終わるコミケット#3 おもいでコミケット

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37名無しさんi286
2000年12月29日 05:01 東京ビッグサイト・北1駐車場入口

 動き出す、朝

「しっかし、こんな時間から幹部会議とは、遥さんも大変やのぅ…あちちちっ」
 熱々のはんぺんを頬張りながら、朝倉が呟く。
「…………」
 横にいる由希から、返事が返ってこない。
「…………くー」
 代りに、寝息。
「寝んな、おい。むちゃむちゃ高いおでん奢らせといて、一口も手ぇつけんってのは
どーいう了見や、こら」
「…………むー」
 屋台のオヤジの、苦笑い混じりの睨みも気にしない朝倉の言葉に、由希が寝ぼけ
半分で答える。朝倉は、やれやれといった風に由希から視線を外し、ライトが煌々と
照らす駐車場を、ぼんやりと眺めた。

 雪は、しんしんと降り続けていた。低くたちこめた雲が全天を覆い隠し、未だに空は
暗く沈んだまま。太陽が昇るのは、まだ先の事だ。
 フェンスの向こう、ライトの光に浮かび上がるように、地には無数の影。愚か者と
いう名の生き物が作ったキャンピング村が、其処にあった。無数のテントや段ボール
箱が並び、その一画をコーンとテープが隔離している。テープには、『Keep Out』と
目立つ文字が書かれていた。
 更にそれを取り囲むように、警官や警備員。そして、彼らにも増して重装備な、安全
管理担当スタッフ。機動隊もかくも、と思わせるような威圧感。
「……(キツい冗談やな。まるで事件現場を保全しとるみたいや)」
 そんな事を思いながら、朝倉は大根を口へと運ぶ。ちょっと固い。
38名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:36
「もうぼちぼち、タクシーの通りが多くなっても良さそうな時間なんだけどねぇ……」
 唐突に、屋台の親父が話しかける。
「ん、あぁ。確かにJRの始発プラスタクシー組が着いてもおかしくない時間やな」
視線を湯気越しのオヤジへと戻しながら、朝倉が答える。「けど、今回は親王はんが
おいでになるとかで、検問がバリ激しいねん。それに積雪のオマケ付きやから、
そんなスピード出せへんしな」
 朝倉は、卵をぱくつきながら、何気なく言う。
「今年最後の稼ぎ時と思ってたら、初日の出だしはそんなにって感じだなぁ……」
 オヤジが、残念そうに笑う。「確か、今回で終わりなんだろ? この祭り」
「……あぁ。これが、最後や」
 寂しそうに答える。卵の欠片を飲み込むと、後ろを振り返り、遠くを見つめる。
高架を、ゆりかもめの車両が回送されて行くのが目に入る。新橋発の始発列車だ。
今は無人の車両だが、此処へ帰ってくる時には、限界にまでコミケ参加者を詰め込んで
来るのだろう。参加者にとって、第一の戦場の内の一つ。
「……動き出したな」
 つい、口をついて出る言葉。コミケットの参加者達には、なんだかんだと不評ばかり
言われ続けたゆりかもめだったが、朝倉は結構この乗り物が好きだった。。
 どれだけ罵られ、時にはトラブルを抱え、それでもコミケが有明に移ってからの
数年間、重たい客と荷物を詰め込まれながら走り続けた其れが、なんだか戦友のような
気さえしていたのだ。----ただ、一般参加者に押しつぶされながら、ゆりかもめに揺ら
れた経験が無いというのも、彼に幻想を抱かせた要因の一つではあるだろう。
 感慨深げに紡ぎ出された、そんな朝倉の言葉に合わせたかのように、
「……おはようございます……」
 先程まで、頭を朝倉の肩に預けていた由希が、ゆっくりと体を起こした。小さな
あくびをしながら、目尻をごしごしと擦っている。でも、半分以上、夢の中。
「おはようさん……でも、ゆりかもめ君のがもっと、早起きやったな」
「……むー……?」
 朝倉は、事情の解っていない由希の頭をぽんぽんと叩くと、小さく笑った。
39名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:37
2000年12月29日 05:05 東京ビッグサイト・会議棟 610会議室

