィス家具が黒に映えて素晴らしいわ。 客席は両側にあってなんと回り舞台。 照明は立体感ある白系で場内の無機質に膨らみを与えている。 観てすぐに浮かんだのは「1984年」と「イワン・デニーソヴィチの一日」。 天井にスピーカもあるし。
だから所長のルートも他の人物も管理を意識したウラのあるネアカのような喋り方。 床が回ると違った角度で役者をみるから無機質の背景とマッチして不思議なしかも目眩のする舞台が現れるの。 カッツ嬢もセクシーで素敵ね。
でも専門職員と一般職員の違いを強調し過ぎているのに背景の組織自体がよくみえない。 専門職員がギブスを除いて殺されてしまった?のもよくわからない。 国家行政の硬直した組織と働く職員の私利私欲の滑稽さを描いているのはわかるけど。
サンタクロースの仮面はジャック・ニコルソンのホラー気分があったし、緊張感ある美しさと意味不明のストーリーがピタリと一致した舞台で面白かったわ。 それにしてもピンターは何を考えてるの? ベケットに社会性をプラスした感じね。
■絶交わる子、ポンッ
■振付:康本雅子
■シアタートラム、2012.6.28−7.1
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27941_1.jpg?1340924553 ■康本はいつも隅田川の向こうで踊っている。 隅田川越えは精神的に遠い。 だから会う機会が少ない。 久しぶりである。 このため康本の顔を忘れてしまった。 観ていてやっと思い出す。 裏女番長という感じだ。
そしていつもの雑種の振付、これがとてもいい。 素人が玄人になって踊りをしているようで面白い。 日常生活を延長した動きである。 腹の上にのる、手を叩く、引きずり回す、蹴っ飛ばす、絡み合う、股をひろげる、絡みつく、寝そべる、・・。
そして少しセクシイである。 これが隅田川下町の踊りである。 久しぶりに楽しんだ。 しかしこの劇場の凸型舞台がダンサーの動きを邪魔していた。 今回は舞台の角が特に目障りだった。 日本の劇場建築は未熟が一杯だ。
■鳥よ鳥よ青い鳥よ
■作:岸田理生、演出:小松明人
■こまばアゴラ劇場、2012.7.1−4
■
http://www.komaba-agora.com/line_up/2012/06/RioFes/#a_03 ■選曲がとてもユニークですね。 ボレロやショパン?、サティなどセリフと拮抗するかのような曲だからです。 これで盛り上がる場面もありましたが多くは違和感が残りました。
セリフの一部に普段使わない単語が散りばめられていたようです。 観ていて引っ掛かってしまいましたが原作がこうなのでしょうか? 芝居から離れ現実に戻されて言葉を反復してしまいました。
以上の二つが異化として現れましたが効果としてはイマイチです。 たとえばミニマムな曲にしたらセリフが織物の柄のように浮かび上がり集中できたのではないでしょうか?
気に入った場面は前半の「泥鰌汁」、後半の「葡萄」と「骨」です。 セリフや身体、音楽など舞台が一つにまとまっていたからでしょう。 チブリ語も言語的強さがありません。 言葉の問題を直に論じているので難しさのある芝居にみえました。
■高き彼物
■作・演出:マキノノゾミ
■吉祥寺シアタ、2012.7.4−10
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27081_1.jpg?1341530129 ■このような状況で先生と聞けば漱石の「こころ」を思い浮かべてしまう。 比較するのは野暮だが、なんと先生の秘密は同性愛的な事件であった。 しかも歳を重ねれば笑って済ませるような内容である。 大人気無いと言えばそれまでだが。
この芝居の面白さは次の点にある。 一つは二人の女性、猪原智子と野村市恵の日常生活や事件などで的確な行動をみせてくれることである。 不甲斐ない男性群をリードし無理なく熟れた対応をしていた。
もう一つはココロの秘密を他者にありのままに話すということである。 祖父に指摘されてはいたが猪原正義と市恵がお互いに好きだったことや、事件内容を正義や片山仁志が率直に告白する場面である。
どちらもタイミングが大事であるが、急いだ舞台でもまとまっていた。 そしてこの二つを高校生藤井秀一が他者の熱い身体を通して体験することだろう。 秀一が人生を社会を再び肯定すると確信が持てる。 だから観客は満足して劇場を後にできるのだ。
■朝がある
■作・演出:柴幸男
■三鷹市芸術文化センタ・星のホール、2012.6.29−7.8
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage27385_1.jpg?1341530300 ■舞台は女生徒の朝の生活をフーガのように語っていきます。 「わが星」
>>62の続編ですね。 でも複数の語りから一つの語りに芝居を変化させています。 一人芝居ですから。
セリフに数値が多いのですが、これを聞くと舞台は見ていても頭の中はその値の広さや大きさを考えてしまいます。 この感覚を持って目の前の舞台をみると新しい世界が見えてくるのです。 数値のセリフってとても威力がありますね。
ところで「わが星」では複数の身体から発するリズムや共鳴がありました。 引換に一人芝居は言葉が前面に出てより澄んだ詩の世界に近づきますね。 孤独感もあります。 次なる舞台はどのように変化するのか今から楽しみです。
■DANCE SHOW CASE
■振付:幸内未帆、二見一幸
■DANCE BRICK BOX、2012.6.30−7.8
■
http://homepage2.nifty.com/KALEIDOSCOPE/sub1.html ■藤田恭子振付が中止になって残念だわ。 これで二見一幸に負荷がかかったのかしら。 いつもの振付が光っていなかったわよ。 「月を背にして・・」は若さがあってよかった。 でも他の作品は全体に生気がないわ。
幸内未帆の「芝生の上・・」は二人のダンサーの顔の表情や視線がとても神妙で観ていても心が緩む。 でも意味の病にかかりそうな振付よ。 もっとおおらかに踊ってほしいわ。 Bプログラムは観なかったけど両方に足を運ぶ必要があったようね。
■ガリレイの生涯
■作:B・ブレヒト、演出:森新太郎、出演:演劇集団円
■シアタートラム、2012.7.6−15
■
http://www.en21.co.jp/galileinoshougai.html ■剥げ落ちた汚らしい灰色の壁がとてもいいわ。 がらんどうでブレヒトの舞台にピッタリね。 ところでガリレイの科白で理性や真理の言葉が多過ぎなかった? 少し耳障りだったわ。
なぜキリスト教から西洋科学が発生したのか? それは「預言者の言葉の絶対的な性能を研ぎすませたから」。 先日読んだ「ふしぎなキリスト教」よ。 舞台のガリレイは言葉が偏りすぎているわ。 だから神学者や元老院との口論に勝てない。
しかもガリレイは舞踏会に仮面を持ってこないの。 最低だわ。 葡萄酒やチーズが好きだったのが唯一救える所ね。 元老院はこの二つはよくみているものよ。 最初からガリレイは首根っこを掴まれているのがわかる。
終幕アンドレが訪ねてきた場面は今までのガリレイとは違う。 チラシに「広島原爆投下で急遽改筆」とあるけどブレヒトの変更はこの部分じゃないのかしら? でもブレヒトはガリレイこそキリスト教の新しい神学者だったのを知っていたはずだけど・・
■死ぬための友達
■作・演出:はせひろいち、出演:劇団ジャブジャブサーキット
■ザスズナリ、2012.7.13−16
■
http://www.honda-geki.com/suzunari/koen/jjc.html ■役者の喋り方がほんの少し遅い感じがする。 それは書き言葉を読んでいるように聞こえる。 台詞がもう少しで日常と同じになってしまうところでどうにか留まっている感がある。 しかし前回
>>108の無重力感が無い。
