>>267 矢作教授は 良くも悪くも(?)“超人”でつ^^
http://kimuranobuaki.blogspot.com/2009_10_01_archive.html 雑誌「岳人」に「私も山が好き」というコラムがあり、それに矢作直樹という人が紹介されていた。
昭和31年(1956)生まれ、
昭和56年(1981)金沢大学医学部卒業、
現在東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部教授とあった。
生まれは横浜市だが、中学の頃は町田市にいて、裏山から高尾山まで歩いたという。
そして金沢大学医学部に入学、大学では何故か水泳部に所属している。
しかし山も半端ではなく、彼の言によれば、山には年間200日は入っていたと、
一方で「技術的には自分は絶対に落ちないという自信を持っていて、
そして更に高じて「山登りとは、冬季単独行のことだとしか頭になかった」とも、
でも今では当時は自惚れていたと述懐している。
大学2年の正月には三伏峠から北岳への厳冬期単独縦走、大学3年の正月には光岳から北岳への厳冬期単独縦走、
また大学4年の夏には剱岳八ツ峰の完全フリーソロを、そして翌年3月には、単独で
杓子尾根から白馬岳、鹿島槍ヶ岳、烏帽子岳、槍ヶ岳、南岳西尾根を計画し実行に移したが、
鹿島槍ヶ岳北峰頂上直下で雪庇を踏み抜き、カクネ里まで約1000mも滑落したものの軽傷で、
そこから天狗尾根を登り返して幕営し、翌日大川沢沿いに鹿島まで戻り、信濃大町へ。
ここで必要部品を調達して休息し、行動日の制約もあったことから、鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳の間は割愛して、
烏帽子岳以降を再開し、踏破して新穂高温泉に下りたという。
そしてその年の年末、残った鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳間をトレースすべく出かけたが、
針ノ木岳でアイゼンが脱げて、針ノ木岳北面の雪壁を100m滑落し、足を傷め下山することに。
「扇沢駅が近くなり、岩小屋沢の方を眺めていると、突然はっきりと『もう山へ来るな』という天の
声?が聞こえ、それは幻聴ではなかった」と。そして彼はそれっきり、キッパリ登山は止めてしまうことに。
彼の述懐では、「当時は全身全霊をこめて、特攻の心意気で山に臨んでいたし、絶対に生還できると確信していた。
今から思うと、何かにとりつかれていて、謙虚さと慎重さを欠いていた。二度の事故で生還できたのは奇跡に近い」と。