 不安予報

 冷たく重い空気の中に、その者達は押しつぶされていた。

 会議棟、逆三角の中にある会議室。照明こそ点いているものの、暖房は全く機能
していない。そこに、遥を始めとしたホール長クラス辺りを底辺に、準備会の幹部
スタッフ達が集まっていた。招集の電話がかけられてから、今からまだ一時間と
経ってはいない。それにも関わらず、集合時間の五時の段階で、招集のかかった人間は
一人残らず、着席を終えていた。
 しかし、主役である筈の代表の姿は、其処には無かった。それどころか、正面の
席には未だ、誰一人として座っていない。

 遥は、一番窓際の席に座りながら、眼下の風景を何気なく眺めていた。視界に
広がるのは、西ホール。ライトに照らされたトラックヤードのあちこちに見える
人影は、警備のための警官や機動隊員達だ。西ホールのアトリウムで親王殿下が開会
宣言をされるまで、あと五時間足らず。その警備状況は、素人目の遥にもはっきりと
解るほどに厳戒だ。
「なに、見てるの?」
 不意に、遥の隣に座っていた古賀葵----東4ホール・ホール長付----が、横から
顔を出す。遥がホール長となってから、色々と世話を焼いてくれたお節介たちの一人。
「何を見てた……ってわけじゃないよ。ただの時間つぶし」
 そう言って、遥は苦笑いをする。
「ふぅん。……あ、遥ちゃん、目が赤いよ?」
「……そりゃあ、眠ってないからね……って言うか、ホテル浦島組の面子は、みんな
そうだけど。全員、一階のロビーで侃々諤々とやってたし……」
 更に苦笑いの度を深めながら、遥が答えた。もちろん、遥もその輪に入っていた
うちの一人である事は、言うまでもない。
「あ、私も同じ。ワシントンのロビーで似たようなことやってた」
 古賀が、自分を指さしながら、にへっと笑う。
「……昨日の事件、知っちゃったら……誰だって眠れないと思うよ。少なくとも、
此処にいるみんなはね」
 最後に、そう締め括って。
「……そうだね」
 遥は、ただ頷いた。何を思って眠れなかったのか。それは個人個人で違うのだろう
けれど。
40名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:38
 扉が開く音。話し声はその瞬間に途切れ、会議室に入ってくる者の足音だけが、
部屋に響いた。彼等がそれぞれの席に着座すると、もはや物音らしい物音は何一つ、
しない。その場にいる者の息づかいだけが、小さく耳に届く。そして、
「コミックマーケット59は、予定通り開催する」
 開口一番、館内総統括の唐突な宣言に、静まり返っていた室内が微かにざわめいた。

 斯くして、緊急幹部会議は始まった。正面のテーブルを陣取るは、副代表を始めと
して、館内総統括や統括部室長、サークル対応係統括等といった、館内担当関係を
主としたお歴々。正面テーブルに座りきらなかった統括たちも、『聴衆』達の最前列に
着席している。
 そして、其処にも米沢代表の姿は無かった。