理由は前回より雑に作っているからである。 ストーリに無理がある。 酒を飲む場面もやたら多い。 日本酒、ウィスキー、ワイン。 不純物が入り過ぎるため流れが見えない。 つまらない小説を読んでいるような芝居であった。
この劇団は芝居の面白さを知っている。 しかし方法論が雑な為その方向へ集約していかない。 特に今回は足踏みをしている感じだ。
■ピーターラビットと仲間たち
■監督:レジナルド・ミルズ、振付:フレデリック・アシュトン、出演:英国ロイヤル・バレエ団
■東京都写真美術館、2012.7.14−8.3
■
http://syabi.com/upload/5/1701/peter.pdf ■動物のぬいぐるみがよくできているわ。 膝より下を除き本物のようだから子供たちは喜ぶはず。 しかも科白がないから長持ちする作品ね。 スタジオ撮影の合間に田園風景の場面もあって落ち着くわ。
ピアトリクスが描いた動物が動きまわる設定だけどそれは最初だけ。 でも前場面でハリネズミがみる壁にかけてある少女の絵がビアトリクスだからどちらが先だかわからない。
振付は動物らしさと人間らしさの中間をいく古典的な動きね。 でもアクセントとしてベッドや食器、食事場面などを子供の激しさで扱っているから強弱のリズムがでていて面白いの。 40年前の作品だけど丁寧に作られているから新鮮さがあるのね。
■職業◎寺山修司
■演出:鹿島将介、出演:重力/NOTE
■STスポット、2012.7.20−23
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage_reverse28368_1.jpg?1342948408 ■狭い舞台に7人もの役者が登場します。 でも台詞や動きは分担され、役者の多くは前にかがんでいるので混んでいるようにみえません。 マイクを持って時々喋ったり観客と視線を合わせるので前席の観客は騒々しかったはずです。
原作から寄せ集めた?台詞はとても練れています。 役者の発声も切れがあり、視線を観客に向けるのでついつい物語に引きこまれます。 舞台全体の印象はチェルフイッチュを硬くしたようです。
トイレで彼女を待っていた話、キャッチボールの話、覗き見や入院などなど寺山修司に関する話が続きます。 寺山修司の先入観濃度の差でずいぶん変わる芝居でしたが、観終わった時寺山というよりその時代の風景を語っているような記憶が残りました。
この劇団は型を重視しているようにみえます。 セリフの喋り方、眼差しを含め動作などにある硬さが感じられるのはここから来ているのでしょう。 いろいろな試行錯誤をしているようにみえます。 これらが実ればより劇的な舞台が現前するはずです。
追記、今思い出しましたが俳優の涙の話もオナニーとの比較で面白かったですね。 それと照明担当?の片目黒眼帯も。
■千に砕け散る空の星
■作:D・エルドリッジ、R・ホルマン、S・スティーヴンス、演出:上村聰史
■シアタートラム、2012.7.19−30
■
http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_t_120719_sennikudaketiru_rl_pm_poster_3.jpg ■先日観た「燕のいる駅」
>>233とストーリーが似ている。 終末が近づくなか・・、いつまで経っても舞台に集中できない。 中休みに帰ろうかとおもった。 しかしSFは何が起こるのかわからない。 最後まで居たが結局はつまらないの一言である。
このような時にこのような家族が集まること自体が欺瞞にみえてしまう。 家族の愛や憎しみは表面を滑るだけだ。 ゲイの告白で終わりではない。 ここから始まるのだ。 心の深い闇を開くのにこの芝居は努力をしていない。
しかし本当につまらない理由は別にある。 なぜ舞台の役者たちがつまらないのか。 それは役者の身体が伝わってこないからである。 芝居の面白さとは何か?を身体から追求していないからだ。
終幕、チーズを食べる場面で役者は舞台に星のように散らばっている。 終末が近づいているのはわかるがしかし、突っ立ているだけにしかみえない。 これではロマンスもなにも生まれない。
■ロンドンオリンピック開会式
■監督:ダニー・ボイル
■ロンドンオリンピック競技場、2012.7.28
■
http://www.london2012.com/ ■さすが34億円の舞台は圧倒感があるわね。 出演者は2万人にスタッフ2千人。 生中継は10億人、録画を含めて40億人が観るとのこと。
緑の田園風景から煙突の産業革命への場面転換は一番印象が強かった。 そして社会福祉政策の具体であるGOSH(子供病院)、NHS(国民保険サービス)を持ってきたのは19世紀からのイギリス資本主義を正当化するには必須の流れね。
しかもケネス・ブラナーのブルネルからアリス、ハリー・ポッター、メリー・ポピンズのファンタジーを絡めてるから世界の高校生ならこの流れは理解できるはず。 さすが英国。 前回の北京の社会主義的マスゲームから逃げたかったのよ。
選手入場前のダンスはアクラム・カーンの振付だけど会場が広いからイマイチというところね。 それよりロックが幅をきかしていたのはしょうがない。 アークティック・モンキーズなんてバンドは知らないわ。 締めがポール・マッカトニーはあたりまえ。
ポールじゃダメだな
ベロ出しミック・ジャガーにしてくれ!
■クリンドルクラックス!
■世田谷パブリックシアター、2012.7.28−8.5
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage28376_1.jpg?1343815097 ■11歳の主人公ラスキンとトカゲ大通りの人たちとの懐かしさのある生活が描かれています。 少し不思議な感じのする舞台です。 それはラスキンの意識ある行動では17,8歳ですが無意識の行動は11歳だからです。
この差が混ざり合って舞台に現れるので不思議さがあるのです。 ラスキンの両親も隣人もまるで蜥蜴のようです。 蜥蜴は神経質なわりにはデレッと日向ぼっこをしたり絡まり合ったりします。 トカゲ大通りがどういう場所かよくわかります。
そして物語は突飛なところがありますが格別に面白いというわけでもありません。 原作は児童文学のようですがもし子供だったらこの舞台をどう感じるのか? これがよく分からないのが残念です。 それだけ歳を取ってしまったようです。
■カム・フライ・アウェイ
■振付:トワイラ・サープ
■オーチャードホール、2012.7.24−8.12
■
http://www.bunkamura.co.jp/orchard/lineup/12_cfa/index.html ■上手にバーのカウンタやテーブル、下手にもテーブルそして階段、後方に楽団。 ダンサーは14人。 舞台が狭いから前半はエンジンがかからないようね。 そしてシナトラの歌だけだと振付まで同じようになってしまい飽きてきてしまうわ。
でもダンサーがひと汗かいた18曲あたりから、キャバレースタイルが生きてきてノッてきたの。 男性は暑くてどんどん脱いでしまい盛り上がった舞台になってきたからよ。 そして歌抜きの「テイクファイブ」でサープの振り付けも動きがより自由になった。
最後は星空の下での「マイウェイ」。 女性は三回目の衣装替えのドレス姿で終幕をむかえキッチリと全体をまとめていた。 中粒なミュージカルだけど一夜を楽しめたという充実感があってさすがブロードウェイね。
■ラインの黄金
■指揮:J・レヴァイン、振付:R・ルパージュ、出演:B・ターフェル、S・ブライズ
■東劇、2012.8.11−17
■
http://met-live.blogspot.jp/2012/03/blog-post_29.html ■まだ「ワルキューレ」は観てないけど、ワーグナーはこの序夜を一番推敲して仕上げたのではないかしら? セリフが少なくてテンポがゆっくりしている。 だから言葉の意味を噛み締めながら観ることができるの。 より物語に深く入り込めるの。
