なぜネトウヨはロシアに弱腰なのか?

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44名無しさん@お腹いっぱい。
■-朝鮮人の日本侵略史-■
【第一次侵略=356年】
 ワイ人=朝鮮人の金奈勿が、日本皇族=稲飯命の子孫である志羅紀王族を虐殺し王権を簒奪
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那が滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済が滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】新羅の賊船が対馬近海に出没し日本人を襲撃。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。
【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、
志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。
朝鮮半島勢力の侵略。刀伊の侵略。
【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
 異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し
賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。
【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
 忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発。
10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた。
【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
 高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本を侵略。
【第十五次侵略=1419年(応永26年】
 朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 23:21:13 ID:MqC3U7QqO
↑ロシアの蛮行は聞こえない見えない( ゚д゚ )アーアー
46名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/19(木) 19:29:04 ID:1CsFCCFe0
幕府の非礼に対するロシア使節の復讐は、レザノフを通じフヴォストフ中尉により実行された。
1806年(文化三)フヴォストフらは
樺太のクシュンコタンに上陸し運上屋や倉庫を焼き払い 米・酒・雑貨などを掠奪し、
4人の日本人を捕虜とした。
また、この地にロシア軍艦旗と露米会社旗を掲揚し、樺太の占領を宣言する真鍮板を残した。
そして、アイヌの長老たちに樺太のロシア併合と住民のロシア編入を記した文書を渡した。
実に荒っぽいやり方だった。
翌1807年にもダヴィドフ中尉とともに2隻の船で択捉島を襲い、倉庫や施設を焼き払い
大量の商品、食糧、武器を捕獲し、6人の日本人を捕虜にした。
次いで、樺太のルウタカ、北海道の利尻島を襲い、陸上の施設を破壊し、
官船や商船4隻を焼き払った。

http://doratomo.jp/~unib/cgi-bin/readres.cgi?bo=mog&vi=1226051298&rs=101&re=105&fi=no
47名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/19(木) 19:34:55 ID:1CsFCCFe0
クリミア戦争のとき、英国艦隊の陸戦隊が
樺太にロシア軍はいれば駆逐しようと上陸したが、ロシア兵がおらず、
日本領であることが明確だったため、そのまま立ち去った。
この時、幕府が日英同盟を結んでいれば、ロシアの併合を阻止できたろうに。

×アニワ  ○亜庭
×コルサコフ ○大泊
×イリインスキー ○久春内

1855年(嘉永七)クリミア戦争中に、数百名の英国兵が
樺太の首邑・クシュンコタンに上陸した。
もし樺太がロシア領ならば占領する意図だったが、
日本人が居住し、日本領たることが明らかだったので立ち去った。
司令官は本国に「樺太にロシア兵はおらず、日本の領土である」と報告した。

> 1855年の
> 2年前に「ムラヴィヨフ哨所」で日露雑居になってしまっているが。。。

1853年4月11日にロシア皇帝のサハリン占領命令が下され、それに従って
ネヴェリスコイ海軍大佐は
サハリンにおける日本人の拠点であるクシュンコタン(現在のコルサコフ)の
すぐそばにムラヴィヨフ哨所(8ヶ月間)を築いた。

http://doratomo.jp/~unib/cgi-bin/readres.cgi?bo=mog&vi=1226051298&rs=291&re=293&fi=no
48名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/19(木) 19:39:01 ID:1CsFCCFe0
幕府は1806〜7年のロシア船による樺太襲撃に衝撃を受け、1807年(文化4)
「ロシア船打払令」を布告した。
1808年、樺太に多数の会津藩兵を派遣している。その後津軽藩兵が樺太警備にあたった。
1809年(文化6)6月、これまで「カラフト」と呼んでいた島名を「北蝦夷」と改称した。
これは事実上、この島に対する公式の主権宣言であった。
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07年5月 箱館奉行はロシア来襲への対応を迫られる。
幕府は南部・津軽・秋田・庄内・仙台・会津など奥羽諸藩に4000名の出兵を命じる。
各藩の割り当て: 松前:会津藩200人、箱館:仙台藩800人、
江差:津軽藩100人、クナシリ・エトロフ:仙台藩1200人、根室〜砂原:南部藩250人、
樺太:会津藩1300人、
宗谷〜シャリおよび天塩〜マシケ:津軽藩50人、石狩〜利尻:幕府直轄、高島〜熊石:津軽藩100人、
07年7月 宗谷に駐留する津軽藩士のうち100名に斜里への転進命令。冬までに配属を完了。

http://doratomo.jp/~unib/cgi-bin/readres.cgi?bo=mog&vi=1226051298&res=297&fi=no