2000年12月29日 05:01 東京ビッグサイト・北1駐車場入口
動き出す、朝
「しっかし、こんな時間から幹部会議とは、遥さんも大変やのぅ…あちちちっ」
熱々のはんぺんを頬張りながら、朝倉が呟く。
「…………」
横にいる由希から、返事が返ってこない。
「…………くー」
代りに、寝息。
「寝んな、おい。むちゃむちゃ高いおでん奢らせといて、一口も手ぇつけんってのは
どーいう了見や、こら」
「…………むー」
屋台のオヤジの、苦笑い混じりの睨みも気にしない朝倉の言葉に、由希が寝ぼけ
半分で答える。朝倉は、やれやれといった風に由希から視線を外し、ライトが煌々と
照らす駐車場を、ぼんやりと眺めた。
雪は、しんしんと降り続けていた。低くたちこめた雲が全天を覆い隠し、未だに空は
暗く沈んだまま。太陽が昇るのは、まだ先の事だ。
フェンスの向こう、ライトの光に浮かび上がるように、地には無数の影。愚か者と
いう名の生き物が作ったキャンピング村が、其処にあった。無数のテントや段ボール
箱が並び、その一画をコーンとテープが隔離している。テープには、『Keep Out』と
目立つ文字が書かれていた。
更にそれを取り囲むように、警官や警備員。そして、彼らにも増して重装備な、安全
管理担当スタッフ。機動隊もかくも、と思わせるような威圧感。
「……(キツい冗談やな。まるで事件現場を保全しとるみたいや)」
そんな事を思いながら、朝倉は大根を口へと運ぶ。ちょっと固い。
「もうぼちぼち、タクシーの通りが多くなっても良さそうな時間なんだけどねぇ……」
唐突に、屋台の親父が話しかける。
「ん、あぁ。確かにJRの始発プラスタクシー組が着いてもおかしくない時間やな」
視線を湯気越しのオヤジへと戻しながら、朝倉が答える。「けど、今回は親王はんが
おいでになるとかで、検問がバリ激しいねん。それに積雪のオマケ付きやから、
そんなスピード出せへんしな」
朝倉は、卵をぱくつきながら、何気なく言う。
「今年最後の稼ぎ時と思ってたら、初日の出だしはそんなにって感じだなぁ……」
オヤジが、残念そうに笑う。「確か、今回で終わりなんだろ? この祭り」
「……あぁ。これが、最後や」
寂しそうに答える。卵の欠片を飲み込むと、後ろを振り返り、遠くを見つめる。
高架を、ゆりかもめの車両が回送されて行くのが目に入る。新橋発の始発列車だ。
今は無人の車両だが、此処へ帰ってくる時には、限界にまでコミケ参加者を詰め込んで
来るのだろう。参加者にとって、第一の戦場の内の一つ。
「……動き出したな」
つい、口をついて出る言葉。コミケットの参加者達には、なんだかんだと不評ばかり
言われ続けたゆりかもめだったが、朝倉は結構この乗り物が好きだった。。
どれだけ罵られ、時にはトラブルを抱え、それでもコミケが有明に移ってからの
数年間、重たい客と荷物を詰め込まれながら走り続けた其れが、なんだか戦友のような
気さえしていたのだ。----ただ、一般参加者に押しつぶされながら、ゆりかもめに揺ら
れた経験が無いというのも、彼に幻想を抱かせた要因の一つではあるだろう。
感慨深げに紡ぎ出された、そんな朝倉の言葉に合わせたかのように、
「……おはようございます……」
先程まで、頭を朝倉の肩に預けていた由希が、ゆっくりと体を起こした。小さな
あくびをしながら、目尻をごしごしと擦っている。でも、半分以上、夢の中。
「おはようさん……でも、ゆりかもめ君のがもっと、早起きやったな」
「……むー……?」
朝倉は、事情の解っていない由希の頭をぽんぽんと叩くと、小さく笑った。
2000年12月29日 05:05 東京ビッグサイト・会議棟 610会議室
不安予報
冷たく重い空気の中に、その者達は押しつぶされていた。
会議棟、逆三角の中にある会議室。照明こそ点いているものの、暖房は全く機能
していない。そこに、遥を始めとしたホール長クラス辺りを底辺に、準備会の幹部
スタッフ達が集まっていた。招集の電話がかけられてから、今からまだ一時間と