ここまで登場人物たちの心と体を演じるなんて芝居以上だわ。 言葉少ないヴォータンが何を考えているのか? アルベリヒやフリッカそしてローゲの表情一つ一つにも釘付けになってしまった。 巨人兄弟はちょっと下手だったけどね。
「ジークフリート」
>>180はこの「ラインの黄金」を発展させたけど雑音が多すぎた。 「神々の黄昏」
>>201は前作の反復で冗長すぎた。 「ワルキューレ」は予想がつかないわ。 でもワーグナーは当初は第一夜迄を計画していたから期待できそうね。
■ワルキューレ
■指揮:J・レヴァイン、振付:R・ルパージュ、出演:B・ターフェル、J・カウフマン、D・ヴォイド
■東劇、2012.8.11−17
■
http://met-live.blogspot.jp/2012/08/2010-2011.html ■ヴォータンが饒舌過ぎるわね。 これは登場人物の多くに当てはまるの。 過去を抱え込んだので説明が増えてしまったのよ。 幕が開いてジークムントとジークリンデ、フンディングのセリフのやり取りも長過ぎる。 下手な芝居をみているようね。
でもフリッカは存在感があったわ。 エルダとジーク兄妹の母が登場しなかったことでやりたいほうだいだった。 ヴォータンがブリュンヒルデに「神より自由な者がお前を助けるだろう」からもわかるけど、神々の苦悩が一番表れている作品かも。
でも「ラインの黄金」
>>269のような劇的さがみえない。 先にも言ったように肝心の場面で説明のセリフが多く入り過ぎたため。 そして終幕ターフェルの歌唱力に疲れが出てしまったことも。 しかもカウフマン、ヴォイドは声はいいけど演技がユルいし・・。
4夜を通してみると長編小説を読み終わった時と同じ感動があった。 人間の喜びや苦悩がどこから来るのかが時間をかけて具体的に表現されていたからだとおもうの。 もちろんそれは歌唱と音楽を通して修飾されたハッキリした言葉でね。
■芭蕉通夜舟
■作:井上ひさし、演出:鵜山仁、出演:阪東三津五郎
■紀伊国屋サザンシアター、2012.8.17−9.2
■
http://inouehisashi77.jp/program/schedule/#information06 ■4人の黒子が登場しますが阪東三津五郎の一人芝居です。 背景が次々に変わるので消化不良を起こしそうですが、セリフも軽いし、駄洒落も多いので舞台についていくことができます。
連句会や便秘など芭蕉の描き方には井上ひさしならではの面白さがあります。 しかしいつものコクがありません。 やはり一人芝居のため言葉の複雑さや深みが発揮できないのでしょうか。
チラシに「芭蕉はひとりで生き、ひとりで死んでゆくのを究めた」とあります。 これと芭蕉の旅を含めた行動との結びつきが舞台では弱くみえます。 井上ひさし生誕フェスティバルの中での息抜きの作品とみました。 夏休みですね。
■空舟
■出演:舞踏舎天鶏
■日暮里・D倉庫、2012.8.19
■
http://www.geocities.jp/azabubu/d14 ■激しい音楽を背景に、洗濯バサミハンガーを頭からかぶって痙攣踊りをする鳥居えびす。 次に鈴の音や流れるような音楽の中、白塗に彼岸花を頭に飾って白灰色のドレスで静かに踊る田中陸奥子。 再び黒パンツ裸のえびす、アホ丸出しの演技。
ひとつひとつのシーンはとてもいい。 しかし二人の関係がまったく見えない。 この関係性が表現できれば一層面白くなる。
■一見後領置
■出演:アダチマミと無所属ペルリ
■9人のダンサーは白シャツに紺のパンツやスカートの衣装でとても地味である。 ロック系のリズムで身体の一部をスローに動かしていたが、次には壁に登ったり倒れこんだり、そして最後は盆踊りを基本にしたような踊りだ。
音楽も振付も数十年前の古さが漂っている。 しかし彼女らはこの古さを意識しているようにもみえるが・・。 上手いダンサーが数人いたが、衣装の地味もあって高校生のダンスをみているようだった。
今日の二つの舞台もダンサーはよく崩れ倒れてはいたが今年のテーマ「崩れる身体」との関係はよくわからい。 このテーマでは抽象すぎるのではないか?
■共犯的戯レゴト
■出演:工藤丈輝
■新宿・URGA、2012.8.23
■
http://www.urga.net/pc/schedule/schedata/1475.jpg ■ナント!観客席がうしろほど低くなっているから上半身しかみえない。 しかも舞台はベースとサクソフォンが占めているので踊りは1平米しかない。 これだけ狭いと工藤のいつものキツイ眼だけが目立つ。
初めはサキソの音に縛られてうまく踊れない。 半袖のカバーオールを脱いでやっと筋肉が解れてきたようだ。 しかし白の下着はいただけない。 日常性を持ち込み過ぎている。 上は1枚で十分。 この下着も脱ぎ裸になってやっとサキソから解放された。
この狭さでは指先や顔の表情、眼の動きなどに新しさを取り入れないと面白みがない。 実験的な動きをどんどん取り込んでほしいものだ。
■トゥーランドット
■指揮:A・ネルソンス、演出:F・ゼフィレッリ、出演:M・グレギーナ、M・ポプラスカヤ、M・ジョルダーニ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/ news/2006-2012_Encore.pdf
■トゥーランドットの宣言「・・彼の名前は’愛’」はこの作品のすべてを物語っているわね。 愛という言葉がいつも先行している。 この言葉から精神的な一つの世界を構築しようとしている作品だわ。
ゼフィレッリもわかっているから舞台は絢爛豪華にしているの。 少しでも物質世界に近づくためにね。 道化のピンポンパンの登場もよ。
リューのポプラフスカヤは適役だった。 あのゆっくりとした叙情的なアリアは素晴らしいわ。 トゥーランドットのグレギーナは真面目過ぎる感じね。 やはり終幕はもっとくだけてもいいとおもうの。 でないと観客のカタルシスが高まらないわ。
■ドン・カルロ
■指揮:Y・セガン、演出:N・ハイトナ、出演:R・アラーニャ、M・ポプラスカヤ、F・フルラネット
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■大味だけど出来事が一杯詰まった作品ね。 ヴェルディはこの一杯の量を質に転化する方法を知っていたのよ。 最初から質で勝負するワーグナーとは違ったオペラ的感動がするの。 そして言葉の対話ではなくて重唱でね。
エリザベッタがもう少し強く出ればもっと厚みがでたはず、観終わった時のドン・カルロの存在は薄かった、ロドリーゴは動作が乱暴で雑だった、結局はフィリッポ二世が一番目立ってしまった。 でも一人ひとりが皆主人公だから舞台に重層感がでていたわ。
このようなオペラ的感動を得たのは初めての経験だわ。 演劇的的感動や映画的感動とは違う何かよ。 あと30本オペラを観ればこれが何かわかるかも。
■異邦人
■作:A ・カミュ、演出:南雲史成、出演:演劇集団風
■レパートリーシアターKAZE、2012.8.23−27
■
http://www.kaze-net.org/repertory_2012#title7 ■舞台の白砂で異邦人の世界へひとっ飛びです。 本を読んだ時はトランペットもいいかな?とずっと思っていましたがギターの生演奏もいいですね。 しかし幕が上がり、・・どうも何か変です。 セリフが棒読みのように聞こえます。
詩を読んでいるようでもあります。 それはト書きのようです。 朗読劇のようにみえます。 やっとこれに慣れてきて芝居に入ることができました。
この作品は映画や舞台で観ていますが、どうもシックリいったことがありません。 今回これだけしっくりしたのは初めてです。 たぶん半朗読劇にしたからではないでしょうか?