 室内のざわめきが一段落したころ、スタッフの一人が挙手をして立ち上がる。
「……昨夜の乱闘事件が、今回の開催に何らかの影響を及ぼすのは必至だと思うの
ですが、その点は一体……?」
 その場に集った『聴衆』達の全員が持っていた、不安である。
 逮捕者が出た。それも、会場内で、サークル参加者という純然たるコミケットの
参加者が加害者として起こした、大規模な暴力事件で。本来なら、いつ中止命令が
飛んできてもおかしくない状況の筈だ。事実、この場の半数以上のスタッフが、
最早コミケット59の開催は無い、と、覚悟を決めてきていた。音の途切れた部屋に、
総統括の言葉が響く。
「昨日の乱闘事件とは、一体なんだ?」
 質問をしたスタッフが、思わず息をのむ。再び、室内をさざ波のようなざわめきが
走った。
「乱闘事件など、はじめから存在しない。印刷や宅配関係の業者が自らの不注意で
怪我をしたり、軽トラが急ハンドルで横転したという、些細な事故はあったがな」
 言い含めるように、さらに言葉を被せる総統括。
「野次馬のサークル参加者が騒いだために、その場にいたスタッフが何か勘違いをして
警察に通報してしまったようだ。有らぬ誤解を招いたことは、遺憾に思う」
41名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:38
「……遥ちゃん……どういう事?」
 古賀が、眉を曇らせながら呟いた。
「……無かったことにした訳よ。昨日の事件をね」
 遥は無表情に正面を見据えたまま、そう答えた。もっとも、そんな事が準備会の
一存だけで行える筈もない。
 先日、都内で予定されたジャンルオンリーの即売会が、当日になってから中止に追い
込まれた。理由は、一般参加列で起きた些細ないざこざ。それを見て不安に思った
住民が警察に通報すると、直ぐに警官が駆けつけて来て、参加列を散らしていった
のだ。そして、有無を言わさずイベントを中止させた。参加サークルも頒布用意が
調い、あとは五分後の開場を待つだけの状態だったにも関わらず。
 秋の池袋の事件以来、警察----いや、世間そのものと言ってもいい----の即売会に
対する視線は、厳しさを増す一方だった。自分の我欲をコントロールできない大人達が
大量に集まる、それが同人誌即売会。そういうレッテルを貼られたイベントに、最早
多少のトラブルのお目こぼしすら、期待するだけ無駄というものの筈だった。
 その警察にまで手を回して、明らかに事件性のある乱闘騒ぎを握りつぶすことが
出来るのは、誰か。それを行える機関なり人物といえば、かなり限られる。だけど、
何故? どんな理由があって? 何のメリットがあって、この最後のコミケットを
行わせようと言うのか……?
 遥は其処で、思考を停止させた。この件でこれ以上考えるのは、遥達コミケスタッ
フに取って無駄な事だ。コミケット59は、開催される。それが決まった以上、他に
考えなければいけない事は、山のようにあるのだから。

「この件に関しては、西ホールの地区長代行以下数名が、湾岸署に出向いて説明を
行っている。諸君も、この件に関する対応は私が今言った通りで、宜しくお願いする」
 最後に、館内総統括がそう締め括り、一同を見渡した。その視線の鋭さに、皆が
言葉を失ったかのように静まりかえる。
42名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:38
「……引き続き、サークル対応係統括から、緊急連絡を伝えます」
 総統括の隣の男が立ち上がり、机から書類を取り上げた。
「先日の午後、コミケ新刊を積んだパリカン便のトラックが、首都高で事故を起こした
のは、皆さんご存じのことと思います」
「……」
 沈黙。誰一人、口を開こうとはしない。この事件では死者も出ている。軽々しく
言葉にすることは、流石に躊躇われた。
「亡くなられた方には、謹んで哀悼の意を……えー、今回の事件では、計三台の
トラックが炎上、大破しており、その貨物である新刊の梱包の殆どが消失しました」
 そして、この件がきっかけとなって、昨夜の『事故』が起きた。一つの悲劇から、
次の悲劇が生まれたのだ。願わくば、これ以上の悲劇の玉突きだけは、何としても
起きないようにしなくては……そう、堅く心に決めた者は多い。
 しかし……悲劇の誘発は、まだ始まったばかり。
「……これにより、多数のサークルで予定搬入量の減少という事態が発生しています。
事故を起こしたトラックの内、10t二台が主に西地区、10t一台が東123地区の
梱包を積んでいたため、それらの地区ではかなりの混乱が予想されます」
 統括の言葉に、西と東123地区の担当者から、悲鳴にも似た嘆きの声が漏れる。
「被害サークルは殆どが大手、男性向けに集中しています。彼らが新刊を売り切れば、
一般参加者はまだ売り切っていないサークルを求めて大移動するでしょう。西から
東へ、また、東123から東456へ。後で、公共地区担当総括から説明が----」
 遥は、先ほど配られた手元の資料に目を落とす。各ホールの新刊搬入数、搬入率の
数字から見て、東456地区の混雑のピークは、恐らく午後一時前後。そこからは、
断続的に混雑が続くだろうと予想する。西と東123のトラックヤードに並んでいた
大手買いの参加者が、東456に集結し、一日目閉会まで人波が途切れることは無い。
「……随分とキツい状況ね」
 遥は小さく苦笑いをこぼした。
43名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:39
2000年12月29日 05:32 東京ビッグサイト・会議棟 609会議室