経ってはいない。それにも関わらず、集合時間の五時の段階で、招集のかかった人間は
一人残らず、着席を終えていた。
しかし、主役である筈の代表の姿は、其処には無かった。それどころか、正面の
席には未だ、誰一人として座っていない。
遥は、一番窓際の席に座りながら、眼下の風景を何気なく眺めていた。視界に
広がるのは、西ホール。ライトに照らされたトラックヤードのあちこちに見える
人影は、警備のための警官や機動隊員達だ。西ホールのアトリウムで親王殿下が開会
宣言をされるまで、あと五時間足らず。その警備状況は、素人目の遥にもはっきりと
解るほどに厳戒だ。
「なに、見てるの?」
不意に、遥の隣に座っていた古賀葵----東4ホール・ホール長付----が、横から
顔を出す。遥がホール長となってから、色々と世話を焼いてくれたお節介たちの一人。
「何を見てた……ってわけじゃないよ。ただの時間つぶし」
そう言って、遥は苦笑いをする。
「ふぅん。……あ、遥ちゃん、目が赤いよ?」
「……そりゃあ、眠ってないからね……って言うか、ホテル浦島組の面子は、みんな
そうだけど。全員、一階のロビーで侃々諤々とやってたし……」
更に苦笑いの度を深めながら、遥が答えた。もちろん、遥もその輪に入っていた
うちの一人である事は、言うまでもない。
「あ、私も同じ。ワシントンのロビーで似たようなことやってた」
古賀が、自分を指さしながら、にへっと笑う。
「……昨日の事件、知っちゃったら……誰だって眠れないと思うよ。少なくとも、
此処にいるみんなはね」
最後に、そう締め括って。
「……そうだね」
遥は、ただ頷いた。何を思って眠れなかったのか。それは個人個人で違うのだろう
けれど。
扉が開く音。話し声はその瞬間に途切れ、会議室に入ってくる者の足音だけが、
部屋に響いた。彼等がそれぞれの席に着座すると、もはや物音らしい物音は何一つ、
しない。その場にいる者の息づかいだけが、小さく耳に届く。そして、
「コミックマーケット59は、予定通り開催する」
開口一番、館内総統括の唐突な宣言に、静まり返っていた室内が微かにざわめいた。
斯くして、緊急幹部会議は始まった。正面のテーブルを陣取るは、副代表を始めと
して、館内総統括や統括部室長、サークル対応係統括等といった、館内担当関係を
主としたお歴々。正面テーブルに座りきらなかった統括たちも、『聴衆』達の最前列に
着席している。
そして、其処にも米沢代表の姿は無かった。
室内のざわめきが一段落したころ、スタッフの一人が挙手をして立ち上がる。
「……昨夜の乱闘事件が、今回の開催に何らかの影響を及ぼすのは必至だと思うの
ですが、その点は一体……?」
その場に集った『聴衆』達の全員が持っていた、不安である。
逮捕者が出た。それも、会場内で、サークル参加者という純然たるコミケットの
参加者が加害者として起こした、大規模な暴力事件で。本来なら、いつ中止命令が
飛んできてもおかしくない状況の筈だ。事実、この場の半数以上のスタッフが、
最早コミケット59の開催は無い、と、覚悟を決めてきていた。音の途切れた部屋に、
総統括の言葉が響く。
「昨日の乱闘事件とは、一体なんだ?」
質問をしたスタッフが、思わず息をのむ。再び、室内をさざ波のようなざわめきが
走った。
「乱闘事件など、はじめから存在しない。印刷や宅配関係の業者が自らの不注意で
怪我をしたり、軽トラが急ハンドルで横転したという、些細な事故はあったがな」
言い含めるように、さらに言葉を被せる総統括。
「野次馬のサークル参加者が騒いだために、その場にいたスタッフが何か勘違いをして
警察に通報してしまったようだ。有らぬ誤解を招いたことは、遺憾に思う」
「……遥ちゃん……どういう事?」
古賀が、眉を曇らせながら呟いた。
「……無かったことにした訳よ。昨日の事件をね」
遥は無表情に正面を見据えたまま、そう答えた。もっとも、そんな事が準備会の
一存だけで行える筈もない。
