三島由紀夫もまた、少し前に文壇に登場した新進作家だった。その新作である『禁色』
が評判だった。青猫座以来つきあいのあった女優たちがしきりに噂(うわさ)
していたので、ぼくはその小説を読んだ。そして打ちのめされた。こんな凄(すご)
い文章が書けなければ作家にはなれないのかと思い、絶望した。
この作家は、ぼくの「作家にでも」といういかにも軽い考えを根本から打ち
消してくれ、作家になるならそれなりの修業が必要であることを教えてくれたのである。
そのお蔭(かげ)でぼくは、マスコミによって便利に消費されてしまうような
作家には、ならずにすんだのかもしれない。
その文章はたしかに美文ではあるが、論理性を持った美文で、警句や箴言(しんげん)
が散りばめられていた。その才能は驚くべきものだった。描写力、
表現力もさることながら、実社会や裏社会の知識もまた作家の年齢からは
考えられぬほどの豊かさに満ちていた。テーマは男色だったが、
まだ日本では知られていなかったゲイというアメリカの俗語もただ一か所、
ゲイ・パーティということばで紹介されていた。
こんな最近の風俗まで熟知しているのかとぼくは感心した。
物語は男色と美学と当時の風俗をからませた重層的な運びで進展していく。
主人公の悠一はこの世ならぬ美男子であるが、
彼に目をつけた老作家は彼を使って、昔自分を苦しめた女たちに復讐(ふくしゅう)
しようと企てる。スタンダールの『赤と黒』のように、
女たちはたちまち主人公に籠絡(ろうらく)されていく。
ジュリアン・ソレルと大きく異なるところは、
悠一自身は女に関心がなく、そして彼には男も夢中になるのである。
続編の『秘楽(ひぎょう)』も読んだが、当然のことだが『禁色』の展開の
凄さはなかった。
◇
以後、ぼくは三島作品が出るたびに読み耽(ふけ)
るようになるのだが、後年、その三島の名を冠した文学賞の
選考委員になり、大江健三郎や石原慎太郎と席を同じうするなどとは夢にも
思っていなかったし、三島由紀夫を論じた「ダンヌンツィオに夢中」
という評論を書くことになるとも思っていず、
また、蜷川幸雄の演出で三島由紀夫の戯曲『近代能楽集』の中の「弱法師(よろぼし)」
に出演し、全国を巡演したあと、イギリスに遠征してバービカン劇場で
公演することになろうなどとも思っていなかったのである。
◇
1951年刊行。その第2部として53年刊行の『秘楽』
と合わせ『禁色』として新潮文庫。
http://book.asahi.com/hyoryu/TKY201001120288.html