>>445 破綻したと本当に思うなら、粘着する必要もなくなったのじゃないかな。つまりその逆なのだと
君は告白し続けていることになる。
イエス・キリストを産み育てた生身の女性マリアを思う時、母とは尊ぶべき存在であると思う。
誰であれその生誕を少なくとも一人、心の底から喜んでくれた人がいるということ。
どうか、この世に生を受けたという、そのことだけで祝われた存在だったことを思い出してほしい。
見ることも歩くことも話すこともできないのに大事な人を喜ばせることはできた。
その頃に比べたらいくらかましな何かを、どんな逆境にあろうと持っている。
松原君は裁判でなぜ「猫を逃がした」とうそをついたか聞かれて、両親が悲しむから、と答えた。
もっと早く、猫を殺してしまう前にどうしてそう思えなかったのだろう。両親ではない、別の人間が
彼の心を占めていたから、その人(たち)を喜ばせたかったから、ではないのかな。
一人でも彼は実行したかもしれない。だが、シナリオを考え、道具を買い、餌やマタタビを用意し、
犠牲にする猫を物色し、部屋に連れてきてバスルームに閉じ込め、カメラを用意し、缶詰を与え、
批判要望板に釣りスレを立て…、ここまでのどこからでも引き返すことができた。一人なら。
そう思いませんか?