 駆け上がる螺旋

     「……以上、今朝の緊急幹部会議の報告を終わります」

「うん、ご苦労様」

  「…………いよいよ、最後の祭りが始まるな」

 「あぁ」

 「……これで終わりか……」

  「……何故、コミケは今、終わるんだ?」

「コミケットと僕たちの関係を、もう一度見つめ直してもいい時期だと思ったからさ」

 「そうだな……懐かしむなんて柄じゃないが、昔に戻りたいと思うことは何度と
 なくあったよ。コミケという円環を、しっかりと守ることが出来たあの時期にな」

「有明にきてからだね……急激な変化に着いていけなくなり始めたのは」

  「企業ブース、小遣い銭稼ぎのプロ作家に、大量生産の萌えキャラ……馴染みすぎ
  たんだ、コミケットにな。そいつらを目当の参加者が、グッズや商業誌を買うのと
  同じ感覚で、見栄えだけはいい同人誌を漁っていく……」

   「新たなものが生まれすぎたんですよ、ここ数年で。あくまでも、主役は創作
   物を紡ぐ全てのアマチュアサークルだという、コミケの理念を揺さぶるほどの
   勢いで」

  「変わっていったのと同じだけの時間……元に戻していくための時間が必要という
  事だろう。コミケが開催し続ける限り、其れは出来ない相談だ。だからこその
  『一時休止』と言う訳か」

    「……コミケに新たな流れが入れば、それを新たなコミケットとして考えれば
    いいのではないですか? 同人そのものにしても、一つところに形をとどめ、
    何も変わらない世界という訳ではないでしょう」
44名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:40
  「準備会は変化をを黙認しつつ、其れを必ずしも是とはしてこなかった。今までも
  そうだったし、これからも変わりはない」

   「前進のない停滞は、やがてコミケットを、引いては同人自体を滅ぼしますよ」

 「……コミケットに新たな何かを取り込むには、相応の痛みが伴うだろう。その
 痛みは、或いは既存のコミケットを壊してしまう程のものかも知れない。だが、
 それを恐れるあまり、新たに根付こうとしているもの全てを否定していいのだろう
 か? よりよい姿に変わっていく可能性もあるというのに」

  「コミケ創成時から共にやってきた仲間の言葉か、それが。……我々は二十五
  年間、コミケがコミケのままで有り続けることを望んで、今日までやってきたん
  じゃないか。それを----」

 「しかし、此処にいる誰もが、今の閉ざされたコミケットに満足していない。あんた
 もだ。違うか?」

  「……」

 「俺達だけじゃない、参加者の多くも、そう感じているはずだ。この閉塞したコミ
 ケットを、何とかしなくてはいけない、とな。あんたはより慎重で、俺はより積極
 的……それだけの違いだ」

   「今のコミケットを保ち続けるのは、単なる停滞に過ぎません。停滞を続ける
   だけでは、我々に未来はないですよ。私たちは、自分の手で未来を閉ざしている
   のではないでしょうか」

  「……」

   「コミケットを維持するのではなく、コミケットを広げていくために、新たな
   力を積極的に手助けしていく。確かに、今までのコミケットにはなかった考え方
   でしょう。ですが、今までにない考え方だからといって、頭ごなしに否定できる
   とは思わないんです」
45名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:40
「そう考えて、思い当たったんだよね。コミケットと僕たちのあり方を、もう一度
見つめ直すのも悪くないとね」

   「今までと同じ、ただ維持するだけの営みを、これからも続けて行かねばなら
   ないとは思えないのです。うまく言葉に出来ませんが、もっと違ったやり方も
   あるのではないかとね」

  「……お前達は、自分の言っていることを理解しているのか? それは我々
  準備会……いや、即売会、そして同人全体の有りように問いかけを発しようと
  しているんだぞ?」

「閉じた円環は、停滞するだけなんだよね。……僕たちは長い時間、近代同人を守ろう
とし続けてきた。今までの四半世紀は、其れで良かったのかも知れない。だけど、次の
四半世紀も同じようにするのが最良ではないかも知れない。コミケットを、同人の変化に合わせて、大きく変えていく可能性を探すのは、悪い事じゃないよ」

 「俺達は二十五年の間、円環を保ち続けてきた。そのあり方をもう一度考えるに、
 十分な時間が流れたのは確かだ。新たな可能性を探ることも……必要なのかも知れ
 ない」

