“台風被害の記念塔”を保存
商業史博物館があり、「浪華紙魚百景」のロゴマークデザインにもなっている「谷岡記念館」は、
白い外壁とアーチ型の窓枠、入り口周辺のグリーンタイルやその上にそびえる時計塔など、
その外観はキャンパスの中でひときわ異彩を放ち、平成12(2000)年4月には造形の規範となる歴史的建造物として、
国の有形文化財に登録されている。
これから秋口にかけては台風の季節であるが、同館の建設は台風による災害が契機となっている。
昭和9(1934)年9月21日午前8時ごろ阪神地方を直撃した室戸台風は、
最大瞬間風速が60メートルを超える超大型で、大阪府内における死者は1812人、重軽傷者9008人、
行方不明者76人を数え、3万戸近い家屋が全壊・半壊の被害を受けた。
当時大阪城東商業学校であった本学も、木造校舎の3分の2が倒壊し、幸い死傷者はなかったが、
その被害の甚大さに、廃校か再興かの岐路に立たされた。
しかし、これを教訓として、災害に強い鉄骨鉄筋コンクリート造4階建ての本館(現・谷岡記念館)の建築に踏み切る決断をし、
各方面に寄付金を募るとともに、学校としては珍しい債券を発行するなどして復興資金を工面し、総工費30万円を賄った。
昭和10(35)年12月に落成した本館は「白亜の殿堂」と学歌に歌われ、以後多くの学生を育んできた。
この建物の岐路は施設の老朽化が目立つようになった昭和50年代である。
約半世紀の風雪に耐えて白壁が剥落し鉄筋が露出したり、窓枠の腐食などが進んでいた。
この時、本館の位置が悪いこともあり、解体か保存かで議論が起こった。
しかし、学園のシンボルであり歴史の礎となったこの建造物は、移転・保存されることになる。
工事はまず総重量4600トン余りに及ぶ本館を曳家(ひきや)工法で北へ32メートル斜行移動する大移設工事から始まった。
昭和55(80)年4月のことである。地表より2・7メートル掘り下げ、レールを敷設し、
建物の基礎を支える各柱脚に転動装置を設けて、1日に数十センチの割合で移動させた。
当時この本館で執務をしていた元職員真鍋俊二郎氏によれば、建物の動きはほとんど目では確認できないほどであったが、
じっと見ていると、「動いたかな? アッ、ちょっと動いたであれ、アッ、動いた動いた!」というほどの感じであったという。
移設後に改修工事が進められ、昭和58(83)年10月、
館内に学園史料室や商業史資料室などの展示室を備えた「谷岡記念館」として生まれ変わる。
そして、明後日8月9日は、昭和55年に移設工事が完了し、「谷岡記念館」の再生に向けた大きな一歩を踏み出した日である。
(大阪商業大学商業史博物館学芸員・池田治司)
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/130807/20130807036.html