233 :
うさこ1:
「うさこ。僕には君が一番可愛いよ」
花雄は寝る前に必ずつぶやいて、手の中の「うさこ」を握り締める。
うさこは古いタオル地ならではの温かく乾いた弾力を花雄の掌に返す。その感触を確か
めれば花雄は安心して眠りにつけるのだった。そんな眠る前一瞬の幸せ。それをもう30年
も繰り返している。
うさこはタオル地の小さな縫いぐるみ、5歳のときに花雄のもとにやってきた。
世間体のために結婚し、花雄を作った両親は花雄にわかりやすい愛しかたをしてくれなっ
た。
両親に愛されないという幼い不安を、そして受験のストレスを吸い取ってきた小さな柔
らかな体は、今や黒ずみ、もとのあたたかなピンク色はどこにもない。一番近い色は灰色
といえる。地肌はほつれて中の綿さえ見えている。花雄以外にははっきりいって屑であろ
う。フェルトの丸い目だけが花雄をじっと見つめる。
花雄はもう35歳であるが独身だ。ベンチャー企業を経営し、まあまあ成功しているほう
だが結婚する気はまるでない。
「俺は死んだら、うさこと一緒に灰になるんだ」と決めている。
そのあとはどうでもいい。うさことまざった花雄の灰は、たとえゴミに捨てられて高温で
焼かれて気体になっても幸せだ。
「うさこが俺の家に来て30周年に乾杯」
クリスマスは花雄がうさこと初めて出会った日だ。それを祝って、花雄は極上のシャンペ
ンを開けた。
234 :
うさこ2:2006/01/15(日) 15:01:43
翌朝、異変は起こった。傍らに寝ているはずのうさこがいない。
かわりに知らない女が寝ている。
「うさこ?」
「何よう……」女が目を覚ました。
「どけ!」
花雄は女をどかせて、うさこを探した。
ベッドの下に落ちたのか。それとも枕の下?一緒に寝たつもりがパソコンの上に置き忘
れていたか。否、否、否!どこにもいない!
花雄は半狂乱になった。ゴミ箱をすべてひっくり返した。とうとう部屋の中のものをす
べて出して探した。いとしいうさこはどこにもいない。
「うさこって、あの縫いぐるみ?」
花雄のようすにあっけにとられていた女が、次に口にした言葉は信じられなかった。
「花雄が自分で捨ててたじゃない」
「ウソだろ!」
「嘘じゃないわ。すごくぼろぼろだったから汚いって言って」
花雄は愕然とした。そしてわかったことがある。
花雄が昨日、と思いこんでいるのは実は1年前のことだったのだ。
235 :
うさこ3:2006/01/15(日) 15:02:27
1年前、うさこは何も知らずに花雄の帰りを待っていた。
(花雄ちゃん遅いナー)
夕方、花雄の代わりに現れたのは、花雄の母だった。花雄にうさこを買い与えたのはこ
の母だからうさこも知っている。
(お母さん、こんにちわ)
うさこは挨拶したが母にはもちろん聞こえない。いや、ふだんうさこが話す言葉は花雄に
も聞こえていないのだ。
花雄の母はせわしなくクロゼットなどをあけてパジャマなどを取り出していた。
(花雄ちゃん入院したの?)
うさこの心配する念は母にも通じたらしく
「汚い人形だけど、このコも持っていってあげましょ」とうさこを手に取った。
うさこは花雄のパジャマなどと一緒に病院に到着した。
花雄は頭に包帯を巻いて眠っていた。うさこは傍らのテーブルの上に置かれた。
(花雄ちゃん、どうしたの!)
そのときちょうど、医師がうさこの傍らに来て母に病状の説明をはじめた。それによれ
ば頭を打ったがCTスキャンには特に悪いところは見られないとのこと。どうやら花雄は事
故か何かにあい、頭を打ったらしい。
(花雄ちゃん、起きて!)
うさこの叫びに呼応するかのように花雄の目が見開いた。
(よかった……)
236 :
うさこ4:2006/01/15(日) 15:03:09
「何コレ」。
目を覚ました花雄はテーブルの上にあるうさこをつまみあげた。
(痛いっ!)
うさこは悲鳴をあげた。花雄はうさこの耳をひっぱりあげたのだ。ふだんの花雄がうさこ
を持ち上げるときはそっと両手で持ち上げるのに。異変はそれだけではなかった。
「ボロウサギ」確かに花雄は言った。
「アンタのお気に入りだったでしょ。持ってきてあげたのよ」と母。
花雄は目を見開く。
「これが!ウッソだろ。持って帰ってくれよ。みっともない」。
花雄は事故のせいでうさこの事を忘れてしまったらしい。
うさこは、母に連れて帰られ、引き出しの中にしまわれてしまった。引き出しの中でう
さこは少し泣いた。
(でも、帰ってくる頃には思い出すかもしれない)
暗い引き出しの中でうさこは花雄を待った。冬が終わり、暖かくなっても花雄がうさこ
を暗い引き出しから出してくれることはなかった。夏がやってきた。
うさこは体がむずむずするのを感じた。小さな虫がうさこの体に這っている。
(嫌!)
うさこの天然木綿の体は虫にはごちそうだ。目にようやく見えるほどの小さな虫はうさ
こを少しずつ蚕食していった。
(花雄ちゃん、助けて)
237 :
うさこ最終回:2006/01/15(日) 15:03:55
そのとき、真っ暗な天が割れて光が差し込んだ。引き出しが開いたのだ。
(花雄ちゃん!私はここよ)
「花雄ォ、この引き出し、アタシの化粧入れにしていい?」
あまり頭がよくなさそうな女の声に続いて花雄の声。
「いいよ」
「なんかいっぱいガラクタ入ってるよ。わ!ひどい」
女はうさこをつまみだした。うさこにとってひさしぶりの外だった。
「このウサギ、虫食ってるよ」
うさこの体はレース状になり、ぼろぼろになった綿が露出していた。
「わ、ひで!お袋のやつ、まだこんなの取ってたんだ。」
「きったない、ホラ!」
女はうさこを花雄に向かって放り投げて笑った。
「うわ、何するんだ、やめろよ」
花雄はうさこをよけた。うさこは床の上に投げ出された。
「かわいそうじゃん、花雄のバカ」
「いいの。こんなきったないやつ」
花雄は最後にうさこの耳をつまみあげると「ホイっ!」とゴミ箱に投げた。
「ナイスシュート!」
うさこはゴミ箱の中で、音もなく震えていた。もちろん花雄には見えるはずもない。
ぐちゃぐちゃになった部屋は死のように沈黙していた。
「うさこ」
うさこがいれば、すべては明るかった。どこからともなく響いてくるような孤独にも
立ち向かえた。苦労も困難も眠る前のあったかい弾力にすべて救われた。
もう二度と戻ってこないうさこ。あの優しい感触は花雄の手には帰らない。花雄はうさこ
の最期を思って震えた。ゴミに埋もれて死んでいったうさこの寂しさを思った……
泣きはらした花雄の目は真っ赤だった。ちょうどウサギのように。
翌日、夢の島でゴミに埋もれた花雄の自殺死体が発見された。