本を読んだ時の感動が強いとそれから抜け出せないのです。 朗読劇は本に近いので安心したのかもしれません。 ところでムルソーは背筋を伸ばして科白を喋るとイメージがよくなるでしょう。
■トスカ
■指揮:J・コラネリ、演出:L・ボンディ、出演:K・マッティラ、M・アルバレス、G・ギャグニッザ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■プッチーニは厚ぼったいけど切れがあり独特の軽さを持っている。 これがいいのね。 ストーリーは面白い作品だけど今回はそれが発揮できていなかったようね。 理由は歌手が下手な感情移入をし過ぎたからよ。 スカルピアは上手かったけど。
ニューヨークでは演出家に対して大ブーイングがあったと聞いているけど分かる気がする。 歌手への演技指導以外に、舞台装置の空間把握が大雑把なこと、拷問道具や血の表現、殺人場面の写実主義はいいけど冗長度が有り過ぎたのね。
1幕のテ・デウム場面はまあまあだった。 でもこの劇的な場面をスカルピアが壊してる。 彼を少しずつ後ろに下がる演出にして欲しい。
■ばらの騎士
■指揮:E・ワールト、演出:N・メリル、出演:R・フレミング、S・グラハム、C・シェーファ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■政治色のない喜劇的な舞台で身分や結婚制度を重視していてとても保守的にみえた。 しかも内から破壊するオックス男爵を登場させて一層この保守を強固にしている。 これこそは少女漫画と宝塚のルーツともいえる作品だわ。
ズボン役はグラハム、そして元帥夫人がフレミング。 両者の性格も顔付きもそして歳も似ているから面白みがない。 思い切ってオクタヴィアンを若手にしたら楽しい舞台になったはずよ。
盛り上がらなくても最後の三重唱で終わり良ければ全て良しになってしまうのがシュトラウスの魔術ね。
■ウイークポイントシャッフル
■演出:大歳倫弘、出演:ヨーロッパ企画
■下北沢・駅前劇場、2012.9.1−3
■
http://www.europe-kikaku.com/yeti/images/wpsa.jpg ■このような芝居を「コント」というのでしょうか? 漫才をベースにして舞台に馴染ませたようなセリフです。 しかも重たく感じる意味も軽くさせてしまう関西系の乗りがあります。
母は亡くなり父が失踪し、・・残された4姉妹の話です。 なんと正体不明の「ザット」が彼女らを家から出さないようにしています。 そこへピザ配達人や保険調査員、失踪した父も4姉妹の家に現れます。 最後は宇宙人?が登場し幕となります。
ピザ配達人が4姉妹を騙しているのでは? 通信販売を論じたいのか? 父の娘達への愛情を表現したいのでは? ストーリーは有るのですが何が言いたいのかよくわかりません。 ウフウフ笑っていただけで終わってしまいました。 やはりコントですね。
■オリー伯爵
■指揮:M・ベニーニ、演出:B・シャー、出演:J・D・フローレス、D・ダムラウ、J・ディドナート
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■一幕は喜劇が冴えていたわ。 リズムが良くてとスピードが有ったからよ。 でも二幕はスピードが落ちてしまった。 歌詞の反復が長かったためね。 でも久しぶりの面白い舞台だった。
衣装のデザインや色も最高ね。 これが登場人物達の笑顔を一層輝かせていた。 二幕は桃色同系色ばかりのエロチックさと尼僧の黒白を対比させ気が利いていたわよ。
それとMETではあまり登場しない歌手たちだからとても新鮮味があった。 ダムラウの貴族婦人はとても素敵ね。 夫々のアリアは物語の進行にピタリと合っていてリズムを崩さなかった。 全体はヘンデルを現代化したような感じを持ったわ。
舞台上に舞台を作って演出家?が登場するような劇中劇はオペラでは珍しいわね。 シャーがインタビューでモリエールを参考にしたと言ってたけど舞台が生き生きしていたのは演出が上手かった証拠ね。
■ランメルモールのルチア
■指揮:M・アルミリアート演出:M・ジマーマン、出演:A・ネトレプコ、P・ペチャワ、M・クヴィエチェン
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■ドニゼッティはとても急いでいるようね。 幕が上がり5分後にはルチアとエドガルドの関係をすべて知ってしまうエンリーコ、次幕でも結婚誓約書を書いた途端エドガルドが登場するのも駆け足ね。 ドニゼッティは早く目的地へ行きたい!
そしてその目的地でストーリーのすべてを展開するの。 エドガルドに「生きながら墓に入る」と言わせているのも早く着きすぎてしまったのよ。 でもこれも一つの物語展開方法として有りね。
エドガルド役はR・ヴィリャソンからペチャワに急遽変更になったようだけど残念。 ネトレプコとペチャワは「マノン」
>>227の記憶が強すぎるのよ。 「狂乱の場」はネトレプコでは神経が太過ぎる。 ミスキャストだけどこれがオペラの面白いところかも。
■カルメン
■指揮:Y・セガン、演出:R・エア、振付:C・ウィールドン、出演:E・ガランチャ、R・アラーニャ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■二幕の闘牛士の登場でやっと調子が戻った。 それまでは導入部の日常の風景が上手く描けなかったからよ。 舞台前面が兵隊の詰所のため後方の街が見えない。 群衆の動きも悪い。 しかもタバコ工場は地下?にあるなんて考えられない。
その後は持ち直した感じ。 ガランチャのカルメンは良かったわ。 黒い瞳じゃなかったけど。 股の傷や舌を見せたりなかなかやるじゃない。 ウィールドンの振付もね。 演出家エアはヤル気がでなかったのかな? インタヴューでも挨拶が無かったし。
ドン・ホセのアラーニャはちょっと性格が良すぎたわ。 しかも老母やミカエラという現実そのものを舞台に登場させているから、彼をカルメンに無理やり近づけたら少しばかりシラケてしまうよね。 感動がイマイチの原因かも。
でもこの原因でどの曲もスペインの寂しさが感じられていつ聞いても素敵なのよ。
■フリル
■作・演出:広田淳一、出演:アマヤドリ
■王子小劇場、2012.9.8−17
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage28700_1.jpg?1347319231 ■白紐の幕は暖簾のような使い方でした。 暖簾の周りだけを役者が動きまわります。 だから舞台がとても窮屈。 案内係が後ろの席が観易いと口うるさく言っていた理由がわかりました。 このため乱舞時代のダイナミックさはありません。
科白主体の劇です。 少しばかり深く突っ込んだ日常会話が続きます。 ストーリは断片的ですがなんとなく繋がっているようです。 チラシにストーリーらしきものが載っていましたが外れっぱなしです。
女性同士の対話より男性のほうが面白さがあります。 レス同士よりホモ同士の話が面白いのと同じです。 でも途中眠くなりました。 役者も動きは良く興味ある話でも100分も続けば飽きます。 もっと集中と選択をさせて70分にしたらどうでしょう?
「けっこう、毎日は戦争だ」「で?なにがいいたいの?」は言い訳です。 ここから形そして方法論を紡ぎだす必要があります。 質の良い言葉と身体を持っているのですから。 ところで何で劇団名を変えたのか理由を忘れてしまいました。
■アンナ・ボレーナ
■指揮:M・アルミリアート、演出:D・マクヴィカー、出演:A・ネトレプコ、E・グバノヴァ、I・アブドラザコフ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■真実は別としても誠実な歴史の舞台だった。 まるでシェイクスピアの役者が出てきそう。 ティラマーニはホルバインを参考にしたと言ってたけど衣装も素敵だったわ。
でもこの誠実さをネトレプコが壊してしまった。 アンナ役のネトレプコは歴史の匂いを感じさせないからよ。 彼女は別世界から16世紀英国に来たみたい。 体格もオペラ的というよりロシア的になってきたし。
ところでこの作品は政治的な話が一切でてこないところが凄い。 舞台だけをみているとヘンリー八世とアンは表面的な愛憎だけの関係なの。 だからドニゼッティの名声を確立した作品だと言われている理由がわからないわ。
19世紀初頭のヨーロッパは300年前のイギリスに興味があったのかしら? どの時代も愛と憎しみについてはわかるけど、この作品を観た当時の人の心の奥にはもう一つ別に感じるものがあったはずよ。
■ドン・ジョヴァンニ
■指揮:F・ルイージ、演出:M・グランテージ、出演:M・クヴィエチェン、M・レベッカ、B・フリットリ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■モーツアルトの世界がよく表れているわね。 曲が繊細だからオペラの面白さが独特なのよ。 叙唱が入っているから尚更そうかも。 でも盛り上がりに欠けてしまいダイナミックさも欲しいところね。 地獄へ落ちる場面は別だけど。
クヴィエチェンはモテそうで適役。 ジョヴァンニの裏側をもっと出してもいいけどオペラではこれ以上は難しいようね。 これだけの放蕩児なのに観終わったときの印象が静かなのはやっぱり彼もモーツアルトの手の上の悟空だったのよ。
ここ一人で回してるの?
■ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。
■作・演出:藤田貴大、出演:マームとジプシー
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2012.9.7−17
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage_reverse30028_1.jpg?1347578405 ■家を解体する話です。 その家族や隣人が家にまつわる歴史や人間関係を語っていきます。 しかし独特な舞台が現前します。 セリフを声に出す時にカラダもそれに合わせています。 これは他劇団でも見かけますが大げさどころかダンスに近い感じです。
しかもセリフを段落単位でデータ処理、つまり並べ替え・併合や結合・判断そして反復などの演算操作、を施しているのです。
この二つを持って舞台は進行しますが、徐々にエントロピーが増大するかのように崩れていきます。 つまり言葉と身体の演算操作とエントロピーの増大で劇的感動を求めようとしているようです。 この時煙幕が張られるのもこれを意識しているからです。
しかしこの感動は少し弱いようにみえますね。 理由は科白を発する役者の身体が華奢な為です。 役者が雑に喚き動いているだけ。 だから祖母の話や妹が家を出る時の決心などの精神面が目立ってしまったのです。
■サティアグラハ
■指揮:D・アンゾリーニ、演出:F・マクダーモット、J・クローチ、出演:R・クロフト
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■やっと観ることができて嬉しいわ。 去年の暮れは見逃してしまったからよ。 トタン板と新聞紙が20世紀初めの物と事を呼び寄せてコクのある色を出している。 儀式のようであり祈りのようでもある舞台はグラスの音楽が融合して陶酔感が訪れるの。
三幕は少し単調過ぎたわ。 彼の音楽では<退屈>が一番の敵よ。 そしてセロテープのような細かい小道具を使うには注意がいるわね。 観客の神経をそれに集中させてしまうの。 演説が長すぎたキング牧師はオバマ大統領にみえてしまった。
一幕と二幕はしっかりまとまっていた。 「浜辺のアインシュタイン」とは違った角度の内容が一杯で広がりがグーンと増しているわ。 これで彼のオペラ三部作の最後「アクナーテン」が観れたら最高だけど。 でもちょっと無理かな。
■■ 2011・12年METライブビューイングベスト3 ■■
・ロデリンダ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>175 ・ジークフリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>180 ・マノン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>227 *今シーズン分のすべてを観終わったので、ベスト3を勝手に選んでみたわ。 並びは観劇日順。
*選出範囲は2011 ・12シーズンの
>>178、
>>189、
>>201、
>>208、
>>231、
>>284、
>>285、
>>288と上記ベスト3の計11作品が対象よ。
■ラ・ボエーム
■指揮:N・ルイゾッティ、演出:F・ゼッフィレッリ、出演:A・ゲオルギュ、A・アルテタ、R・ヴァルガス
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/news/2006-2012_Encore.pdf ■舞台の音質が少し悪いわね。 録音マイクが舞台から離れていた感じ。 オーケストラや観客の拍手は問題なかった。 マイクの方向を誤って設置したんじゃない? でもこの音質は観客席から聞いている音に近い感じがする。
だからこの音で品質をあげれば最高だとおもうの。 最近の作品は舞台の上で聞いているようで遣り過ぎよね。 たとえば今シーズンの作品は音に広がりが無くて劇場にいる感覚がまるでないから困っちゃうの。
そしてゼッフィレッリの代表作と言われているけどもはや過去の栄光を引きずっているだけの演出ね。 面白みがまったく無い。 歌手が生きていない。 ムゼッタは良かったけど。 音質の悪さと演出の硬直さで楽しめなかったわ。
■マクベス
■指揮:J・レヴァイン、演出:A・ノーブル、出演:M・グレギーナ、Z・ルチッチ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/0708/ ■一幕は素晴らしかったわ。 魔女の「謎めいた予言」とマクベスの「不吉な予感」で物語が進んでいく作品だから、終幕はこの予言と予感を全て舞台で具現化しなければならないの。
さすがノーブルかと観ていたけど、二幕はこの具現化が多過ぎて展開に深みが出なかった。 マクベス夫婦の心の流れを捉え切れなかった。 これで二幕は自滅したのね。 軍隊と難民ばかりが目立ってしまったわ。
ノーブルが「権力者の登場から退場は、中世でも現代でも同じだ」のような事をインタビューで言っていたけど、設定を20世紀にしたのは正解。 マクベスの歌唱は伸びと張りがもう少し欲しかったわね。 だからマクベス夫人より観客の拍手が少なかったのよ。
■浮標
■作:三好十郎、演出:長塚圭史、出演:葛河思潮社
■世田谷パブリックシアター、2012.9.20−30
■
http://setagaya-pt.jp/theater_info/upload/file/bui_pm_pdf_dl_file.pdf ■舞台は海岸のように砂が敷き詰められている。 その周りは板で囲って椅子が置いてある。 役者達が椅子に座り出番を待っているが、衣装を着替える時などは外している。 4時間だからリラックスして観てくれ、と長塚圭史が幕開きに言っていた。
しかしあまりにも真面目な姿勢で椅子に座っている役者達や、久我五郎の叫ぶような台詞でリラックスどころではない。 激しいセリフが一幕・二幕と続くが、しかし、どうも眠くなってしまう。
尾崎との借金議論や比企との医学議論、そして美緒との神の議論が五郎の苦悩に結びついていかない。 それは聖母のような美緒が五郎の生への執着を避けているからだ。 五郎の議論では「生」が充実しないことがわかっているから。
圧倒的な「死」を前にしている「生」は誰もが避けられない。 しかしこの運命に縛り付けられてそのまま舞台に乗せているだけの作品ある。 「生」の執着しかみえない。 五郎は叫ぶ以外に方法がない。 ツマラナイ芝居になってしまった。
■セヴィリャの理髪師
■指揮:M・ベニーニ、演出:B・シャー、出演:J・デドナート、J・D・フローレス、P・マッティ
■東劇、2012.8.25−9.28
■
http://www.shochiku.co.jp/met/program/0607/ ■ロッシーニはいつも楽しさが一杯ね。 恋愛好色物語だけど開放感があるからよ。 ドアや木々、理髪店の装置移動はリズミカルだったし、アリアや重唱は歌手同士の親密さが加わり、しかもせり出し舞台で、一層の親近感をもたらしていた。
舞台の流れが崩れるようで崩れないのは演出の良さだわ。 「混沌をキープしろ!」とシャーが言ってたけど、キープの手段としてバルトロに着眼したのが面白い理由だったのね。
今回のMET アンコール上映での一番の収穫は演出家バートレット・シャーに出会えたことかも。 「オリー伯爵」
>>280を観た時は脳味噌にビビッと来たわよ。 素晴らしい演出家ね。 だから「ホフマン物語」を見逃したのは悔いが残るわ。
■幻想の箱舟
■脚本:酒井一途、演出:岩渕幸弘、出演:ミームの心臓
■荻窪小劇場、2012.9.26−10.3
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage_reverse28553_1.jpg?1348787868 ■箱舟に乗った主人公シャンスラードは、幸せではないが満足している乗客たちに出会う。 彼らはしかし何者かわからないが脅かされてもいる模様。 箱舟がどこへ向かっているか誰もが見えない状況で乗客たちの対立が激しくなっていく・・。
裏の意味を持っていない、とてもシンプルな科白です。 舞台はこれで役者たちをブレない姿にしています。 多くの議論にもかかわらず濃厚さが失われサッパリした芝居です。 音楽や照明はメリハリのある役者の喋り方と合っていました。
箱舟の中の不満や不安はそのまま現代の若者が置かれている状況です。 そして芝居が提出する答えもはっきりしていません。 箱舟が大地から離れていなかった終幕のオチも物語は始めに戻ってしまったことでわかります。
それでも箱舟に乗った意義はあります。 行きつ戻りつの議論をしながら前進するしかないのです。 そして脚本にサッパリ感を失わずにコクのある味付けができればまた一歩前進です。
■月に光るガラスの破片
■作・演出:伊立、出演:建木劇社
■タイニイアリス、2012.9.26−10.3
■
http://www.tinyalice.net/ ■幕が開いてすぐに舞台上の日本語訳の表示が消えてしまった。 故障? 中国語のセリフでは理解できない。 現代劇は珍しいので何を喋っているのか知りたい。 残念!
音楽はタンゴやピアノが主で、役者はバレエのような動きも取り入れている。 ビナ・バウシュにヒントを得ているらしいがそのように見えない。 でも中国風から脱したい気持ちがでている。
役者たちが「日中友好」と書いた紙を持ってのカーテンコールだったがあまり気を使わないでもらいたい。 それよりもっと芝居を面白くしてくれ。
■愛憎渦中
■作・演出:ラディー、出演:劇団ING進行形
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage29557_1.jpg?1348913999 ■作品の一部だけを上演したような舞台である。 ストーリーがよくわからない。 娼婦と女主人とのやりとりも激しいだけで中身が無い。 ところで中央に位置していたコロスは目の動きが歌舞伎的で面白い。 身体の動きもシャープであった。
二本立ての上演だったがどちらも芝居を観た気がしない。 前者は翻訳機の故障、後者は中途半端な物語だったから。
■夜叉ヶ池
■演出:宮城聰、出演:SPAC
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage29570_1.jpg?1348998885 ■人間と妖怪がジュワーと融け合うのが鏡花の面白いところ。 でもこの作品は両者の出会う場面が無い。 しかも物語のキーパーソン百合の印象が舞台で薄過ぎた。 彼女の子守唄が白雪姫の剣ヶ峰を諦めさせ、萩原を急遽家に引き返させたのにね。
百合の声は透き通っているけど科白にも広がりと深みがなかった。 また彼女の背景となった舞台上の住居が想像力の無い古さを持っていたため余計に彼女を目立たなくしてしまったの。 舞台美術も感心しないわ。
物語の展開場面はいいけど、打楽器は百合に合わない。 むしろ弦楽器ね。 夜叉ヶ池の妖怪たちのドンチャン騒ぎ、村人と萩原の喧嘩騒ぎ、これと同じ<強さ>の百合でないとこの物語は面白くならないとおもうけど、どうかしら?