  「……二十五年の時が巡り、読み手やサークルの壁を越えて、多くの者が同人の
  在り方を思索しようとしている。……だが、まだ誰も、確たる答えを得ては
  いない。どれほど思索を巡らせばいいのかも解らない。今と違った同人の在り方を
  見つけられるかどうかも解らない。それでも、お前達は考えたいというのか?」

「僕たちには、時間が必要なんだ。同人の在り方に思いを巡らせる、ね。あらゆる
参加者達の言葉を聞いて、今までのコミケットの姿を見極める。それでなお、新たな
同人の姿に可能性を見出すなら……」

  「……」

「その時こそ、新たなコミケットを始めよう」
46名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:40
     「……私はそろそろ総本部に戻らないといけない時間ですので」

「うん、解った。悪いね……僕が居ると、色々な混乱を招くと思って身を隠したわけ
だけど、其れによってまた別の混乱を、君に押しつけることになってしまった」

     「構いません。それで、この最後のコミケットが、より円滑に進むので
     有れば、私は喜んで忙殺されますよ」

「最後の、ではないよ。あくまで、一時休止だ。忘れちゃ駄目だよ」

     「はい……それでは、失礼します」


 扉が閉まる。彼以外に人の気配のない廊下。扉を背に、暫く中空を見つめていた。
溜息を一つ。そして、歩き出す。
「……ご老体共の戯れ言だ……耳を傾ける必要など、最早どこにもない」
 小さく呟く。まるで、自分自身にそう言い聞かせるような口調で。そうでもしない
と、自分自身がその言葉に絡め取られてしまいそうな、そんな気がして。
『彼等と自分は、確かに同じものを見ていた』
 だが、その道は、もう交わることはない。未だに幻想から覚めやらない彼ら重鎮と、
同じ道を歩くことはないのだ。そう、しっかりと暗示をかける。

 コミケットは、完全に終わるべきだ、と。

 我ながら、とんでも無い異論だとは思う。しかも、準備会の上級幹部の身で有れば、
尚更だ。
「……何時から、俺はこんな異端者になっちまったかな」
 呟きと共に吐き出された白い息が、後ろへと流れていく。エントランスホールへと
下る、長い長いエスカレーターの上に立ち、独りごちた。
 ふと、ガラスの向こうを見渡せば、既にエントランスプラザを埋め尽くした、西側の
入場待機列。そして、こちらでも彼らを取り囲むように、警官や安全管理担当の
スタッフ達が見て取れる。
 あぁ、そうか。彼は思い当たる。"あいつら"が、安全管理担当という部署を捏造して
からだ……。
47名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:42
 言葉による注意だけでは、モラルどころかルールすら守らない参加者が増えたのは、
事実だ。毅然とした態度----即ち強制力----で彼等に立ち向かうことが出来ればと
思ったことも、確かにある。
 しかし、力で押さえつければ、人は憎しみや嫌悪を募らせていくだけなのだ。
それは、押さえつけられた本人以外にも、急速に伝播していく。例えその力が、
どんな正論で飾られていたとしても。
 仮に、そうやって排斥しても、不良参加者達はまたイベントに舞い戻ってくる。
スタッフの目をかいくぐる新たな知恵と、スタッフ達への負の感情を抱いて。
 同人は、狭い世界だ。何度だって、彼らと出会っていかなくてはならない。
 そして、即売会はコミケだけではない。安全管理担当のような部署を持ち得ない
それらの即売会に、コミケで手負いにした不良参加者をを解き放つことになる。
 確かに、コミックマーケットは世界最大の同人誌即売会だ。ある意味、同人における
デファクトスタンダードと言ってもいいだろう。だからと言って、何をしても許される
のか。準備会は、同人において無条件な正義なのか。
48名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:42
「そんな訳は無い」
 男は、無意識のうちに呟く。
 ……俺達は、あくまで言葉という『表現』で、彼等に語らなければならないんだ。
同人イベントの長、あらゆる表現の担い手……コミックマーケットがその努力を放棄
するなぞ……あってはならない筈だったのにな。
 男は、解っていた。安全管理担当を承認した連中が守りたいものは、『自分たちの
居場所であるコミックマーケット』でしかないことを。同人や、それを育む参加者
達の事など、露程も考えてはいない。
 サークルと読み手の邂逅を手助けする。その理念を忘れたコミックマーケットに、
もはや未練など、感じよう筈もなかった。