先日、都内で予定されたジャンルオンリーの即売会が、当日になってから中止に追い
込まれた。理由は、一般参加列で起きた些細ないざこざ。それを見て不安に思った
住民が警察に通報すると、直ぐに警官が駆けつけて来て、参加列を散らしていった
のだ。そして、有無を言わさずイベントを中止させた。参加サークルも頒布用意が
調い、あとは五分後の開場を待つだけの状態だったにも関わらず。
秋の池袋の事件以来、警察----いや、世間そのものと言ってもいい----の即売会に
対する視線は、厳しさを増す一方だった。自分の我欲をコントロールできない大人達が
大量に集まる、それが同人誌即売会。そういうレッテルを貼られたイベントに、最早
多少のトラブルのお目こぼしすら、期待するだけ無駄というものの筈だった。
その警察にまで手を回して、明らかに事件性のある乱闘騒ぎを握りつぶすことが
出来るのは、誰か。それを行える機関なり人物といえば、かなり限られる。だけど、
何故? どんな理由があって? 何のメリットがあって、この最後のコミケットを
行わせようと言うのか……?
遥は其処で、思考を停止させた。この件でこれ以上考えるのは、遥達コミケスタッ
フに取って無駄な事だ。コミケット59は、開催される。それが決まった以上、他に
考えなければいけない事は、山のようにあるのだから。
「この件に関しては、西ホールの地区長代行以下数名が、湾岸署に出向いて説明を
行っている。諸君も、この件に関する対応は私が今言った通りで、宜しくお願いする」
最後に、館内総統括がそう締め括り、一同を見渡した。その視線の鋭さに、皆が
言葉を失ったかのように静まりかえる。
「……引き続き、サークル対応係統括から、緊急連絡を伝えます」
総統括の隣の男が立ち上がり、机から書類を取り上げた。
「先日の午後、コミケ新刊を積んだパリカン便のトラックが、首都高で事故を起こした
のは、皆さんご存じのことと思います」
「……」
沈黙。誰一人、口を開こうとはしない。この事件では死者も出ている。軽々しく
言葉にすることは、流石に躊躇われた。
「亡くなられた方には、謹んで哀悼の意を……えー、今回の事件では、計三台の
トラックが炎上、大破しており、その貨物である新刊の梱包の殆どが消失しました」
そして、この件がきっかけとなって、昨夜の『事故』が起きた。一つの悲劇から、
次の悲劇が生まれたのだ。願わくば、これ以上の悲劇の玉突きだけは、何としても
起きないようにしなくては……そう、堅く心に決めた者は多い。
しかし……悲劇の誘発は、まだ始まったばかり。
「……これにより、多数のサークルで予定搬入量の減少という事態が発生しています。
事故を起こしたトラックの内、10t二台が主に西地区、10t一台が東123地区の
梱包を積んでいたため、それらの地区ではかなりの混乱が予想されます」
統括の言葉に、西と東123地区の担当者から、悲鳴にも似た嘆きの声が漏れる。
「被害サークルは殆どが大手、男性向けに集中しています。彼らが新刊を売り切れば、
一般参加者はまだ売り切っていないサークルを求めて大移動するでしょう。西から
東へ、また、東123から東456へ。後で、公共地区担当総括から説明が----」
遥は、先ほど配られた手元の資料に目を落とす。各ホールの新刊搬入数、搬入率の
数字から見て、東456地区の混雑のピークは、恐らく午後一時前後。そこからは、
断続的に混雑が続くだろうと予想する。西と東123のトラックヤードに並んでいた
大手買いの参加者が、東456に集結し、一日目閉会まで人波が途切れることは無い。
「……随分とキツい状況ね」
遥は小さく苦笑いをこぼした。
2000年12月29日 05:32 東京ビッグサイト・会議棟 609会議室
駆け上がる螺旋
「……以上、今朝の緊急幹部会議の報告を終わります」
「うん、ご苦労様」
「…………いよいよ、最後の祭りが始まるな」
「あぁ」
「……これで終わりか……」
「……何故、コミケは今、終わるんだ?」
