502にもう少し。
501の方には理解していただけましたが、あなたにはもう少し説明が必要みたいですね。
近しい存在としての犬がいます。それは家族の一員となり得る存在です。
このように犬を可愛がっている人が日本に多数存在します。
その人たちは、自分の犬が死んだり殺されたりしたら、悲しみます。
犬という動物を食べるなんてもってのほか、殺されるのを見ると悲しみます。
それは自分に近しい犬と重ねて見てしまうからです。
それは、人が殺されているのを見て、自分や近親者の死を連想して悲しいのと同じです。共感ともいえるでしょうか。
だから日本では、お互いの犬を損壊しないために、(お互いの感情を慮って)合理的判断として法律で犬殺を禁止しています。
加えると、その近しい存在になり得る動物は犬に限りません。
牛も、豚も、鶏も全て人間の近しい存在になりえます。日本ではたまたま犬が多いというだけで。
でも、犬がそれほど近しい存在ではないとみなされている国(共同体)ではどうでしょうか。
我々が持つ感覚は吹っ飛びます。他の動物と同じなんです。
鶏も牛も豚も、犬も家畜として屠殺され、殺されます。同じ動物です。
もし私が鶏をペットとして異常に可愛がっていたとしても、
もし私が犬をとても可愛がっていたとしても、動物は同じ動物なんです。
では、どこで自分のペットと家畜動物の境界を区切るか。
それは、「自分と関わりを持った固体かどうか」というところで区切るしかないんです。
そこから外れると、それはもう全部同じ動物です。
でも、他人にとってペットがどれだけ大事な存在かは理解できます。
だから、その固体は尊重し、大切にします。それが犬であっても、鶏であっても、豚であっても。
これは差別ではなく、「区別」または「割り切り」ではないでしょうか。
でも、家畜として殺され食肉とされたときに、豚などの家畜と、犬を区別する根拠はありません。
あえて言えば感情です。でも、その感情を共有できない国の人に、その感情を根拠に文句は言えないはずです。
これで伝わるかな?
ああ、彼女のことについて言うのを忘れていました。
彼女には全て話したことがありますよ。
犬を食べたことも、犬を可愛がっていたことも。
彼女は私より聡明な人で、海外の経験もあるので、理解をしてくれました。
自分の犬が危険に陥ったり、自分が知っているペットに危害を加えるような人がいたら、自分の体を張って守る、
でも、犬を食べて当たり前の文化があるなら、それについては何も言えないし、言う権利もないと言ってくれました。
感情的な人ですが、肝心なところではとても冷静な判断ができるので、尊敬しています。
今日も彼女と出かけるのですが、犬の世話で時間が延びてしまいました。
老犬なので、少しお腹の調子が悪いと付きっ切りで世話をするような子ですよ。
>>505 あなたは私に「韓国政府についてはスルーか」と言ってたから
ちゃんとそれに対してレスしたのに、それについてはスルーですか。
意見が違うなら、あなたの見解を示せばいいだけです。反論でも。
反論できなくなると自作自演とか敗北宣言とかわけのわからないことを言い出すんですよね。
コテを叩きたくなる厨房って奴ですね。もういいです。あなたは今後無視します。