■籠釣瓶花街酔醒
■出演:中村勘三郎、阪東玉三郎、片岡仁左衛門
■東劇、2012.9.29−
■
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/20/flier.html ■素晴らしい構成とリズミカルな展開ですね。 四つの対話場面が物語のエンジンです。 権八と立花屋長兵衛の借金問答、権八と栄之丞の身請話、次郎左衛門と八ツ橋の別れ話、次郎左衛門と八ツ橋の再会。
この四場面には第三者が居てツッコミを入れ対話を面白くしています。 大詰め迄目が離せませんでした。 しかし終幕、八ツ橋を斬り殺す次郎左衛門の心の内がまったくわかりません。 既に次郎左衛門は八ツ橋を許していたのでは?
この作品は8幕とのこと、そしてなぜ題名に妖刀の名が入っているのでしょうか? 省いた場面を覗かないと次郎左衛門の心情はわからないのでしょうか? それにしても片岡仁左衛門は格好いいですね。 そして花魁道中はパレードでは正に傑作でしょう。
■OUT OF CONTEXT−FOR PINA
■演出:アラン・プラテル、出演:LES BALLETS C DE LA B
■青山円形劇場、2012.10.3−5
■
http://datto.jp/artist-alain-platel ■ダンサー一人ひとりを見分けることができる舞台だわ。 自己紹介場面は無かったけど、亡きピナ・バウシュに捧げた作品と言われる由縁ね。
でも舞台は肉体そのものが溢れている。 ほんとうの肉体は綺麗とはいえない。 それは心の闇が肉体にへばりついているからよ。
ピナは「悲しみも、喜びもすべて解き放つ」けれど、プラテルは「その肉体にすべて閉じ込める」ようね。 観終わった時の解放感は精神ではなく肉体の解放。 ピナとは違う、暗く重たさのある解放感ね。
301 :
名無しさん@公演中:2012/10/08(月) 06:09:37.38 ID:2xXSiB85
300オメ
■星屑のぴかル森
■出演:東雲舞踏 川本裕子
■上野ストアハウス、2012.10.9
■
http://www.storehouse.ne.jp/ueno/schedule.html ■幕開前に花をつけた帽子を冠っての登場はとてもよかった。 影絵に続いて身体の一部が他者に置き換わったような激しい動きの舞台。 そして心地良い床や水や波の影と共に。 続いて頭巾とフリルの付いた白衣装の単調な踊りで幕が降りる。
序破急の逆を行く流れである。 しかしこの面白い構成を生かせなかった。 水辺まで緊張感があったが、最後の白衣装の場面は凡庸さが漂ってしまった。 この終幕で力を抜かずに創作していれば観客の拍手は倍になった。
ロビーに津波で倒れた気仙沼の木々で作られたオブジェが飾られていた。 今回の舞台と共鳴しているのを感じた。
■K・ファウスト
■作・演出:串田和美、音楽:COBA、サーカス:ジュロ
■世田谷パブリックシアター、2012.10.6−14
■
http://k-faust.com/ ■「ブランコで目眩がするようなら大人になった証拠」、・・どこかに書いてあった。 空中ブランコはみるだけでも目眩で一杯になるの。 それは子供時代の素敵な記憶の蘇りよ。 これはファウストとブランコの劇的な出会いの作品だとおもう。
でもファウストは若返ったけど出会えない。 サーカスが物語に溶け込んでいかなかったからよ。 音楽隊が入る難しい群衆の動きも検討の余地有りね。
串田独特の楽しさと寂しさのある芝居ね。 小日向文世のカスペルは味があったし、ファウストの苦悩を笹野高史自身がそのまま受けとめていたのも面白かった。
C・グノーのオペラ
>>178とA・ソクーロフの映画、そして今回の作品で今年の「ファウスト」は3回目。 ソクーロフの「ファウスト」は彼のベスト3に入るくらい素晴らしい出来だったわ。
■霊戯
■作:郭宝崑、演出:佐藤信・榮念會、出演:笛田宇一郎他
■座高円寺1、2012.10.11−14
■
http://www.practice.org.sg/kpk2012/index_en.html ■戦争で命を失いその魂を語り合う鎮魂歌です。 伝統演劇の「能」や中国の「昆劇」?を取り入れています。 場所は戦場・墓地・刑場・・、苦しみのあるセリフは詩のように漂っていきます。 中国俳優は動きを、日本俳優は存在を重視しているようですね。
笛田宇一郎の存在感は十分ですが、能楽師の清水寛ニ、西村高夫はそれ以上です。 このような身体重視の舞台ですと能狂言の俳優が優位になるのでしょう。 そして見慣れない動作でも中国俳優が熟れているのがわかります。
場内で配られたプログラムを帰りの車内で読みました。 作者はシンガポール日本人墓地でこれを着想したそうです。 このような芝居は観客の想像力も試されます。 一部は劇と一緒に走れましたが、二部は科白も少なく眠くてどうしようもなかったですね。
■傘月
■脚本・演出:下西啓正、出演:乞局
■新宿・SPACE雑遊、2012.10.10−17
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage30230_1.jpg?1350214505 ■日常生活を少しばかりこじ開けるような議論がセリフに沢山入っていて面白いですね。 しかも災害場面で苛立っているのか棘のある対話が続きます。 このような台詞を書きたいので背景に災害を持ってきたのでしょうか?
12場面の作りになっていて物語が非連続に並行して進んでいきます。 構成は面白く役者たちも力が入っています。 干魃や瓦礫処理、大洪水など自然災害を背景として物語は一つにまとまっていくかにみえます。
被災地住民とボランティアとの人間関係が印象に残りました。 でもストーリーがまとまりきれなかった中途半端な感は免れません。 多分チラシにも書いてあった手書台詞の醍醐味なのでしょう。
他人との付合いの少ない現代人は舞台の科白に興味が出ます。 しかし日常会話に小暴力を取り入れた口論の多いセリフは観ていて疲れ飽きます。 観客集中度が維持できるくらいの上演時間に縮めれば観後の良さが高まるのではないでしょうか。
■曼荼羅の宇宙
■演出・振付:森山開次、音楽:高木正勝
■新国立劇場・小劇場、2012.10.17−21
■
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/pdf/20000627.pdf ■忍者がダンスをしているようだわ。 でも、もっと根源的な面白さがあった。 日本的というかモンスーン的農耕的振付が詰まっていて遠い日本を思い浮かべることができたからよ。 題名「書」を身体表現するとこのような振付になるのかしら?