「コミケットと僕たちの関係を、もう一度見つめ直してもいい時期だと思ったからさ」
「そうだな……懐かしむなんて柄じゃないが、昔に戻りたいと思うことは何度と
なくあったよ。コミケという円環を、しっかりと守ることが出来たあの時期にな」
「有明にきてからだね……急激な変化に着いていけなくなり始めたのは」
「企業ブース、小遣い銭稼ぎのプロ作家に、大量生産の萌えキャラ……馴染みすぎ
たんだ、コミケットにな。そいつらを目当の参加者が、グッズや商業誌を買うのと
同じ感覚で、見栄えだけはいい同人誌を漁っていく……」
「新たなものが生まれすぎたんですよ、ここ数年で。あくまでも、主役は創作
物を紡ぐ全てのアマチュアサークルだという、コミケの理念を揺さぶるほどの
勢いで」
「変わっていったのと同じだけの時間……元に戻していくための時間が必要という
事だろう。コミケが開催し続ける限り、其れは出来ない相談だ。だからこその
『一時休止』と言う訳か」
「……コミケに新たな流れが入れば、それを新たなコミケットとして考えれば
いいのではないですか? 同人そのものにしても、一つところに形をとどめ、
何も変わらない世界という訳ではないでしょう」
「準備会は変化をを黙認しつつ、其れを必ずしも是とはしてこなかった。今までも
そうだったし、これからも変わりはない」
「前進のない停滞は、やがてコミケットを、引いては同人自体を滅ぼしますよ」
「……コミケットに新たな何かを取り込むには、相応の痛みが伴うだろう。その
痛みは、或いは既存のコミケットを壊してしまう程のものかも知れない。だが、
それを恐れるあまり、新たに根付こうとしているもの全てを否定していいのだろう
か? よりよい姿に変わっていく可能性もあるというのに」
「コミケ創成時から共にやってきた仲間の言葉か、それが。……我々は二十五
年間、コミケがコミケのままで有り続けることを望んで、今日までやってきたん
じゃないか。それを----」
「しかし、此処にいる誰もが、今の閉ざされたコミケットに満足していない。あんた
もだ。違うか?」
「……」
「俺達だけじゃない、参加者の多くも、そう感じているはずだ。この閉塞したコミ
ケットを、何とかしなくてはいけない、とな。あんたはより慎重で、俺はより積極
的……それだけの違いだ」
「今のコミケットを保ち続けるのは、単なる停滞に過ぎません。停滞を続ける
だけでは、我々に未来はないですよ。私たちは、自分の手で未来を閉ざしている
のではないでしょうか」
「……」
「コミケットを維持するのではなく、コミケットを広げていくために、新たな
力を積極的に手助けしていく。確かに、今までのコミケットにはなかった考え方
でしょう。ですが、今までにない考え方だからといって、頭ごなしに否定できる
とは思わないんです」
「そう考えて、思い当たったんだよね。コミケットと僕たちのあり方を、もう一度
見つめ直すのも悪くないとね」
「今までと同じ、ただ維持するだけの営みを、これからも続けて行かねばなら
ないとは思えないのです。うまく言葉に出来ませんが、もっと違ったやり方も
あるのではないかとね」
「……お前達は、自分の言っていることを理解しているのか? それは我々
準備会……いや、即売会、そして同人全体の有りように問いかけを発しようと
しているんだぞ?」
「閉じた円環は、停滞するだけなんだよね。……僕たちは長い時間、近代同人を守ろう
とし続けてきた。今までの四半世紀は、其れで良かったのかも知れない。だけど、次の
四半世紀も同じようにするのが最良ではないかも知れない。コミケットを、同人の変化に合わせて、大きく変えていく可能性を探すのは、悪い事じゃないよ」
「俺達は二十五年の間、円環を保ち続けてきた。そのあり方をもう一度考えるに、
十分な時間が流れたのは確かだ。新たな可能性を探ることも……必要なのかも知れ
ない」
「……二十五年の時が巡り、読み手やサークルの壁を越えて、多くの者が同人の