「秋月さん」
 エスカレーターを降りきったところで、男の直属のスタッフが待っていた。
「どうした」
「館内担当、及び安全管理担当の統括部から、西地区で不穏な動きがあ----」
 男は、それ以上の発言を、片手を上げて制止する。
「誰が聞いているか解らん。詳しくは別室で聞く」
「は、はいっ」
 男は、西地区アトリウムへと続く通路を軽く一瞥すると、背を向けて、東地区への
総本部へと歩みを進めた。

 男の名は秋月耕平。館内担当総統括を務めている。
49名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:43
2000年12月29日 06:32 東5ホール詰所

 終わりの始まり

「おはようございます!」
 東5ホール館内担当、一日目総勢八十八人の前に立ち、遥が大きな声で挨拶をする。
「おはようございます!!」
 大きな声で、挨拶を返すスタッフ達。冷たくざらついた空気の中、白い息が天井へと
舞い上がっていく。ホール内に暖房が入るのは、もう少し後のことだ。
「えー、雪にも検問にも、お巡りさんのボディチェックにもめげず、よく集まって
くれました」
 あちこちから笑い声。
「えー、三拡以来のご無沙汰です。最初で最後、東5ホールのホール長を押しつけられ
ました笹島です。どうぞ宜しくお願いします」
 遥が、ぺこりと頭を下げると、一斉に拍手が巻き起こった。
「女性ホール長ゆーのも、最初で最後やな。まぁ、頼りなさそうに思えるかもしれへん
けど、実際頼りないんで、しっかりフォロー宜しゅ----あ痛ァっ!」
 横からの朝倉の茶々入れに、すかさず手に持っていた書類を丸めて、二発ほどどつき
を入れる遥。
「とまぁ、ふざけた仕事をしてたり、さぼってたりするスタッフや、朝倉君を見かけ
たら遠慮なくどつきますので、精々頑張って自分のお仕事して下さいね」
「ちょい待ちっ、ワイは無条件でどつかれなあかんのかいっ」
 珍妙な二人のトークに、再び笑い声があがる。
「まぁ、掴みはこれくらいにして……本日の天気は、朝方までは雪。その後は閉会まで
曇りだそうです。なお、今回の全導線は雨シフト対応と言うことになりますので、
頭に入れておいて下さい。あと、トラックヤードの雪がお昼までに片づかない場合は、
犬と鳥の受付も雨シフトになりますので、案内をお願いします。ガレリアの東4側が
パリカン、東6側がフットワークになります。それと----」
50名無しさんi286:2000/11/22(水) 17:43
「あ、すんません。ぼちぼち外周ブロック打ち合せがあるんで、抜けさせて貰います
よって」
 朝倉が、手を挙げて遥の朝礼を遮る。
「解った。東456地区の外周ブロ担全体朝礼があるので、シブロック担当のスタッフ
さんは朝倉君について移動して下さい……場所は外周テントでいいの?」
「入場前から雪まみれにする気かいっ。見本誌部屋ですわ」
「ということだそうですので、宜しく。あと、サークル入口担当もそろそろ用意を
始めてくれるかな。スケジュール、多少前倒しにするかも知れないから」
 指示を受けたスタッフ達が、床から腰を上げ始める。
「あと、今から移動していくみんなに、最後に」
 遥が、凛とした声で呼び止める。
「……これが、最後のコミケットです。此処に来る参加者達は、数の上でも、意気
込みでも、過去のコミケットに比べて確実に勝るでしょう。同じように、スタッフの
みんなにも、数でも、規模でも、今まで以上の危難が降りかかると思う……」
 その場のスタッフ達が、緊張のあまりに息をのむ。
「でも、負けないで。あなた達は、終わるコミケットという、ある意味危機的な状況
にも関わらず、それを承知でスタッフになった……酔狂だけど、やる気と自信と根性を
持った人達だから、きっと大丈夫だと信じています。『全ての人が楽しいコミケットの
進行』というのが、初日の目標……無事に目標を達成して、此処に居るみんなが
笑顔で、一日目の終礼を迎えたいと思います。いってらっしゃい、頑張って」
 そう言って、にっこりと微笑む遥。そして、その直後に、歓声。

 斯くして、一日目の幕が上がる。