波・雨・狼・馬・鳥・虫の音を背景にダンサー同士のコミュニケーションも同じ懐かしさが表れていたわ。 第一部終幕近く曼荼羅が投影されたけど舞台の流れには結びつかなかった。 そして柳本の指の先端に切れがなかった。
次の第二部「虚空」は森山のソロ。 5メートル四方の小さな舞台に力を凝縮して、平安時代の空の大日如来と鎌倉時代の力強い仁王像を同時に踊っているよう。 ピアノがリズムを持ってきた中盤の踊りは素晴らしいの一言。
森山と5人のダンサーそしてピアノの高木。 この7人で曼荼羅の世界を描こうとしたけどできなかった。 というより曼荼羅の絶対的世界から飛び出してしまうしなやかさがあったわ。 曼荼羅のその先へ行こうよ!と言っていたのね。
■旅程
■作・フジノサツコ、演出:森新太郎、出演:モナカ興業
■三鷹市芸術文化センター・星のホール、2012.10.19−28
■
http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage30935_1.jpg?1350774964 ■場面が細かく分かれ並行してストーリーを進めていくのは近頃の小劇団の流行りのようだ。 詩のような状況説明のセリフが時々混じっていている。 建築資材会社の社員とその家族が登場するため仕事話が多い。
正社員と非社員、親の投資失敗や娘の不純行動など結構リアルな話が詰め込まれている。 観ていても緊張感が走る。 しかし商品不正の話にのめり込み過ぎてしまい、観終わった時はこの話しか覚えていない。 役者も上手いがこのため影が薄い。
テレビや映画に対抗しようとしている。 だからテレビドラマと同じく、観客を緊張感だけ持った傍観者にしてしまうような芝居であった。
■演劇1、演劇2
■監督:想田和弘、出演:平田オリザ、青年団
■シアターイメージフォーラム、2012.10.20−11.25
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http://engeki12.com/ ■1.ダメな役者を吊るしあげる時、演技・人格・生い立ち・家族の素性にまで遡る某演出家もいるようですが、オリザの「ダメだし」は静かな厳しさが感じられます。 小津安二郎の駄目出しを真似ているわけではなく、両者の方法論が結果として一致したのです。
2.入団面接で演出希望者が口ごもっている場面がありました。 希望が叶えられても役者の投票で可否が決まるのですね。 つまり俳優からの支持が得られなければ演出家も続けられないということです。 河原乞食集団の厳しさが表れています。
3.オズ映画の感動は喜怒哀楽から来るのではなく映画芸術そのものからきます。 オリザ演劇と近いですね。 原節子の写真が壁に貼ってありました。 小津の写真じゃサマにならない。 だから代わりに原節子を貼ります。 これは皆がしていることです。
4.劇団員がR・ブレッソンの議論をする場面があります。 ブレッソンもオズと同じ方向です。 演技時に役者の脳味噌がカラッポになるほど、ある種の感動が訪れるものです。 ロボット演劇に進むのは必然でしょう。 その先に劇的感動が必ず有るからです。
5.アゴラ劇場の乱雑した事務室や事務処理を初めてみました。 興味ある場面ですね。 高校授業風景やフランス公演もです。 「新国立劇場はなにもしていない!」と彼は言い切っています。 オリザは文化活動にも実績があるから言えるセリフです。
■白鳥の湖
■指揮:B・グルジン、演出:A・ダニエル、出演:Z・ヤノウスキ、N・キッシュ、英国ロイヤル・バレエ団
■ワーナ・マイカル東京、2012.10.24
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http://www.theatus-culture.com/ ■中継映像のためか画面が少し不安定だったけど中盤以降良くなったわ。 動きの激しい場面は微妙に振動するのは残念ね。 スラブ系の匂いが漂っているけどベクトルはより東方に向いていてこれはユーラシア大陸的作品ね。
衣装や装置は深みとコクのある色彩で素晴らしわ。 1幕と3幕の城内の様子、そして2幕と4幕の湖、すべてがパーフェクトよ。 もちコール・ドもね。 さすがシェイクスピアの国の踊りね。 楽しかったわよ。
でもオデットが登場した時は驚いたわ。 マシュー・ボーンの白鳥が現れた! ヤノウスキは長身で肩幅が広く筋肉質で男性のようだもの。 観ていて不思議な気分ね。 キッシュが素直な人のようだからなんとかまとめたのよ、きっと。
>>308 先日の新聞を見たらブレッソンの「白夜」が上映されるらしいこれは必見
■万国博覧会
■振付:ラシッド・ウランダン、音楽:ジャン=バティスト・ジュリアン
■シアタートラム、2012.10.26−27
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http://setagaya-pt.jp/theater_info/upload/file/expositionuniverselle_pm_pdf_dl_file.pdf ■チラシも読まないで観たがまったくつまらない舞台であった。 アフタートークを聞いてやっと概要がわかった。 万国博覧会は植民地時代に現地からかっぱらってきた物品を展示することである。 映像の彼の顔の色はフランス国旗であり吐き出す対象だ。
彼がアルジェリアからの移民と知った時は「アルジェの戦い」や「ジャッカルの日」を思い出してしまった。 しかしダンスにこのような歴史背景を取り込むのは至難の業だ。 事前情報がなければ何を表現しているのかわからない。 このような舞台は苦手だ。
■クレイジーホース・パリ
■監督:フレデリック・ワイズマン
■アルテリオ映像館、2012.10.27−11.16
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http://crazyhorse-movie.jp/ ■「万国博覧会」へ行く途中に寄り道する。 「クレージーホース」はパリのナイトクラブのこと。 そこでの演目は芸術的ヌードショウである。 ヌード舞台の練習風景の記録であるが、オッパイやお尻がこれでもかと出てきて最高である。
しかし映画そのものの感動は無い。 ワイズマンの無欲さというか無能さがでている。 フィリップ・ドゥクフレが舞台の演出家として登場するがダラダラしていてどうしょうもない。 日本だったらドゥクフレなど即クビだろう。
観ていてウキウキさせてくれたのはダンサーだけで、監督も映画の中の演出家も本業での期待に答えてくれなかった。
■女司祭−危機三部作・第三部
■作・演出:アールパート・シリング、出演:クレタクール
■東京芸術劇場・シアターイースト、2012.10.27−30
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http://www.festival-tokyo.jp/program/12/thepriestess/ ■ブタペスト育ちの女優が演劇教師となりルーマニアの田舎町に家族と共に赴任する話です。 彼女が日常生活での問題点を議論にあげて生徒にぶつけていきます。 生徒の生活体験談や現地の映像も取り入れながら進行します。
時々舞台状況や子供の存在意義についての質問を観客に向けます。 観客はそれに参加しなければなりません。 緊張感があります。 そして子供たちが貧困・差別・宗教に対峙する姿が現れてきます。 舞台の中高校生はとても不思議な感じがしますね。
彼らの現実生活と舞台演技が入り混じるためです。 国を越えての教師移動やキリスト教の影響力は島国で無神論の日本では想像し難いところです。 ヨーロッパのディープな課題が現れている舞台です。
■ストリート・ダンス−TOP OF UK−
■監督:マックス・ギア、ダニア・パスキーニ、振付:ウィル・タケット、ケンリック・サンディ
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http://www.streetdancethemovie.jp/ ■ストリートダンスにバレエを取り込むテーマは魅力的ね。 でもダンスの楽しさが発揮されていない。 その理由は、
1.バレエダンサーを引き抜くストーリーは面白い。 しかし肉付けが上手くない。 中身の薄いインド製ダンス映画と同じね。
2.バレエを組み込んだ振付は良いとはいえないわ。 作成過程も省いているし・・。 特に台や布の利用はストリートに合わない。
3.カメラの切り替えが早すぎててダンスをゆっくり見ることができない。 何を観客に一番みせたいのかわからないわ。
HPをみると来春に続編が来るようね。 でも同じような内容ならダメよ。
■たった一人の中庭
■演出:ジャン・ミシェル・ブリュイエール、出演:LFKS
■にしすがも創造舎、2012.10.27−11.4
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http://www.festival-tokyo.jp/program/12/lepreaud_unseul/ ■旧中学校校舎の10の教室と体育館でパフォーマンスや作品が展示されている。 これを見て回るのだが演劇というより美術展に近い。 モンスター衣装?でのダンス、化学実験のような再現、赤軍派の写真が貼ってある政治オフィス、キャンプの模型・・。
体育館には野戦病院内?の様子が作られている。 室内中庭?には病院のベッドが・・。 ここはキャンプなのか? 配られた解説書をみてやっとわかる。 パレスチナキャンプは聞いたことがあるが、これはフランス移民政策から発生したキャンプのようだ。
移民での一番の問題は宗教だと言っている。 移民政策の失敗の原因はこれか? 作品はこれに答えていない。 世界中のキャンプを視野に入れているからだ。 今年のF/ Tはとても政治的である。
315 :
名無しさん@公演中:2012/11/05(月) 11:30:04.44 ID:WoI17Egg
わ
■アンドロイド版三人姉妹
■演出:平田オリザ、テクニカルアドバイザ:石黒浩、出演:青年団
■吉祥寺シアタ、2012.10.20−11.4
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http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2012/07/post-7.html ■不気味の谷は越えられない。 声に指向性が無い。 ノイマン型CPUでは限界がある。 画期的な技術が出ない限り進められないようだ。 二年前の「さようなら」
>>6から状況は変化していない。 オリザはロボットに直接目を向けなくなったようにみえる。
そしてアンドロイドの限界値を芝居に組み込む方法を考えだした。 アンドロイドは嘘はつかない、素直に口に出す、・・とか。 これを利用して物語をオモシロくさせている。 しかしこれはロボット演劇の亜流である。
チラシを読むと寂しさの本質のありかについて書かれていた。 感情を越えてやってくる寂しさはロボットにも可能だ。 当分この線でいくしかない。 残念だが今日の舞台ではこの線も成功していなかったが。
理由は登場人物が多過ぎてアンドロイドが埋もれてしまい寂しさに辿り着けなかったから。 スピルバーグの「AI」に登場する愛情型少年ロボットのデイビッド、「ブレードランナー」のレプリカントのリーダであるバッティに、舞台で出会えるのは遥か先である。
■1月8日君はどこにいたのか?