在り方を思索しようとしている。……だが、まだ誰も、確たる答えを得ては
いない。どれほど思索を巡らせばいいのかも解らない。今と違った同人の在り方を
見つけられるかどうかも解らない。それでも、お前達は考えたいというのか?」
「僕たちには、時間が必要なんだ。同人の在り方に思いを巡らせる、ね。あらゆる
参加者達の言葉を聞いて、今までのコミケットの姿を見極める。それでなお、新たな
同人の姿に可能性を見出すなら……」
「……」
「その時こそ、新たなコミケットを始めよう」
「……私はそろそろ総本部に戻らないといけない時間ですので」
「うん、解った。悪いね……僕が居ると、色々な混乱を招くと思って身を隠したわけ
だけど、其れによってまた別の混乱を、君に押しつけることになってしまった」
「構いません。それで、この最後のコミケットが、より円滑に進むので
有れば、私は喜んで忙殺されますよ」
「最後の、ではないよ。あくまで、一時休止だ。忘れちゃ駄目だよ」
「はい……それでは、失礼します」
扉が閉まる。彼以外に人の気配のない廊下。扉を背に、暫く中空を見つめていた。
溜息を一つ。そして、歩き出す。
「……ご老体共の戯れ言だ……耳を傾ける必要など、最早どこにもない」
小さく呟く。まるで、自分自身にそう言い聞かせるような口調で。そうでもしない
と、自分自身がその言葉に絡め取られてしまいそうな、そんな気がして。
『彼等と自分は、確かに同じものを見ていた』
だが、その道は、もう交わることはない。未だに幻想から覚めやらない彼ら重鎮と、
同じ道を歩くことはないのだ。そう、しっかりと暗示をかける。
コミケットは、完全に終わるべきだ、と。
我ながら、とんでも無い異論だとは思う。しかも、準備会の上級幹部の身で有れば、
尚更だ。
「……何時から、俺はこんな異端者になっちまったかな」
呟きと共に吐き出された白い息が、後ろへと流れていく。エントランスホールへと
下る、長い長いエスカレーターの上に立ち、独りごちた。
ふと、ガラスの向こうを見渡せば、既にエントランスプラザを埋め尽くした、西側の
入場待機列。そして、こちらでも彼らを取り囲むように、警官や安全管理担当の
スタッフ達が見て取れる。
あぁ、そうか。彼は思い当たる。"あいつら"が、安全管理担当という部署を捏造して
からだ……。
言葉による注意だけでは、モラルどころかルールすら守らない参加者が増えたのは、
事実だ。毅然とした態度----即ち強制力----で彼等に立ち向かうことが出来ればと
思ったことも、確かにある。
しかし、力で押さえつければ、人は憎しみや嫌悪を募らせていくだけなのだ。
それは、押さえつけられた本人以外にも、急速に伝播していく。例えその力が、
どんな正論で飾られていたとしても。
仮に、そうやって排斥しても、不良参加者達はまたイベントに舞い戻ってくる。
スタッフの目をかいくぐる新たな知恵と、スタッフ達への負の感情を抱いて。
同人は、狭い世界だ。何度だって、彼らと出会っていかなくてはならない。
そして、即売会はコミケだけではない。安全管理担当のような部署を持ち得ない
それらの即売会に、コミケで手負いにした不良参加者をを解き放つことになる。
確かに、コミックマーケットは世界最大の同人誌即売会だ。ある意味、同人における
デファクトスタンダードと言ってもいいだろう。だからと言って、何をしても許される
のか。準備会は、同人において無条件な正義なのか。
「そんな訳は無い」
男は、無意識のうちに呟く。
……俺達は、あくまで言葉という『表現』で、彼等に語らなければならないんだ。
同人イベントの長、あらゆる表現の担い手……コミックマーケットがその努力を放棄
するなぞ……あってはならない筈だったのにな。
男は、解っていた。安全管理担当を承認した連中が守りたいものは、『自分たちの
居場所であるコミックマーケット』でしかないことを。同人や、それを育む参加者
達の事など、露程も考えてはいない。
サークルと読み手の邂逅を手助けする。その理念を忘れたコミックマーケットに、
もはや未練など、感じよう筈もなかった。
「秋月さん」
エスカレーターを降りきったところで、男の直属のスタッフが待っていた。
「どうした」
「館内担当、及び安全管理担当の統括部から、西地区で不穏な動きがあ----」
男は、それ以上の発言を、片手を上げて制止する。
「誰が聞いているか解らん。詳しくは別室で聞く」
「は、はいっ」
男は、西地区アトリウムへと続く通路を軽く一瞥すると、背を向けて、東地区への
総本部へと歩みを進めた。
男の名は秋月耕平。館内担当総統括を務めている。
2000年12月29日 06:32 東5ホール詰所
終わりの始まり
「おはようございます!」
東5ホール館内担当、一日目総勢八十八人の前に立ち、遥が大きな声で挨拶をする。
「おはようございます!!」
大きな声で、挨拶を返すスタッフ達。冷たくざらついた空気の中、白い息が天井へと
舞い上がっていく。ホール内に暖房が入るのは、もう少し後のことだ。
「えー、雪にも検問にも、お巡りさんのボディチェックにもめげず、よく集まって
くれました」
あちこちから笑い声。
「えー、三拡以来のご無沙汰です。最初で最後、東5ホールのホール長を押しつけられ
ました笹島です。どうぞ宜しくお願いします」
遥が、ぺこりと頭を下げると、一斉に拍手が巻き起こった。
「女性ホール長ゆーのも、最初で最後やな。まぁ、頼りなさそうに思えるかもしれへん
けど、実際頼りないんで、しっかりフォロー宜しゅ----あ痛ァっ!」
横からの朝倉の茶々入れに、すかさず手に持っていた書類を丸めて、二発ほどどつき
を入れる遥。
「とまぁ、ふざけた仕事をしてたり、さぼってたりするスタッフや、朝倉君を見かけ
たら遠慮なくどつきますので、精々頑張って自分のお仕事して下さいね」
「ちょい待ちっ、ワイは無条件でどつかれなあかんのかいっ」
珍妙な二人のトークに、再び笑い声があがる。
「まぁ、掴みはこれくらいにして……本日の天気は、朝方までは雪。その後は閉会まで
曇りだそうです。なお、今回の全導線は雨シフト対応と言うことになりますので、
頭に入れておいて下さい。あと、トラックヤードの雪がお昼までに片づかない場合は、
犬と鳥の受付も雨シフトになりますので、案内をお願いします。ガレリアの東4側が
パリカン、東6側がフットワークになります。それと----」
「あ、すんません。ぼちぼち外周ブロック打ち合せがあるんで、抜けさせて貰います
よって」
朝倉が、手を挙げて遥の朝礼を遮る。
「解った。東456地区の外周ブロ担全体朝礼があるので、シブロック担当のスタッフ
さんは朝倉君について移動して下さい……場所は外周テントでいいの?」
「入場前から雪まみれにする気かいっ。見本誌部屋ですわ」
「ということだそうですので、宜しく。あと、サークル入口担当もそろそろ用意を
始めてくれるかな。スケジュール、多少前倒しにするかも知れないから」
指示を受けたスタッフ達が、床から腰を上げ始める。
「あと、今から移動していくみんなに、最後に」
遥が、凛とした声で呼び止める。
「……これが、最後のコミケットです。此処に来る参加者達は、数の上でも、意気
込みでも、過去のコミケットに比べて確実に勝るでしょう。同じように、スタッフの
みんなにも、数でも、規模でも、今まで以上の危難が降りかかると思う……」
その場のスタッフ達が、緊張のあまりに息をのむ。
「でも、負けないで。あなた達は、終わるコミケットという、ある意味危機的な状況
にも関わらず、それを承知でスタッフになった……酔狂だけど、やる気と自信と根性を
持った人達だから、きっと大丈夫だと信じています。『全ての人が楽しいコミケットの
進行』というのが、初日の目標……無事に目標を達成して、此処に居るみんなが
笑顔で、一日目の終礼を迎えたいと思います。いってらっしゃい、頑張って」
そう言って、にっこりと微笑む遥。そして、その直後に、歓声。
斯くして、一日目の幕が上がる。