■作・演出:アミール・レザ・コヘスタニ
■東京芸術劇場・シアターイースト、2012.11.2−4
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http://www.festival-tokyo.jp/program/12/january8th/ ■携帯電話を使う場面が非常に多いですね。 イランはニュースでしか知らないので観ていても余計遠く感じます。 顔面対話は数カ所しかありません。 日本の芝居でしたら観る気がしないでしょう。
終了後にコヘスタニのトークに出席しました。 これでどういう芝居かがわかりました。 暴力がテーマだということ、1月8日は女性の自由の日、・・などがです。
最後にイランでの上演に拘る理由を話してくれました。 それは芝居に対して<馬鹿馬鹿しい検閲>と<見えない検閲>があります。 英国や日本では<見えない検閲>が見えません。 イランならそれがわかるからです。
<馬鹿馬鹿しい検閲>は法律に記載されていることや世間での表面的な掟などです。 <見えない検閲>は世間の裏側にあるものです。 他者特に母語を話せない人からは見えないものです。 <見えない検閲>の英国や日本の状況も面白かったですね。
■愛の妙薬
■指揮:M・ベニーニ、演出:B・シャー、出演:A・ネトレプコ、M・ボレンザーニ、M・クヴィエチェン、A・マエストリ
■新宿ピカデリ、2012.11.3−9
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http://www.shochiku.co.jp/met/program/1213/#program_01 ■演出家シャーがドタバタな喜劇を避けたいと言っていたけど、その通りの舞台で深みのあるラブコメディにできていた。 但し二幕初めの結婚式場面を除いてだけど。 食事のある場面は難しいわね。 あとはリズムのある流れでとても楽しかったわ。
ネトレプコについてHPはコケティッシュとあるけどちょっと違う。 でも喜劇は合うとおもう。 舞台背景はターナーの風景画のようだから落ち着いて物語に集中できた。 「絵画的二次元と現実的な三次元の物語はマッチする」。 これもシャーの言葉ね。
軽喜劇を12年の一番目に持ってくるのはMETらしい。 しかも常連ばかり、特にシャーは4度目
>>280>>295になるし、これなら初回で点数が必ず入るということ。 気軽に観れるから今年も期待したいわ。
■るつぼ
■作:アーサ・ミラ、演出:宮田慶子
■新国立劇場・小劇場、2012.10.29−11.18
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http://www.nntt.jac.go.jp/play/pdf/20000618.pdf ■現代人は悪魔や魔女がいないとわかっている。 それを前提としているから勧善懲悪劇のようにみてしまう。 しかし似たような状況は現代でもよくあることだから骨身に沁みる。 赤狩りの次をみたアーサー・ミラーの先見の明だ。
ジョンが告解をせず死刑台に登るところが凄い。 これでなければ芝居にならないが。 そして再び、将来死を賭けてこのような状況に陥るのが人間というものだ。 これをハッキリ示している芝居だから怖い。 この芝居自身が魔女の役割を果たしているから。
■レヒニッツ−皆殺しの天使−
■作:エルフリーデ・イェリネク、演出:ヨッシ・ヴィーラ、出演:ミュンヘン・カンマーシュピーレ
■東京芸術劇場・プレイハウス、2012.11.9−10
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http://www.festival-tokyo.jp/program/12/rechnitz/ ■L・ブニュエルの「皆殺しの天使」にレヒニッツ村事件が関わっていたとは知りませんでした。 ブニュエルは勿論知っていたのですよね? ところで今年のF/ Tがやっと見えてきました。 作品の多くに社会の裏側を剥がしていくような力があります。
舞台の5人は意味深なほほ笑みを絶やさず、同じく意味深なセリフを喋りまくります。 同時に下着になったり毛皮コートを着たり、パイやチキン、ケーキを食べたりします。
5人は事件の報告者ですが、物理学の波動か粒子か?の曖昧さを持った観測者のようです。 原作は読んでいませんが人間の歴史が語られた時の曖昧さが上手く表現されている舞台です。 科白の背後を十分に想像できる豊かさを持っていました。
■マノン
■振付:K・マクミラン、演出:M・メイソン、指揮:M・イェーツ、出演:T・ロホ、C・アコスタ、J・マルタン、英国ロイヤル・バレエ団
■ワーナー・マイカル系、2012.11.14−15
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http://www.theatus-culture.com/movie/index.html#a2 ■これだけゴタゴタしている流れをなんとかまとめているのが凄い! 登場しているダンサや役者一人ひとりが意味を持った動きをしているから混沌から逃れられたからよ。 そして二幕のリフトやフィッシュダイブの連続でマノンの娼婦性を強調できた。
これでテーマを戻せたしね。 ニューオーリンズは照明の強さでヨーロッパとの違いを表現できていたのも感心。 濃い雰囲気を漂わせることができた。 でもロホは純真過ぎるわ。 オペラ
>>227と比較すると軽すぎる。 バレエはこのような作品は合わない。
というより合う役者がいないからよ。 ところでカメラは最低だったわ。 ダンサーを追いすぎるからよ。 もう少し引いてどっしり構えて欲しいわね。 映画ではなくバレエを観に来ているんだから。 カメラは大いに反省してちょうだい!
■モリエール・恋こそ喜劇
■監督:ローラン・ティラール、出演:ロマン・デュリス、ラウラ・モランテ、ファブリス・ルキーニ
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http://www.cetera.co.jp/moliere/ ■仏では180万人を動員したらしい。 人生への軽快なリズムがあるからだろう。 この浮浮するリズムが喜劇の源なのだ。 これはシャブロルやレネなどの後期作品も持っている。 まさに仏映画の王道である。
モリエール二度目の投獄後の無名時代の話しらしい。 ある貴族の家に演劇教師として出向くが、ここでの出来事が後の作品に影響しているように描かれている。 悲劇か喜劇かを選択する場面もある。
しかしこの作品では芝居は香辛料の役目である。 演劇人モリエール抜でも楽しめるのが良い。
■ボンビックス モリ WITH ラッシュ
■出演:インバル・ピント&アヴシャロム・ポラック ダンス・カンパニ
■世田谷パブリックシアタ、2012.11.22−24
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http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=fly_p_121122_bombyx_l_pm_poster_2.jpg ■フランスのダンス団だと思っていました。 舞台に仏らしさがありました。 それはピエロの登場や禿頭へのユーモアを感じたからです。 イスラエル? どうしてもアラブ世界を思い描いてしまいます。 でも舞台の色彩がバットシェバ舞踊団に似てますね。
一幕が「ラッシュ」で二幕が「ボンビックス モリ」のようです。 同じ流れの作品です。 人形らしく動く振付はよくみかけますが、この舞台は少し違います。 下手という意味ではなく、それは人が人形の動きをしているようにみえるからです。
女性ダンサーが他ダンサを掴まって人形のように動く場面は感心しました。 二幕の4人の女性ダンサが踊るところは最高でした。 ただし椅子や紐などの道具を前面にだしているのでダンス的感動は起こりません。 どこか懐かしさのあるパフォーマンスです。